第十四章  癩病人の潔禮



 十三章において癩病を如何どうして認むる事が出來るかを見ます。けれども癩病をいやす方法を見ません。神のすくひを見ません。十四章おいて、如何どうして癩病がきよめらるゝかを見ます。こゝで神のめぐみを見ます。又そのすくひの力を見ます。昔癩病人がこの式によりていやされたる事はありません。けれどもこの式の意味がわかりまするならば、今の心の癩病人が如斯このやうに、水と血と油のあらひよりて、きよき者となることが出來ます。これは癩病のきよめの道であります。

一〜三節

 きよき祭司はえいの外にきて、癩病人のる所に至るまで、自己おのれひくくしてくだりました。これじつさいはひです。しゅイエスは神のえいの外にきて、癩病人のる所に至るまで自己おのれひくくしてくだり給ひました。又今でも主は自己おのれひくくして、癩病人のる所に至るまでくだり給ひます。癩病人はきよめられたう御座りまするならば、必ず榮光ある主に近付ちかづかねばなりません。私共わたくしどもの祭司はその人の足下あしもとに至るまでくだり給ひます。さうですからこの癩病人は、自己おのれの方から祭司のもとに參らねばなりません。そのえいの外において、祭司に出會ふことが出來ます。又その出會ふことによりて、癩病人はきよめらるゝ事が出來ます。

四  節

 癩病人が献ぐべき犧牲いけにへは、この鳥二羽であります。原語では雀二羽であります。マタイ十・廿九を御覽なさい。それゆゑこの二羽の雀はじつ價値ねうちがあります。神は如斯このやうに癩病人に同情をあらはし給ひます。癩病人は必ず金錢がありませんから、神はその人の貧窮に應じて、犧牲いけにへを献ぐべき事を命じ給ひます。それよりて神のめぐみわかります。神は私共に出來ぬことを命じ給ひません。その人の力に應じて、あるひは信仰あるひ献物さゝげものを命じ給ひます。

 『檜木ひのきくれなゐいと牛膝草ヒソプとをとりきたらしめ』。雀と一緖ともにヒソプと檜木ひのきくれなゐいとを取りました。かういふ者をもっはふきを造りました。その檜木ひのきにて造りました。その尾をヒソプにて造りました。又くれなゐいともってヒソプを檜木ひのきくゝり付けました。このはふきもって血をそゝぎました。ヒソプは何處どこでもへる草ですから、いづれにても取ることが出來ます。それは信仰を指します。何故なにゆゑですかならば私共は不斷ふだん信仰をのばすことが出來ます。同じ信仰をつかうて、今主のあがなひ受入うけいれなければなりません。又その檜木ひのきかはらざることを指します。檜木ひのきちざるですから、何時いつでも同じやうな信仰をつことが出來ます。又くれなゐいとは血の色ですから新しき命を指します。血はその人のいのちですから格別に新しきいのちを指します。

五〜七節

 夫故それゆゑこの二羽のうち、一羽は殺すべき者であります。一羽は自由に放つべき者であります。この二羽は何を指しますかならば、けがれたる者なる罪人つみびとと、きよき者なるイエスを指します。

 さうですから罪人つみびとたる私共は、殺さるべき者であります。けれども主イエスは私共の受くべき死を受けてしに給ひました。夫故それゆゑに私共は自由を得ることが出來ます。ロマ五・六を御覽なさい。如斯このやうきよき者が罪人つみびとためしに給ひました。この二羽のうちきよき者がしにましたから、しき者が救はれました。そのきてる雀は、その殺されたる雀の血にひたされました。その鳥はその友の血をそゝがれます。救はれたる罪人つみびとその友たるキリストの血をそゝがれねばなりません。ヘブル十二・廿四に、『そゝぐ所の血』とあります。私共はそれを受けねばなりません。その血は私共の友なるイエスの血であります。けれどもそればかりではありません。このける鳥は血と水とにそゝがれました。何故なにゆゑなれば殺されたる鳥は、うつはの内に、ける水の上に殺されました。それゆゑに水と血がまじってあります。水及び血によりそゝがれました。ヨハネ十九・三十四を御覽なさい。主のあがなひよりあがなひの血も聖潔きよめの水も出て參りました。殺されたる鳥から血と水も出ます。私共はこのふたつのものにそゝがれてきよき者となります。エゼキエル三十六・二十五を御覽なさい。

 そのやうそゝがれたる鳥は自由にに放たれました。そのつばさの上に血も水もあるまゝで自由に放たれました。私共は其樣そのやうに主によりて自由を得ます。格別に主の復生よみがへりより復生よみがへりたる者となりて、罪より全く自由を得ます。この鳥は今迄いまゝであるひは殺さるゝかも知れぬといふ心配がありました。けれども今ほかの鳥の死のために自由を得ました。私共はそのやうに自由を得たる者であります。

