第 八 章  アロンとその子らの聖別



 出エジプト記四十章とレビ記八章とは続く話です。出エジプト記四十・二に『あなたは会見の天幕なる幕屋を建てなければならない』とあります。そうしてその順序は一〜八節までに記されてあります。また九節より油を注ぐことがあります。十二節よりアロンと祭司等を聖別することがあります。そうですからその順序は
 第一 天幕を建てること
 第二 油を注ぐこと
 第三 アロンと祭司等を聖別すること
です。けれども出エジプト記四十章を見ますならばモーセはただこの第一のことを致します。十八節よりモーセは天幕を建てて種々の道具を入れて三十三節の終わりのごとくにその工事を竣わりました。けれども三十四節のごとく雲が集会の天幕を蔽って主の栄光が幕屋に充ちました。そうですからモーセはこの時いまだ第二と第三の命令を成就することができません。すなわち神の栄光が顕れて参りましたから、天幕に油を注ぐことと祭司等を聖別することができません。けれどもいまレビ記八章においてモーセはこの二つの命令を成就することを見ます。このレビ記八章と出エジプト記四十章とは続いて参ります。
 それによって大いに学ぶべきことがあります。神は栄光をもって天幕の中を充たしたまいました。イスラエル人の目の前にご自分の栄えを顕したまいました。また神はイスラエル人の目の前に今からその真中に在すことを示したまいました。その時に祭司等は聖別を受けました。その時にこの人々は神の聖なる栄光を見ました。そしてこの聖なる神に奉仕すべきことを決心しました。私共は神の栄光を見ますならば、その栄光に曳かれてこの聖なる神に奉仕したい心の願いが起こります。
 また出エジプト記において、神が栄光をもって天幕を充たしたもうてそこに宿りたもうことを見ました。今この八章において神は祭司各自に同じ恩恵を与えたまいます。ペンテコステの恩恵を与えたまいます。祭司を立て、祭司自身の心の中に降り、祭司自身の心の中に宿り、祭司自身を充たしたまいます。祭司は第一に表面のことを見ました。第二に心の中にそれを経験しました。この八章九章は続く話です。またこれはペンテコステの恵みを受けることの雛形であります。私共はペンテコステの恵みを受けますならば神の祭司となります。ここでどうして祭司となりますか。言葉を換えて言えば、ペンテコステの恵みを受けたる時に如何なる者となるかということが録されてあります。祭司の務めは何ですか。私共は祭司の務めが分かりますならば何故にこんなに大切に聖別せられるかが分かります。実に厳かなることです。申命記十・八をご覧なさい。これは祭司の執るべき三つの務めです。
 第一 『契約の箱をかつぎ』。この契約の箱は神の在したもうことの表面の徴です。
 第二 『主の前に立って仕え』。すなわち主に近づくことです。これは祈りと仲保の務めです。
 第三 『主の名をもって祝福することをさせられた。』人間に対して祝福して神の恵みの管となることです。
 マラキ書二・七をご覧なさい。私共はかように務めを成し遂げねばなりません。私共はそんな働きをなすべき者です。私共はどうして主の使者となることができますか。このレビ記八章において分かります。どうしてほんとうに祭司となることができますか。どうぞ一節より四節までをご覧なさい。そうですからこれは公の集会です。ただ静かに自身一人のみならずして、たとい耻ずかしきことがありましても、それを顧みずして人間の眼の前に行うべきことです。聖別のうちに例えば裸なるからだを洗うようなことがありましたが、やはり人々の前に行いました。私共は本当に神に身も魂をも献げますならば、ただ静かに自分の部屋でそれを致しますのみならず、たとえ耻ずかしきことがありましても人々の眼の前にそれを致さなければなりません。例えば人々の前に進んで跪きて恵みを求むべきことがあります。
