第 十 五 日 凡 て 願 ふ と ころ
『爾曹もし我に居また我いひし言なんぢらに居ば凡て欲ふところ求に從ひて予らるべし』 (約十五・七)
枝が葡萄樹にありて保つ處の位置は、絕間なき祈の生活である。枝は間斷なく常に叫んで居る。『おお葡萄樹よ、爾の果を結ぶ爲に要する液汁を我に與へよ』と。然して其祈は必ず答へられる。其要する處願ふ處を求めて枝は悉く之を與へられるのである。
キリストにある健全なる信者の生涯も亦同樣絕えざる祈の生活である。自覺するも自覺せざるも彼は絕えざる信賴によりて生くるのである。主の曰ひし『爾曹……何事をも行能ざれば也』てふ聖言は、信者の生活が絕えず求めて、常に受くる間斷なき祈の生涯でなければならぬ事を語り、今此約束の言は我等に無限の大膽を敎へる。『凡て欲ふところ求に從ひて予らるべし』と。
此約束は果を結ぶ事に直接に關係して與へられた。卿が若し此約束の言を單に自らと自己の必要のみに限るならば、夫は其力を奪ひ去るものである。キリストは其弟子等を遣し給ふた。彼等はその生命を世の爲に捨てんとして居たのである。彼等のために主は天の財寶の管理權を與へ給ふたのであった。彼等は祈によって其働きに要する靈と力とを呼下すべきであった。此約束は聖靈の降臨に直接關係して與へられた。此比喩に於て、聖靈の事は液汁に關し何等記す處なきが如く亦記されて居ない。然し兩者の旨意は前後を一貫して明かに現れて居る。前章に於て主は聖靈の事を語りて、彼等の内的生命に關係せるものとなし、彼らの衷に宿り、彼自らを現すものとして告げ給ふた(約十四・十五〜廿三)。後の章に於ては彼らの働きに關するものとして之を語り、彼等に臨り、世を覺罪し、彼を崇むるものとして敎へ給ふた。若し我等が制限なき祈の約束を獲得し度いならば、靈に充され、イエスの工と榮の爲に全く捧げたるものでなくてはならぬ。靈は我等を導きて、其意味の眞と、成就の確實とを悟らしめ給ふであらう。
我等は多くの果を結ぶ爲に唯多く祈る事を要する。キリストの中には我等の四圍にある人々の缺乏を充す凡の財寶が匿れてゐる。彼に在って神の凡の子供等は已に靈の凡ての惠を以って惠まれた。彼は惠と眞に充ちて居給ふ。然し其惠を呼下す爲に祈を要する。篤き祈、强き信仰の祈りを要する。然し人々の爲に全く抛出したる生涯を送るに非ざれば、此約束を適用する能はざることをも記憶せねばならぬ。多くの人は約束を握らんとして何を求むべきかと四邊を顧みる。是は決して其道でなく却って正反對の事である。先づ心に魂の缺乏を覺えて重負を負ひ、彼等を救へよとの命令を受けて從ふならば、約束を要求する力は來ることであらう。我等は是を葡萄樹にある可驚生涯の默示の一として要求し度い。彼は若し我等が彼の名により、彼に結合せる故によりて求むるならば、欲ふ處求めに從ひて與へらるゝと仰せ給ふた。祈の缺乏の爲に魂は亡びつゝある。祈の缺乏の爲に神の子供等は繊弱である。祈の缺乏の爲に我等は果を結ぶ事能ざるものである。此約束を信ずることは我等をして祈に强からしむる。願くば我等をして此言が我等の心の衷に入り來り、キリストの力に引付けられ惠の大傾注を受くる迄、祈の中に勞し努め得しむる迄は止む事なからしめんことを。枝たる事は唯地にありて果を結ぶのみならず、天の惠を呼下す祈の力を有つものである。全く主に居るとは多く祈ることである。
『凡て欲ふところを求めよ』と。おお我父よ、如何なれば我心弱くして此言を單純に受納るゝ事を得ざるぞや。おお我等の目を刮きて此世とサタンの力に打勝つ爲に、此約束を其儘に信じて依賴む外なき事を見させ給へ。願くば我等を敎へて、此約束を信じて祈ることを得させ給へ。
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