第 六 章  燔祭、素祭、罪祭の例



 此處こゝにて神は丁度ちゃうど父のやうに、その家族を警戒いましめ給ひます。家のうち眞實まこと正義たゞしきと愛の行はれる事を命じ給ひます。

一  節

 『ヱホバいひたまはく』。馬太傳マタイでん五章おいしゅこの通りに弟子を敎へ、その一家を導き給ひました。彼處かしこで人がたがひすべき事、又神の聖旨みむねをも敎へ給ひました。神はたゞ外部のおこなひのみならず、心をさばき給ふ事をも敎へ給ひます。何卒どうぞその事を心にをさめてこの數節を御讀みなさい。

二  節

 『人の物をあづかり云々』とあります。私共わたくしども此樣このやうな事について、聖靈の聖旨みむねに從はねばなりません。例へば度々たびたび本を借りるならば、出來るけ早くこれを返しますか。或る兄弟は永いあひだこれを止めて置きます。又傘を借りて度々たびたびこれを返さぬ人もあります。これは神の聖前みまへに兄弟に對して罪を犯す事です。聖靈に導かれたる者は、此樣このやうな事を全く正しく行ひます。れどもこの二節ほかの事で、私共の心を刺す事があります。『人をしへたぐる事』。こまかい事において人をしへたぐる事が出來ます。例へば買物かひものをする時に、成るべく安くさせる事を致します。これは人をしへたぐる事です。神にく者は此樣このやうな事についても、ほかの事においても、萬事においすべての人を兄弟と思ひ、兄弟として取扱とりあつかふべきはずです。自分は人から此樣このやうにせらるべきはずであると思うてはなりません。れども他人ほかのひとにはこれを行ひなさい。たれにも此樣このやうになさい。最もいやしい者にも此樣このやうに行ひなさい。人をしへたげまするならば、神は必ずこれを私共にたゞし給ひます(徒五・一〜四)。多くの人がこのあやまりしたります。さうですから追々のろはれてくるしんでります。神の人はこの罪を犯さぬやうに注意せねばなりません。信者がこれを認めますなら、二倍にしてこれを償はねばなりません(しゅつエジプト二十二・七)。

 一節より七節までの順序を見ますれば、第一に人に償はねばなりません。第二に神に献物さゝげものをせねばなりません。一節から五節までは人に對して、六節七節は神に對してそのとがめに愆祭けんさいを献げねばなりません。ルカ十九・八、九に、ザアカイはその不義のつぐなひをするやうに約束しました。さうですからすくひる事が出來ました。づ人になすべき事をしませんならば、神は私共を受けれて、すくひを與ふる事をなし給ひません。人を導く時に何卒どうぞ格別にこの事に注意なさい。罪人つみびとは人の物を償ひませんならば、必ず神よりゆるしを受けません(マタイ五・二十三、二十四)。兄弟に對して面白くない事がありまするならば、神はあなた献物さゝげものよろこび給ひません。おのれひくうし血潮を賴みて、神とやはらがねばなりません。し神があなたを受けれ給ひませんならば、必ず神の恩惠めぐみを受ける事は出來ません。し見ゆる所の兄弟とやはらぐ事が出來ませんならば、必ず神とやはらぐ事は出來ません。自分に損を受けて兄弟とやはらぐ事をいたしますれば、神は必ず私共を受けれて、親しきまじはりを與へ給ひます。まことすくひは神とやはらぐのみならず、又人とやはらぐ事をも含みます。或る時に人は兄弟に對する小さい罪のめに、恩惠めぐみ和平やはらぎる事が出來ません。しんげん十四・九をご覧なさい。愚かなる者は罪を輕んじます。これは小さい事であるといひて罪を輕んじます。れども如何いかなる罪でも小さい事はありません。