 『主がわたしに言われたとおり』この言葉は八章九章において祭司の聖別のうちに十四度録されてあります。モーセは神の命じたまいしことを覚えて大切にこれを行います。これによって出エジプト記四十章との関係が分かります。出エジプト記四十章を見ますならば、十八度同じ言葉があります。モーセは出エジプト記四十章において神に与えられた命令に従って大切に祭司を聖別します。私共もそれを学びとうございます。ほんとうに献身いたしとうございますならば、第一に大切なることは、神の言葉に従うことです。神の言葉に探られて神の言葉によりて洗い潔められることです。第二に、神の命令を受け入れてその命令を行うことです。けれども献身することの根本は何ですか。すなわち神の言葉に従うこと、神の命令を受け入れることです。
 ヨハネ伝十五章をご覧なさい。今は恵みの時代です。そうですから私共は緩慢に神の命令を受けましょうか。神の命令を省みずしてそれを犯しましょうか。否、そうではありません。恵みの時代ですからなおなお大切に神の律法を受け入れねばなりません。ヨハネ十五章はキリストの最後の言葉です。また格別に神の命令のことを見ます。これは格別に恵みを顕す談話です。けれども格別に神の命令を見ます。
 第一 わたしの言葉(七)
 第二 わたしのいましめ、父のいましめ(十)
 第三 わたしがこれらのことを話したのは(十一)
 第四 命じること(十四)
 第五 命じるのは(十七)
 このようにたびたび主は恵みを顕す話の中に、わたしのいましめ、わが命令と言いたまいます。私共はこれによって教えられとうございます。献身いたしとうございますならば、或いは恵みを得とうございますならば、神の恵みと約束を受け入れねばなりません。
 本章において
 第一 水の洗い(六)
 第二 服を受けること(七)
 第三 油を注ぐこと(十)
 第四 アロンの子供が服を受けること(十三)
があります。そうしてそれから犠牲があります。
 第一 罪祭(十四以下)
 第二 燔祭(十八以下)
 第三 ほかの任職の牡羊(二十二以下)
があります。これは聖別の順序です。
 天幕のうちに黄銅の盤が燔祭を献げたる者を潔めるためにあります。ヨハネ十三・十をご覧なさい。主はこの時レビ記の引照を引いて言いたまいました。いま聖別の時に同じ洗いを受けます。手と足とを洗って全き潔き者となります。洗い潔められることはほんとうの悔い改めです。テトス三・五をご覧なさい。『再生の洗い』、これは本章六節の水の洗いです。エペソ五・二十六をご覧なさい。『水で洗うことにより、言葉によって』。これは同じことです。私共は主の祭司となりとうございますならば第一に潔き者でなければなりません。心の聖潔なる者でなければなりません。

【一〜九節】
 祭司の衣は主の種々なる功績を指します。
 祭司の一番下の衣は真白くあります。ほんとうの細布です(黙示録十九・八)。これはほんとうの義、ほんとうの白き心です。私共の心の底は、私共の性質の底は、神の聖前に白くあらねばなりません。
 その次の上にある衣は青色です。出エジプト記二十八・三十一を見ますならば青く作るべしとあります。青は天の色です。これは聖なることを指します。すなわち白は義を指し、青は聖きを指します。私共は義と聖において主に仕えるべき者です。
 またこの青き衣の下に石榴と鈴があります(出エジプト記二十八・三十四)。石榴は実を結ぶことを指します。鈴は証を指します。私共は青き衣を着ますならば断えず実を結ばなければなりません。断えず証をしなければなりません。主の生涯を見ますならば不断その通りでありました。
 『エポデを着けさせ、エポデの帯をしめさせ』(七)。このエポデは美しき衣です。これは祭司の長の衣です。出エジプト記二十八・六をご覧なさい。かようにエポデは一番美しき衣です。これは主の各種の恵み、主の愛と主の忍耐、主の様々の功績を指します。
 『また胸当を着けさせ』(八)この胸当には十二の玉があります。各々一つの玉の上にイスラエル族の名が録されてあります。この玉は神の前に輝ける価値のあるものです。祭司の長がこの玉の上にイスラエル族の名を記しましたように、いま主は天国において父の前に私共を覚えたまいます。
