第 八 日 我 に 居 れ
『爾曹われに居 さらば我また爾曹に居ん』 (約十五・四)
新しい接穗が葡萄樹に接がれた時に、二樣の働が始まる。第一は木に起る事であって、接穗は細根と繊維とを幹に卸し、幹は接穗の内に成長して此に全き組織的結合が成る。接穗は葡萄樹に連り是と一つになって生死を共にするのである。次に第二の事が行はれる。葡萄樹の液汁は此新組織に流れ込み之を通過して新芽や葉や果に及ぶのである。此に生命の結合が出來上る。臺樹に連る接穗の中に臺樹は液汁と共に宿るのである。我等の主が『爾曹われに居 さらば我また爾曹に居ん』と宣ふた時に、是に類似した事を告げて居給ふのである。『われに居』とは我等のなすべき側である。我等は信賴と服従を以て一切のものより離別して彼に至り彼に固着して彼の中に沈み込むべきである。彼の賜ふ惠によりて我等が此事をなす時に、其心は更に充實せる。『我爾に居ん』との經驗に到達する爲に備へらるゝのである。神は衷に住む靈によりて我等を力づけ、キリストは來りて信仰により心に宿り給ふのである。
多くの信者は、甚だ熱心に聖靈の盈滿とキリストの内住とを祈り且つ求むる。然して其進歩の甚だ乏しきを怪しんで居るが、其理由は屢々此にある。『われに居』との條件が果されない爲に『我また爾曹に居ん』との約束が成就しない。一の體と一の靈、即ち靈に充さるゝ前に體は備へられねばならぬ。液汁が果を結ぶ爲に流れ込む前に、接穗は幹の中に成長し其處に宿らねばならぬ。我等が謙讓りたる服從を以てキリストに從ひ、外部の事に於てすらも己に克ち世を捨て、肉體に於てすらも彼に同化せん事を求め、彼に宿らん事を求めなば、其時に我等は『我また爾曹に居ん』との御約束の成就を經驗する事が出來る。『爾曹われに居』との御命令は『我また爾曹に居ん』との約束の準備である。
此命令と約束は其中心たる意味深き言『に』に於て相一致する。聖書中是に勝りて深刻なる言が外にない。神は凡てのものゝ中にあり、神はキリストにあり、キリストは神にありて生き、我等はキリストにあり、キリストは我等にあり。即ち我等の生命は彼の生命に引受けられ、彼の生命は我等の生命として受納れられ、言ひ顯はし難き神的事實として、我等は彼に在り、彼は我等に在る。『爾曹われに居、我また爾曹に居ん』との言は我等が此神的秘密を信じ、葡萄樹たるキリストが之を現實となし給ふ事を期待すべく我等に告ぐるものである。思考や敎訓や祈禱によりて之を獲得することは出來ない。之は愛の神秘である。我等自ら此結合を成遂ぐる事能はざるが如く之を了解することも出來ない。我等は今此無限の神たる大能の葡萄樹が我等を愛し我等を保ち、我等の衷に働き給ふを見上ぐべきである。我等をして彼の働き給ふ事を信任して彼に居り、彼に息らひ、常に心と望を彼にのみ向けしめよ。願くば我等をして『爾曹われに居、我また爾曹に居ん』と宣ひし秘密を彼が我等に成就し給ふことを信ぜしめよ。
頌むべき主よ、爾は我に居れと命じ給へり。主よ、我を受納れ、歡迎し、保たんとて俟ち給ふ爾自らを示し給ふ事なくして、我いかで之をなし得んや。願くば爾は葡萄樹として一切をなし給ふ事を示し給へ。主よ、僕此にあり。一の小枝は潔められて爾に居りて息らひ、爾の命と惠の灌入を俟はべるなり。
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