第 七 日 剪 枝 刀
『今なんぢら我曰し言によりて潔くなれり』 (約十五・三)
天の農夫の剪枝刀とは何であらうか。屢々其は患難であると云はれて居る。然し夫は決して第一の事ではない。若しそうであれば永の年月不運を知らざるもの、或は神が其全生涯を通して惠を灌がんとして居給ふ樣に見ゆる人々に取っては如何にすべきか。否、刀とは神の言である。兩刃の劔よりも鋭く氣と魂また筋節骨髓まで刺し割ち、心の念と志意とを鑑察くる神の言である。患難は夫が我等を導きて言の訓戒の下に來らしむる時にのみ祝福となるのである。此言によりて心を潔めらるゝ事なき爲、屢々患難は我等を潔むる爲に何等の益ともならないのである。パウロの肉體に與へられたる刺さへも、我力は弱きに於て全しと宣ひしキリストの言によりて高慢の危險を悟り、其弱きを喜ぶを得るに至る迄は祝福とならなかった。
言は神の剪枝刀である。イエスは宣ふた、『今なんぢら我曰し言によりて潔くなれり』と(約十五・三)。如何に主は彼等に語るに利い探る言を以て臨み給ひし事であるか。『凡そ我に來りてその父母妻子兄弟姉妹また己の生命をも憎む者に非ざれば我弟子と爲事を得ず またその十字架を任ずして我に從ふ者は我弟子と爲ことを得ず』(路十四・二六、二七)と宣ひし時に、或は彼等の高慢を抑へ、愛の缺乏を咎責し、彼等が主を捨つる事を豫め告げ給ひし時に、彼の聖口より鋭利なる兩刃の劔が出でた。山上の垂訓より最後の夜の警戒に至る迄、主の言は彼等を試み彼等を潔めた。彼等の衷に自己に屬けるものゝあるを見ては、主は悉く之を處罰ひ給ふた。彼等は虛しくせられ、然して聖靈を受くる爲に備へられた。魂が自己の思と、宗敎に就ての人の思想とを捨て、心より謙遜りて忍耐深く、聖靈によりて與へらるゝ言の訓練に凡てを委ぬる時に、父は我等の衷にある靈を妨ぐる凡ての生得の自己につけるものを剪除り、之を潔むる頌むべき工をなし給ふのである。眞の葡萄樹が其枝によりて果を結び給ふ秘密を悉く知らんと欲する人々をして、言によりて潔めらるゝ爲に、心より自らを委ぬることを熱心に求めしめよ。願くば彼等が聖言を學ぶ時に、岩をも碎く鎚として、熔かして潔む火として、肉に屬ける一切を裸にして之を殺す刃として受けんことを。罪を自覺せしむる言は慰と望の言を受くる爲に準備をなさしむるものである。父は言によりて彼等を潔め給ふ。眞の葡萄樹の枝たる者よ、卿が言を讀み又は聞く毎に、彼が其言を、枝を潔むる剪枝刀として用ひ給はんことを俟望めよ。卿の心を多くの果を望み給ふ彼に向け、此工をなし給ふ農夫として彼に信賴せよ。單純なる子供らしき打任せを以て、言と聖靈の潔むる工に自らを委ねよ。さらば卿は彼の御目的が其衷に成遂げらるゝ事を確むる事が出來るであらう。
父よ、願くば言によりて我を潔め、自己と肉につける一切を我宗敎の中より探り出し、自己に依賴む凡ての枝を剪り去り、幹より來る命と靈とを自由に受くることを得させ給へ。おお聖き農夫よ、爾は葡萄樹の如く其枝をも顧み給ふを信任し奉る。爾のみは我望にて在すなり。
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