 『ウリムとトンミム』とは何でありますか。誰も知る者はありません。けれども神はそれによって祭司にご自分の聖旨を悟らしめたまいました。或る人が申しますにはこのウリムとトンミムはダイヤモンドの玉にして、その光に従って祭司に神の聖旨を悟らしめたまいましたと申します。また或る人はこれは律法の書物だと申します。これによってその聖旨を悟らすものであると申します。神はこれを説明したまいませなんだ。けれどもともかくこれによってご自分の聖旨を悟らしめたまいました。サムエル前書二十八・六をご覧なさい。神はいま聖霊によって私共に聖旨を知らしめたもうように、その時代においてそのウリムとトンミムによってその聖旨を知らしめたまいました。
 ウリムの言葉の意味は(Lights すなわちの複数)です。
 トンミムの言葉の意味は完全(Perfection)です。 なおこれについて民数記二十七・二十一、申命記三十三・八、エズラ記二・六十三、サムエル前書二十八・六をご覧なさい。
 また九節の金の板の上に書き記されたる言葉があります(出エジプト記二十八・三十六)。すなわち主に聖なる者という言葉です。この金の板はあまり善い翻訳ではありません。ヘブライ語の意味は花、金の花という意味です。祭司はいつでもその額に金の花をもってその上に主に聖しと録します。ペンテコステの恵みを得たる者は同じようにそんな冠を着けて生涯を暮らさねばなりません。レビ記二十一・十二をご覧なさい。英語に『そは神の任職の油注ぎの冠、その首にあればなり』とあります。これはペンテコステの恵みです。これは私共の金の花です。これによって主に聖なる者という生涯を暮らします。
 民数記六・四、五、七をご覧なさい。英語に訳されたるこの三つの言葉、すなわち Separation(世に離れること)と Consecration(神に献身すること)と Nazariteship(ナジル人たること)はヘブライ語では同じ言葉です。
 神のためにこの世を離れることは私共の冠です。私共の栄えです。私共の幸いです。祭司の長はかような冠を着けて務めをいたします。私共はたびたび世を離れることを恐れます。けれども神の前にそれはほんとうに私共の栄えです。私共の冠です。けれどもここでただ祭司のみではありません。また王となります。私共は祭司となります。また王となります。これは私共の冠です。神の前に世を離れること、献身すること、ナジル人となることは実に私共の冠です。そうですから神はご自分の祭司に権威と栄光を与えたまいます。ゼカリヤ書六・十一、十三をご覧なさい。王と祭司であることを見ます。『光栄を帯び』祭司の額にある冠はそんな意味を指します。
 そうですからイスラエル人の会衆は初めて自分の祭司を見ました。初めてこの輝ける衣、初めてその王、その祭司を見ました。私共もどうぞ自分の大いなる祭司を仰ぎ見とうございます(ヘブル三・一)。このイスラエル人は初めてその時に輝ける衣を着ける祭司を見ました。私共も主イエスを見とうございます。格別に主と共に聖別せられとうございますならば、主と共にペンテコステの恵みを頂戴しとうございますならば、私共はヘブル三・一のごとく、我等の祭司の長なるイエスを深く思わねばなりません。
 アロンはすぐにこの衣を頂戴します。そうして油注ぎを得ます。けれども血を注がれません。ほかの祭司は犠牲を献げます。これは主イエスはご自分の功績によって少しも注がれたる血を要せざる雛形です。私共は最初に注がれたる血を受け入れなければなりません。けれども主は少しもそんな必要がありません。

【十、十一節】
