第二十二日 我 如 く
『若なんぢら我誡を守ば我愛に居ん 我わが父の誡を守て其愛に居が如し』 (約十五・十)
我等は一度ならず葡萄樹とその枝とが、その性質に於いて又其目的に於いて全く同一物なる事を語る機會を得たが、茲にキリストは最早比喩によらず、彼御自身の生涯が如何に我等の生涯の正確なる模型なるかを語り出で給ふ。彼は服從によってのみ我等が彼の愛に居り得べき事を告げ給ふたが、今此に是こそ彼が父の愛に居り給ひし道なる事を示し給ふ。葡萄樹の如く枝も斯くあるべきである。彼の生命と力と喜とは父の愛の中にあった。彼は服從によってのみ其中に宿り給ふ事が出來た。我等も常に彼の愛の中に、我等の生命と力と喜とを見出すのであるが、唯彼と同く服從によってのみ其中に居る事が出來る。葡萄樹に全く同化する事は枝の爲に尤も貴重なる學課である。服從によってキリストは葡萄樹として父を農夫と崇め給ふた。かく信者は又枝としてキリストを葡萄樹として崇むべきである。
『從ひ居れ』とは、我等の生涯に於けるが如く、又キリストの御生涯の法則であった。我等が凡の事に於て彼の如くならん爲に、彼は凡の事に於て我等の如くせられ給ふた。彼は自ら步み給ひし如く、我等が步み得べき道を開き給ふた。彼は我等が如何に肉體に在りて步み、又服從が受造物の第一の義務であって、父の惠に居り、彼の榮に入る唯一の道である事を示さんが爲に、自ら人性を採り給ふた。かくて彼は自ら父の誡を守りて其愛に居り給ひし如く、我等をも其誡を守るべく敎へ勵まし又要求せんが爲に臨り給ふた。
此從ふ事と、居る事と、又神の誡と、彼の愛との連絡の妙なる適合は容易に悟る事が出來る。神の意旨は彼の神的完全の中心眞髓であった。彼の誡の中に默示されし如く、造物者の象に迄成長すべき道は受造物の爲に開かれた。彼の旨を受け之を行ふ事によりて我等は彼御自身との交に入る事が出來る。夫故に聖子が此世に臨り給ふや『おお神よ、我なんぢの旨を行はんとて來る』(來十・九)と仰せ給ふた。是は受造物の留るべき立場であって又其祝福である。是こそ人類が陷罪によって失ひし處のもの、即ちキリストが恢復せんとて臨り給ひし處のものである。これぞ天の葡萄樹が我等に要求め、又我等に賦與へ給ふ處のものであって、彼が父の誡を守りて其愛に居り給ひし如く、我等をも彼の誡を守って其愛に居らしめんとし給ふ處のものである。
『なんぢら我如く』と。枝は葡萄樹と全く同一の生命を持って居なければ果を結ぶ事が出來ない。我等の生命も亦正にキリストの生命と相應合するものであるべきである。恰も我等が彼を葡萄樹として信ずる如く、彼は又確かに其枝に、自らの生命を與へ給ふであらう。『なんぢら我如く』と葡萄樹は曰ふ。即ち同一の法則、同一の性質、同一の果である。願くば我等をして、居ることの秘密として服從の學課を我等の主より學ばしめ、且つ單純明白にして一般的なる服從が餘りに閑却せられたる事を懺悔せしめよ。
キリストは我等が不從順なる敵たりし時に我等の爲に死に、我等を取りて其愛の中に置き給ふた。かくて我等は今彼の衷に在る。彼は『我如く爾曹も從ひて居れ』と曰ふ。願くば我等をして心より愛を以て服從せしめよ。彼は我等を保ちて其愛に居らしめ給ふであらう。
『なんぢら我如く』と。おお其枝をして凡の事に於て、爾の命と聖象とに與るものとならしめ給ふ我頌むべき葡萄樹よ、此事に於ても我は爾に似ん事を欲ふ。爾の生涯が服從によりて父の愛に居り給ひし如く、我生涯も爾の愛の中にありて、斯くあらん事を希ふ。救主よ、願はくば我を助けて服從をして眞に爾と我との連鎖にてあらしめ給へ。
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