 今繰返くりかへしてれいの意味を考へたう御座ります。神はなに理由わけ罪人つみびとめに身代みがはりを受けれ給ふ事が出來ますか。神は何故なにゆゑ身代みがはりの上に私共の罪を置き給ふ事が出來ますか。キリストが罪人つみびとひとつになり給ひしめです。私共は種々いろいろなる關係をもって、キリストと共になります。兄弟として、又新郎はなむこ新婦はなよめからだそのえだ、木の幹とその枝、此樣このやう比喩たとへもって私共とキリストとひとつになれることを悟らせ給ひます。れどもこの比喩たとへの意味よりも、なほ親しい關係があります。キリストは全く私共とひとつになり給ひました。私共はキリストとひとつになりました。れは基礎どだいです。れは奥義です。キリストは私共とひとつとなりて罪人つみびととなり給ひました。罪人つみびととして罪の形を受け給ひました。私共はキリストとひとつになりましたから、神とひとつになりて榮光の世嗣よつぎとなりました。さうですから私共は常に神の前に、キリストによりて、キリストと同じやうな者になります。神はキリストのやうに私共を取り扱ひ給ひます。キリストに與ふる榮光を私共に與へ給ひます。そのめにキリストが神に全き献物さゝげものを献げ給ひまするならば、すなはちキリストが燔祭はんさい素祭そさい罪祭ざいさいを献げ給ひまするならば、私共はキリストによりて私共が献物さゝげものを献げると同じ事です。自分の精神の力、心の力で神に全き献身をする事は出來ません。れども十字架のめに、全くおのれに死に新しきいのちを得て、神のものとなる事が出來ます。さうですから身もたまも献げたいと思ひまするならば、自らもがきくるしんで、おのれを神のものとする事は出來ません。たゞキリストを信じ、十字架の上に死んだ者と思うて、新しき生命いのちを得て、神の前に步む事が出來ます。神の前に人はあがなひをしました。すなはちキリストは人間として、あがなひをなし給ひました。さうですから人間(私共)が罪を犯しました。又人間(キリスト人間となりて)があがなひをいたしました。これは私共のやはらぎの源です。神はその正義をもって、罪を赦し給ふ事が出來ます。神の前に人間(キリストひととなりて)が、すべての罪を負うてその刑罰を受けました。神の前に人間(キリストひととなりて)はすべて罪のつぐなひをいたしました。さうですから神は義をもっその罪を消し給ふ事が出來ます。それを深く思ひまするならば、主の十字架のあたひを感ずる事が出來ます。

 けれども、たゞそればかりではありません。犧牲いけにへうちかうばしきにほひ犧牲いけにへがあります。これは神を全く喜ばする犧牲いけにへです。主イエスも如斯このやう犧牲いけにへをなし給ひました。すなはち人間(キリストひととなりて)がこの世にりて、神を喜ばせ神の聖旨みむねを實行いたしました。これは神の前にかうばしきにほひ献物さゝげものです。キリストが私共のうちに住み給ひまするならば、私共の生涯も神の前にかうばしきにほひ献物さゝげものです。深く福音の奥義を考へますれば、私共はキリストと共になり、キリストは私共とひとつになり給ひます。さうですからキリストにおいよみがへります。キリストが天のところすわり給ひますから、私共も天にく事が出來ます。主が昇天し給ひましたから、必ずあなたも私も昇天します。近きひくたとへもって申しますれば、水中に沈んでから、又あらはれてのぼりまするならばいのちを全ういたします。其樣そのやうに主は一度死に勝ちて昇天し給ひましたから、そのからだとなりました私共も、必ず死より救はれて天國にく事が出來ます。キリストと私共はひとつです。これは奥義です。れはじつに感謝すべき事です。

八  節

 『ヱホバまたいひたまはく』。れはあらたに語り給ふ事を示します。すなはあらたなる默示を與へ給ふのです。

 九節燔祭はんさいれい十四節素祭そさいれい二十五節罪祭ざいさいれい七・一愆祭けんさいれい七・十一酬恩祭しうおんさいれい是等これらの文字にしるしを御附けなさるならば、一層明らかになります。此例このゝりは祭司のために記されました。祭司は此例このゝりに從ひて、正しくこの犧牲いけにへを献げる事が出來ます。此例このゝりに從ひて、自分のために血を献げる事が出來ます。又ほかの人を助ける事が出來ます。祭司のつとめは他人を助けて、正しく犧牲いけにへを献げさせる事です。すなはち他人を助けて神に近づかせる事です。この新約時代の祭司は私共であります。私共も救はれましたから、神に近づく事が出來ます。又他人ほかのひとに神のすくひの道を示す事が出來る者です。救はれましたならば、神と人とのあひだに立つべき祭司であります。罪人つみびとを導く事、すなは罪人つみびとを助けて神に犧牲いけにへを献げさせる事は、私共の義務です。私共は此例このゝりに從ひて、そのはたらきを實行する事が出來ます。罪人つみびとを導く事はたゞその人を敎ふる事のみではありません。その人は神にキリストと犧牲いけにへを献げねばなりません。罪人つみびとはそれにりて救はれます。祭司のつとめその人を助けて、その犧牲いけにへを献げさせる事です。