 そうですから一切の器に油を注ぎました。神を敬うための器、また罪を取り除くために贖いを献げる器を聖別します。祭司は聖霊によって働かねばなりません。また聖霊の旨に適う器を用いて働かねばなりません。コリント後書十・四をご覧なさい。肉に属ける器を神のために用いることは実にいけません。そうですから第一にこの器に油を注ぎます。またその意味は神がそれを受けたもうことです。神がご自分の属となしたもうことです。また以後この器を用いて人間を祝福し、また人間をご自分に近づかせたもうことを示します。

【十二節】
 十二節よりアロンが注ぎを受けます。またその油はアロンの頭に注がれます。この時にアロンの子供は油注ぎを受けません。アロンの子供は血を流したる後に油注ぎを受けます。けれどもアロンは血を流しませんうちにこの油注ぎを受けます。
 アロンは主イエスを指します。その子供は私共を指します。皆一緒に神の聖前に祭司となることができます。けれども私共のアロンなる主はご自分のために贖いをなしたまわずして、ただご自分の功績のためにこの油注ぎを受けました。私共は第一に聖血の潔めを得なければなりません。聖血の潔めがありませんならばとうてい油注ぎを頂戴することはできません。
 本節においてこの油はアロンの頭の上に注がれたることを見ます。レビ記十・七、二十一・十二をもご覧なさい。これは神の任職の油です。かように主は己を卑くしてその任職の油を受けたまいました(ヘブル五・五、六)。この油は喜びの油でした。詩篇四十五・七に、主の王たること、祭司たることを見ます。またその油注ぎは喜びの油注ぎであることを見ます。
 神は主に喜びの油を注ぎたまいました。必ず主が続いて罪の重荷を負いたまいました。けれどもいま主の有様は格別に喜びの有様です。この詩篇を読みますならば主は神の前に歌をうたって感謝しつついたもうことを見ます。それを考えますならば信仰をもって私共も喜びを得る筈です。私共は苦を負いたもうた救い主に従う者ですから、十字架を負わねばなりません。けれどももはや勝利を得たもうた主、喜びの油を注がれたもうたる主に従う者ですから、私共も勝利の喜びを得て不断喜んでいるべき筈です。詩篇百三十三・二をご覧なさい。主の頭に注がれたる油はその衣の裙に至るまで滴りました。そうですからその身の一番賤しき肢体さえも同じ喜びの油注ぎに与ることができます。主と共に祭司となり主と共に喜びを頂戴します。
 この十二節においてアロンが任職の油を得ました。けれどもすぐに祭司の務めを勤めることはできません。それまでに一定の時期がありました。主はヨルダン河において任職の油を注がれたまいました。またその時から預言者となりて働きたまいました。けれども祭司となりたもうたことは三年後のことでした。すなわち甦りたもうた時に初めて神と人間との間に立ちて祭司となりたもうたのであります。

【十三節】
 本節からアロンの子が恵みを受けます。第一に本節において祭司の衣を受けます。油注ぎを受ける前にこの衣を着なければなりません。私共は聖霊を受ける前に、まず義の衣、すなわち主イエスご自身を着なければなりません。出エジプト記二十八・四十にこの衣は何であるかを録してあります。この衣はみな白くありました。聖と義を示す衣でした。またそれによって栄誉と栄光を得ました。私共はかように第一に神の前に義人となりて潔められねばなりません。またその次に十四節以下において彼らのために種々なる犠牲を献げます。
 第一 罪祭の牡牛(十四)
 第二 燔祭の牡羊(十八)
 第三 任職の牡羊(二十二)
 この三つの犠牲を献げてアロンの子のために全き贖罪を致しました。
 第一に彼らのために罪祭を献げました。アロンの子はその獣の死ぬる有様を見ました。これは死にたる者を見るよりは遙かに恐ろしきことでした。私共は私共の罪のために死にたもうた主を感じますならば、ただ喜楽と感謝に充ちて参ります。けれども死にたもう時の主の苦しみが解りますならば、自分の罪の恐ろしいことを感じます。このアロンの子はかようにその時に獣の死ぬる有様を見ましたから、深く自分の罪の恐ろしきことを感じました。またこの罪祭を献げたことによって全く自分の罪を捨てることを示しました。罪の恐ろしきことが解って全く罪を離れることを示しました。十五節を見ますれば、モーセが罪祭の血を献げました。十六節にその脂を献げました。十七にその肉を犠牲としました。そうですからその血と脂と肉とを大切に献げて全き罪祭ができました。
