第 四 日 果
『凡て實を結ざる枝は父これを剪除』 (約十五・二)
果、これは次に大なる言である。葡萄樹、農夫、枝、次に果である。主は果について何を我等に語らんとし給ふのであるか、それは即之である。果は枝の存在する唯一の目的であれば、若し果を結ばざる時は父は之を剪除り給ふと云ふことである。葡萄樹は、農夫の榮であり、枝は葡萄樹の榮であり、果は枝の榮である。若し、枝にして果を結ばなければ、其處には何の榮も何の値打もない。それは唯躓であり、妨碍であれば父は之を取除り給ふ。枝の存在する唯一の理由も、天の葡萄樹の枝たる唯一の標徵も、神たる農夫が葡萄樹の生命に與る事を許し給ふ唯一の條件も、唯果を結ぶと云ふ一事にある。
果とは何であるか。これは枝が自の爲でなく持主の爲に剪み取られ、持去らるゝ爲に結ぶ處のものである。枝は勿論繁茂し强くなる爲に幹より液汁を受ける。然し此養と供給とを受けるものは、其存在の唯一目的である果を結ぶ事の爲である。此眞理を受納れ了解し得ざることが、多くの基督者が枝たる生涯に入らんとて努力し祈るも尚失敗に陷る所以である。彼等は屢々甚だ熱心に之を求め、讀み、默想し、祈り、然して失敗する。彼等は何の爲かと怪しむのであるが、其理由は、至って簡単である。彼等は果を結ぶ事が、其救出されたる唯一の理由であることを知らない。キリストが眞の葡萄樹となり給ひし事が、人を救ふ唯一の目的の爲なりし如く、卿も亦人々の救の爲に果を結ぶべき唯一の目的の爲に枝とせられたのである。幹も枝も果を結ぶ事を以て、共に其存在の唯一の目的とする異らざる律法の下にあるのである。キリストと信者、天の葡萄樹と枝、世にありては共に神の救の榮を人々の傳へる此一事の爲に聖別せられたるものである。故に嚴かなる言がある。『凡て實を結ざる枝は父これを剪除る』と。
願くば我等をして此一大過誤を警戒せしめよ。多くの信者は自己の救を第一の事となし、自己の繁榮と家庭の顧慮とを專らにして、其時と力の殘りしものを果を結ぶ事、即ち魂の救の爲に献げて居る。多くの塲合甚だ僅少の時と勢力とをのみ見出すに過ぎないのは決して怪しむに足らない。基督者よ、卿がキリストの體の枝とせられた唯一の目的は、首なる主が其救の工を卿によりてなし給はんが爲である。神が卿を枝たらしめ給ひしはキリストが卿によりて其生命を人々に灌ぎ給はんが爲である。卿自の救も、事業も、家庭の顧慮も、全く之に從屬すべきものである。卿が生涯の唯一の目的、日々の最大題目は、キリストが如何に卿によりて其目的を成さんとし給ふかを知る事である。
我等をして願くば神の思ひ給ふ如くに思ふ事を始めしめよ。願くばキリストの敎を受けて之に應諾せしめよ。我枝としての一の目的、眞の枝たる一の標徵、又主にありて强きを增加へらるゝ一の條件は、天の葡萄樹の爲に果を結びて、死亡せつゝある人々に之を食せて生命を得しむる爲であることを。之に就て我有する最も完全な確信は、キリストを幹とし、天父を農夫とする我は必ずや結實繁き枝たり得べしと云ふことである。
我等の父よ、爾は果を求めて來り給へり。願くば是が如何に我等の存在のキリストに結合せられし唯一の目的なるかを明かに悟ることを得しめ、枝たる我等の唯一の願をして、葡萄樹の命に充され、豊かに果を結ぶことにてあらしめ給へ。
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