九  節

 『あしたまで終夜よもすがらあらしむべし』。ゆゑにイスラエルびとが眠ってる時にでも、神の壇の上に燃えてりました。そのめに斷えず犧牲いけにへが燒かれました。眠ってる者のめにも、斷えず神前にかうばしきにほひ犧牲いけにへが献げられました。斷えず神の前にキリストの犧牲いけにへかうばしきにほひが昇りてりました。そのめに神は私共を惠み、私共と偕にり給ひます。眠れる人のためにも、終夜よもすがらこの壇の上に燔祭はんさいが燒かれて神の前に昇りました。此樣このやうに神を忘れてる者、神に對して眠ってる者のめにも、斷えず主の犧牲いけにへかうばしきにほひが昇ってります。そのめに神は斷えずイスラエルびとと共にき給ふ事が出來ました。この燔祭はんさいの壇から、斷えずその煙がのぼりましために、贖罪處しょくざいしょの上に神の雲の柱がとゞまる事が出來ました。このあがなひがありませんならば、神はけがれたるイスラエルびとうちに續いて住み給ふ事は出來ません。けれども流されたる羊の血のめに、斷えず滿足して住み給ふ事が出來ました。只今たゞいま神は何のめに、敎會のうちに宿り給ひますか。何のめに私共の心のうちに宿り給ひますか。私共の熱心のめですか。きよめですか。信仰のあるめですか。いゝえさうではありません。たゞ流されたる血の功績いさをしめにのみ、私共のうちに宿り給ひます。又私共と共に步み給ひます。

 十、十一節の祭司のころもついて御覽なさい。祭司はその通りに祭司にかなころもを着ねばなりません。すなはほかの人を助けて神に近づく者は、格別に聖なる職にかなころもを着ねばなりません。ほか罪人つみびとを神に導きたう御座りまするならば、格別にめに聖衣きよきころもを着、神を敬ふ衣服を着、この世とその慾を離れて生涯を送らねばなりません。

 『その灰をえいの外に携へいだし』。灰は燔祭はんさいが全く燒き盡されたる事の證據です。燔祭はんさいを献げたるイスラエルびとめに何がのこりてありまするかならば、たゞ灰のみです。誇るべき所はすこしもありません。燔祭はんさいを献げないうちは、誇るべき點がありましたかも知れません。全き牛であり羊でありました。れども燔祭はんさいを献げてからのちに人間の眼の前にすこしも誇るべき點が御座りません。私共は神に燔祭はんさいを献げまするならば、すべての物を損と思ふ事が出來ます。たゞ灰のみのこってります。この光によりて自分の有樣ありさまを判斷する事が出來ます。誇るべき事がなほのこってりまするならば、燔祭はんさいとなりませぬ證據です。これを全く献げまするならば、保羅パウロやうピリピ三・七の如く、すべてを損と思ふ事が出來ます。エゼキエル三十六・三十一『自ら恨む』。れは同じ意味です。まこと燔祭はんさいを献げるならば必ず自ら恨む心が起ります。自分の行爲おこなひ所有もちもの、世にける名譽ほまれなどは灰となります。すなはその人のおもひもって見ると、れは灰に等しき者となります。ヨブ四十二・五、六を御覽なさい。その通りにヨブは自分を灰なりと思ひました。既に燔祭はんさいが出來ましたから、灰となってしまひました。さうせい十八・二十七を御覽なさい。心のうちに本當にこれを思ふ者は、たゞ燔祭はんさいを献げた者のみです。既によろづの物が灰となってしまひました。

