第 四 章  罪 祭



一  節

 この節を見ますれば、『ヱホバまたモーセにつげいひたまはく』と記してあります。これはモーセに與へられたるあらたなる默示であります。神は一度いちど一章より三章までの默示を與へ給ひました。それから少時しばらくのちたモーセに聖聲みこゑを聞かしめて、この四章五章を默示し給ひます。さうですから此言このことばによりて利未レビ記のまこと區分わかちわかります。神は一度いちど一章より三章までを、モーセに聞かしめ給ひました。それから三章四章の間で、暫くモーセに時を與へ給ひました。私共わたくしども三章をはりまで讀みました時に、暫く考へねばなりません。さうして今迄いまゝで讀みましたをしへを心に受けれるために、時を取らねばなりません。さうしてのちに神は再び聖聲みこゑを聞かしめ給ひます。聖書を一度に餘り多く讀みますならば、消化する事が出來ませんから、まことの利益になりません。聖書を読む時には靜かに考ふる事と、又いのりために時を取る事が大切です。一章から三章までは、馨香かうばしきにほひ献物さゝげものの事でした。四章五章は罪のために献げる献物さゝげものです。

 罪祭ざいさいを献ぐる事は表面うはべに人々の前に罪をいひあらはす事です。しへん五十一・三やうに、おほやけにその罪をも罪のはぢをもいひあらはします。罪のあがなひを求むる者は、これをせねばなりません。これは心のくるしみです。けれどもそのために人間にんげんの前におのれひくくしますから、心が碎かれました。まことに信ずる事が出來ます。又罪祭ざいさいを献げる事は、公然と己の罪の恐るべき事をあらはす事です。罪のためこの罪なききよき者は死なねばなりません。さうですから罪は輕き事ではありませんとわかります。又この罪祭ざいさいによりて、信仰をもあらはします。この犧牲いけにへは無益ではありません。其爲そのために罪がその人より取り去られて、犧牲いけにへの上に置かれますから、罪人つみびとはもう一度神とやはらぎを得まして、大膽だいたんに神の前に立つ事が出來ます。イザヤ五十三・四〜六、ロマ五・十九を見ますれば、しゅイエスのおほいなる罪祭ざいさいの事が解ります。神の聖子みこは御自分の身に、私共の罪を負うて神に全きあがなひをなし給ひました。イスラエルびとは牛の上に自分の不義と惡を移しましたやうに、私共は信仰によりて主イエスに自分の心のけがれを移す事が出來ます。イスラエルびとの惡は牛と共に燒かれましたやうに見えました。其樣そのやうに信仰がありまするならば、私共の心の惡もキリストと共に十字架にけられてくなります。その通りに主の十字架によりて、私共も罪よりゆるされて、自由なる者となり、又寳血たふときちしほりてきよめられる事が出來ます。

 キリストのあがなひたゞとがめのみではありません。又罪祭ざいさいであります。すなはたゞに罪のゆるしのみではありません。心の惡から私共を離れさせる力があります。罪人つみびと今迄いまゝでの事を考へまするならば、罪のゆるしを求めます。又十字架にりてそれを與へられます。又今自分の肉の事を考へまするならば、心のけがれより離れてきよき生涯を送りいと思ひます。これも矢張やはり十字架の力によらなければなりません。

五〜七節

 こゝ血の用法を見ます。第一はじめに罪のために神が恩惠めぐみくだし給ふ道がふさがりました。又人は神にちかづく道をふさぎました。交際まじはりが全くなくなりました。その道を開くために、血しほは三箇所さんがしょに注がれました。第一はじめに神に最も近いところ六節)、次に馨香けいかうだん七節)、それから燔祭はんさいの壇にも注がれました。その三箇所さんがしょに死のしるしをつけますから、神と人とのあひだの道が今一度いまいちど開かれました。私共は全きあがなひのために、今一度いまいちど信仰をもって神に近づく事が出來ます。ヘブル十・十九。イエスの血にりてはゞからずして近づきます。又同じ血の力によりて、神が恩惠めぐみくだし給ふ道が開かれました。地の上に全きあがなひが出來ましたから、神はペンテコステの日において聖靈をくだしたもう事が出來ました。今何故なにゆゑ神の恩惠めぐみが私共にまできたる事が出來ますかならば、主の聖血ちしほのためです。そのあがなひがありませんならば、神は人にたゞいかりのみをあらはし給はねばなりません。れども今神は人をあはれみてたふと恩惠めぐみくだし給ふ事が出來ます。