 ある人はこの殺されたる鳥は主の死を指し、又放たれたる鳥は主の復生よみがへりを指すと申します。さういふ意味が含んであると思います。私共は主の復生よみがへりために自由を得ます。

 救はれたる者はこの血にそゝがれてきよめられ、自由に放たれたる鳥のやうなものです。天を仰ぎ翼を張って登る事が出來る鳥のやうなものです。新しき歌をうたうて神に感謝してをる鳥のやうなものです。この犧牲いけにへじつうるはしき假話たとへばなしであります。こゝにあきらかにすくひの道と、すくひよろこびを見ます。小兒こどもにも大人にも罪のゆるしの道を說きたう御座りまするならば、何卒どうぞこのうるはしき假話たとへばなしたう御座ります。

八  節

 七節の中頃に『きよき者となし』とあります。血にそゝがれたる者は神の前にきよき者となりました。今この犧牲いけにへを献げたる癩病人は、神の前にきよき者となりました。さうですから自己おのれきよめなければなりません。これは何時いつでも神の順序です。神は私共をきよき者となし給ひますから、私共は自分をきよめなければなりません。神は私共を自分の子とならしめ給ひますから、神の子供にかなふ生涯をくらさなければなりません。人間の思想かんがへ丁度ちゃうど反對です。自己おのれきよめて漸次だんだん神の前にきよき者となりたく思ひます。き人間となるならば神の子となることが出來るかも知れぬと思ひます。けれどもこれはおほいなる間違まちがひです。この七節やうに血のそゝぎよりて神の前にきよき者となりました。それゆゑ八節やう自己おのれきよめなければなりません。血のきよめために神に受け入れられたる者となりました。水のきよめため自己おのれきよむる事によりて神とまじはる事が出來ます。血のきよめために神の刑罰を免れました。水のきよめために神とうるはしき交際まじはりをなすことが出來ます。哥後コリントご七・一を御覽なさい。『自己みづからきよく……すべし』。これ丁度ちゃうどこの八節を指します。けれどもそればかりではありません。剃刀かみそりもっ自己おのれきよめねばなりません。ところより剃刀かみそり利刃ときはもって、物を切落きりおとして、自己おのれきよめます。その毛をことごと剃落そりおとします。その毛はふるき生涯よりおこることを指します。ふるき人よりづる者であります。夫故それゆゑ如斯このやうな者は剃刀かみそりもっ切落きりおとさねばなりません。西コロサイ三・五を御覽なさい。『殺すべし』。これ剃刀かみそりもって全くそれを切落きりおとす事です。何卒どうぞ愛する兄弟姉妹よ、彼處あすこで全きはたらきをなさい。私共はさういふことををしみて、ふるき毛を少しく殘して置きます。このけがれたるところを幾分か殘して置きまするならば、癩病人は必ず全き者となることが出來ません。何卒どうぞその剃刀かみそりく使うて、その身の全體にその剃刀かみそりを用ひたう御座ります。さうしてふるき人からいづおこなひ剃落そりおとたう御座ります。『しかのちえいいりきたるべし』。オーじつさいはひです。この憐れむべき者は今迄えいの外にって、けがれたる者とまじはらねばなりませなんだ。今えいはいる事が出來ます。愛する妻子つまこや親族とまじはる事が出來ます。きよめられたる者は、其樣そのやうきよまじはりをする事が出來ます。哥後コリントご二・七、八を御覽なさい。これは癩病人でありました。けれどもきよめられましたから、もう一度いちどきよき者のえいに受けよと書送かきおくりました。

 この癩病人はいま自己おのれの天幕にはいる事は出來ません。いまだ全きまじはりがありません。けれども以前の有樣と比べまするならば、じつうるはしう御座ります。のちに第二の聖潔きよめよりて、自分の天幕にはいる事が出來ます。又神のきよき所にはいる事が出來ます。第二の聖潔きよめよりて本當に人間とまじはり神とまじはる事が出來ます。今迄いまゝでゆるしを得ました。それによりえいの外を離れて、内にはいる事が出來ました。けれどもこれからのちに自分の天幕にはいり、神の天幕にはいって親しくまじはりをなす事が出來ます。母後サムエルご十四・二十四を御覽なさい。今迄いまゝでアブサロムは自分の罪のためその所より追出おひいだされてりました。今罪のゆるしを得てエルサレムに歸ることが出來ました。けれどもいまだ王の顏を見ることは出來ません。本當のまじはりがありません。癩病人も同じ事です。第一に罪のゆるしを得ました。けれどもいまだ本當のまじはりを得ません。七日目なぬかめのち聖潔きよめよりて、本當のまじはりをなすことを得ます。