 『灰をえいそとへ携へいだし』。すなはち過去の燔祭はんさい表號しるしをお棄てなさい。度々たびたび繰り返して古い經驗を引きいだす事はきよき事ではありません。既に燔祭はんさいが出來ましたならば、その灰をお棄てなさい。ピリピ三・十三、『うしろあるものを忘れ』。れは灰を棄てると同じ事です。又神の前に罪を捨てましたならば、その表號しるしと又これに關係ある事を皆お棄てなさい。皆灰と思うて棄てねばなりません。

十 二 節

 私共の心のうちに、その通りに斷えず献身の火が昇るはずです。燔祭はんさいから昇り行く火が、斷えず燃えてりまするならば、神の火(これは神が臨在し給ふあかしです)が斷えず其處そことゞまることが出來ます。イスラエルびとの陣營の四方しはうから毎夜まいばんふたつの火を見る事が出來ます。ひとつ燔祭はんさいの壇より昇りく火です。ひとつは神の火の柱です。その通りに私共の心のうちに、このふたつの火が斷えずあるはずです。すなは献身の火熱心の火聖靈の火であります。

 ほかえざる火があります。マルコ九・四十三四十五四十六四十八にその火のことが記してあります。

 人間の心には必ずえざる火があります。或る人の心のうちには献身の火、聖靈の火が昇ってります。如斯このやうな人は天國に入りてセラピムのやうなものになります。セラピムとは燃ゆるものとの意味であります。或る人の心のうちには慾の火、罪の火が燃えてります。未來においては、全く自分の慾の火のめに燒かれて、えざる火に投げ入れられます。又神は聖靈の水をもって、慾の火をし給ふ事が出來ます。さうですから全くそれをされて、聖なる火を受けて、斷えず心中こゝろのうちに燃ゆる生涯を送りなさい。假令たとへその罪の火のめに、燃柴もえぐさとなりてる者でありましても、神はける枝とならしめ給ひます(ゼカリヤ三・二、八)。又レビ六・十三をご覧なさい。『つねに……たえず』。一年間にイスラエルびとめに罪祭ざいさいたゞ一度いちどのみ献げられました。十六にもその話があります。このおほいなる罪祭ざいさいめに一年中の罪が除かれました。れども燔祭はんさいは一年中斷えず壇の上に置かれました。私共は一度いちど罪を赦されねばなりません。れどものちには斷えず斷えず、神の前に燔祭はんさい的生涯を送らねばなりません。十字架を負ひ、おのれを棄てゝ、主に從はねばなりません。

 『火はたえずもえしむべし』。初めにこの火は天よりくだりました。それからのちは斷えず壇の上に注意して、えぬやうに守られました(レビ九・二十四)。れは燔祭はんさいの壇の上に初めにくだりました時でした。それからのちにイスラエルびとたれでも燔祭はんさいを献げとう御座りまするならば、その天よりくだりました火のなかに、燔祭はんさいを燒き盡す事が出來ました。聖靈は一度いちどペンテコステの日に天よりくだり給ひました。「今くだり給へ」と祈りまする事は、嚴密に申すならば正しき祈り方ではありません。聖靈は既にくだりて今敎會のうちに住み給ひます。私共はの火のなかに、おのれを投げ込みて、燔祭はんさいとなる事が出來ます。又燔祭はんさい的生涯を送る事が出來ます。私共は斷えず神の前に燃ゆる者となりたう御座りまするならば、斷えずこの壇の上にをらねばなりません。すなはち斷えず十字架にけられたる者、自らは神のものと思ひて、生涯を送らねばなりません(ヨハネ五・三十五)。私共はその通りに斷えず燃ゆる者となりたう御座りまするならば、斷えず燔祭はんさいの壇の上にらねばなりません。

 『祭司は朝ごとに薪柴たきゞをその上にもやし』。そのめにその火が斷えず燃えました。斷えず火を保ちたう御座りまするならば、朝毎あさごとに神のことばたきゞとして、火の上に置かねばなりません。毎朝聖書によって主のめぐみを得て、そんなたきゞもっこの火を燃えしめねばなりません。これを怠りまするならば必ず火はえます。神が何程なにほど聖靈の火をくだし給ひましても、毎朝のたきゞを怠りまするならば、必ず聖霊をす者となります。

