第 六 章  燔祭、素祭、罪祭の例



 この処にて神はちょうど父のようにその家族を警戒したまいます。家の中に真実と正義と愛の行われることを命じたまいます。

【一節】
 『主はまた言われた。』マタイ伝五章において主はこの通りに弟子を教え、その一家を導きたまいました。彼処で人が互いになすべきこと、また神の聖旨をも教えたまいました。神はただ外部の行いのみならず心を審きたもうことをも教えたまいます。どうぞそのことを心に納めてこの数節をお読みなさい。

【二節】
 『人の預かりもの云々』とあります。私共もこのようなことについて聖霊の聖旨に従わねばなりません。例えばたびたび本を借りるならばできるだけ早くこれを返しますか。或る兄弟は永い間これを止めて置きます。また傘を借りてたびたびこれを返さぬ人もあります。こは神の聖前に兄弟に対して罪を犯すことです。聖霊に導かれる者はこのようなことを全く正しく行います。けれどもこの二節に他のことで私共の心を刺すことがあります。『人を虐げること』。細かいことにおいて人を虐げることができます。例えば買い物をする時になるべく安くさせることを致します。これは人を虐げることです。神に属く者はこのようなことについても他のことにおいても、万事においてすべての人を兄弟と思い、兄弟として取り扱うべき筈です。自分は人からこのようにせらるべき筈であると思ってはなりません。けれども他人にはこれを行いなさい。誰にもこのようになさい。最も賤しい者にもこのように行いなさい。人を虐げますならば神は必ずこれを私共に糾したまいます(使徒行伝五・一〜四)。多くの人がこの誤りの下におります。そうですから追々詛われて苦しんでおります。神の人はこの罪を犯さぬように注意せねばなりません。信者がこれを認めますなら、二倍にしてこれを償わねばなりません(出エジプト記二十二・七)。
 一節より七節までの順序を見ますれば、第一に人は償わねばなりません。第二に神に献げ物をせねばなりません。一節から五節までは人に対して、六節七節は神に対して、その愆のために愆祭を献げねばなりません。ルカ十九・八、九にザアカイはその不義の償いをするように約束しました。そうですから救いを得ることができました。まず人になすべきことをしませんならば、神は私共を受け納れて救いを与えることをなしたまいません。人を導く時にどうぞ格別にこのことに注意なさい。罪人は人の物を償いませんならば必ず神より赦しを受けません(マタイ五・二十三、二十四)。兄弟に対して面白くないことがありますならば神はあなたの献げ物を悦びたまいません。己を卑しうし血潮を頼んで神と和らがねばなりません。もし神があなたを受け納れたまいませんならば、必ず神の恩恵を受けることはできません。もし見ゆるところの兄弟と和らぐことができませんならば、必ず神と和らぐことはできません。自分に損を受けて兄弟と和らぐことをいたしますれば神は必ず私共を受け納れて、親しき交わりを与えたまいます。真の救いは神と和らぐのみならず、また人と和らぐことをも含みます。或る時に人は兄弟に対する小さい罪のために恩恵と和平を得ることができません。箴言十四・九(文語訳)をご覧なさい。愚かなる者は罪を軽んじます。これは小さいことであると言って罪を軽んじます。けれどもいかなる罪でも小さいことはありません。