八〜十節

 こゝあぶらの用法が記してあります。これことごとく壇の上に燒かれました。すなはことごとく神に献げられます。あぶらは心の最もうるはしき意志こゝろざしを指します。これを神に献げる事は心の底まで神をよろこばせまつやうになる事です。この心の最もうるはしき意志こゝろざしは神のものです。心の富と心の最もうるはしき意志こゝろざしを神のものとしなければなりません。すなはち心をつくし精神を盡しこゝろばせを盡し力を盡して神を愛するはずです。これは神の前によろこばるべき献物さゝげものです。キリストは常にその通りに生涯を送り給ひました。又罪祭ざいさいでありましてもそのを神にして神をよろこばせ給ひました。神は十字架にけられ給ひし主イエスより御顏みかほの光を取り除き給はねばなりません。何故なぜなれば、主は罪人つみびとの罪を負うて、罪祭ざいさいとなり給ひましたから、神のいかりその上に落ちました。けれどもその時にさへ、罪祭ざいさいあぶらは神の前によろこばるべき献物さゝげものでした。すなはち父なる神は子なる神のこゝろざしを見て、それをよろこび給ひました。

十一、十二節

 こゝに牛の肉の用法があります。神は罪祭ざいさいの血をもあぶらをも受けれ給ひます。これによりてこれを献げる者にやはらぎを得させ給ひし事を示し給ひます。けれども牛のからだは全く神の前より追ひされました。それにりて罪のにくむべき事を敎へ給ひます。又罪祭ざいさいが自分の罪を負ひまするならば、神より追い出されて參らねばなりません。すなは十二節に營の外に携へ出されました。これは多分天幕より一里半あるひは二里程離れたるところでせう。燔祭はんさいやうに神の前に燒かれません。罪を負ふところ献物さゝげものですから、イスラエルびとの營の外まで追ひ出されねばなりません。これはにくむべき者となりのろはるべき者となりました。ヘブル十三・十二に、主イエスはその通りにのろはれたる者となり給ひました事を見ます。これは主がゲッセマネのうれひをなし給ひましたわけです。主は死ぬる事とはぢとを恐れ給ひません。けれども神より追ひ出されて、のろはるべき者となる事は、じつに怖るべき事でした。

 この灰を棄てる場所は地獄の如きところでありました。營外へ追ひいだされるべきものを置くところであるはずです。神は彼處かしこけがれたる者と共に罪を追ひし給ひます。これはじつに怖るべき事です。けれどもよろこぶべき事です。神はその通りにその領分をきよめて、御自分のたみより、けがれたるものを取去とりさることをなし給ふ事の出來るのはじつさいはひな事です。今私共は地獄の道理を全く知りませんでせう。けれどものちの世において、神の圓滿なる光のうちにて、地獄のためにも神に感謝する事が出來ると思ひます。アダム、エバは罪を犯したるのちには、神の聖前みまへる事を恐れました。これは彼等には苦痛くるしみでした。さうですから神は恩惠めぐみもっこれその聖前みまへより追ひいだし給ひました。れども彼等のこひねがふ所でありました。罪人つみびとまた感謝して地獄にくであらうと信じます。くしてをはりすべてのものが、神にほまれとなります(しへん百四十八・一〜七)。