九  節

 これは第二のめぐみです。又この聖潔きよめ献物さゝげものよりて、この人は油灌あぶらそゝぎめぐみを得ます。一週間以前に鳥の犧牲いけにへと水のあらひよりこの人はえいはいる事が出來ました。いま水と血と油の洗ひによりて、完全まったきイスラエルびととなることが出來ます。第一の聖潔きよめは私共の悔改くいあらためを指します。第二の聖潔きよめは私共の聖靈を受くる事を指します。ある信者は第一の聖潔きよめを得たるけにて滿足します。第一の聖潔きよめを得たる事はさいはひです。癩病人は神のゆるしきよめを得て、えいはいる事が出來ます。又イスラエルびとの一人となりました。これはじつたふとめぐみです。けれどもいま完全まったすくひではありません。夫程それほどめぐみあぢはいまするならば、益々ますます進みて全きめぐみを慕ふべきはずです。第一のきよめを得たる癩病人が第二の聖潔きよめを斷りまするならば、じつに愚かなる事であります。今さういふ信者を澤山たくさんに見ます。第一の生更うまれかはりめぐみを得ましたから、第二のペンテコステのめぐみを斷ります。

 八日目に癩病人がどういふめぐみを得ますかならば、油灌あぶらそゝぎを得ます。その日には水のあらひもあります。血のあらひもあります。全き聖潔きよめを得ます。けれどもその聖潔きよめは何のためですかならば、油灌あぶらそゝぎ準備したくであります。私共は何故なにゆゑ聖潔きよめを求めますかならば、聖靈を受くるためです。救はれたる癩病人は如斯このやうに第二の水と血のあらひより油灌あぶらそゝぎを得ました。この油灌あぶらそゝぎじつたふときことであります。だ王たる者、祭司長さいしのをさたる者、預言者のみがこの油灌あぶらそゝぎを得ました。けれどもこのいやしき癩病人は、さういふ者と同樣に、このたふとめぐみあづかることが出來ます。これはじつさいはひです。神はそのやういやしき罪人つみびとじつたふとめぐみを與へ給ひます。今ペンテコステのめぐみを受くべき者は同樣です。必ず神の聖なる者、神のたふとき者、神の天使が皆聖靈にみたされてります。さうですから私共の樣な者は、ペンテコステのめぐみあづかのぞみほとんどありませんでせう。さういふたふとき者がそれを得まするならば、いやしき者はそれを得る事が出來ませんでせういゝえ、さうではありません。いやしききよめられたる癩病人は、王たちと共にこの聖なる油灌あぶらそゝぎの式にあづかることが出來ます。私共もきよき者と一緖にペンテコステのめぐみあづかることが出來ます。これよりてイスラエルびとに對する神の溢れる程のめぐみわかります。私共はそのめぐみを斷りまするならば、自分のおほいなる損であります。けれどもそれのみではありません。神のめぐみを知らぬことです。この癩病人が第一の聖潔きよめのみにて滿足しまするならば、神の愛とめぐみを知らぬことを示します。オー私共は、神がいやしき罪人つみびとために備へ給うたるすべてのめぐみを求めなければなりません。しそれを求めませんならば、神に對しておほいなる罪であります。私共はどうして神のめぐみを求めませうか。九節を御覽なさい。七日目なぬかめになすべき事があります。七日目なぬかめ何時いつでも一週間ひとまはりをはりを指します。八日目は何時いつでも新しき期限のはじめを指します。それゆゑこのめぐみを受くる事は古き生涯を捨てゝ新しき生涯を始むる事を指します。それゆゑ七日目なぬかめに、すなはちその週間のをはりに全きけがれを捨てゝ聖潔きよきを得なければなりません。それは七日目なぬかめになすべき事です。必ず一週間しゅうかん前に八節しるされたるやうに、聖潔きよめを得ました。けれども今油灌あぶらそゝぎを求むる者は、心を探りて復一度もういちど聖潔きよめを求めて、自己おのれきよくせなければなりません。

 けれどもこの第二のめぐみは、だ全き聖潔きよめのみではありません。ある人はきよき心を求めます。それは間違まちがひです。それは七日目なぬかめになすべきことであります。八日目に尚々なほなほ進んで油灌あぶらそゝぎを頂戴する事が出來ます。私共は何故なにゆゑ聖潔きよめを得ますかならば、みたまを受くるため準備じゅんびであります。夫故それゆゑにこの油灌あぶらそゝぎを求めねばなりません。