 第二に十八節の燔祭を献げました。この燔祭を献げる時に身も霊も全く神に献げることを示しました。格別に二十節と二十一節においてモーセがこの羊を切り裂いてその脂と臓腑を献げて、神の前に馨しき香りの献げ物を致しました。これによって私共も全く心を献げて、また心の一番美しき感情を神に献げて燔祭としなければならないことが分かります。すなわち燔祭は表面にて厳重なる生涯を送ることのみではありません。心から神のために生涯を送ることを指します。
 第三に二十二節の任職の牡羊を献げることが録されてあります。これを献げて初めて神と人間のために働く決心と特権を受けることを示します。
 この三つの犠牲の順序を見ますならばこれは私共の従うべき順序です。第一に罪祭によって潔められます。第二に燔祭によって全く献身します。第三に身を献げて神と人の前に働く決心をすることです。
 人間はたびたび自分の考えに従ってこの順序を破ります。たとえば未だ聖潔を受けませんうちに神のために働きとうございます。或いは未だほんとうに身も魂も献げませんうちに、すなわち神の旨を自分の旨としませぬうちに、神のために働こうと致します。けれどもこれは大いなる間違いです。私共は神の順序に従って、初めの罪祭、次に燔祭、終わりに任職の牡羊を献げることができます。この任職の牡羊の血によって表面で神の属となることができます。

【二十三、二十四節】
 その血を耳につけました。今まで種々なる汚れたることを心中に受け入れました。今その血によって耳が潔められて神の属となることができます。また手の拇指に血をつけました。今までその手をもって種々なる罪を得ました。今その血によってその罪が潔められて神の属として働くことができます。また足の大指に血をつけました。今まで汚れたる所を歩んだことを懺悔してその罪の赦しを得ます。そうしてその足が潔められてただ神の前に歩むことを指します。そうですから聖められたる耳をもって神の声を聴きます。聖められたる手をもって人間のために働くことができます。聖められたる足をもって聖き歩みを歩むことができます。
 これについて本書十四・十四をご覧なさい。これは同じことです。すなわち癩病人が潔められた時にかように聖なる血を得ました。それを比べますならば、祭司はいま潔められたる癩病人のごとくに神の前に立つことを得ます。その祭司はそれによって自分の恐ろしき汚れたる有様を深く感じました。また神の大いなる恵みをも感じました。癩病人のごとき者を取ってご自分の貴き祭司とならしめたもうことは実に神の大いなる恵みであると思いました。
 十四節に罪祭の上に手を按きました。十八節に燔祭の上に手を按きました。二十二節に任職の羊の頭の上に手を按きました。一つの物の上に手を按こうとしますれば、その手に何をも有っていることはできません。空の手でなければなりません。そうですから三度、空の手を犠牲の上に按きました。これによって自分は何をももっておらぬ者として神にこの献げ物を献げます。また今まで手に物がありましても、それを全く棄ててこの献げ物を献げることを示します。私共は今まで種々なるものを大切にもっていたかも知れません。或いは世に属ける名誉、財産、快楽、或いは自分の義などを大切に持っておりました。けれどもほんとうに献げ物を献げますならば、そういうものを投げ出して神の前に空の手で参ります。そうですから神は溢れるほどの恵みを与えたもうことができます。

【二十五〜二十七節】
 そうですからアロンとその子はその手を翻して掌を上に向けて物を受けます。今までその手より全く物を落として投げ捨てました。いま神はその手に充たしたもうことができます。私共は掌を下に向けてすべての物を投げ捨てました。これから掌を上に向けてすべての物を受けます。これは私共が神のすべての恵みを受ける善き雛形となります。