 罪祭ざいさいを献げる者は、神がその犧牲いけにへの血とあぶらを受けれ給ひましたことを見て、心の平安やすきを得ました。最早自分の罪が全くきよめられて、そのゆるしを得ましたと感じます。れどものちその牛のからだの追ひいだされる事を見て、續いて罪の恐るべき事を感じます。今でも大槪たいがいその通りです。私共は幾分か罪の恐るべき事を感じますから、罪のゆるしを求めます。れどもそれについて安心を得ました時に、前より一層深くその罪の怖るべき事を感じます。今でも大槪たいがいその通りです。私共は幾分か罪の怖るべき事を感じますから、罪のゆるしを求めます。れどもそれについて安心を得ました時に、前より一層深くその罪の怖るべき事を感じます。主イエスは罪のめに追ひいだされ給ひました事を見て、神とやはらぎを得ました。神の子を追ひいだすものは、まことに恐るべき者です。多分天国にく時に感謝と歡喜よろこびうちにもなほ自分の罪を感じますと思ひます。

十三〜廿一節

 十三節より全會衆あやまちのために献げる罪祭ざいさいを見ます。これは祭司長さいしのをさ罪祭ざいさいと同じ事です。さうですから敎役者けうえきしゃの罪のはなはだしき事を知ります。あるひは牧師、あるひは傳道師の罪は全會衆の罪と同じ事です。

 又たゞ一個人のみではありません。全會衆も神に対して罪を犯す事が出來ます。全會衆が神にそむいて神のみちびきに從ひませんならば、會衆の一人一人ひとりびとりが皆神の前に罪人つみびとです。ある人がその罪に反對をしまするならば、その罪に關係いたしません。ゆゑに敎會が神の聖旨みむねそむきましたならば、おほやけにこれを警戒せねばなりません。これは自分のために餘程よほど大切です。會衆の罪のみではありません。國として神の前に罪を犯す事が出來ます。さうですからその國民は皆罪に關係があります。そのめに神の前におのれひくくして、その罪を負うてゆるしを求めねばなりません。二十節をはりに『しかせば彼等赦されん』。また二十六三十一三十五五・十三十六十八六・七にも同じ事を見ます。神は赦されたる者に確信を與へ給ひたう御座ります。何時いつでも私共の心にうたがひおそれいだく事を好み給ひません。私共に平安と確信を與へ給ひたう御座ります。私共はけがれ果てたる罪人つみびとにして、敵でありました時にさへ、神はキリストにりて、受けれ給ひましたと確信を與へ給ひたう御座ります。

 罪祭ざいさいを献げるイスラエルびとは何のめに安心を得ましたか。第一は流されたる血潮のめでした。又第二は神のことばめです。神が『しかせば赦されん』といひ給ひましたから、疑ふには及びません。私共も同じくこの二つの理由のめに、安心があります。主イエスのあがなひめにゆるしを得ます。又神のことばめにゆるしを得たといふ確信をする事が出來ます。これは信者の安心の二つの堅固なる基礎どだいです。

廿二〜廿六節

 二十二節からは牧伯つかさの罪のめに献げる罪祭ざいさいを見ます。このしきは前の式よりも輕う御座ります。牛のかはりにをすの羊を屠ほふります。何故なぜなれば祭司長さいしのをさの罪は牧伯つかさの罪よりはなはだしいからで御座ります。牧伯つかさ燔祭はんさいの壇よりも前に進みて神に近づく事が出來ませんから、牧伯つかさ罪祭ざいさいの血はたゞその壇のつのに塗られます。それによりて今一度いまいちど神と常のまじはりを得ました。罪祭ざいさいによりて今一度いまいちど素祭そさいところに携へられて神を拜む事が出來ます。

廿七〜卅五節

 二十七節から常の人罪祭ざいさいを見ます。これは牧伯つかさ罪祭ざいさいと同じやうです。常の人が罪を犯しましても、たれにも關係しませんから恐るべき事ではないと思ひます。れども神はこの罪祭ざいさいによりて左樣さうでない事を敎へ給ひます。神の前にこの罪を犯しましたから、牧伯つかさほどには及びませんでも、なほ矢張やはり恐るべき事であります。



||| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19,20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 目次 |