第 十 一 日  爾 曹なんぢらその



 『我は葡萄樹ぶだうのき、なんぢらはその枝なり』 (約十五・五

 キリストは既に枝について語り給ふたが、こゝに彼は更にこれを個人に適用して、爾曹なんぢらこそその云ふところの枝であると仰せ給ふ。我はまこと葡萄樹ぶだうのきとして、枝の爲にすべての必要を供給そなふる如く、爾曹なんぢらまたわが賦與あたふる事を約束せし聖靈みたまの力によりて、我爲わがために地にあるわが枝となれよと。彼が建設せんと求め給ふ關係は、至って個人的のものであって、我となんぢと云ふ二つの小さなことばによりて連結してる。しかしてこれはじめの使徒等に於ける如く、我等にもまた極めて個人的である。ねがはくば我等自らをしゅ聖前みまへ差出さしいだし、我は葡萄樹ぶだうのき爾曹なんぢらその枝なりとのたまふた聖言みことばが、力强く我等の全心ぜんしんに響きわたまで俟望まちのぞいものである。

 愛するイエスの聖弟子等みでしらよ! おんみ如何許いかばかり若く、又纖弱かよわくあるともこのことばを聞かれよ、『爾曹なんぢらその枝なり』と。おんみこれよりも劣るものであってはならぬ。僞りの謙遜や、犠牲ぎせいしりぞくる肉のおそれや、不信仰の疑ひによって、『我は枝なり』と云ふ事より退しりぞいてはならぬ。その枝ははなは纖弱かよわくあるとしても幹と同質のものであって、同じ靈を受けてる。又よしそれが全く依仗よるべなきものであっても、疑ひもなく神と人との前にを結ぶ唯一のわざの爲に、全く聖別せられたるものなること、葡萄樹ぶだうのきに少しも異なるところがない。枝として我衷わがうちには無一物であるとしても、彼が一切を供給し給ふ事を信じて安んじて喜ぶ事が出來る。しかり、かれめぐみによりて我もまた枝たる事を得、かれの爲にを結ぶ事が出來るであらう。

 『爾曹なんぢらその枝なり』おんみそれ以上に何物も要せない。一刻だも葡萄樹ぶだうのきの責任を自ら背負ふ必要がない。全き依賴よりたのみと、大膽なる確信をもっ其處そことゞまってればよいのであって、如何にしてこの奥義を了解すべきか、その條件をみたすべきか、又その目的をはたすべきかについて、いさゝかも思煩おもひわづらふ必要がない。葡萄樹ぶだうのきすべてを與へ、すべてのはたらきをなし給ふ。父なる農夫はおんみ葡萄樹ぶだうのきとの結合と、彼にある成長とを見護みまもって給ふ。おんみは枝たるより以上に必要がない。たゞ枝たれ。ねがはくばこれをしておんみの標語とせよ。さらばこれおんみをして絕えずキリストのわざに服從の道を辿らしめ、かれすべての命令に心より從はしめ、そのすべてのめぐみを喜んで俟望まちのぞましむるであらう。

 ある人は問ふであらうか、如何にしてこの枝たる生涯を送ることを學び得るかと。愛する者よ、枝の性質とその力、その結ぶところは全く葡萄樹ぶだうのきに依るものである。しかしておんみの枝たる生涯は、全くおんみしゅイエスについて見るところ如何いかんかゝはってる。故にこのふたつことば、『我は葡萄樹ぶだうのきなんぢらはその枝なり』とを離してはならぬ。おんみ生命いのちと力ととは全く主イエスに依るものである。故に彼を拜み、彼に依賴よりたのみ、彼をしておんみが心の唯一の願望ねがひとなし默想の題目とせよ。かくておんみが彼を正しく知る事あたはざるを感ずる時にも、なほ葡萄樹ぶだうのきとして彼自らをおんみに知らしめ給ふことは、その御責任なることを記憶せよ。彼は思想おもひ槪念かんがへおいてにあらず、謙遜と安息の中に一切を捧げて彼を俟望まちのぞむ魂の中に、生命いのちちからもって隱れたる成長をなしつゝ自らを示し給ふのである。葡萄樹ぶだうのきづ自らを枝の中に默示す。しかのち成長と結實みのりとがある。キリストもその枝の中に住み又働き給ふ。たゞ枝として彼を俟望まちのぞすべての働きをなさしめよ。彼はおんみの爲にまこと葡萄樹ぶだうのきとなり給ふであらう。天父ちゝ自ら神たる農夫としておんみをして天の葡萄樹ぶだうのきの枝たるにかなはしめ給ふ。おんみは決して失望することがないであらう。

 『なんぢらはその枝なり』と。しゅよ、このことばをもわが魂の中に力をもて語り給へ。ねがはくば地上の樹枝こえだとして我をはづかしめ給ふことなく、それたゞ實を結ぶ爲にのみ生存いきながらふる如く、我をも地にありて、ただなんぢをしてを結ばしめたてまつる唯一のねがひと目的のほかなからしめ給へ。



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