第 十 六 日 爾 曹 我 に 居 ら ば
『爾曹もし我に居また我いひし言なんぢらに居ば凡て欲ふところ求に從ひて予らるべし』 (約十五・七)
葡萄樹と枝とが基督者生涯の眞實なる比喩である理由は、その凡ての性質が同一の源泉より出で、同一の靈を呼吸してゐるからである。植物界は、神に對する絕對の依賴が、如何に安全であり幸福であるかを敎ふる實物敎訓として創造せられた。百合花を裝ひ給ふものはまして我等を裝ひ給ふ。木や葡萄樹に其美と結實とを與へて聖旨に合はしめ給ふものは、必ずや我等をも聖旨に隨ひて造上げ給ふに相違ない。唯其異なる處は一は無意識なる木の中に働き、我等の衷に働き給ふには其同意を求め給ふ點にある。是れ人の高貴なる所以であって、神の爲し給ふ處を了解し受納れ、彼と偕に恊心戮力し得る意志を持って居るのである。
『爾曹もし……居ば』と、これは自然の樹枝と靈的葡萄樹との相違である。前者は自然の力によりて連り、後者は意志の上に加はる神の力によりて連るのである。是神の設計ひ給ひし處であって、前者の中に自然の力のなす處、後者の中に惠の力はなすのである。枝はかくて葡萄樹に居る事が出來る。
『爾曹もし我に……居ば……欲ふところ求に從ひて予らるべし』。若し我等が力ある祈の生涯を送らんとせば、『居る』事は必須要件である。又若し我等が居るならば祈求の自由と應答の確實とは必然である。『爾曹もし我に居ば』とは唯一の條件である。其可能と確實とに就いては躊ふを要せない。我等は眞に『居る』事を學び得る迄、園の小枝と其妙なる結實の力とを凝視めねばならぬ。
然して其秘密は何であらうか。全くイエスに占領せられ、卿の存在が信仰と愛と服從とをもて深く彼の中に根し、此に宿らんが爲に他の凡の所より出で來り、天にある崇められし神の子の地にある枝たる大なる特權の爲に一切を抛ち、キリストをして第一たらしめ、彼をして凡ての凡てたらしめ、又居ることに心を奪はるゝ事なくキリストに奪はれることである。さらば彼は卿を支へて彼の衷に居らしめ、又彼自ら卿の中に宿り給ふであらう。『爾曹もし我に居また我いひし言なんぢらに居ば』とは『我爾に居ば』と云ふのと同一義である。『我いひし言なんぢらに居ば』と。是は唯に默想、記憶、愛、信仰に由のみでない。勿論是は必要であるが、夫以上に服從によって居らしむべきである。若し是等の言が卿の意志と存在とに入り來り、卿の生涯を構成し、卿の品性を彼の像に變化らしめ、然して卿が其言の意味する處の如くなり居らば『欲ふところ求に從ひて予らるべし』と云ふのである。卿が神に祈る其言は卿の衷に宿り給ふキリストと其言の果でなくてはならぬ。
『欲ふところ求に從ひて予らるべし』。愛する魂よ、此約束の眞實なる事を信ぜよ。卿は人の爲の仲保者即ち常に豐かなる惠を呼降す果を結ぶ仲保者たることを期せよ。かゝる信仰と祈とは卿を助けて全く且つ絕えず、主に居るために驚くべき助けをなすであらう。
『爾もし……居ば』と。然り主よ、祈の力、勝利の力は爾に居ることに依らざるべからず。爾は葡萄樹に在すと共に、其靈を我等の衷に噓入れ給ふ神たる仲保者なり。おお單純に又完全く爾に居り、いと大なる事を求むる惠もがな。
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