十、十一節

 その八日目に羔羊こひつじ三匹を取ります。この癩病人がえいより追出おひいだされました時に、すなは朋友ともだちがありません時に、獻ぐべき犧牲いけにへだ二羽の雀であります。けれども最早えいの内にはいりましたから、最早朋友とも交際まじはりが出來ました時に、すべき献物さゝげもの羔羊こひつじ三匹であります。又彼處あすこ尚々なほなほ深き意味があります。第一の聖潔きよめを求むる時に、あまり主の贖罪あがなひ價値ねうちわかりませなんだ。だ二羽の雀のやうに輕々しく思ひました。けれども第二の聖潔きよめを求むる時に、尚々なほなほその贖罪あがなひ價値ねうちわかって參りましたから、今こひつじのやうに主を見る事が出來ます。さいはひに今癩病人は神に犧牲いけにへを献ぐる事を許されます。今迄いまゝで癩病人として聖なる神に犧牲いけにへを献ぐる事が出來ませなんだ。私共は罪人つみびとたる時に神の喜び給ふ献物さゝげものを献ぐる事は出來ません。けれども最早すくひを得たる者はみたまを求めますから、神の喜び給ふ献物さゝげものを献ぐることが出來ます。又それによりて神の聖旨みむねを喜ばせ、神に受け入れられる事が出來ます。

 十節に『全き羔羊こひつじ』とあります。約壹ヨハネいち三・五をご覧なさい。『彼またみづから罪なし』とあります。主は自ら罪なき全きこひつじでありましたから、私共のために全き犧牲いけにへとなり給ふ事が出來ました。

 十一節に『潔禮きよめごとをなす所の祭司』とあります。これは格別に主を指します。私共をきよめ給ふ祭司は、主イエスを指します。けれども罪人つみびとを神に導く働人はたらきびとでも、神の潔禮きよめごとをなす所の祭司といはれると思ひます。しとぎゃう九・十七おいてアナニヤは潔禮きよめごとをなす所の祭司でした。しとぎゃう八・三十五おいてピリポはこの寺人ぢじん潔禮きよめごとをなす所の祭司でした。私共はこのきよつとめをなすべき者でありますから、歡喜よろこびもっけがれたる罪人つみびときよ油灌あぶらそゝぎに導きたう御座ります。

 今私共は聖潔きよめついて共に硏究しました。何卒どうぞ最早生更うまれかはりめぐみを得たる者でも、全きめぐみをお求めなさい、全き聖潔きよめ油灌あぶらそゝぎをお求めなさい。最早神に近き者といはれませう。けれども尚々なほなおきよき事を經驗せなければなりません。この章の七節を御覽なさい。『これをきよき者となし』。さうですからその時に神の聖前みまへきよき者でありました。けれども尚々なほなほ深き聖潔きよめの經驗を求めます。九節をはりに『きよくなるべし』。これは第二の聖潔きよめであります。又二十節を御覽なさい。『その人はきよくならん』。その時にまったき神のあぶらを得ましたから、神の聖前みまへに聖靈を受けた者となりましたから、尚々なほなほ深き意味にてきよき者となりました。この癩病人は三度みたびきよき者といはれます。そのきようちに三つの階段があります。さうですから最早うまかはりました者でも、何卒どうぞ全き聖潔きよめをお求めなさい。本當に自分も滿足し神も滿足なし給ふまで聖潔きよめを求めたう御座ります。

 『ヱホバの前に置き』。これはじつさいはひです。今まで癩病人はえいより追出おひいだされました。十三・四十六の如く、えいに近付く事が出來ませなんだ。けれども今迄いまゝでの血と水の聖潔きよめために、大膽に神の前に立つことを得ます。又油灌あぶらそゝぎを受くる所は神に近付いて神の聖前みまへに立つ所であります。必ずほかところおいて神の聖なる油灌あぶらそゝぎを頂戴する事は出來ません。ペンテコステの時に、百二十人が聖靈を待望まちのぞみたる時に、祈禱いのりもって神に近付き神の聖前みまへに立つ事を得ました。彼處あすこそのめぐみ待望まちのぞみました。コルネリオが神のめぐみ待望まちのぞみました時に、同じやうに神の聖前みまへに立つことを得ました(しとぎゃう十・三十三)。あだかこの癩病人が、油灌あぶらそゝぎ待望まちのぞんで、神の聖前みまへに立ちましたやうでした。私共は時として兄弟の話によりて、あるひ集會あつまりの感化によりて、めぐみを得やうと思ひます。けれどもこれは度々たびたびおほいなる間違まちがひです。私共は自分ひとり神に近付いて、神の聖前みまへに立たなければなりません。

十二、十三節

 罪祭ざいさいより今迄いまゝで犯したる所の罪が全く赦されたる事を見ます。私共は油灌あぶらそゝぎを求めまするならば、あきらかに罪祭ざいさいたる主イエスを見なければなりません。あきらかに主の血の力を見なければなりません。その血によりて神とやはらぐことを得たる事を確信せなければなりません。又その時に必ず自分の罪を感じます。今迄いまゝで種々いろいろの罪を犯しましたから、その罪のゆるしために血を注がなければなりません。

