第 十 四 日 枯 れ た る 枝
『人もし我に居ざれば離たる枝の如く外に棄られ枯るなり 人これを集め火に投入て焚べし』 (約十五・六)
此言の敎ふる課程は甚だ單純であるが又至って嚴かである。人はキリストに居ると自ら信じ、彼との連結に入りつゝも尚捨てらるゝ事が出來るのである。枯れて焚かるゝ枝の如く、一度はキリストとの結合に入りし如き人も、其信仰が唯束の間であるものがある。これは嚴かに我等を促して周圍を環視り、敎會の中に枯れたる枝のありやなしやを顧みさしめ、又我等の衷を反省みて我等が眞に主に居り果を結びつゝありや否やを匡さしむるものである。
然して居らざる事の原因は果して何であらうか。或者に取っては信者として召されしことが、聖き服從と愛の奉仕にある事を了解せざる爲であらう。彼等は信じて地獄の刑罰より遁れし事を以て滿足して居て、キリストに居る樣に彼等を勵ます何等の動機をも有たない。彼等は其必要を知らないのである。或者に取っては此世の憂慮と其繁榮とが心を蔽ふた爲であらう。彼等はキリストに從ふ爲に曾つて一切を捨てなかった。又或者に取っては其宗敎心と信仰とが人の智慧によりて神の力によらない爲であらう。彼等は惠の方法や自己の純潔や義とする惠を信ずる信仰に信賴して、其を唯一の避所としてキリストの中に全く居る事を求めない。試練や迫害の焦嵐吹き來る時、忽ちにして枯れ果つるのは敢へて怪しむに足らない。彼等は眞にキリストに根して居らなかったのである。
我等は四圍を環視して敎會の中に枯れたる枝のありや否やを點驗べねばならぬ。一度は輝ける證を立てゝ居た靑年で今冷かになった者は居るまいか? 或は其信仰を維持して一度は活々として居た老者にして今は死失せたのはなからうか? 願くば役者信者をしてキリストの言を心に留めしめ、枯れなんとする枝の爲に何事かなすべき處なきやを主に求めしめよ。『居』との言をして全敎會に響き渡らしめ凡ての信者をして之を捕捉せしめねばならぬ。眞にキリストに居る事の外安全がないのである。
願くば我等各自をして内省せしめよ。我等の生命は新鮮で活々として時に及びて果を結んで居るであらうか(詩一・三、九十二・十三、十四、耶十七・七、八)。願くば主の凡ての御警戒に心して聞從ひ、『我に居ざれば』と曰ひしキリストの聖言に勵まされて、更に深く主に居ることを努めんことを。從順なる魂に取りては、居る事の秘密は至って單純になり、容易に彼が我等を置き給ひし位置を自覺し、彼との結合の中に幼兒の如く安んじ、彼が我等を保ち給ふ事を疑はずして確信するに至るであらう。願くば我等をして萎む事を知らず、常に綠の色いや增して豐かなる果を結ぶ生涯ある事を知らしめよ。
『枯れたる枝』と。おお我父よ、我を守り、我を保ちて葡萄樹に全く連らしめ、之によりて受くる靈の新鮮を瞬時だも妨げらるゝことなからしめ給へ。『枯れたる枝』を思ふ思想が、願くば聖き恐と警醒とをもて我を充さんことを。
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