第二十三日 喜
『我この事を爾曹に語るは我が喜なんぢらに在て爾曹の喜を盈しめんが爲なり』 (約十五・十一)
若し誰かゞ、余は如何にして幸福なる基督者となる事が出來るかと尋ねるならば、我等の主の御返答は極めて簡單である。『この事』即ち葡萄樹と枝との事を『爾曹に語るは我が喜なんぢらに在て爾曹の喜を盈しめんが爲なり』。爾は我生命を持つ事なくして我喜を持つ事が出來ない。『我に居れ、又我をして爾に居らしめよ、さらば我喜爾に居らん』と、凡て健全なる生命には喜びと美麗とがある。幹より離れずして枝たる生涯を送れ、卿は彼の喜びを充ち足る迄に持つ事が出來るであらう。
多くの基督者に取っては、キリストに全く居る生涯は一つの緊張たる感覺であり、苦しき努力であるかの如く思はれて居る。彼等は此緊張と努力とが我等の衷にあるキリストの命令に心置きなく自らを委ねない爲に來るものである事に心付かない。此比喩の最初の言さへも彼等には分って居ないのである。我は眞の葡萄樹、我こそ一切をなし一切を備ふるものであって、枝は唯全く我に委ね、我をして一切をなさしむればよい。枝をして枝たらしむるは我であると。斯く凡てをなし其愛の中に我等を保って時々刻々我等の生命を維持し給ふ者は、頌むべき神の子に外ならない事を思ふ時に、絕えざる無限の喜びがあるべきではないか。
『我が喜なんぢらの衷に在て』と。我等はキリスト御自身の喜びを衷に持つべきである。然してキリストの御喜びとは何であらうか。愛の如き喜びは外にない。愛の外に喜はない。キリストは今父の愛と、彼が其中に居り給ふ事と、又其同じ愛を以って我等を愛し給ふ事とを告げ給ふた。彼の喜びとは即ち愛せられて又愛する愛の喜びに外ならない。夫は即ち父の愛を受けて其中に居り、又其愛を罪人に灌ぎ給ふによりて得給ふ喜びである。彼が我等をして與らしめんとし給ふ喜びとは即ち是である。父と彼とに愛せられ、又四圍の人々を愛して其爲に生くる喜びである。是は眞の枝たる喜びであって、彼の愛に居り、又他の人の爲に果を結ぶべく愛の中に自らを獻ぐる事である。我等をして願くば彼が其生命を我等の衷に與へ給ふまゝに受けしめよ。されば彼の喜び、即ち彼の愛の中に居る喜び、彼の如く愛する喜び、彼の愛をもて愛する喜びは、我等の有となるであらう。
『爾曹の喜を盈しめんが爲なり』。即ち卿が是に盈されん爲である。神のみ凡ての喜びの源泉で在す事を、かくも屢々思ひ起さねばならぬ程に忘れ勝ちである事は、如何にも悲しむべき事である。神は我等の勝れて大なる喜びである。完全なる幸福に至る唯一の道は、出來る丈多く神とその聖旨とその交りとを持つ事である。宗敎は日々の生涯に云ひ難き喜びを與ふる筈のものである。然も何故多くの人は然らずとて呟くのであらうか。そは彼等がキリストとその愛に居り、亡びつゝある世にその愛を灌ぎ得給ふ御方の枝たるに勝る喜びが、他にない事を信じないからである。
おおキリストの聖聲が若き信者の心に徹して彼等を勵まし、彼の愛のみ眞の喜びであって、我等に與へられ我等を充すものであり、又その中に生活する單純なる道は唯枝として天の葡萄樹なる彼に居る事なるを信ぜしめん事を。願くば此眞理をして我等の心に深く留まらしめよ。我等の喜び得ざるは我等が天の葡萄樹を正當に解し居らざる標徵である。更に充ち足れる喜びを求むる凡ての願望をして更に單純に、更に完全に彼の愛に居る樣に勵ますものにてあらしめよ。
『我が喜、爾曹の喜』と。此事においても枝は葡萄樹に似るべきなり。爾の喜びは、我等の喜びにして、爾の喜び我等の衷にあって我等の喜び盈つるなり。頌むべき主よ、爾の喜び、即ち父に愛せられ、又他の人を愛して之を祝福む喜びを以て我を充し給へ。
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