十三、十四節

 その意味は何ですかならば、この人は耳においても手においても、足においても、神に對して罪を犯しました。五體において罪を犯しました。さうですからその血をあまねく注がねばなりません。私共は耳によりて、けがれたる事を聞きましたから、其處そこに血を注がねばなりません。私共は聞く事について責任があります。ルカ八・十八を御覽なさい。『きくことをつゝしめ』、英語にて "Take heed therefore how ye hear" すなはち私共は、如何なる心の狀態ありさまにて人の話を聞きますか。私共は聽きやうに注意しなければなりません。例令たとへば或る信者は說敎を聽く時に、輕々しい心をもって聞きます。又或る信者はこれを聽く時に、深く省みて自分の心を探ります。私共は聽きやうを愼まねばなりません。マコ四・廿四を御覽なさい。『きくところをつゝしめよ』(Take heed what ye hear)。路加傳ルカでんの方は私共のはたらきしゅになります。私共は如何どういふ聽きやうをしますか。けれども馬可傳マコでんの方は、その事柄がしゅになります。私共の聽く事は如何いかなる事柄ですか。私共は聽く事に氣を付けなければなりません。今迄いまゝで喜んでけがれたる事、あるひは兄弟の名譽にかゝはる事、あるひは罪の話を聞きましたならば、それを悔改くいあらためなければなりません。さういふ事により自己おのれけがします。又神の前に罪を犯します。私共は聞く所を愼まなければなりません。聖なる油を求めまするならば、第一に耳に聖潔きよめの血を注がねばなりません。

 第二は手であります。働くことによりて罪を犯しました。右の手をもっ度々たびたびしき事を行ひました。度々たびたび自己おのれために働きました。さうですからその所に血を注がねばなりません。しへん二十四・三、四を御覽なさい。今迄いまゝで自分おのれおこなひを考へて見ますれば如何どうですか。あるひきよき山にのぼる事が出來る者ですか。あるひは出來ぬ者ですか。し出來ぬ者でありましても、今悔改くいあらためて主の血によりて手きよき者となる事が出來ます。

 第三は足であります。それは步む事を指します。時々刻々のあゆみを指します。今迄いまゝで日々のあゆみよりて罪を犯しました。神の聖旨みむねそむきて自分おのれみちを步みました。さうして度々たびたび罪を犯しました。それゆゑにそれを悔改くいあらためて、其所そのところにも血の聖潔きよめを得ねばなりません。みたまを求めまするならば、其樣そのやうに心を探り、一々悔改くいあらためて、一々血の聖潔きよめを得なければなりません。けれどもさいはひ從來いまゝでの罪を赦さるるのみならず、今からきよき生涯をくらす力を頂戴することが出來ます。

十 五 節

 丁度ちゃうど血を注ぎたる同じ所に、聖なる油を注ぎます。これはじつさいはひです。私共は今迄いまゝでの罪を悔改くいあらためましても、自分できよき生涯をくらす力がありません。けれどもきよめられたる者は、丁度ちゃうど悔改くいあらためたるところきよき力と神のめぐみを頂戴する事が出來ます。聞く所について、これから耳をきよめて守るためきよき力を受くる事が出來ます。今まで手をもっあしき事を行ひましたから、これから神のために働くことが出來るやうに聖靈の油を受けます。今迄いまゝで度々たびたびあしき道を步みましたから、血のきよめを得ました。今きよみちを步むために、聖靈の油を受くる事が出來ます。

