第 十 日 我 は 葡 萄 樹
『我は葡萄樹、なんぢらは其枝なり』 (約十五・五)
前の節に於て、キリストは『われに居』と宣へり。斯くて彼は天に於ても地に於ても枝たる生涯の不變の律法を布告して『連らざれば自ら實を結ぶこと能ず』と仰せ給ふた。此比喩の初に於て已に彼は『我は葡萄樹』と宣ひしが、今又此に繰返し給ふ。此課程は單純なるが如しと雖、實は主に居る生涯の鑰であって、われに居と宣ふ命令に従ふ唯一の道は、唯我等の目と心とを彼御自身に定むる事であることを了解せしめんとなし給ふのである。『われに居』『我は眞の葡萄樹なり』と。卿が若し、キリストを見、彼が眞の葡萄樹として其凡の枝を保ち、之が生存ふる爲に、又果を結ぶ爲に要する凡ての供給を與へ、之を力づけ、之を活し給ふを見窮むる迄、此聖き秘密を學ぶならば、彼に居ることは至って自然の事となるであらう。然り、卿が之が如何に驚くべき天的秘密であるかを覺え、聖靈によりて、此秘密を默示し給はん事を父に求めざるを得ざるに至る迄、眞の葡萄樹として彼を凝視めよ。神によりて眞の葡萄樹の榮を默示せられ、イエスが如何なる御方にて在し、何をなさんとて時々刻々俟ち給へるかを眞に悟りし者は、唯彼に居るの外なす處なきに至るであらう。キリストを見る時、其處には抵抗し難き引力がある。彼は磁石の如く我等を引付け、之を保ち給ふのである。生けるキリストが、『我は眞の葡萄樹』と、仰せ給ひし其言の意味と力を、卿に示さんとて今も尚語りつゝあり給ふ處に耳を傾けねばならぬ。
『居る』ことの何たるかを了解せんと務むるは、空しき骨折であり、之に到達せんと試むるは効果なき努力である。何となれば、斯くする事によって却って、我等の注意は我等をして居ることを得しめ、我等を支へ、我等を保ち給ふ唯一の御方なる、活けるキリスト御自身より離れて、居らんとする自己の工に向ふからである。我等は居ることを常に心を張り詰めて努力する事の如くに考へ、住居を見出せし者が、其努力より休む事なるを忘れて居る。キリストは宣ふ、『我に居れ、我こそは枝を保ち、之を力づけ果を結ばしむる葡萄樹なり。我に居り、我に息らひ、我をして我工をなさしめよ』と。
居ることに心を捕はれて居ない魂は、却って屢々常に主に居るものである。そは彼はキリストの事を思ひ続けて居るからである。然し此居ると云ふ言が何も不必要な譯ではない。キリストは屢々此言を用ひ給ふた。こは基督者生涯の鑰である。然し彼は眞の意義に於て、我等が之を了解せん事を願ひ給ふ。他の凡の處より、凡て信賴する處のもの、心を用ゐる處のもの、自己と其理論と努力とより出來りて、彼がなさんとし給ふ處に安んぜよ。『爾自らより出來りて我に居れ、爾は已に我衷に居る事を知れ、夫以上何も必要がない、其處で我衷に留まって居ればよろしい』と宣ふのである。
『我は葡萄樹』キリストは此秘密を其弟子達に匿し給はなかった。先彼は、茲に言を以て、次に聖靈の來りし時に力を以て之を默示し給ふた。彼は我等にも亦先づ思と願望に、次に聖靈によりて力を以て現實に之を默示し給ふであらう。我等は彼が此秘密の天的意義を啓示し給はんことを俟つべきである。日々密室に於て彼と其言に靜かに親しむ時、我等の主要なる思ひと目的とは、確信を以て其心を彼に定め、葡萄樹が常に其枝の爲になす如く、我主イエスは我爲に之をなし、又今なしつゝあり給ふと云ふ事であらねばならぬ。彼に時を與へ、耳を與へ、我は葡萄樹と宣ふ其神的秘密を、我等に囁きて解明し給ふを俟つべきである。
更にキリストは、神の植ゑ給へる葡萄樹であって、卿は神の接ぎ給へる枝なることを記憶せねばならぬ。常にキリストに在って神の聖前に立ち、常にキリストに在って神より來る凡の惠を待ち、常にキリストに在って農夫に益々多の果を結ばしめ給ふ爲に自らを委ねゝばならぬ。キリストの上に留れる神の凡の力と愛とが又卿の中にも働く此秘密を默示せられん爲に多く祈られよ。イエスは曰ふ、『我は神の葡萄樹なり、我有つ處のものは凡て彼より受け、我凡て有つ處のものは爾の爲なり。神は爾の衷に一切の働きをなし給ふべし』と。
『我は葡萄樹』と。頌むべき主よ、爾はかく我靈に語り給へり。之によりて爾の盈滿は我爲なるを知れり。爾が之を我衷に灌ぎ給ふことを信じ、葡萄樹は枝を保ち、其凡の必要を供給し給ふとの頌むべき信仰の中に、自ら忘れ自ら失ふ時、居ることは至って容易に、又確實になり侍るを謝し奉る。
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