 第一に二十五節に脂を与えたまいました。これは犠牲の脂でしたから主の心のいと美しき愛情と力を指します。そうですから私共は主の心を心とすることができます。主の慈愛により心が燃ゆることができます。主の柔和と主の義と主のすべての美しき恵みを受けます。また第二にこの節の終わりに腿を授けたまいました。腿は何時でも力を指します。主の力を授けたまいました。私共は弱き者ですから空しき手をもって神に近づきます。けれども神はそのような手に豊かに主の聖なる力を授けたまいます。第三に二十六節を見ますれば栄養を与えたまいました。私共の手に私共を足らしめるところの栄養を豊かに与えたまいました。そうですからキリストの肉と血を食らうことができます。ほんとうに空しき手をもって神に参りますならばその手に豊かに物を充たされることができます。ヨハネ一書一・一をご覧なさい。『手でさわったもの』。神はかように主を私共の手に与えたまいました。エペソ三・十九をご覧なさい。『神に満ちているもの』とは、この脂と臓腑とを指します。神の心を私共に与えたまいます。コロサイ二・九、十をご覧なさい。私共は主の徳をもって全備することができます。私共はただ空しき手をもって参りますならばかように一番美しき恵みを頂戴します。コリント前書二・十六をご覧なさい。『キリストの思い』、これはこの祭司がこの犠牲の臓腑を頂戴しましたことの意味です。ピリピ一・八をご覧なさい。『キリスト・イエスの熱愛』、原語でこの臓腑と同じ意味です。『キリスト・イエスの臓腑』。パウロの心中にキリストの愛情がありましたから、彼はその愛をもってこの信者を愛しました。自分の肉に属ける愛ではありません。心中に神の愛を得ましたからそれをもってこの信者を愛しました。
 第一 空し手をもって神の前に出ました。
 第二 神より満たされました。
 第三 再びそれを神に返します。すなわち神のために働きます。
 今この祭司は神から受けたる物をもって、神に馨しき香りの犠牲を献げることを得ました。私共は馨しき香りの献げ物を神に献げとうございますならば、神より受けたる恵みをもって神のために働き、また生涯を暮らさねばなりません。これはほんとうに神の前に神の聖旨を喜ばす犠牲となります。ヘブル十三・十六をご覧なさい。かように得たる恵みを献げますならば、これは神を喜ばす献げ物となります。ピリピ四・十八をご覧なさい。この信者は神より得たる恵みをまた献げ物としました。そうですから神の前に馨しき香りとなりました。コリント後書二・十五をご覧なさい。私共はキリストの心を心とする生涯を送りますならば、かように何処にも神の前に馨しき香りを出します。その生涯は犠牲の生涯となります。

【三十節】
 この祭司は犠牲を献げることを終わりました。三十節において油注ぎを受けました。私共は主の贖いによって潔められますならば、また神と和らぐことを得ますならば、また罪に死ぬることを得ますならば、これは実に幸いです。これは受けねばならぬ恵みです。けれどもそれで満足しますならば神の円満なる恵みを頂戴しません。ただ罪に死ぬることをもって、聖潔をもって、満足しますならば、神の円満なる恵みとは申されません。それを得ますならば神に油注ぎを求めなければなりません。すなわち聖霊を受けることです。
 この祭司は自分のみではありません。衣にも油注ぎを受けました。すなわちその心のみではありません。その表面の生涯も聖霊に導かれたる生涯でした。或る人はほんとうに心中に聖霊を得ました。けれども表面の小さきことにおいて、或いは家庭のうちに、聖霊に導かれて歩むことを致しません。けれどもこれは正しきことではありません。私共は衣の上にも、聖霊の油を得なければなりません。すなわち人間の前に表れたる行為と習慣を悉く神に属けるものとしなければなりません。