 この油は十六節をはりにある如く、七回なゝたびヱホバの前にそゝがれたる油であります。それは神の前に働き給ふ聖靈と、癩病人に與へられたる聖靈と同じ事である事を示します。今天に働き給ふ聖靈も、私共に與へられたる聖靈も、同じ聖靈であります。夫故それゆゑに天における如く地においても神の聖旨みむねを行ふ事が出來ます。さうですからこの十七節を御覽なさい。これはその人のうちに聖靈を受くる事を指します。十八節を御覽なさい。これはその人の上に聖靈を受くる事を指します。ヨハネ十四・十七を御覽なさい。『そは彼なんぢらとともありかつ爾曹なんぢらうちをればなり』。しとぎゃう一・八を御覽なさい。『聖靈なんぢらに臨むによりて』。英語にては "The Holy Ghost is come upon you" すなはち聖靈なんぢらの上にきたり給ふ事を指します。これは三つの階段を指します。聖靈は共にいまし給ひます。聖靈はうち給ひます。聖靈は上にくだり給ひます。度々たびたび利未レビ記のうちこの區別を見ます。七、八節は聖靈がとも給ふて、神とやはらがしめ給ふことを指します。十七節は聖靈がうちに宿り給うて、きよき心を與へ給ふことを指します。十八節は聖靈はその人の上に臨んで傳道の力を與へ給ふ事を指します。私共の祭司は主イエスです。神が私共に與へ給ふ祭司はその聖子みこであります。その手に聖靈がいまし給ひます。しとぎゃう二・三十三を御覽なさい。丁度ちゃうど十八節のやうに、私共の祭司長さいしのをさたるイエスは神から聖靈を受け給ひました。それをきよめられたる癩病人の上に注ぎ給ひます。これはじつさいはひです。私共は今まで神の前より追出おひいだされたる、けがれたる癩病人でありましても、今水と血と油とのあらひによりて、神のきよき者となりましたから、ゆたかに聖靈を頂戴することが出來ます。その時に祭司の左の手に、わづかばかりの油が殘ってあったかもわかりません。けれども私共の祭司長さいしのをさの手にゆたかなるめぐみがあります。私共の祭司長さいしのをさは、聖靈をゆたかに與へ給ひます。イザヤ四十・十二を御覽なさい。私共のたなごゝろうちには、少量わづかの水より入れる事は出來ません。けれども神はそのたなごゝろもって大洋を量り給ひます。大洋はだ神のたなごゝろうちにあります。夫程それほどめぐみがありますから、ゆたかに癩病人に注ぎ給ふ事が出來ます。じつさいはひなる事であります。

十九、二十節

 『その人はきよくならん』。これは神のあかしです。イザヤ六・七のやうに、なんぢの惡は取除とりのぞかれたりといふ神のあかしです。今迄いまゝでけがれたる者として、人々から呼ばれたる癩病人が神の前にきよき者となりました。全く神のものとなりました。

 この癩病人の聖潔きよめついて三つの階段があります。

 第一 最早いやされました。けれどもえいはいることは出來ません。
 第二 雀の血のために、きよき者となりてえいはいることが出來ました。けれどもだ自分の天幕にはいる事が出來ません。神の殿みやはいる事が出來ません。全きまじはりが出來ません。
 第三 神の前にたっきよあぶらを注がれてきよき者となります。その時に自分で自分の天幕にはいります。神の殿みやはいる事が出來ます。人間のまじはりも出來ます。神とまじはる事も出來ます。其爲そのためやうやく全き安息を得ます。今までえいより追出おひいだされて、諸所しょしょを迷うてりました。今神の前に受け入れられて安息を得ます。

 オー兄弟姉妹よ、私共もきよめられたる癩病人であります。私共は生來うまれつきの癩病人であります。けれども今復一度もういちど神の前に立つことを得ます。主はその右の手にみたまもっ給ひます。何卒どうぞきよめられたる癩病人たる兄姉あなたは、あたまを下げて主御自身よりその聖なるあぶらをお受けなさい。今主にちかづいて主を仰いで聖靈をお受けなさい。

二十一節

 此處こゝに神の憐憫あはれみを見ます。神の同情、神の父なる事をあきらかに見ます。それによりて神のめぐみを感じたう御座ります。神は罪人つみびとに是非おほいなる事を願ひ給ひません。罪人つみびとの力に應じて犧牲いけにへ献物さゝげものもとめ給ひます。神は何時いつでも其樣そのやう罪人つみびと待遇あしらひ給ひます。罪人つみびと聖潔きよめを願うて、その力量ちからに及ばぬ事を願ひ給ひません。悔改くいあらためよと命じ給ひまするならば、必ずその罪人つみびとにそれ程の力があります。信ぜよといひ給ひまするならば、必ずその罪人つみびと力量ちからよりは六ヶむつかしい事ではありません。時により悔改くいあらたむる事は出來ぬといひます。信ずることは出來ぬといひます。神は罪人つみびとすくひために、出來ぬことをいひ給ひません。貧しくありまするならば、神は同情をへうし給ひます。その貧しきに從うて聖潔きよめの方法を命じ給ひます。これは福音の榮光さかえであります。ほかの人間に造られたる宗敎の有樣ありさまを見まするならば、罪人つみびと自己おのれきよめんがために、六ヶむつかしい事をせねばなりません。神はそんな事を命じ給ひません。マタイ十一・五を御覽なさい。これは福音の榮光さかえであります。貧しき者に到るまで、福音が宣傳のべつたへられました。しへん七十二・十二〜十四を御覽なさい。其樣そのやうに主は貧しき者を省み給ひます。何卒どうぞそれよりて、神の聖旨みむねを悟りたう御座ります。又それを考へて、自分は弱き者でありましても、信仰の貧しき者でありましても、遠慮なくして主の足許あしもとに參ることが出來ます。格別にこゝに貧しき癩病人が聖潔きよめを頂戴することを見ます。信仰の貧しき者でも、聖潔きよめを頂戴することを見ます。信仰の貧しき者でも、そゝぎの油を頂戴する事が出來ます。芥種からしだね程の信仰がありましても、神はそのためたふとめぐみそゝぎ給ひます。

二十二節

 『その手のとゞくところ』とあります。三十節にも、三十一節にも同じことばがあります。じつにこれは愛の深いことばです。じつにそれによりて神の愛とめぐみわかると思ひます。その手の及ぶ所、神はだそれを願ひ給ひます。時によりて私共は彼樣あのやうな人は性質が立派ですから、神のめぐみを受くることが出來ます。けれども自分の性質は、はるかに劣ってゆゑに、そのやうめぐみを受くる事が出來ぬと思ひます。けれどもこれは神のめぐみを信ぜぬ不信仰であります。神は私共にその手の及ぶ程の信仰を願ひ給ひます。又それけの信仰を出しまするならば、必ず全き聖潔きよめと全き油灑あぶらそゝぎを頂戴する事が出來ます。

三十三〜三十六節

 これは家の癩病です。人間は自分の罪のために、自分をけがします。けれどもそれのみならずして、住家すみかをもけがします。アダムが罪を犯しました時に、だ自分をけがしましたのみならず、エデンの園をもけがしました。又この世をけがしました。私共はそれがわからぬかも知れません。けれどもそれは事實であります。私共の罪は造られたる物に傳染しました。今全世界の造られたるものゝ有樣ありさまを見まするならば、人間の罪のために呪はれたる者であります。人間の罪の傳染を受けて最早けがれたる者となりました。ロマ八・十九〜廿二を御覽なさい。

 そのやうに人間の罪のためすべての造られたる者は呪はれました。癩病を得ました。この住居すみかが癩病を得ますならば、必ずそれにすまふ者の罪のためであります。この住居すみかは敎會を指します。其他そのたあるひは人間のあつまれる會社を指します。敎會のうちにも、度々たびたび癩病の患處くゎんじょが出ます。エペソ五・三〜十一を御覽なさい。

 敎會のうちに、會社のうちに、こんなけがれがおこりまするならば、どう致しませうか。三十六節の如く、づ『その家をあけしむ』る事です。さうですからく檢査する事が出來ます。すべての道具をことごとく家より出します。すこしも隱れたるところがありません。家を檢査するさまたげとなる者をことごとく出します。さうしてその敎會あるひは會社を神の前に探ります。哥後コリントご十二・二十を御覽なさい。パウロはその敎會を探るために參りました。パウロのおそれは何でありましたかならば、その敎會のうちに最早癩病人が出た事であります。又今かういふ事によりて、癩病の患處くゎんじょが最早現れたることを恐れます。

三十八節

 けれども早く癩病人をさばくことはよくありません。しづかに調べてそれをさばかなければなりません。七日なぬかあひだとぢおくことは悔改くいあらため時日ときを與ふる事です。その七日なぬかあひだ悔改くいあらためますか。あるひ尚々なほなほあしくなりますか。いづれかです。今この世の有樣ありさまを見まするならば、神はこの三十八節の如くに取扱とりあつかひ給ひます。今はこの三十八節の時代です。この世に癩病の患處くゎんじょが出ました。けれども神はすみやかにそれをさばき給ひません。暫くこの世をそのまゝに置き給ひます。さうですからをはりに本當に癩病であることを示し給ひます。本當にいやす事の出來ぬ恐ろしき癩病である事が、何人なんぴとの眼の前にも明白あきらかに見えます。

 私共は今罪のおそろしき事がわかりませんから、神が罪人つみびとかぎりなき刑罰を與へ給ふ事はあまり嚴しき事と思ふかも知れません。けれどもそれはだ罪の眞相を悟らぬからです。をはりこの家の本當の有樣ありさまあきらかに見まして、たれその家は全くこぼたねばならぬことがわかりまするやうに、をはりに罪の本當の有樣ありさまわかりまする時に、神の審判さばきは正當であることがわかります。

三十九節

 『祭司第七日なぬかめにまたきたりてるべし』。主がきたり給ふ時がこゝに見えます。『その患處くゎんしょもし家の壁に蔓延ひろがりをらば』、癩病の患處くゎんじょは今でも働きます。癩病の毒は今でも働きます。けれどもをはりに全くあらはれて參ります。

四 十 節

 神は何時いつでもめぐみもって、罪人つみびと取扱とりあつかひ給ひます。又出來るだけ罪人つみびとを救ひ給ひたう御座ります。神は何時いつでもめぐみみちを示して、この世を取扱とりあつかひ給ひます。時によりてノアの洪水の時に全くけがれたる者を取除とりのぞいて、この家すなはこの世をきよめ給ひました。敎會の事を考へて見まするならば、神は同じやうに敎會をも待遇とりあつかひ給ひます。第一はじめだそのけがれたる石、すなはち一個人を取除とりのぞき給ひます。提前テモテぜん一・二十を御覽なさい。そのやうけがれたる住家すみかの石を取除とりのぞきます。