いま繰り返して霊の意味を考えとうございます。神は何の理由で罪人のために身代わりを受け納れたもうことができますか。神は何故に身代わりの上に私共の罪を置きたもうことができますか。キリストが罪人と一つになりたもうたためです。私共は種々なる関係をもってキリストと一つになります。兄弟として、また新郎と新婦、体とその肢、木の幹とその枝、このような比喩をもって私共とキリストと一つになれることを悟らせたまいます。けれどもこの比喩の意味よりもなお親しい関係があります。キリストは全く私共と一つになりたまいました。私共はキリストと一つになりました。これは基礎です。これは奥義です。キリストは私共と一つとなり罪となりたまいました。罪人として罪の形を受けたまいました。私共はキリストと一つになりましたから、神と一つになって栄光の世嗣となりました。そうですから私共は常に神の前にキリストによってキリストと同じような者になります。神はキリストのように私共を取り扱いたまいます。キリストに与える栄光を私共にも与えたまいます。そのためにキリストが神に全き献げ物を献げたまいますならば、すなわちキリストが燔祭、素祭、罪祭を献げたまいますならば、私共はキリストによりて私共が献げ物を献げると同じことです。自分の精神の力、心の力で神に全き献身をすることはできません。けれども十字架のために全く己に死に、新しき生命を得て神の属となることができます。そうですから身も霊も献げたいと思いますならば、自らもがき苦しんで己を神の属とすることはできません。ただキリストを信じ、十字架の上に死んだ者と思って、新しき生命を得て神の前に歩むことができます。神の前に人は贖いをしました。すなわちキリストは人間として贖いをなしたまいました。そうですから人間(私共)が罪を犯しました。また人間(キリストが人間となって)が贖いをいたしました。これは私共の和の源です。神はその正義をもって罪を赦したもうことができます。神の前に人間(キリストが人間となって)はすべての罪の償いをいたしました。そうですから神は義をもってその罪を消したもうことができます。それを深く思いますならば、主の十字架の価を感ずることができます。
 けれどもただそればかりではありません。犠牲の中に馨しき香りの犠牲があります。これは神を全く喜ばせる犠牲です。主イエスもかような犠牲をなしたまいました。すなわち人間(キリストが人となりて)がこの世において神を喜ばせ、神の聖旨を実行いたしました。これは神の前に馨しき香りの献げ物です。キリストが私共の衷に住みたまいますならば、私共の生涯も神の前に馨しき香りの献げ物です。深く福音の奥義を考えますれば、私共はキリストと偕になり、キリストは私共と一つになりたまいます。そうですからキリストにおいて甦ります。キリストが天の処に坐したまいますから、私共も天に行くことができます。主が昇天したまいましたから必ずあなたも私も昇天します。近き卑い譬えをもって申しますれば、水中に沈んでからまた顕れて上がりますならば生命を全ういたします。そのように主は一度死に勝ちて昇天したまいましたから、その体となりました私共も必ず死より救われて天国に行くことができます。キリストと私共は一つです。これは奥義です。これは実に感謝すべきことです。

【八節】
 『主はまたモーセに言われた。』これは新たに語りたもうことを示します。すなわち新たなる黙示を与えたもうのです。
 九節は燔祭の例、十四節は素祭の例、二十五節は罪祭の例、七・一は愆祭の例、七・十一は酬恩祭の例。これらの文字に印をお付けなさるならば一層明らかになります。この例は祭司のために記されました。祭司はこの例に従って正しくこの犠牲を献げることができます。この例に従って自分のために血を献げることができます。また他の人を助けることができます。祭司の務めは他人を助けて正しく犠牲を献げさせることです。すなわち他人を助けて神に近づかせることです。この新約時代の祭司は私共であります。私共も救われましたから神に近づくことができます。また他人に神の救いの道を示すことができる者です。救われましたならば神と人との間に立つべき祭司であります。罪人を導くこと、すなわち罪人を助けて神に犠牲を献げさせることは私共の義務です。私共はこの例に従ってその働きを実行することができます。罪人を導くことはただその人を教えることのみではありません。その人は神にキリストという犠牲を献げねばなりません。罪人はそれによって救われます。祭司の務めはその人を助けてその犠牲を献げさせることです。

【九節】
 『朝まで夜もすがらあるようにし』。ゆえにイスラエル人が眠っている時にでも、神の壇の上に燃えておりました。そのために断えず犠牲が焼かれました。眠っている者のためにも断えず神の前に馨しき香りの犠牲が献げられました。断えず神の前にキリストの犠牲の馨しき香りが昇っておりました。そのために神は私共を恵み、私共と偕におりたまいます。眠れる人のためにも終夜この壇の上に燔祭が焼かれて神の前に昇りました。このように神を忘れている者、神に対して眠っている者のためにも、断えず主の犠牲の馨しき香りが昇っております。そのために神は断えずイスラエル人と共に行きたもうことができました。この燔祭の壇から断えずその煙が上りましたために、贖罪所の上に神の雲の柱が留まることができました。この贖いがありませんならば、神は汚れたるイスラエル人の中に続いて住みたもうことはできません。けれども流されたる羊の血のために断えず満足して住みたもうことができました。ただいま神は何のために教会の中に宿りたまいますか。何のために私共の心の中に宿りたまいますか。私共の熱心のためですか。潔きためですか。信仰のあるためですか。否、そうではありません。ただ流された血の功績のためにのみ私共の中に宿りたまいます。また私共と偕に歩みたまいます。
 十、十一節の祭司の衣についてご覧なさい。祭司はその通りに祭司に適う衣を着ねばなりません。すなわち他の人を助けて神に近づく者は、格別に聖なる職に適う衣を着ねばなりません。他の罪人を神に導きとうございますならば、格別にそのために聖衣を着、神を敬う衣服を着、この世とその慾を離れて生涯を送らねばなりません。
 『その灰を宿営の外に携え出し』。灰は燔祭が全く焼き尽くされたことの証拠です。燔祭を献げたイスラエル人のために何が遺っておりますかならば、ただ灰のみです。誇るべきところは毫もありません。未だ燔祭を献げないうちは誇るべき点がありましたかも知れません。全き牛であり羊でありました。けれども燔祭を献げてから後に人間の眼の前に毫も誇るべき点がございません。私共は神に燔祭を献げますならば、すべての物を損と思うことができます。ただ灰のみ遺っております。この光によって自分の有様を判断することができます。誇るべきことがなお遺っておりますならば未だ燔祭となりませぬ証拠です。これを全く献げますならば、パウロのようにピリピ三・七のごとく、すべてを損と思うことができます。エゼキエル三十六・三十一『みずから恨む。』これは同じ意味です。真に燔祭を献げるならば必ず自ら恨む心が起こります。自分の行為、所有、世に属ける名誉などは灰となります。すなわちその人の思いをもって見ると、これは灰に等しきものとなります。ヨブ四十二・五、六をご覧なさい。その通りにヨブは自分を灰なりと思いました。既に燔祭ができましたから灰となってしまいました。創世記十八・二十七をご覧なさい。心の中にほんとうにこれを思う者はただ燔祭を献げた者のみです。既によろずの物が灰となってしまいました。
 『灰を宿営の外へ携え出し』。すなわち過去の燔祭の表号をお棄てなさい。たびたび繰り返して古い経験を引き出すことは聖きことではありません。既に燔祭ができましたならばその灰をお棄てなさい。ピリピ三・十三『後ろのものを忘れ』。これは灰を棄てると同じことです。また神の前に罪を捨てましたならばその表号とまたこれに関係あることを皆お棄てなさい。みな灰と思って棄てねばなりません。

【十二節】
 私共の心の中にその通りに断えず献身の火が昇る筈です。燔祭から昇り行く火が断えず燃えておりますならば、神の火(これは神が臨在したもう証です)が断えずその処に留まることができます。イスラエル人の陣営の四方から毎夜二つの火を見ることができます。一つは燔祭の壇より昇り行く火です。一つは神の火の柱です。その通りに私共の心の中にこの二つの火が断えずある筈です。すなわち献身の火、熱心の火、また聖霊の火であります。
 他に熄えざる火があります。マルコ九・四十三、四十四、四十六、四十八にその火のことが記してあります。
 人間の心には必ず熄えざる火があります。或る人の心の中には献身の火、聖霊の火が昇っております。かような人は天国に入ってセラピムのようなものになります。セラピムとは燃ゆるものとの意味であります。或る人の心の中には慾の火、罪の火が燃えております。未来においては全く自分の慾の火のために焼かれて熄えざる火に投げ入れられます。また神は聖霊の水をもって慾の火を熄したもうことができます。そうですから全くそれを熄されて、聖なる火を受けて、断えず心中に燃ゆる生涯を送りなさい。たといその罪の火のために燃ゆる柴となっている者でありましても、神は活ける枝とならしめたまいます(ゼカリヤ三・二、八)。またレビ記六・十三をご覧なさい。『つねに‥‥‥たえず』。一年間にイスラエル人のために罪祭はただ一度のみ献げられました。また十六章にもその話があります。この大いなる罪祭のために一年中の罪が除かれました。けれども燔祭は一年中断えず壇の上に置かれました。私共はひとたび罪を赦されねばなりません。けれども後には断えず、断えず神の前に燔祭的生涯を送らねばなりません。十字架を負い、己を棄てて主に従わねばなりません。
 『火は絶えず燃え続かせ』。初めにこの火は天より降りました。それから後は断えず壇の上に注意して熄えぬように守られました(レビ記九・二十四)。これは燔祭の壇の上に初めに降りました時でした。それから後に、イスラエル人は誰でも燔祭を献げとうございますならば、その天より降りました火の中に燔祭を焼き尽くすことができました。聖霊はひとたびペンテコステの日に天より降りたまいました。「いま降りたまえ」と祈りますことは、厳密に申すならば正しき祈り方ではありません。聖霊は既に降りて、いま教会の中に住みたまいます。私共はその火の中に己を投げ込んで燔祭となることができます。また燔祭的生涯を送ることができます。私共は断えず神の前に燃ゆる者となりとうございますならば、断えずこの壇の上におらねばなりません。すなわち断えず十字架に釘けられたる者、自らは神のものと思って生涯を送らねばなりません(ヨハネ五・三十五)。私共はその通りに断えず燃ゆる者となりとうございますならば、断えず燔祭の壇の上におらねばなりません。
 『祭司は朝ごとに薪をその上に燃やし』。そのためにその火が断えず燃えました。断えず火を保ちとうございますならば、朝毎に神の言葉を薪として火の上に置かねばなりません。毎朝聖書によって主の恵みを得て、そんな薪をもってこの火を燃えしめねばなりません。これを怠りますならば必ず火は熄えます。神が何程聖霊の火を降したまいましても、毎朝の薪を怠りますならば必ず聖霊を熄す者となります。
 『絶えず燃え続かせ、これを消してはならない。』テサロニケ前書五・十九、『御霊を消してはいけない。』己の心の中に聖霊の火がありますならばこれを熄すなかれ。怠りによりてこれを熄すなかれ。罪によりて熄すなかれ。不断心の中に火を燃えしめるためにこのことをよく心にお留めなさい。今より祈禱をもってこの節を深くお味わいなさい。聖き生涯を送るために、心の中に深くこの面白い雛形をお味わいなさい。
 レビ記六・八より七・二十八までは犠牲の例です。また格別にその犠牲を食らうことについて記してあります。犠牲を用いるに二つの方法があります。一つはこれを献げることです。一つはこれを食らうことです。主イエスを信じて自分の贖いとすることにも、二つの方法があります。第一は主イエスの贖いを信じて、神に全き犠牲を献げることです。ゆえに神と和らぐことを得ます。神と親密なる関係を結びます。第二はその犠牲を食することによりてその関係を保ちます。すなわち主イエスを私共の心に受け納れ、その肉を食らいその血を飲むことによって、その信仰及び神との交際を強くすることです。イスラエル人は犠牲の肉を食らう時に、その犠牲を記憶すると共に、これによって体の養い、すなわち満足を得ました。その通りに、主イエスを受け納れることによって、主の贖いと自分の罪人たる有様を紀念します。今一度救いを得たることを感謝します。またこれによって心の養いを得、主イエスによって満足を得ます。

【十四節】
 そうですから十五節に、神はこれを食らいたまいます。また十六節に祭司もこれを食らうことができます。十八節においてこれは祭司の子供に与えられました。これは神の善き賜物でした。ゆえに感謝して受くべきものです。ある熱心なる祭司はかえってこれを火祭として全く神に献げる方が善いと思ったかも知れません。けれどもこれはかえって神の律法に叛き、神の恵みを断ることです。神は恵みをもって私共に種々なる賜物を与えたまいました。家庭の中の種々なる慰め、また他の楽しみをも与えたまいました。私共は感謝してこれを受けねばなりません。テモテ前書四・四、五をご覧なさい。ご承知の通り、昔熱心なる者は全くこれを誤解しておりました。神に仕えんとする者は世を離れ山に入り、或いは人の愛を離れて、また全く美味の食物を棄てる決心をせねばならぬと思いました。けれどもこのような物は神の恵みの賜物として受けねばなりませぬ。全くこれを火祭とし、これを離れねばならぬ訳はございません。かえってこれを受け納れて感謝の種として、ますます燃ゆる愛をもって神に従わねばなりません。