 ここには油のみではありません。これと共に血もありました。アロンはただ油のみでありました(十二節)。主キリストはかようにただご自分の徳のために聖霊を受けたもうことができました。けれども罪人たる私共は聖霊のみではありません。主の贖いの功績をも共に受けねばなりません。すなわち油をも血をも受けねばなりません。
 そうですからこの祭司は任職を得ました。これをもって全く神の祭司となりました。以後、神の前に他の罪人のために犠牲を献げることができます。以後、神の前に光を燃やすことができます。以後、聖き所に入りて神の前に乳香を献げることができます。ほんとうの祭司となりました。実にそれを感じて喜ぶ筈です。この任職は喜びの任職でした。イスラエル人を祝福する任職でした。これは実に喜ばしい働きでした。私共もかような順序に従って祭司となることができます。すなわち聖霊の油注ぎを得て神と罪人との仲保となることができます。神の前に出でて仲保の祈りを捧げることができます。罪人の前に立ちて、注がれたる血を示して神に近づく道を宣べ伝えることができます。また罪人を導くことができます。私共はかようにペンテコステの油注ぎを得て神のために働く者となります。三十一節以下を見ますれば、神に養われて神と共に饗応に与ることができます。この三十一節において私共はいかにして続いて祭司たる生涯を暮らすことができるかが分かります。ひとたびペンテコステを得ますならば、その恵みを保つために神の前に常に新しき恵みを受けなければなりません。この三十一節の饗応はそれを指します。

【三十三〜三十五節】
 彼らは奉仕の間は神の前に留まりました。
 この人々は確実なる恵みを得ました。神からこの貴き任職を得ました。そうですからすぐに働きに就かずして静かに神の前に留まりました。人間を離れて天幕の中に閉じこもって神の聖なる食事に養われて神の前に留まりました。これは深く考えるべきことです。私共は恵みを得ますならばすぐに飛び立ちて働きに参ります。けれどもかえって暫く神の前に留まる方が宜しいです。人間を離れて静かに神の前に留まることは大切です。パウロは悔い改めて聖霊を得たる時に、すぐにアラビアの野に退きました。人間を離れて静かに神の前に三年を過ごしました。ダビデが聖霊に満たされた時にすぐに戦に出ませずして、羊を牧うところへ帰り静かに神の前に自分の得たる特権を考えました。主イエスも聖霊に満たされたる時にすぐに人間を離れて、四十日間荒野において自己を慎みて神に祈りたまいました。かような時は格別に危うい時ですから格別に慎みをもって祈らねばなりません。
 また七日のあいだ隠れていることは現今の時代を指します。七日間は全き期限を指します。九章を見ますれば、アロンとその子は輝ける衣を着て他のイスラエル人に顕れることを見ます。それは主の再臨の時を指します。その時には主もその聖徒も輝ける衣を着て顕れます。けれどもその時まで、主もその聖徒も隠れております。コロサイ三・三、四をご覧なさい。『神のうちに隠されているのである。』これは八章の終わりを指します。『キリストと共に栄光のうちに現れる』。これは九章を指します。いま私共は隠れている生涯を暮らしております。私共は悉く神の子たる栄えをもっております。けれどもその栄えは隠れてあります。私共は主の再臨の時に顕れることができます。その日には主の栄光のみではありません。私共の栄えも顕れます。そうですから私共はその日を深く待ち望みます。ローマ八・十九をご覧なさい。これは主の顕れることではありません、私共の顕れることです。私共の栄えの顕れることを深く待ち望みます。その時まで私共は隠れたる有様にて留まります。心中にこの大いなる望みがありますから、この世を離れ、肉に属けるものを離れて神の前にお留まりなさい。世に属ける楽しみを求めずして神の前に養われなさい。



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