四十一節

 『これまちの外の汚穢所けがれどころけ』。もくし二十二・十五を御覽なさい。この四十一節と同じことです。哥前コリントぜん五・二十一〜十三を御覽なさい。パウロはそのやうにコリントの敎會を取扱とりあつかひました。彼は住家すみかけがれたる石を全く追出おひいだしました。今でも敎會のうちに、癩病が出まするならば、傳染の恐れがありますから、敎會全體のために、この石を追出おひいださねばなりません。エズラ九・一〜三を御覽なさい。彼所あすこで癩病の患處くゎんじょが出ました。けれどもその時に全くそのけがれを捨てました。おなじく十・十七を御覽なさい。そのやうけがれたる事を全く追出おひいだしました。けれどもそれのみではありません。四十一節を見まするならば、『その家の内の四周まはりけづらしむべし』とあります。その癩病を得ません石でも、あるひけがれを得てをります。あるひその恐れがあるかも知れません。けがれを得ておりまするならば、漸々だんだん癩病が出來るといふ恐れがあります。そのすべての石を全くけづらねばなりません。それは何を指しますかならば、けがれたる罪人つみびとのみならず、その敎會あるひは會社に屬するものを、ことごとく探らねばなりません。復一度もういちど神の前に裸になって參らねばなりません。哥後コリントご七・十一を御覽なさい。そのやうけがれたる石を追出おひいだすことのみではありません。その殘りの石を皆けづりました。さうして皆々新しくなりました。しとぎゃう五・十一を御覽なさい。そのけがれたる石を追出おひいだしました。けれどもそれのみではありません。すべての信者がおほいに恐れを抱きました。さうですから敎會がきよめられました。

四十三節

 皆全くきよめられました。けれども『のちにその患處くゎんしょもし再びおこりて家に發しなば』とあります。一個人としてこれが度々たびたびおこります。又敎會としてそれがおこるかも知れません。ヘブル六・四〜六彼後ペテロご二・廿を御覽なさい。これはたゞに一個人としておこるのみではありません。度々たびたび敎會あるひは會社でさういふ事があらはれます。さうですから全くそれを解かねばなりません。斷然それを解く方がよろしう御座ります。士師記を見まするならば度々たびたびさういふ事を見ます(二・十七、十九、三・十二、四・一)。如斯このやうに神は度々たびたびすくひを與へ給ひます。又イスラエルびと度々たびたび悔改くいあらためました。けれどもた惡を犯しました。さうですから最早仕方がありません。神はその家をこぼち給はねばなりません。代下れきだいげ三十六・十六を御覽なさい。『つひに救ふべからざるに至れり』。神はその愛するユダヤびとを棄て給はねばなりません。全くこぼち給はねばなりません。バビロンの捕虜とりこに導き給ひました。さうしてイスラエルといふ國がくなりました。さうですから敎會のうちに癩病人を見まするならば、じつにそれは恐るべき事です。またおこりまするならば尚々なほなほ恐るべきことです。あるひは神は全くそれをこぼち給ふかも知れません。

四十八節

 じつさいはひです。患處くゎんじょえたる者であれば、きよき者となります。哥前コリントぜん六・十一を御覽なさい。そのやうに家がいやされました。さうですから祭司がそれをきよき者となします。

 如斯このやうきよめられました。けれども惡のあがなひがなければなりません。恰度ちゃうど癩病人がきよめられました時のやうに、今住家すみかために血のあがなひを献げねばなりません。主の聖血ちしほはたゞ人間のためのみではありません。全世界の罪のために流されました。この地上のすべての物のために流されました。動物のためにも流されました。又天國のためにも流されました。天使てんのつかひためにも流されました。西コロサイ一・二十を御覽なさい。地上ちのうへる者、天にる者、皆血のあがなひがなければなりません。又この聖血ちしほあがなひためけがれたる者が、復一度もういちど神の前にきよき者となります。それによりて主の血の功能いさをしと力がわかります。それによりて主はすべての物を神にやはらがしめ給ふことを見ます。

 さうですから今私共の四周まはりに癩病のけがれを見ましても、惡の勝利を見ましても、又そのために神の住家すみか殘趾あとばかりを見ましても、つひに主は必ず勝利を得給ひます。善は必ず勝利を得ます。必ずさうです。私共も必ずその日においきよき敎會を見ます。きよき地を見ます。きよき天を見ます。オー神は全く癩病をとゞめ、癩病にかゝってる者を、全くきよめ給ふに相違ありません。



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