 『たえずもえしむべし、きえしむべからず』。撤前テサロニケぜん五・十九、『みたまけすことなかれ』。すでに心のうちに聖靈の火がありますならばこれなかれ。おこたりよりこれなかれ。罪によりなかれ。不信仰によりなかれ。不斷たえず心のうちに火を燃えしむるめに、この事をく心に御めなさい。今より祈禱いのりもっこの節を深く御味わいなさい。きよき生涯を送るめに、心のうちに深くこの面白い雛形を御味わいなさい。

 レビ六・八より七・三十八まで犧牲いけにへのりです。又格別にその犧牲いけにへくらふ事について記してあります。犧牲いけにへを用ふる方法にふたつあります。ひとつこれを献げることです。ひとつこれくらふことです。主イエスを信じて自分のあがなひとする事にも、ふたつの方法があります。第一は主イエスのあがなひを信じて、神に全き犧牲いけにへを献げる事です。ゆゑに神とやはらぐ事を得ます。神と親密なる關係を結びます。第二はその犧牲いけにへしょくする事によりて、その關係を保ちます。すなはち主イエスを私共の心に受納うけいれ、その肉をくらその血を飮む事によりて、その信仰及び神との交際まじはりを强くする事です。イスラエルびと犧牲いけにへの肉をくらふ時に、その犧牲いけにへを記憶すると共に、これによりてからだやしなひすなはち滿足を得ました。その通りに主イエスを受納うけいれる事によりて、主のあがなひと自分の罪人つみびとたる有樣ありさまを紀念します。今一度いまいちどすくひを得たる事を感謝します。又これよりて心のやしなひを得、主イエスによって滿足を得ます。

十 四 節

 さうですから十五節に、神はこれくらひ給ひます。また十六節に祭司もこれくらふ事が出來ます。十八節おいれは祭司の子供に與へられました。これは神の善きたまものでした。ゆゑに感謝して受くべきものです。或る熱心なる祭司は、かへってこれ火祭かさいとして、全く神に献げる方が善いと思うたかも知れません。れどもれはかへって神の律法おきてそむき神のめぐみことはる事です。神はめぐみもって私共に種々いろいろなるたまものを與へ給ひました。家庭のうち種々いろいろなるなぐさめ、又ほかたのしみをも與へ給ひました。私共は感謝してこれを受けねばなりません。提前テモテぜん四・四、五を御覽なさい。御承知の通り昔熱心なる者は全くこれを誤解してります。神につかへんとする者は世を離れ山に入り、あるひは人の愛を離れて、又全く美味の食物を棄つる決心をせねばならぬと思ひました。れども此樣このやうな物は神のめぐみたまものとして受けねばなりませぬ。全くこれ火祭かさいとし、これを離れねばならぬわけは御座りません。かえってこれ受納うけいれて、感謝のたねとして益々ますます燃ゆる愛をもって神に從はねばなりません。

十 五 節

 この十五節において『かうばしきにほひとなし』。ゆゑこれを献げる者もそのにほひをかぐ事が出來ました。このかうばしきにほひは神が犧牲いけにへ嘉納うけいれ給ふたる外部うはべ表號しるしです。献げたる者はこれをかぐ時に既に嘉納うけいれられたと感じてなぐさめはずでした。私共もその通りに主イエスを信ずるならば、神に嘉納うけいれられたる者であると感じてなぐさめべきはずです。神は私共を慰める事を好み給ひます。私共が恐怖おそれと心配にみたされてる事を好み給ひません。主イエスの犧牲いけにへは御自身の前にかうばしきにほひ献物さゝげものである事を示して、私共の嘉納うけいれられたる者である事を悟らしめ給ひたう御座ります。

十 六 節

 私共もこれくらふ事が出來ます。すなはち全くキリスト御自身を心のうち受納うけいれる事です。キリストを私共の心のやしなひとする事であります。れはたゞにキリストのおこなひとキリストの心とを紀念おぼえるだけではありません。本當にこれ受納うけいれて、自分のものとする事です。私共は度々たびたびキリストの事を考へます。主のうるはしき性質を思ふ事があります。けれどもたゞ考へるだけでは、自分のものとはなりません。本當の信仰は、それを自分の一部分とする事です。それをくらふ事を意味します。例へばキリストの柔和を受納うけいれて自分の柔和とする事、キリストのおのれを棄て給ひし事を受納うけいれて自分の献身とする事、キリストの謙遜を受納うけいれて自分の謙遜とする事、キリストの愛と熱心を受納うけいれて自分も愛と熱心の充ちたる者となる事、れはくらふ事です。

十 七 節

 『我これを彼等にあたへて』。その人々を養ふめにこれ恩惠めぐみたまものとして與へ給ひました。その通りに神はキリスト御自身を私共に與へ給ひました。たゞあがなひめのみではありません。又やしなひめに肉と血を與へ給ひます。踰越節すぎこしのいはひの時にも同樣なるめぐみを與へ給ひました。血を柱に塗り其後そのゝちに肉をくらひました。長い旅行たびを始めますから、こひつじの肉によりてやしなひを得ました。れは同じ事をたとへた者です。その通り毎日キリストをくらひつゝ、この世の旅路を御渡りなさい。

 『至聖いときよし』。その通りに私共はきよき者となりて、きよき生涯を送る事が出來ます。素祭そさい至聖いときよき者です。キリストを受納うけいれまするならば、至聖者いときよきものとなります。れどもたれこれくらふ事が出來ますか。祭司の子供こども格別に祭司たちこれくらひました。任職のあぶらを注がれたる者、すなはきよあぶらを注がれて祭司となりました者が、格別にキリストをくらふ事が出來ます。何處どこくらひましたか。十六節これ聖所きよきところくらふべし』。すなはち神の前にくらひました。私共はたゞ神の前にキリストにりまするならば、キリストをくらふ事が出來ます。れはきよ食物しょくもつですから、神の聖手みてよりこれを頂きます。

 『たねいれてやくべからず』。さうですからあまり美味ではありません。たね入れて燒きまするならばパンのあぢはひ餘程よほどくなります。肉のかんがへもってすれば、キリスト御自身をくらふ事はあま無味むみなる事です。幾分かおのれける麪酵ぱんだね、幾分かこの世にける麪酵ぱんだねを加へてはねば無味むみであると思ひます。れども靈にける人は、キリストを神のパンと思うて蜜よりも甘しと感じます。

十 八 節

 皆これをくらひました。此樣このやう食物しょくもつによりてそのからだを養うて、祭司の職のめに力を得ました。又これによりてきよくなりました。私共はキリストをくらふことによりて、祭司の職を斷えず勤むることが出來ます。又神の前に斷えずきよき者です。私共は時によりて、仲保とりなし祈禱いのりをする事が出來ません。あるひは神に近づきて、神のことばを頂きたき心がありません。すなはち祭司の職をす事が出來ません。れは何のめでありますか。祭司の受けるやしなひを受けませんからです。祭司はキリストの素祭そさいくらふならば、そのめに力を得て、斷えず祭司としてその職をなす事が出來ます。

十九〜二十三節

 れはたゞ祭司長さいしのをさが職に就く時に、任職のあぶらを注がれたる時にのみ、献げる素祭そさいでありました。又この素祭そさいは全く神の前に献げて、神の前に燒かれました。れは神のみの者でした。人々これくらふ事を許されません。れは皆私共の祭司のをさたるキリストを指します。キリストは神の前に祭司となりて神の全きよろこびとなり給ひました。私共は此樣このやうな者をくらふ事が出來ません。すなはこれを自分のものとする事が出來ません。神は祭司長さいしのをさ素祭そさい受納うけいれてこれを御自身のものとして喜び給ひましたやうに、主イエスの祭司長さいしのをさたる事を喜びてそれを滿足し給ひます。これじつに私共のなぐさめ、又私共の安心のどだいです。神が私共の仲保者とりなして受納うけいこれを喜び給ひますならば、必ず私共をも受納うけいれて喜び給ひます。さうですから私共はキリストのあがなひめに受納うけいれられたる者となります。私共の祈禱いのりもキリストの祈禱いのりと共に受納うけいれられます(もくし八・三)。さうですから聖徒の祈禱いのりは全きにほひと共に受納うけいれられます。神はキリストの素祭そさい受納うけいれて喜び給ふゆゑに、私共を喜び私共の祈禱いのり受納うけいれ給ひます。れはたゞ敎理のみではありません。又心のやしなひ、心の經驗となすべき者です。今早速これを悟る事が出來ぬかも知れません。けれどもいのりもって神に求むる事によりさとりる事が出來ます。何卒どうぞたゞ聖書の意味を知る事をもって滿足せず、神の前に靜かにその意味をあぢはいて、キリスト御自身を御食おあがりなさい。

