第二十五日  爾 曹なんぢら わが 如 く



 『わがなんぢらを愛する如く爾曹なんぢらまたたがひに愛すべし これわがいましめなり』 (約十五・十二

 こゝしゅは再び『わが如く』と仰せ給ふた。さきには彼と父との關係であって、そのいましめを守りてその愛にり給ふ事であったが、こゝに再び我等との關係を語りて我等が兄弟を愛する典型かたを示し、『わがなんぢらを愛する如く爾曹なんぢらまたたがひに愛すべし』と仰せ給ふた。かれの立塲と行爲おこなひとは共に我等の法規となるべきものである。これは幾度いくたびとなく主張せしところの眞理、すなは葡萄樹ぶだうのきとその枝との全き類似を示すものである。

 『爾曹なんぢらわが如く』と。しかし彼が父のいましめを守り給ふ如く、又我等を愛し給ふ如く、我等が彼のいましめを守りて兄弟を愛し得べきなどと想像するのは空しい事ではなからうか。そのくわだては失敗と失望に終るのではあるまいか。勿論し我等が自己の力をもって、或ひは葡萄樹ぶだうのきと枝との眞理を充分理解せずしてこの命令を遂行せんと試むるならば、かくあるのほかあるまい。しかし我等が、『わが如く』とはこの比喩たとへおほいなる課程のひとつであって、葡萄樹ぶだうのきその枝に絕えず語り給ふことばであることを了解するならば、我等はこれが、自ら何をなし得べきかの問題でなくして、キリストが我等のうちに何をなし得給ふかであることを悟るであらう。わが如く從ひ、わが如く愛せよと、この高くかつきよいましめこそ、我等の無力を自覺せしめ、それによりて我等を喚醒よびさまし、葡萄樹ぶだうのきうちに我等の爲に備へられたるその美と、充實とに向はしむるものである。我等は『わが如くわが如く』と、葡萄樹ぶだうのきが時々刻々その枝に語り給ふところを學ぶべきである。わが生命いのちなんぢ生命いのちなんぢわがすべての盈滿えいまんあづかるを得べし。なんぢうちにある靈、なんぢの結ぶところのことごと我衷わがうちにあるものと同じと。恐るゝなかれ、たゞあなたの信仰をして『わが如く』と仰せ給ふすべてのことばを『われなんぢうちに生くればなんぢわが如く生くるを得べし』とのたまふ神の確證として捕捉せしめよ。

 しかし、これが眞實にこの比喩たとへの意味であり、枝の營み得べき生活であるとすれば、何故にこれを實現する者のすくない事であらうか。そは彼等が葡萄樹ぶだうのきの天的秘密を知らない爲である。彼等はこの比喩とその敎ふる課程とにいて多くを知ってる。しかその大能たいのうその親近したしみと、日々に彼等に與へ供給する葡萄樹ぶだうのきかくれたる靈的秘密とにいて知ってない。そは彼等がこれを默示せらるゝ爲に神のれい俟望まちのぞまないからである。

 『わがなんぢらを愛する如く爾曹なんぢらまたたがひに愛すべし』。『爾曹なんぢらわが如く』と、し我等が眞實にこの比喩たとへを學ばんと欲するならば、如何に始めたらよいであらうか。我等はづ全く新しき生活の樣式さまに入らねばならぬ事を要すると告白せねばならぬ。何とならば我等はいまだ我等をかし、改造する力の充滿せる葡萄樹ぶだうのきとしてキリストを知ってないからである。しかしてすべて自己にけるものよりきよめられ、此世このよのものより分離して、キリストの如く全く、たゞ父の榮の爲にのみ生くる爲に、自らを捧げ、くて『わが如く』と、幹につらなれる枝のうちに、葡萄樹ぶだうのきその生命いのちを維持するが如く、彼に依賴よりたのめる者の中にその眞生命まことのいのちを現實にせんとて、キリストは待構まちかまへ給へる事を信じて、生涯を始むべきである。

 『わが如く』と、わがむべきしゅよ、常に葡萄樹ぶだうのきの如く、その枝もかくあるべきなり。すなはち同一のれい、同一の服從、同一のよろこび、同一の愛。しゅイエスよ、なんぢわが葡萄樹ぶだうのきにして、我はなんぢの枝なるを信ずる信仰によりて、我はなんぢいましめを約束として受け、『わが如く』と仰せ給ふことばを、なんぢ我衷わがうちに働き給ふ事の單純なる默示として握りたてまつる。しかしゅよ、なんぢの愛し給ふ如く、我もかく愛せん。



| 総目次 | 序文と目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |