第 十 三 日 何事をもなす能はず
『爾曹われを離るゝ時は何事をも行能ざればなり』 (約十五・五)
枝の生涯は凡ての點に於て葡萄樹と相對應するものである。イエスは御自身に就て曰ふた『子は自ら何事をもなすこと能はず』と(約五・十九、卅)。此全き依賴みによりて彼は又云ふことを得給ふた。『すべて父の行ふ事を子も亦行へばなり』と(約五・十九)。彼は子として其生命を一時に父より受け給はず時々刻々受け給ふた。彼の御生涯は凡の事に於て絕えず父を俟望む生涯であった。故に彼は其弟子に就ても曰ふた。『爾曹われを離るゝ時は何事をも行能ざればなり』と。これは文字通である。凡て弟子たる生涯を送らんと欲するもの、實を結びて神を榮しめんと欲するものに此使命は來るのである。『爾曹何事をも行能ず』と。主は已に『人もし我に居われ亦かれに居ば多の實を結ぶべし』と仰せ給ふたが、茲に單純なる然も力强き辯論を以て『居る』ことの如何に拒け難き事であるかを言張り給ふのである。そは爾は天的生命を保ち之を働き出す爲に、自ら何事をもなすこと能はざるを知ればなりと。
此言の眞實なる深き自覺は强健なる靈的生涯の根底に橫って居る。我は自を創造し能はざる如く、又死者を甦らしむる能はざる如く、自神の命を與ふることが出來ない。又之を保ち之を增加ふることが出來ない。凡の運動はキリストと其靈による神の働である。人が之を信ずる時に、彼は信仰生涯の精髓たる全き又絕えざる依賴の立塲を取るであらう。彼は靈の眼を以てキリストが時々刻々其靈的生涯の悉くの呼吸と、成長の爲に惠を與へて居給ふのを見ることであらう。彼の全心は爾は何事をもなすこと能はずと宣ふ言にアーメンと應ふるのである。然し彼がかくすることによりて『我は我に力を予るキリストに因て諸の事を爲得るなり』(腓四・十三)と云ふことが出來る。無能を自覺して主に居らざるを得ざるに至ることは、眞に果を結び勵みて善事をなすに至らしむる道である。
『爾曹われを離るゝ時は何事をも行能ざれば也』とは我等を主に居らしむる爲に如何にも力ある訴であり召である。我等は夫れが如何に眞實であるかを見る爲に園にある葡萄樹を見るべきである。幹より液汁を受くるに非れば全く依仗なく結實なき小枝を見よ。かく卿も天の葡萄樹に連らざれば何事をもなすこと能はざるを深く自覺せねばならぬ。これぞキリストの宣ふ潔むる事の意義であって、凡て我等の自己に就けるものは貶され、我等の確信は唯キリストのみによらねばならぬ。『我に居れ、さらば多の果を結び、我を離れては何事をもなす能はず』と。我等の撰ぶ處は自ら明かであらう。此學課の敎ふる一の事は、枝が連ることは確實で且つ至って自然の事である樣に、卿もキリストに居る事が出來ると云ふことである。此爲に彼は眞の葡萄樹であり、神は農夫であり、卿は枝である。我等は此主より離るゝ事より救出され、主に居る事が不斷の事實である樣に神に叫び求め度い。願くば卿の心がキリストと其神たる力と枝を顧み給ふ懇ろなる愛とに向ひ、確信もて云ふを得んことを、『主よ、我爾に居れり、我必ずや多の果を結ばん、我無能は我力なり』と。願くばかくあれよ。
我を離るゝ時は何事をもなすこと能はずと、主よ然り、爾は凡ての凡てに在して我は無也。爾は葡萄樹にして一切を與へ働き給ふが故に、我無は最上の惠なり。主よ然り、我は無にして常に爾の盈滿を俟望む。主よ願くば此頌むべき生活の榮を我に默示し給へ。
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