【十五節】
 この十五節において『香ばしいかおりとし』。ゆえにこれを献げる者もその香りをかぐことができました。この馨しい香りは、神が犠牲を受け納れたもうた外部の表号です。献げたる者はこれをかぐ時に、既に受け納れられた感じで慰めを得る筈でした。私共もその通りに、主イエスを信ずるならば、神に受け納れたる者であると感じて慰めを得べき筈です。神は私共を慰めることを好みたまいます。私共が恐怖と心配に充たされていることを好みたまいません。主イエスの犠牲はご自身の前に馨しき香りの献げものであることを示して、私共の受け納れられたる者であることを悟らしめたまいとうございます。

【十六節】
 私共もこれを食らうことができます。すなわち全くキリストご自身を心の中に受け納れることです。キリストを私共の心の養いとすることであります。これは啻にキリストの行いとキリストの心とを紀念するだけではありません。ほんとうにこれを受け納れて、自分の属とすることです。私共はたびたびキリストのことを考えます。主の美しき性質を思うことがあります。けれどもただ考えるだけでは自分の属とはなりません。ほんとうの信仰はそれを自分の一部分とすることです。それを食らうことを意味します。例えばキリストの柔和を受け納れて自分の柔和とすること、キリストの己を棄てたまいしことを受け納れて自分の献身とすること、キリストの謙遜を受け納れて自分の謙遜とすること、キリストの愛と熱心を受け納れて自分も愛と熱心の充ちたる者となること、これは食らうことです。

【十七節】
 『わたしはこれを彼らの分として与える。』その人々を養うためにこれを恩恵の賜物として与えたまいました。その通りに、神はキリストご自身を私共に与えたまいました。啻に贖いのためのみではありません。また養いのために肉と血を与えたまいます。過越節の時にも同様なる恵みを与えたまいました。血を柱に塗り、その後に肉を食らいました。長い旅行を始めますから羔の肉によりて養いを得ました。これは同じことを譬えたものです。その通り毎日キリストを食らいつつこの世の旅路をお渡りなさい。
 『聖なる』。その通りに、私共は聖き者となり聖き生涯を送ることができます。素祭はいと聖きものです。キリストを受け納れますならばいと聖き者となります。けれども誰がこれを食らうことができますか。祭司の子供、格別に祭司等がこれを食らいました。任職の膏を注がれたる者、すなわち聖き膏を注がれて祭司となりました者が、格別にキリストを食らうことができます。何処で食らいましたか。十六節『聖なる所で食べなければならない。』すなわち神の前に食らいました。私共はただ神の前にキリストにおりますならば、キリストを食らうことができます。これは聖き食物ですから神の聖手よりこれを頂きます。
 『種を入れて焼いてはならない。』そうですからあまり美味ではありません。種入れて焼きますならばパンの味はよほどうまくなります。肉の考えをもってすればキリストご自身を食らうことはあまり無味なることです。幾分か己に属ける麪酵、幾分かこの世に属ける麪酵を加えて食らわねば無味であると思います。けれども霊に属ける人は、キリストを神のパンと思って蜜よりも甘しと感じます。

【十八節】
 皆これを食らいました。このような食物によってその体を養って、祭司の職のために力を得ました。またこれによって聖くなりました。私共はキリストを食らうことによって、祭司の職を断えず勤めることができます。また神の前に断えず聖き者です。私共は時によって仲保の祈禱をすることができません。或いは神に近づいて神の言葉を頂きたき心がありません。すなわち祭司の職をなすことができません。これは何のためでありますか。祭司の受ける養いを受けませんからです。祭司はキリストの素祭を食らうならば、そのために力を得て断えず祭司としてその職をなすことができます。

