第 十 八 日 眞 の 弟 子
『爾曹おほくの實を結ばゞ我父これに由て榮をうく 然ば爾曹はわが弟子なり』 (約十五・八)
多くの果を結ばないものは弟子ではないであらうか。勿論彼等は弟子と云ふ事は出來やう。然し發達せざる未熟の狀態に於てあるのである。多くの果を結ぶ者についてキリストは曰ひ給ふ、『是我弟子なり』と。即ち主の御要求に適ふところのものであって是眞の弟子である。我等は男らしき性格を具備せる人を指して彼は人なりと云ふのであるが、かく主は多くの果を結ぶ者、其聖旨に適ふ者を指して、彼は弟子たる名を負ふに足るものなりと仰せ給ふのである。我等は福音書に於て弟子なる言に二樣の意味あることを發見する。時には凡てキリストの敎を受納れたるものに適用せらるゝ事がある。然し或時にはキリストの訓練と奉仕に全く自らを捧げて、彼に從ふ少數者のみを含む塲合がある。此相違は何の時代にあることであって、大多數が彼の慈と聖旨とを聊か知り得て滿足しつゝある間に、神の民の少數者は其全心を傾けて彼に仕事へん事を求むるものである。此兩者の間に如何なる相違があるであらうか。我等は是を『おほくの實』の一語の中に見出す事が出來る。多くの信者に取っては彼等が最初覺罪當時に得たる「自己の安全」なる思想が其宗敎の唯一目的として終迄殘るのである。奉仕や果などの觀念は常に第二であって從屬的のものとせられて居る。多くの果を結ばんとの願望は彼等を動かさない。然し主が其一切を與へ給ひし如く、凡てを擧げて主の爲に活くる樣に召を蒙りし魂は決して是によりて滿足しない。彼等の叫は出來得る限り、主の御要求に合ふ迄多くの果を結ばんことである。
『おほくの實を結ばゞ……爾曹わが弟子なり』。願くば凡の讀者が是等の言を嚴かに熟思せんことを。漸次に善き工をなすに至らんなどと思ひて滿足してはならぬ。是は誤れる道である。多くの果との言を、卿があるべき又なし得べき事に關して、天の葡萄樹が與へ給ひし默示として受けよ。卿の力によりて之を試むる事の不可能にして愚かなる事を充分に悟り、此言に勵まされて天的充實を以て、卿の衷に生命の工をなさんとて着手し給へる葡萄樹に新しく目を注げよ。是をして再び卿の信仰と告白とを覺醒さしめ、我は眞の葡萄樹の枝なり、彼の榮又父の榮の爲に果を結び得ると云はしめよ。
我等は他を審判く事を要しない。然し神の言によって此二種の弟子ある事を知るのである。其何れに我等の位置を定むべきかに就て躊ふべき筈でない。彼は如何斗り彼の爲に全く捧げ、其靈に充たされたる生涯を要求めて居給ふ事であらうか。願くば我等の願望をして完全き聖潔、常に主に居ること、親密なる主との交通、豐かなる結實、即ち眞の葡萄樹の眞の枝たる生涯より劣るものにてあらしむるなかれ。
此世は亡びつゝある。敎會は憔悴へつゝある。キリストの道は行惱みつゝある。キリストは全き心もて從ふ信者、多くの果を結ぶ弟子の尠き事を憂ひて居給ふ。たとへ卿は其内容を充分に會得り得ずとも、卿は彼の枝たることゝ、其御要求に適ふ弟子たらんと備へせる事とを彼に告げまつらねばならぬ。
『わが弟子なり』と。頌むべき主よ、多くの果を結ぶことは、爾眞の葡萄樹に、凡てを其支配に委ねたる眞の葡萄樹の枝としてふさわしき弟子たる證なり。願くば我に嬰兒の如き自覺を與へて、我果が多くの果と數へられ爾を喜ばしつゝあることを信ぜしめ給へ。
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