第二十九日 選
『なんぢら我を選ず 我なんぢらを選べり 且爾曹をして往て實を結せ其實を存しめんが爲……に我なんぢらを立たり』 (約十五・十六)
枝は葡萄樹を選んで何れの幹によりて成長すべきかと定めた譯ではない。葡萄樹こそ其心のまゝに枝を生出したのである。かくキリストも宣ふ、『なんぢら我を選ず 我なんぢらを選べり』と。然し或者は云ふであらう、其處が自然の樹枝と異なる點ではないか、人は自由の意志と選擇の力とを有って居る。彼がキリストを受けんと決心し、彼を主として選んだ功績によりて今、枝たる事を得たのではないかと。夫は確かに眞理である。然しそれは半面の眞理である。葡萄樹の學課と我等の主の御敎訓とは更に深き半面、即ち我等がキリストの中に在る神的方面の眞理を指示するものである。若し彼が我等を選び給はなかったならば、我等は彼を選ばなかったであらう。我等が選んだのは彼が我等を選び我等を捕へ給ふた結果である。一般の道理から云っても彼が葡萄樹として其枝を選び、之を創造り給ふのは其權能である。我等は悉く恩の選びに負ふ所のものである。若し我等が枝たる生涯の唯一の源泉又力たる眞の葡萄樹としてキリストを知り、又我等が其枝として尤も頌むべき、又尤も安全なる絕對の信賴を彼に置くことを得ん爲には『なんぢら我を選ず我なんぢらを選べり』との眞理を深く呑込まねばならぬ。然して如何なる見地よりキリストは斯く云ひ給ふたのであらうか。蓋彼等をして主が彼等を選び給ひし御目的を知らしめて、彼の選びを信ぜしめ、必ず其定命を成就し給ふべき事を確めしめん爲である。是は聖書を貫いて選びの敎理の大主眼である。『其子の狀に效せんと預じめ之を定む』(葡萄樹に似たる枝たらしめん爲=羅八・二九)、「我等は聖き者とならん爲」『靈の淸めによりて從ふべく選ばれ』(彼前一・二)たのである。或者は此敎理を濫用した。或人は此誤謬を恐れて是を拒絶した。蓋此敎訓を看過した爲である。彼等は是を窺ふべからざる神の議會の秘密、永遠の元始の隱れたる奥義とのみ思ふて、時至るに及んで其目的を默示せられたることを知らず、その祝福を基督者生涯に呼下す事をしないのである。
然して其祝福とは何であらう。此節にキリストは其枝として我等を召し給ふた二重の目的を默示して居給ふ。それは即ち我等が地にあって果を結び、天に於て祈りの力を有たんが爲である。此事の爲に主が我等を選び給ふたとの思想は如何ばかりの確信を我等に與ふる事であらうか。主は其御目的を成遂げ給ふ爲に、必ずや我等を相應しき者となし給ふに相違ない。これは我等が永く存つ果を結び、成効ある祈りをなし得べき事を確信せしむるものである。また我等を尤も深き謙遜と、讚美と、全き打任せと、俟望とに導く絕えざる召の聲ではないか。彼は決して我等を不適當なる事の爲に、或ひは彼が適當なる者となし得給はない事の爲に選び給ふ筈がない。彼は我等を選び給ふた。これは特權である。彼は必ず一切を我等の衷になし給ふであらう。
願くば我等心靜かに、聖き葡萄樹が各自に囁き給ふ處を聞かんことを、『なんぢら我を選ず我なんぢらを選べり』と。然して我等をして云はしめよ、然り主よ、アーメンと。此眞の意義を示し給はん事を彼に求めよ。眞の葡萄樹たる彼の中に枝たる卿の生涯の神的源泉と永遠の保證と、其目的を成就し給ふ力とがある。彼の愛の聖旨の中には卿は一切を期待する事が出來る。願くば我等をして彼と其意圖と、其力と、其忠信と、其愛の中に居らしめよ。
『我なんぢらを選べり』と。主よ、爾が我に聖心を留め、永く有つべき果を結ばしめ、効果ある祈りをなさしめんとて選び給ひし事の意義を敎へ給へ。此爾の永遠の意圖の中に我魂は息らひて云はん、彼が我を選び給ひし御目的に適ひ、我はかくならん事を願ひ、かくあるを得べく又かくならざるべからずと。
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