二十四〜二十六節

 二十五節二十九節の終わりに『これ至聖物いときよきものなり』『これ至聖いときよし』とあります。神の前に主イエスのあがなひ至聖いときよき者です。主イエスは天の位にし榮光をち給ひし時にも至聖いときよき者でした。れども神の前に十字架にかゝりて血を流し給ひし時にも、主イエスは至聖いときよき者です。神はその聖顏みかほおほひ給はねばなりません。れども心のうちには、その時にも御子みこ至聖いときよき者と思ひ給ひました。さうですから私共もその血をたふとき者と思はねばなりません。彼前ペテロぜん一・十八、十九、『寳血たふときち』。何卒どうぞ深くそのたふとさを御考へなさい。神の前にたふとき血ですから、これを踏み付ける事は如何いかに恐るべき罪ですか(ヘブル十・二十九)。その罪のはなはだしきを感じて惡を御離れなさい。

二十七、二十八節

 此樣このやうたふとき者でした。このたふとき者のめに、土瓦つちかはら器皿うつはを用ひますならば、その器皿うつはほかの者のめに用ひてはなりません。たふとき血を盛りたる器皿うつはたふとくして、ほかの者のめに用ひてなりませんならば、してその血を注がれる者のたふとさは如何程いかほどでありませうか。彼前ペテロぜん一・二。主イエスの血に注がれたる者は必ずたふとき者です。神の前に必ずきよき者です。私共も其樣そのやうに神の前にたふとうつはです。さうですからこのからだあるひこのれいを神のめにせず、ほかの世の事のめに用ひまするならば、神の前におほいなる罪です。血に注がれたる者はそのめに、たゞ神のみの者であるはずです。神のみに献げられねばなりません。その血を受けましたならば、その時から碎かれたる心をもって、神の御用に立てねばなりません。哥後コリントご四・七。さうですからこのうつはほかの事のめに用ひてはなりません。

二十九節

 祭司はこれくらひます。私共は神に撰ばれたる祭司でありますから、主イエスのあがなひくらふべき者です。自分のめに又他人のめに、これくらひます。自分のめにくらひまするならば、自らの罪を感じます。又主のおほいなるあがなひによりて安心と平和やはらぎとを得ます。恐怖おそれ疑惑うたがひとを全く棄てゝ、主イエスのあがなひもって滿足を得て、神とやはらぐ事が出來ます。れども祭司は大槪たいがい自分のめにせずして、他人のめにこれくらひました。ロマ九・二は他人のめにキリストの罪祭ざいさいくらふ事を指します。パウロは罪祭ざいさいくらひました。イスラエルびとめに罪の重荷を負ひました。哥後コリントご二・四れも同じ事です。又ガラテヤ四・十九六・一、二。私共もその通りに兄弟のめに罪祭ざいさいくらはねばなりません。兄弟の罪を負ひて謙遜をもって、兄弟をキリストに導かねばなりません。ダニエル九・三を御覽なさい。その時にダニエルは國民の罪を感じました。同時に神の恩惠めぐみその約束を感じました。又その通りに祈りました。れはじつ罪祭ざいさいくらふ事です。れどもその罪を負ふと同時に、深く神の恩惠めぐみを感じました。

三 十 節

 れはたゞ神のみに献げました。さうですから皆燒きました。キリストのあがなひの一部には、私共は少しも關係することが出來ません。これを受けこれを悟ることが出來ません。西コロサイ一・二十。私共は主が地の上の者をやはらがしめ給ふことはわかります。れども天にる者を御自分にやはらがしめ給ふ事はわかりません。何故なにゆゑ天にある者のためあがなひりますか。あるひは惡魔とその使者つかひめでありましたかも知れません。かくあがなひの必要がありました。ヘブル九・二十三この三十節を指します。私共は此樣このやう罪祭ざいさいくらふ事が出來ません。これを悟ることが出來ません。れはたゞ神の前に神のめに全く燒かれました。



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