第 十 九 日 驚 く べ き 愛
『父の我を愛し給ふ如く我なんぢらを愛す』 (約十五・九)
此にキリストは其話頭を轉じて父に就て語り給ふ。比喩によりて學ぶ處は多くあるが、唯愛に就いては學ぶ事が出來ない。葡萄樹が枝の爲になす處は悉く自然法の强迫によるのであって、其處には個人的の愛情がない。我等は幸福なる生涯の秘密たるキリストが、我等を抱き給ふ其個人的熱愛の感覺なくして、唯彼が我等に受納れられ依賴まるべき、神に定められ給へる救主、凡ての缺乏の供給者としてのみ彼を見る危險に陷り易いものである。キリストは此點に就いて敎を垂れんとして再び我等を御自身に曳き、彼自らの生涯が如何に我等の生涯に似たるかを示し給ふ。葡萄樹として父に依頼み給ひし彼の御生涯は、父の愛の中にある生涯であって、其愛は彼の力、彼の喜びであった。此神愛の力によって彼は父に依賴みつゝ安んじて生死の巷を通過し給ふた。若し我等が葡萄樹に似たる枝として、彼の如き生涯を送り度いならば、此點にも與らねばならぬ。我等の生命は彼の如く天的の愛の中にあって之を呼吸せねばならぬ。父の愛が彼の上に灌がれし如く彼の愛は我等に灌がるゝであらう。若し父の愛が彼を眞の葡萄樹となせしなら彼の愛は我等をして眞の枝とならしむるであらう。『父の我を愛し給ふ如く我なんぢらを愛す』。
『父の我を愛し給ふ如く』と。父は如何に彼を愛し給ふたであらうか。父の持ち給ふ處のものを悉く其子に與へ、彼をして自らと全く合致せしめ、彼は子の中に、子は彼の衷に住まんことを喜び給ふ無限の願望こそ、父のキリストに對ふ愛であった。こは我等の認識を超越する榮ある奥義であって、我等は此事を思ふ時に唯俯伏して拜するのみである。然して此同一の熱愛を以てキリストは彼と其有とを悉く我等に與へ、我等をして彼の性質と祝福との分與者たらしめ、彼我等の衷に住み、我等彼の衷に住む事を限りなく願ふて居給ふのである。偖キリストが斯く斗り大なる無限の神愛を以て我等を愛し給ふとせば、一切の障碍に打勝って彼が我等を占領し給ふ事を妨ぐる處のものは何であらうか。其答は簡單である。キリストに對ふ父の愛と同じく我等に對ふキリストの愛も神的秘密であって、認識するに餘りに高く、自己の努力を以て到達せんとするには餘りに遠くある。此キリストにある可驚神の愛、凡てに打勝って餘りある間斷なき愛は唯聖靈によってのみ灌がれ默示せられ得べきものである。葡萄樹自ら其液汁を送りて、枝を成長せしめねばならぬ樣に、キリスト自ら其聖靈によって心の衷に宿り給はねばならぬ。さらば我等は此思ふ處に過ぐる愛を知り、之を衷に持つ事が出來るのである。
『父の我を愛し給ふ如く我なんぢらを愛す』と、彼が父我を愛し給ふとて、常に其愛を味ひ之を樂しみたまひし如く、我等も父の彼を愛し給ふ如く彼我を愛すと、絕えざる自覺を以って生活し得ん爲に生けるキリストに近づき、彼に依賴み、彼に凡てを委ね、彼をして我等の衷に其愛を現さしめ奉り度いものである。
『父の我を愛し給ふ如く我なんぢらを愛す』と。愛する主よ、我は枝たる生涯が如何斗り葡萄樹の生涯に酷似たるかを聊か解し初たるが如し。爾は葡萄樹に在して、父は爾を愛し、爾によりて其愛を灌ぎ給へり。かく爾は我をも愛し給ふ。枝としての我生涯は、又爾の生涯の如く、天の愛を受けて之を與ふるものたるべけれ。
| 総目次 | 序文と目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |