第十四章  癩病人の潔礼



 十三章において癩病をいかにして認めることができるかを見ます。けれども癩病を癒す方法を見ません。神の救いを見ません。十四章においていかにして癩病が潔められるかを見ます。ここで神の恵みを見ます。またその救いの力を見ます。昔癩病人がこの式によって癒されたことはありません。けれどもこの式の意味が分かりますならば、今の心の癩病人がかように水と血と油の洗いによって潔き者となることができます。これは癩病の潔めの道であります。

【一〜三節】
 聖き祭司は営の外に往きて癩病人のおる所に至るまで自己を卑くして下りました。これは実に幸いです。主イエスは神の営の外に往きて癩病人のおる所に至るまで自己を卑くして下りたまいました。また今でも主は自己を卑くして癩病人のおる所に至るまで下りたまいます。癩病人は潔められとうございますならば必ず栄光ある主に近づかねばなりません。私共の祭司はその人の足下に至るまで下りたまいます。そうですからこの癩病人は自己の方から祭司の許に参らねばなりません。その営の外において祭司に出会うことができます。またその出会うことによって癩病人は潔められることができます。

【四節】
 癩病人が献ぐべき犠牲はこの鳥二羽であります。原語では雀二羽であります。マタイ十・二十九をご覧なさい。それゆえにこの二羽の雀は実に価値があります。神はかように癩病人に同情を表したまいます。癩病人は必ず金銭がありませんから神はその人の貧窮に応じて犠牲を献ぐべきことを命じたまいます。それによって神の恵みが解ります。神は私共のできぬことを命じたまいません。その人の力に応じて或いは信仰、或いは献げ物を命じたまいます。
 『香柏の木と、緋の糸と、ヒソプとを取ってこさせ』。雀と一緒にヒソプと香柏と緋の糸を取りました。こういうものをもって箒を造りました。その柄を香柏の木にて造りました。その尾をヒソプにて造りました。また緋の糸をもってヒソプを香柏の木に括り付けました。この箒をもって血を注ぎました。ヒソプはどこにでも生える草ですからいずれにても取ることができます。それは信仰を指します。何故ですかならば、私共は不断信仰を延ばすことができます。同じ信仰を使っていま主の贖いを受け入れなければなりません。またその香柏の柄は変わらざることを指します。香柏の木は朽ちざる樹ですから何時でも同じような信仰を持つことができます。また緋の糸は血の色ですから新しき命を指します。血はその人の生命ですから格別に新しき生命を指します。

【五〜七節】
 それゆえにこの二羽のうち、一羽は殺すべきものであります。一羽は自由に放つべきものであります。この二羽は何を指しますかならば、汚れたる者なる罪人と、潔き者なるイエスを指します。
 そうですから罪人たる私共は殺されるべき者であります。けれども主イエスは私共の受くべき死を受けて死にたまいました。それゆえに私共は自由を得ることができます。ローマ五・六をご覧なさい。かように潔き者が罪人のために死にたまいました。この二羽の中の聖き者が死にましたから悪しき者が救われました。その活きている雀はその殺されたる雀の血に浸されました。その鳥は友の血を灌がれます。救われたる罪人はその友たるキリストの血を灌がれねばなりません。ヘブル十二・二十四に『そそがれた血』とあります。私共はそれを受けねばなりません。その血は私共の友なるイエスの血であります。けれどもそればかりではありません。この活ける鳥は血と水とにそそがれました。何故なれば殺されたる鳥は、器の内に活ける水の上に殺されました。それゆえに水と血が混ざっております。水及び血によってそそがれました。ヨハネ十九・三十四をご覧なさい。主の贖いによって贖いの血も聖潔の水も出て参りました。殺されたる鳥から血と水も出ます。私共はこの二つのものにそそがれて潔き者となります。エゼキエル三十六・二十五をご覧なさい。
 そのようにそそがれたる鳥は自由に野に放たれました。その翼の上に血も水もあるままで自由に放たれました。私共はそのように主によって自由を得ます。格別に主の復活によって復活した者となって罪より全く自由を得ます。この鳥は今まで或いは殺されるかも知れぬという心配がありました。けれども今、他の鳥の死のために自由を得ました。私共はそのように自由を得たる者です。
 或る人は、この殺されたる鳥は主の死を指し、また放たれたる鳥は主の復活を指すと申します。そういう意味が含んであると思います。私共は主の復活のために自由を得ます。
 救われたる者はこの血にそそがれて潔められ自由に放たれる鳥のごときものです。天を仰ぎ翼を張って登ることができる鳥のごときものです。新しき歌をうたって神に感謝している鳥のごときものです。この犠牲は実に美しき譬話であります。ここに明らかに救いの道と、救いの喜びを見ます。小児にも大人にも罪の赦しの道を説きとうございますならば、どうぞこの美しき譬話を藉りとうございます。

【八節】
 七節の中頃に『清い者とし』とあります。血にそそがれたる者は神の前に潔い者となりました。今この犠牲を献げた癩病人は神の前に聖き者となりました。そうですから自己を潔めなければなりません。これはいつでも神の順序です。神は私共を潔き者となしたまいますから私共は自分を潔めなければなりません。神は私共を自分の子とならしめたまいますから神の子供に適う生涯を暮らさなければなりません。人間の思想はちょうど反対です。自己を潔めて漸次神の前に潔き者となりたく思います。善き人間となるならば神の子となることができるかも知れぬと思います。けれどもこれは大いなる間違いです。この七節のごとく血のそそぎによって神の前に潔き者となりました。それゆえに八節のごとくに自己を潔めなければなりません。血の潔めのために神に受け入れられたる者となりました。水の潔めのために自己を潔めることによって神と交わることができます。血の潔めのために神の刑罰を免れました。水の潔めのために神と美わしき交際をなすことができます。コリント後書七・一をご覧なさい。『自分をきよめ』。これはちょうどこの八節を指します。けれどもそればかりではありません。剃刀をもって自己を潔めねばなりません。ところによって剃刀の利き刃をもって物を切り落として自己を潔めます。その毛を悉く剃り落とします。その毛は旧き生涯より起こることを指します。旧き人より出ずるものであります。それゆえにかようなものは剃刀をもって切り落とさねばなりません。コロサイ三・五をご覧なさい。『殺してしまいなさい。』これは利き剃刀をもって全くそれを切り落とすことです。どうぞ愛する兄弟姉妹よ、かしこで全き働きをなさい。私共はそういうことを惜しみて旧き毛を少しく残しておきます。この汚れたる処を幾分か残しておきますならば、癩病人は必ず全き者となることができません。どうぞその剃刀をよく使ってその身の全体にその剃刀を用いとうございます。そうして旧き人から出る行為を剃り落としとうございます。『その後、宿営にはいることができる。』この憐れむべき者は今まで営の外におって汚れたる者と交わらねばなりませなんだ。いま営に入ることができます。愛する妻子や親族と交わることができます。潔められたる者はそのように聖き交わりをすることができます。コリント後書二・七、八をご覧なさい。これは癩病人でありました。けれども潔められましたから今一度潔き者の営に受けよと書き送りました。
 この癩病人は未だ自己の天幕に入ることはできません。未だ全き交わりがありません。けれども以前の有様と比べますならば実に美しゅうございます。後に第二の聖潔によって自分の天幕に入ることができます。また神の聖き所に入ることができます。第二の聖潔によってほんとうに人間と交わり神と交わることができます。今までただ赦しを得ました。それによって営の外を離れて内に入ることができました。けれどもこれからのちに自分の天幕に入り、神の天幕に入って親しく交わりをすることができます。サムエル後書十四・二十四をご覧なさい。今までアブサロムは自分の罪のためにその所より追い出されておりました。いま罪の赦しを得てエルサレムに帰ることができました。けれども未だ王の顔を見ることはできません。ほんとうの交わりがありません。癩病人も同じことです。第一に罪の赦しを得ました。けれども未だほんとうの交わりを得ません。七日目の後の聖潔によってほんとうの交わりをなすことを得ます。

【九節】
 これは第二の恵みです。またこの聖潔と献げ物によってこの人は油注ぎの恵みを得ます。一週間以前に鳥の犠牲と水の洗いによってこの人はまた営に入ることができました。いま水と血と油の洗いによって完きイスラエル人となることができます。第一の聖潔は私共の悔い改めを指します。第二の聖潔は私共の聖霊を受けることを指します。或る信者は第一の聖潔を得たるだけにて満足します。第一の聖潔を得たることは幸いです。癩病人は神の赦しと潔めを得て営に入ることができます。またイスラエル人の一人となりました。これは実に貴き恵みです。けれども未だ完き救いではありません。それほどの恵みを味わいますならばますます進みて全き恵みを慕うべき筈です。第一の潔めを得たる癩病人が第二の聖潔を断りますならば実に愚かなることであります。今そういう信者をたくさんに見ます。第一の更生の恵みを得ましたから第二のペンテコステの恵みを断ります。
 八日目に癩病人がどういう恵みを得ますかならば油注ぎを得ます。その日には水の洗いもあります。血の洗いもあります。全き聖潔を得ます。けれどもその聖潔は何のためですかならば油注ぎの準備であります。私共は何故聖潔を求めますかならば聖霊を受けるためです。救われた癩病人はかように第二の水と血の洗いによって油注ぎを得ました。この油注ぎは実に貴きことであります。ただ王たる者、祭司長たる者、預言者のみがこの油注ぎを得ました。けれどもこの賤しき癩病人は、そういう者と同様にこの貴き恵みに与ることができます。これは実に幸いです。神はそのように賤しき罪人に実に貴き恵みを与えたまいます。今ペンテコステの恵みを受くべき者は同様です。必ず神の聖なる者、神の貴き者、神の天使がみな聖霊に充たされております。そうですから私共のような者はペンテコステの恵みに与る望みが殆どありませんでしょうか。そういう貴き者がそれを得ますならば賤しき者はそれを得ることができませんでしょうか。いいえ、そうではありません。賤しき潔められたる癩病人は王等と共にこの聖なる油注ぎの式に与ることができます。私共も聖き者と一緒にペンテコステの恵みに与ることができます。これによってイスラエル人に対する神の溢れるほどの恵みが分かります。私共はその恵みを断りますならば、自分の大いなる損であります。けれどもそれのみではありません。神の恩を知らぬことです。この癩病人が第一の聖潔のみにて満足しますならば神の愛と恩を知らぬことを示します。私共は神が賤しき罪人のために備えたもうたすべての恵みを求めなければなりません。もしそれを求めませんならば神に対して大いなる罪であります。私共はどうして神の恵みを求めましょうか。九節をご覧なさい。七日目になすべきことがあります。七日目はいつでも一週間の終わりを指します。八日目はいつでも新しき紀元の始まりを指します。それゆえにこの恵みを受けることは、古き生涯を捨てて新しき生涯を始めることを指します。それゆえに七日目に、すなわちその週間の終わりに、全く汚れを捨てて聖潔を得なければなりません。それは七日目になすべきことです。必ず一週間前に八節に録されたるごとく聖潔を得ました。けれどもいま油注ぎを求める者は心を探って今一度聖潔を求めて自己を潔くせねばなりません。
 けれどもこの第二の恵みはただ全き聖潔のみではありません。或る人はただ聖き心を求めます。それは間違いです。それはただ七日目になすべきことであります。八日目になおなお進んで油注ぎを頂戴することができます。私共は何故に聖潔を得ますかならば、霊を受けるための準備であります。それゆえにこの油注ぎを求めねばなりません。

【十、十一節】
 その八日目に羔羊三匹を取ります。この癩病人が営より追い出されました時に、すなわち友人がありません時に献ぐべき犠牲はただ二羽の雀であります。けれどももはや営の内に入りましたから、もはや友人と交際ができました時になすべき献げ物は羔羊三匹であります。またかしこになおなお深き意味があります。第一の聖潔を求める時にあまり主の贖罪の価値が分かりませなんだ。ただ二羽の雀のように軽々しく思いました。けれども第二の聖潔を求める時になおなおその贖罪の価値が分かって参りましたから、いま羔羊のように主を見ることができます。幸いにいま癩病人は神に犠牲を献げることを許されます。今まで癩病人として聖なる神に犠牲を献げることができませなんだ。私共は罪人たるときに神の喜びたもう献げ物を献げることはできません。けれどももはや救いを得たる者は霊を求めますから、神の喜びたもう献げ物を献げることができます。またそれによって神の聖旨を喜ばせ、神に受け入れられることができます。
 十節に『小羊の全きもの』とあります。ヨハネ一書三・五をご覧なさい。『彼にはなんらの罪がない』とあります。主は自ら罪なき全き羔羊でありましたから私共のために全き義性となりたもうことができました。
 十一節に『清めをなす祭司』とあります。これは格別に主を指します。私共を潔めたもう祭司は主イエスを指します。けれども罪人を神に導く働き人でも、神の潔めごとをなすところの祭司と言われると思います。使徒行伝九・十七においてアナニヤは潔めごとをなすところの祭司でした。使徒行伝八・三十五においてピリポはこの寺人の潔めごとをなすところの祭司でした。私共はこの聖き務めをなすべき者でありますから、歓喜をもって汚れたる罪人を聖き油注ぎに導きとうございます。
 いま私共は聖潔について共に研究しました。どうぞもはや更生の恵みを得た者でも全き恵みをお求めなさい、全き聖潔と油注ぎをお求めなさい。もはや神に近き者と言われましょう。けれどもなおなお潔きことを経験しなければなりません。この章の七節をご覧なさい。『その人を清い者とし』。そうですからその時に神の聖前に潔き者でありました。けれどもなおなお深き聖潔の経験を求めます。九節の終わりに『清くなるであろう。』これは第二の聖潔であります。また二十節をご覧なさい。『その人は清くなるであろう。』その時に完き神の油を得ましたから、神の聖前に聖霊を受けた者となりましたから、なおなお深き意味にて潔き者となりました。この癩病人は三度潔き者と言われます。その潔き中に三つの階段があります。そうですからもはや生まれ変わりました者でもどうぞ全き聖潔をお求めなさい。ほんとうに自分も満足し、神も満足なしたもうまで、聖潔を求めとうございます。
 『主の前に置き』。これは実に幸いです。今まで癩病人は営より追い出されました。十三・四十六のごとく営に近づくことができませなんだ。けれども今までの血と水の聖潔のために大胆に神の前に立つことを得ます。また油注ぎを受ける所は、神に近づいて神の聖前に立つ所であります。必ず他の処において神の聖なる油注ぎを頂戴することはできません。ペンテコステの時に百二十人が聖霊を待ち望んだ時に、祈禱をもって神に近づき、神の聖前に立つことを得ました。かしこでその恵みを待ち望みました。コルネリオが神の恵みを待ち望みました時に同じように神の聖前に立つことを得ました(使徒行伝十・三十三)。あたかもこの癩病人が油注ぎを待ち望んで神の聖前に立ちましたごとくでした。私共は時として兄弟の話によって、或いは集会の感化によって恵みを得ようと思います。けれどもこれはたびたび大いなる間違いです。私共は自分独り神に近づいて神の聖前に立たなければなりません。

【十二、十三節】
 罪祭によって今まで犯したところの罪が全く赦されたことを見ます。私共は油注ぎを求めますならば明らかに罪祭たる主イエスを見なければなりません。明らかに主の血の力を見なければなりません。その血によって神と和らぐことを得たることを確信しなければなりません。またその時に必ず自分の罪を感じます。今まで種々の罪を犯しましたからその罪の赦しのために血を注がなければなりません。

【十四節】
 その意味は何ですかならば、この人は耳においても手においても足においても神に対して罪を犯しました。五体において罪を犯しました。そうですからその血をあまねく注がねばなりません。私共は耳によって汚れたることを聞きましたからそこに血を注がねばなりません。私共は聞くことについて責任があります。ルカ八・十八をご覧なさい。『どう聞くかに注意するがよい。』英語にて "Take heed therefore how ye hear." すなわち私共は如何なる心の状態にて人の話を聞きますか。私共は聞きように注意しなければなりません。たとえば或る信者は説教を聞く時に軽々しい心をもって聞きます。また或る信者はこれを聞く時に深く省みて自分の心を探ります。私共は聞きようを慎まねばなりません。マルコ四・二十四をご覧なさい。『聞くことがらに注意しなさい。(Take heed what ye hear.)』ルカ伝の方は私共の働きが主になります。私共はどういう聞きようをしますか。けれどもマルコ伝の方はその事柄が主になります。私共の聞くことは如何なる事柄ですか。私共は聞くことに気を付けなければなりません。今まで喜んで汚れたること、或いは兄弟の名誉にかかわること、或いは罪の話を聞きましたならば、それを悔い改めなければなりません。そういうことによって自己を汚します。また神の前に罪を犯します。私共は聞くところを慎まなければなりません。聖なる油を求めますならば第一に耳に聖潔の血を注がねばなりません。
 第二は手であります。働くことによって罪を犯しました。右の手をもってたびたび悪しきことを行いました。たびたび自己のために働きました。そうですからその所に血を注がねばなりません。詩篇二十四・三、四をご覧なさい。今まで自分の行いを考えて見ますれば如何ですか。或いは聖き山に登ることができる者ですか。或いはできぬ者ですか。もしできぬ者でありましても、いま悔い改めて主の血によって手の聖き者となることができます。
 第三は足であります。それは歩むことを指します。時々刻々の歩みを指します。今まで日々の歩みによって罪を犯しました。神の聖旨に背き自分の途を歩みました。そうしてたびたび罪を犯しました。それゆえにそれを悔い改めて血の聖潔を得ねばなりません。霊を求めますならば、そのように心を探り一つ一つ悔い改めて一つ一つ血の聖潔を得なければなりません。けれども幸いに従来の罪を赦されるのみならず、今から潔き生涯を暮らす力を頂戴することができます。

【十五節】
 ちょうど血を注ぎたる同じところに聖なる油を注ぎます。これは実に幸いです。私共は今までの罪を悔い改めましても自分で潔き生涯を暮らす力がありません。けれども潔められたる者はちょうど悔い改めたるところに聖き力と神の恵みを頂戴することができます。聞くところについてこれから耳を潔めて守るために潔き力を受けることができます。今まで手をもって悪しきことを行いましたからこれから神のために働くことができるように聖霊の油を受けます。今までたびたび悪しき道を歩みましたから血の潔めを得ました。いま潔き途を歩むために聖霊の油を受けることができます。
 この油は十六節の終わりにあるごとく七回主の前に注がれたる油であります。それは神の前に働きたもう聖霊と癩病人に与えられたる聖霊と同じことであることを示します。いま天に働きたもう聖霊も、私共に与えられたる聖霊も同じ聖霊であります。そのゆえに天におけるごとく地においても神の聖旨を行うことができます。そうですからこの十七節をご覧なさい。これはその人の衷に聖霊を受けることを指します。十八節をご覧なさい。これはその人の上に聖霊を受けることを指します。ヨハネ十四・十七をご覧なさい。『なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。』使徒行伝一・八をご覧なさい。『聖霊があなたがたにくだる時』。英語にては "The Holy Ghost is come upon you" すなわち聖霊汝らの上に降りたもうことを指します。これは三つの階段を指します。聖霊は共に在したまいます。聖霊は衷にいたまいます。聖霊は上に降りたまいます。たびたびレビ記の中にこの区別を見ます。七、八節は聖霊が偕にいたもうて神と和らがしめたもうことを指します。十七節は聖霊が衷に宿りたもうて潔き心を与えたもうことを指します。十八節は聖霊はその人の上に望んで伝道の力を与えたもうことを指します。私共の祭司は主イエスです。神が私共に与えたもう祭司はその聖子であります。その手に聖霊が在したまいます。使徒行伝二・三十三をご覧なさい。ちょうど十八節のように私共の祭司長たるイエスは神から聖霊を受けたまいました。それを潔められたる癩病人の上に注ぎたまいます。これは実に幸いです。私共は今まで神の前より追い出された汚れたる癩病人でありまして、いま水と血と油との洗いにより神の潔き者となりましたから豊かに聖霊を頂戴することができます。その時に祭司の左の手にただ僅かばかりの油が残ってあったかも分かりません。けれども私共の祭司長の手に豊かなる恵みがあります。私共の祭司長は聖霊を豊かに与えたまいます。イザヤ四十・十二をご覧なさい。私共の掌の中にはただ少量の水より入れることはできません。けれども神はその掌をもって大洋を量りたまいます。大洋はただ神の掌の裡にあります。それほどの恵みがありますから豊かに癩病人に注ぎたもうことができます。実に幸いなることであります。

【十九、二十節】
 『その人は清くなるであろう。』これは神の証です。イザヤ六・七のように汝の悪は取り除かれたりという神の証です。今まで汚れたる者として人々から呼ばれた癩病人が神の前に潔き者となりました。全く神の属となりました。
 この癩病人の聖潔について三つの階段があります。
 第一 もはや癒されました。けれども営に入ることはできません。
 第二 雀の血のために潔き者となり営に入ることができました。けれども未だ自分の天幕に入ることができません。神の殿に入ることができません。全き交わりができません。
 第三 神の前に立って聖き油を注がれて潔き者となります。その時に自分で自分の天幕に入ります。神の殿に入ることができます。人間の交わりもできます。神と交わることもできます。そのために漸く全き安息を得ます。今まで営より追い出されて諸所を迷っておりました。いま神の前に受け入れられて安息を得ます。
 私共も潔められたる癩病人であります。私共は生来の癩病人であります。けれども今もう一度神の前に立つことを得ます。主はその右の手に霊を持っていたまいます。どうぞ潔められたる癩病人たる兄姉は頭を下げて主ご自身よりその聖なる油をお受けなさい。いま主に近づいて主を仰いで聖霊をお受けなさい。

【二十一節】
 このところに神の憐れみを見ます。神の同情、神の父なることを明らかに見ます。それによって神の恩を感じとうございます。神は罪人にぜひ大いなることを願いたまいません。罪人の力に応じて犠牲と献げ物を求めたまいます。神は何時でもそのように罪人を待遇したまいます。罪人の聖潔を願ってその力量に及ばぬことを願いたまいません。悔い改めよと命じたまいますならば必ずその罪人にそれほどの力があります。信ぜよと言いたまいますならば必ずその罪人の力より難しいことではありません。時によって悔い改めることはできぬと言います。信ずることはできぬと言います。神は罪人に救いを得させるためにできぬことを言いたまいません。貧しくありますならば神は同情を表したまいます。その貧しきに従って聖潔の方法を命じたまいます。これは福音の栄光であります。人間が造った宗教の有様を見ますならば、罪人は自己を潔めんがために難しいことをせねばなりません。神はそんなことを命じたまいません。マタイ十一・五をご覧なさい。これは福音の栄光であります。貧しき者に至るまで福音が宣べ伝えられました。詩篇七十二・十二〜十四をご覧なさい。そのように主は貧しき者を顧みたまいます。どうぞそれによって神の聖旨を悟りとうございます。またそれを考えて、自分は弱き者でありましても、信仰の貧しき者でありましても遠慮なくして主の足許に参ることができます。格別にここに貧しき癩病人が聖潔を頂戴することを見ます。信仰の貧しい者でも聖潔を頂戴することを見ます。信仰の貧しき者でも注ぎ油を頂戴することができます。芥種ほどの信仰がありましても神はそのために貴き恵みを注ぎたまいます。

【二十二節】
 『その手の届く』とあります。三十節にも三十一節にも同じ言葉があります。実にこれは深い言葉です。実にそれによって神の愛と恵みがよく解ると思います。その手の及ぶところ、神はただそれを願いたまいます。時によって私共は、かの人は性質が立派ですから神の恵みを受けることができます、けれども自分の性質は遙かに劣っているゆえにそのような恵みを受けることができぬと思います。けれどもこれは神の恵みを信じぬ不信仰であります。神は私共にその手の及ぶほどの信仰を願いたまいます。またそれだけの信仰を出しますならば必ず全き聖潔と全き油注ぎを頂戴することができます。

【三十三〜三十六節】
 これは家の癩病です。人間は自分の罪のために自分を汚します。けれどもそれのみならずして住む家をも汚します。アダムが罪を犯しました時に、ただ自分を汚したのみならずエデンの園をも汚しました。またこの世を汚しました。私共はそれが分からぬかも知れません。けれどもそれは事実であります。私共の罪は造られたる物に伝染しました。いま全世界の造られたる物の有様を見ますならば、人間の罪のために呪われたものであります。人間の罪の伝染を受けてもはや汚れたるものとなりました。ローマ八・十九〜二十二をご覧なさい。
 そのように人間の罪のためにすべての造られたるものは呪われました。癩病を得ました。この住居が癩病を得ますならば必ずそれに住まう者の罪のためであります。この住居は教会を指します。そのほか或いは人間の集まれる会社を指します。教会の中にもたびたび癩病の患処が出ます。エペソ五・三〜十一をご覧なさい。
 教会の中に、会社の中に、こんな汚れが起こりますならばどういたしましょうか。三十六節のごとくまず『その家をあけさせ』ることです。そうですからよく検査することができます。すべての道具を悉く家より出します。少しも隠れたるところがありません。家を検査する妨げとなるものを悉く出します。そうしてその教会、或いはその会社を神の前に探ります。コリント後書十二・二十をご覧なさい。パウロはその教会を探るために参りました。パウロの恐れは何でありましたかならば、その教会の中にもはや癩病人が出たことであります。また今こういうことによって癩病の患処がもはや現れたことを恐れます。

【三十八節】
 けれども早く癩病人を審くことはよくありません。静かに調べてそれを審かなければなりません。七日のあいだ閉じおくことは悔い改めの時日を与えることです。その七日の間に悔い改めますか。或いはなおなお悪くなりますか。いずれかです。今この世の有様を見ますならば、神はこの三十八節のごとくに取り扱いたまいます。今この三十八節の時代です。この世に癩病の患処が出ました。けれども神は速やかにそれを審きたまいません。暫くこの世をそのままに置きたまいます。そうですから遂にほんとうに癩病であることを示したまいます。ほんとうに癒すことのできぬ恐ろしき癩病であることが何人の眼の前にも明白に見えます。
 私共はいま罪の恐ろしきことが分かりませんから、神が罪人に限りなき刑罰を与えたもうことはあまり厳しいことと思うかも知れません。けれどもそれは未だ罪の真相を悟らぬからです。遂にこの家のほんとうの有様を明らかに見まして誰もその家は全く毀たねばならぬことが分かりますように、遂に罪のほんとうの有様が分かります時に神の審判は正当であることが分かります。

【三十九節】
 『祭司は七日目に、またきてそれを見』。主が再び来りたもう時がここに見えます。『その患部がもし家の壁に広がっているならば』、癩病の患処は今でも働きます。癩病の毒は今でも働きます。けれども遂に全く顕れて参ります。

【四十節】
 神はいつでも恵みをもって罪人を取り扱いたまいます。またできるだけ罪人を救いたまいとうございます。神はいつでも恵みの途を示してこの世を取り扱いたまいます。時によってノアの洪水の時に、全く汚れたる者を取り除いてこの家すなわちこの世を潔めたまいました。教会のことを考えて見ますならば、神は同じように教会をも取り扱いたまいます。第一にただその汚れたる石、すなわち一個人を取り除きたまいます。テモテ前書一・二十をご覧なさい。そのように汚れたる住処の石を取り除きます。

【四十一節】
 『町の外の汚れた物を捨てる場所』。黙示録二十二・十五をご覧なさい。この四十一節と同じ言葉です。コリント前書五・十一〜十三をご覧なさい。パウロはそのようにコリントの教会を取り扱いました。彼は住む家の汚れたる石を全く追い出しました。今でも教会の中に癩病が出ますならば、伝染の恐れがありますから教会全体のためにこの石を追い出さねばなりません。エズラ九・一〜三をご覧なさい。かの所で癩病の患処が出ました。けれどもその時に全くその汚れを捨てました。同十・十七をご覧なさい。そのように汚れたことを全く追い出しました。けれどもそれのみではありません。四十一節を見ますならば、『家の内側のまわりを削らせ』とあります。その癩病を得ません石でも或いは汚れを得ております。或いはその恐れがあるかも知れません。もし汚れを得ておりますならば漸う癩病ができるという恐れがあります。そのすべての石を全く削らねばなりません。それは何を指しますかならば、ただ汚れたる罪人のみならずその教会或いは会社に属するものを悉く探らねばなりません。今一度、神の前に裸になって参らねばなりません。コリント後書七・十一をご覧なさい。そのようにただ汚れたる石を追い出すことのみではありません。その残りの石をみな削りました。そうして皆々新しくなりました。使徒行伝五・十一をご覧なさい。その汚れたる石を追い出しました。けれどもそれのみではありません。すべての信者が大いに恐れを抱きました。そうですから教会が潔められました。

【四十三節】
 みな全く潔められました。けれども『後に、その患部が再び家に出るならば』とあります。一個人としてこれがたびたび起こります。また教会としてそれが起こるかも知れません。ヘブル六・四〜六、ペテロ後書二・二十をご覧なさい。これは啻に一個人として起こるのみではありません。たびたび教会或いは会社でそういうことが顕れます。そうですから全くそれを解かねばなりません。断然それを解く方が宜しゅうございます。士師記を見ますならばたびたびそういうことを見ます(二・十七、十九、三・十二、四・一)。このように神はたびたび救いを与えたまいます。またイスラエルはたびたび悔い改めました。けれどもまた悪を犯しました。そうですからもはや仕方がありません。神はその家を毀ちたまわねばなりません。歴代誌下三十六・十六をご覧なさい。『ついに救うことができないようになった。』神はその愛するユダヤ人を棄てたまわねばなりません。全く毀ちたまわねばなりません。バビロンの捕虜に導きたまいました。そうしてイスラエルという国が失くなりました。そうですから教会の中に癩病人を見ますならば実にそれは恐るべきことです。再起しますならばなおなお恐るべきことです。或いは神は全くそれを毀ちたもうかも知れません。

【四十八節】
 実に幸いです。患処の癒えたる者であれば潔き者となります。コリント前書六・十一をご覧なさい。そのように家が癒されました。そうですから祭司がそれを潔き者となします。
 かように潔められました。けれども悪の贖いがなければなりません。ちょうど癩病人が潔められました時のように、いま住む家のために血の贖いを献げねばなりません。主の聖血はただ人間のためのみではありません。全世界の罪のために流されました。この地上のよろずの物のために流されました。動物のためにも流されました。また天国のためにも流されました。天使のためにも流されました。コロサイ一・二十をご覧なさい。地上に在る者、天に在る者、みな血の贖いがなければなりません。またこの聖血の贖いのために、汚れたる者が今一度神の前に潔き者となります。それによって主の血の功績と力が分かります。それによって主はよろずの物を神に和らがしめたもうことを見ます。
 そうですからいま私共の四周に癩病の汚れを見ましても、悪の勝利を見ましても、またそのために神の住処の残趾ばかりを見ましても、ついに主は必ず勝利を得たまいます。善は必ず勝利を得ます。必ずそうです。私共も必ずその日において聖き教会を見ます。聖き地を見ます。聖き天を見ます。神は全く癩病を止め、癩病に罹っている者を全く潔めたもうに相違ありません。



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