【十九〜二十三節】
 これはただ祭司長が職に就く時に、任職の膏を注がれたる時にのみ献げる素祭でありました。またこの素祭は全く神の前に焼かれました。これは神のみのものでした。人々はこれを食らうことを許されません。これはみな私共の祭司長たるキリストを指します。キリストは神の前に祭司となって神の全き喜びとなりたまいました。私共はこのような者を食らうことができません。すなわちこれを自分のものとすることができません。神は祭司長の素祭を受け納れて、これをご自身のものとして喜びたまいましたごとくに、主イエスの祭司長たることを喜びてそれを満足したまいます。これは実に私共の慰め、また私共の安心の基です。神が私共の仲保者を受け納れ、これを喜びたまいますならば、必ず私共をも受け納れて喜びたまいます。そうですから私共はキリストの贖いのために受け納れられたる者となります。私共の祈禱もキリストの祈禱と共に受け納れられます(黙示録八・三)。そうですから聖徒の祈禱は全き香りと共に受け納れられます。神はキリストの素祭を受け納れて喜びたもうゆえに、私共を喜び、私共の祈禱を受け納れたまいます。これはただ教理のみではありません。また心の養い、心の経験となすべきものです。今さっそくこれを悟ることができぬかも知れません。けれども祈りをもって神に求めることにより悟りを得ることができます。どうぞただ聖書の意味を知ることをもって満足せず、神の前に静かにその意味を味わいてキリストご自身をお食しなさい。

【二十四〜二十六節】
 二十五節と二十九節の終わりに『これはいと聖なるものである』『これはいと聖し』とあります。神の前に主イエスの贖いはいと聖きものです。主イエスは天の位に坐し栄光を持ちたもうた時にもいと聖き者でした。けれども神の前に十字架にかかりて血を流したまいし時にも主イエスはいと聖き者です。神はその聖顔を蔽いたまわねばなりません。けれども心の中にはその時にも御子はいと聖き者と思いたまいました。そうですから私共もその血を貴きものと思わねばなりません。ペテロ前書一・十八、十九、『尊い血』。どうぞ深くその尊さをお考えなさい。神の前に貴き血ですからこれを踏みつけることは如何に恐るべき罪ですか(ヘブル十・二十九)。その罪の甚だしさを感じて悪をお離れなさい。

【二十七、二十八節】
 このように貴きものでした。この貴きもののために土瓦の器を用いますならば、その器は他のもののために用いてはなりません。もし貴き血を盛りたる器が貴くして他のもののために用いてなりませんならば、ましてその血を注がれる者の貴さはいかほどでありましょうか。ペテロ前書一・二。主イエスの血に注がれたる者は必ず貴き者です。神の前に必ず聖き者です。私共もそのように神の前に貴き器です。そうですからこの体或いはこの霊を神のためにせず、他の世のことのために用いますならば、神の前に大いなる罪です。血に注がれたる者はそのためにただ神のみのものである筈です。神のみに献げられねばなりません。その血を受けましたならば、その時から砕かれたる心をもって神の御用に立てねばなりません。コリント後書四・七。そうですからこの器を他のことのために用いてはなりません。

【二十九節】
 祭司はこれを食らいます。私共は神に撰ばれたる祭司でありますから、主イエスの贖いを食らうべき者です。自分のためにまた他人のためにこれを食らいます。自分のために食らいますならば自らの罪を感じます。また主の大いなる贖いによって安心と平和とを得ます。恐怖と疑惑とを全く棄てて、主イエスの贖いをもって満足を得て神と和らぐことができます。けれども祭司はたいがい自分のためにせずして他人のためにこれを食らいました。ロマ書九・二は他人のためにキリストの罪祭を食らうことを指します。パウロは罪祭を食らいました。イスラエル人のために罪の重荷を負いました。コリント後書二・四、これも同じことです。またガラテヤ書四・十九、六・一、二。私共もその通りに兄弟のために罪祭を食らわねばなりません。兄弟の罪を負いて謙遜をもって兄弟をキリストに導かねばなりません。ダニエル書九・三をご覧なさい。その時にダニエルは国民の罪を感じました。同時に神の恩恵とその約束を感じました。またその通りに祈りました。これは実に罪祭を食らうことです。けれどもその罪を負うと同時に、深く神の恩恵を感じました。

【三十節】
 これはただ神のみに献げました。そうですからみな焼きました。キリストの贖いの一部には私共は少しも関係することができません。これを受けこれを悟ることができません。コロサイ書一・二十。私共は主が地の上の者を和らがしめたもうことは分かります。けれども天に在る者をご自分に和らがしめたもうことは分かりません。何故天に在る者のために贖いが必要ですか。或いは悪魔とその使者のためでありましたかも知れません。とにかく贖いの必要がありました。ヘブル書九・二十三はこの三十節を指します。私共はこのような罪祭を食らうことができません。これを悟ることができません。これはただ神の前に神のために全く焼かれました。



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