第 五 日  おほく



 『をむすぶ枝はこれきよそはますますしげを結ばしめんためなり』 (約十五・二

 と云ふ事は、物の眞狀を見給ふ彼に至っては肝要なる思想である。は常に神が、聖心みこゝろを留め給ふ唯一のものである。しゅを結ばざる枝が剪除きりとらるゝことをのたまひしのちに附言して、を結ぶ枝に農夫の望み給ふところおほくであることをのたまふた。かれめぐみの賜物として、靈的生命の旺盛さかんなるしるしとして神とキリストのさかえあらはるゝ爲に、又此世このよの缺乏にこたふる唯一の道として、神はおほく要求もとめ給ふのである。

 おほく、これは甚ださぐりを受けることばである。敎會としても個人としても、我等は自ら足れりとする危險に陷り易いものである。『われとみかつゆたかになりともしき所なし』と云ふラオデキヤの靈はひそかに入りきたりて、『じつなやめるものあはれむべき者』なりとの神の御警戒を忘れてる(默三・十七)。

 我等はの人々と同樣なはたらきをなしてることをもって、あるひは人々が我等のキリストにある努力によりて滿足してることをもって、又は我等を模範としてることをもってしても安んじてはならぬ。ねがはくば我等の唯一のねがひが、キリストに結び付けられしける枝として、彼が我等によりて結ばんとし給ふそのすべてのを結びつゝありや否やを知り、多くのを求め給ふおほいなる農夫にいます天の父の慈深なさけふか大御心おほみこゝろを滿足せしめ奉りてるや否やを知ることにてありたいものである。

 おほくこのことばは神の權威をもっきたり、我等の生涯を計りこれを試むるものである。まことの弟子は、そのきよき光の前に自らをひくふして、彼が結べるの量と質とにおいて、缼けたるところありやなしやを示し給はんことを熱心に求むるであらう。ねがはくばこのことばが我等を導きて、天父ちゝの愛の聖旨みむねと、キリストの盈滿えいまんとの更に充足みちたれる經驗に至らしめ、人々のすくひの爲におほくを結ぶに至らしむるものなることを信ぜしめんことを。

 おほくこのことばは我等にはげみを與へる。聞けよ! このことばを結びつゝある枝に與へられし使命のことばである。神は苛酷なるパロのやうに、あるひ律法おきてを與へしモーセのやうに、材料を與へずして要求のみをなし給ふ御方でない。彼はその求め給ふところのものを與へ、命じ給ふところの事を自らなし給ふ父としてきたり給ふた。彼は生ける葡萄樹ぶだうのきの生ける枝として我等をあしらひ、我等がたゞかれ聖手みてに委ねだにせば、彼は我等のうちに働きておほくを結ばしめ給ふのである。我等はその御要求をれ、彼を仰いで我等のうちに働かしめ奉るべきである。

 『ますますしげく實を結ばしめん爲なり』。葡萄樹ぶだうのき持主もちぬしが常に力をつくして、出來得る限り果實みのりしげからしめんとする如く、神たる農夫は、我等が實を結ぶ者となる爲に要する一切を與へ給ふ事を我等は信ずべきである。かれ要求もとめ給ふすべては我等の心の願望ねがひこれに定め、かれはたらき擁護まもりとにみづからを委ね、喜びて彼を見上げその完全まったわざを我等のうちになし給はん事を俟望まちのぞむことである。神はおほくを期待し給ふ。キリストは我等のうちに働かんとて待ち給ふ。ねがはくば我等をしてよろこびをもて、神たる農夫と、天の葡萄樹ぶだうのきを仰ぎて、我等が多くのを結び得べきことをたしかめしめよ。

 天にいます我等の父よ、なんぢは天の農夫にていまし、キリストは天の葡萄樹ぶだうのきにています。しかして我はかれの天的生命に預り、その天的果實かじつを結ぶ天的枝なり。父よ、かれ生命いのちの力をして我に充たしめ、聖名みなさかえの爲に、益々ますますしげを結ぶ事を得させ給へ。アーメン



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