第 二 日 農 夫
『わが父は農夫なり』 (約一・十五)
葡萄樹には、之を植ゑ、之を守り、其果を取りて喜ぶ農夫がなくてはならぬ。イエスは宣ふ、「わが父は農夫なり」と。彼は神の植ゑ給へる葡萄樹であった。彼は父によりて存在し又行動し給ふた。彼は凡てに於て唯父の聖旨と其榮のみを求め給ふた。彼は受造物が造物者に對して如何にあるべきかを我等に示さん爲に人となり給ふたのである。彼は父の聖前に其生涯を送り給ふた其靈を、又直に我等のものとなさんことを欲し給ふのである。「萬物彼より出で彼により彼に歸す」(参考:哥前八・六)、主は我等が眞の枝とならん爲に自ら眞の葡萄樹となり給ふた。彼に取りても我等に取りても、此言は絕對の依賴と全き確信との二の學課を敎ふるものである。
『わが父は農夫なり』。キリストは、『子は自ら何事をもなす事能はず」(約五・十九)と曾て宣ひし處の其靈をもて生涯を送り給ふた。恰も葡萄が其植ゑらるゝ位置も、其籬も或は灌がれ潔めらるゝ事も、全く農夫に依賴める如く、キリストは日々に父の旨をなし給ふ爲に、智慧に於ても力に於ても全く父に依賴まねばならぬ事を感じ給ふた。此前の章(約十四・十)に於て語り給ひし如くである。『我爾曹に語りし言は自ら語りしに非ず、我にをる父、其行をなせるなり』と、此絕對の依賴が其一方に何ものも恐れざる頌むべき確信を與へたのである。父は決して彼を失望せしめ給ふ事が出來ない。かゝる農夫を其父として持ち給ふが故に、彼は死の中にも墓の中にも行き給ふ事が出來た。彼は死の中より甦らし給ふ神を信任する事を得給ふた。キリストの凡てあり給ふた處、持ち給ふた處は、自らによらず父より受け給ふたのであった。
『わが父は農夫なり』。頌むべき哉、こはキリストに於ける如く又我等にも眞である。キリストは今其弟子等に彼等が枝なる事を敎へ、彼によりて果を結ぶ事を語り給ふ前に、彼等の眼を天に向けしめ、彼等を守り其中に凡ての働をなし給ふ父を仰がしめ給ふのである。基督者生涯の根底には神が一切をなし給ふとの此思想が橫って居る。我等のなすべき唯一の工は、我等の全く依賴なき樣を告白し、神は凡ての必要を與へ給ふ事を確信して、自らを彼の聖手に置きざりにする事である。基督者生涯の大なる缺陷は之であって、我等が基督に信賴する時に於てすら神を勘定に入れないのである。キリストは我等を神に携へ行かんが爲に來り給ふた。彼は我等が當に送るべき人としての生涯を送り給ふた。葡萄樹なるキリストは、農夫たる神を指示し給ふ。彼が神に信賴し給へる如く、我等も、願くば彼に信賴せしめよ! 葡萄樹に屬する我等として、あるべき又持つべき悉くのものは上より與へらるゝであらう。
以賽亞に曰く、『うるはしき葡萄園あり …… われヱホバこれを護り をりをり水そゝぎ夜も晝もまもりて害ふものあらざらしめん」(賽二十七・二、三)と。我等が果につき枝につき考ふる前に、葡萄樹と共に榮ある農夫に對ふ信仰もて其心を充されねばならぬ。我等の召は高く且つ聖くあるが、それと共に我等の衷に働き給ふ神は力あり、慈悲に富み給ふ御方である。葡萄樹を造り給ひし農夫は、必ずや之に應はしき枝をも造り給ふであらう。我等の父は我等の農夫にて在し我等が成長と結果との請合人である。
頌むべき父よ、我等は爾の作物なり。願くば聖手の工をして榮あらしめ給へ。おお我父よ、我心を開きて、『わが父は農夫なり』との此驚くべき眞を喜ばしめ、我を敎へて汝を知り、汝に依賴み、汝が葡萄樹に注ぎ給ふ其深き興味と看顧とは、凡ての枝に及び我にさへ及ぶ事を知るを得させ給へ。
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