第 六 日 潔
『すべて實をむすぶ枝は之を潔む 蓋ますます繁く實を結ばしめん爲なり』 (約十五・二)
葡萄樹には二の著しい事がある。葡萄の如く液汁豐かなる果物とては外にないが、然し、又是位徒枝を蔓延らして結實を妨ぐるものも亦尠ない。故に用捨なく剪除る必要があるのである。余は此書齋の窓から前に橫はる大きな葡萄畑を眺めるのであるが、葡萄師の主なる仕事は潔むる事である。卿は善き地に深く根を卸した葡萄樹を所有って居て、掘る事も肥しする事も、灌ぐ事もいらないとしても、善果を結ばしむる爲に潔むる事丈は手を除く事が出來ない。或樹は適に潔むればよい。木によっては全く其必要なきものもあるが、葡萄斗りは之を要する。故に主は此比喩の最初に於て、父が果を結ばしむる爲になし給ふ唯一の工を示して、『彼之を潔む 蓋ますます繁く果を結ばしめん爲なり』と仰せ給ふた。
今潔むるとは如何なる事であるかを暫く考えて見よう。此は雜草や荊や外部より其成長を妨ぐるものを除く事ではない。それは舊年の長き芽生を剪除る事であって、葡萄の生命其ものより出づる處のものを取去る事である。即ち潑剌たる生氣を有する標徵たる處のものを除去る事であって、其成長の旺なるに連れて潔むる事も亦必要を增すのである。何となれば、舊い枝に餘りに多くの液汁を送らない樣に之を剪除りて、果の爲に夫れを蓄藏せねばならぬからである。枝は屢々根元近く八尺乃至一丈も剪落されて、僅かに果を結ぶ爲に要する一、二寸のみ殘さるゝものである。是專ら枝をして豊かなる果を結ばしめんが爲である。
これは何たる嚴かな貴い課程であるか。此に云ふ潔むるとは唯に罪斗りを云ふのではない。果を結ばんとて我等がなさんとする自己の宗敎的活動をも指して居る。我等は神の爲めに生得の賜物即ち智慧、能辯、感化、熱心等を用ひんとするのであるが、此等は屢々不正當に啓發せられて我等が是に賴り込まんとする危險がある。故に神は我等をして自己の窮極に至らしめ、自らの賴杖なさと、人の働の危險とを自覺せしめ、我等が無なることを感ぜしめ給ふのである。我等の爲に殘さるゝ凡ては、聖靈の生命を與ふる液汁の力を受くるに足る丈のものである。此爲に人は最低の處迄貶されねばならぬのである。キリストの奉仕に全き獻身をなすに妨をなすものは悉く除き去らねばならぬ。自己につける一切が潔められ剪去らるゝ事の完全なるにつれて、聖靈は容易に我等を滿し、我等は益々全心を集中して、其全き支配の下に之を置き得るに至るものである。これこそ心の眞の割禮である。これはキリストと偕に十字架に釘らるゝ事であり、又主イエスの死を身に負ふ事である。頌むべき潔め! 神の手づからなし給ふ潔め! 我等は益々多くの果を結び得る事を確信して喜ぶべきである。
おお我等の聖き農夫よ、我等の衷にあって見榮えよきもの、自負自慢の源となるべきものを悉く潔めて取去り給へ。主よ、我等をいや卑く保ち給ふて血肉聖前に高ぶることなからしめ給へ。我等は聖工を爲さん爲、只管爾に依賴み奉る。
卿等は卷頭の口繪を見られしか、一の葡萄樹の二の枝は根元短く切落されて新春の來るを俟って居る。各々枝には二つ三つの芽があって時至りて葡萄の房の幾つかを持った若芽が出るのである。是等の枝は潔められ、又幹に居りつゝ樹が之に液汁を充すを俟って居る。これは全く空しくなりてキリストに宿り、其衷に休み、果を結ばしむる爲に聖靈の灌入れらるゝを俟望みつゝある信者の美しき型である。
其學課を會得し得るまで此小さき繪を學ばれよ。樹の與ふるものを卿の衷に受納れさへすれば、實を結ぶ事は極めて容易である。「潔められること、幹に居ること」。之が確かなる祝福と多くの果を結ぶ秘訣である。
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