第十三章  癩病について



 これは癩病の章です。すなわちここで生来の罪が洗われることが分かります。聖書において癩病は生来の罪の譬えです。またかような譬えがたびたび書いてあります。詩篇三十八篇を見ますならば何処にでも癩病の譬えがあります。五、七、十一をご覧なさい。自分の罪を癩病のように感ずる者です。私共は罪の性質が全く解りますならばかように罪の怖るべきことを知ってそれを悪みます。詩篇五十一・七をご覧なさい。これは癩病の洗い潔められることの譬えを引いてどうぞわが罪を洗いたまえと言う祈りです。ここでダビデは自分の罪が癩病のようであることが分かりました。イザヤ一・五、六をご覧なさい。ここにも癩病の譬話を見ます。罪人は全く癩病のごとく恐るべき病気に罹れる者であることを見ます。イザヤ六・五にも同じことを見ます。一節のウジヤ王は癩病でありました。けれどもイザヤはかえって自分の癩病であることを感じました。王よりも自分の方が恐るべき癩病人であることを深く感じました。イザヤ五十三・四をご覧なさい。『彼は打たれ、神にたたかれ』の言葉があります。これは原語では癩病人に使う言葉です。何時でも癩病人はかように神より打たれたる者と言います。すなわち主は私共の身代わりとなりて罪の癩病を受けたまいました。ご自分の身に罪の癩病を受け入れたまいました。それによって主が十字架に私共のために受け入れたもうた罪を悟ると思います。そうですから罪は癩病のように忌まわしきものであります。私共は癩病を忌まわしきものと思うように罪を忌まわしきものと思わねばなりません。また癩病という病気はほんとうにその性質から起こる病気です。他の病気は性質から起こりませんから速く過ぎ去ります。また身体の健康によって速く病気が追い出されます。他の病気の有様はたいがいそのようですけれど、癩病はその人の性質から起こる病気です。その人の生来の病気です。

【三節】
 そのように罪はただ表面だけのことではありません。たとえば罪は幾分かその有様を変えますならば癒えるということは言われません。文明を加え教育を施すことによって癒えるということは言われません。これは人間の性質から起こる病気です。この三節に記されたごとく、皮よりも深き病気であります。けれども罪は始めに小さきものと見えます。ちょうど癩病のごとくに始めは小さきものと見えます。小さき患処から出ます。表面ではあまり分かりません。けれどもその人の性質の中にありますならば必ず漸う悪くなってついにその人を殺します。表面ではあまり分かりませんでも、人間の性質の中にかような病気がありますから、もし神の奇蹟によって癒されませんならば必ずその人を殺すようになります。
 八節をご覧なさい。罪も必ずその通りに蔓延します。ローマ書一章のように罪より罪にいよいよ深く進んで参ります。五節をご覧なさい。かように蔓延しませんならばそれはほんとうの癩病ではありません。それによって自己を判断することができます。罪の癩病がありますならば、心の中に生来の罪がおりますならば、必ず蔓延します。けれども一時の病のような罪でありますならば必ず蔓延せずしてそのままに留まります。
 癩病でありますならば必ず肢体が腐ります。この十三章は読むことをも好みません。この癩病の説明は読むことさえ忌まわしきことです。まして罪はいかに忌まわしきものでしょうか。マタイ十五・十九をご覧なさい。ほんとうの癩病の結果を見ます。これは癩病の患処です。心の中に生来の汚れがありますならば必ずそういう患処ができて参ります。表面でそのごとくに腐れが見えます。また漸うその心の力を失います。ただ表面で見る腐れのみではありません。性質の腐れもあります。三節を見ますならば『患部の毛がもし白く変わり』とあります。罪の癩病のために人間は意志の力を失います。性質の力を失います。ローマ書七章にもそれを見ます。本当の力を失います。ホセア書七・九をご覧なさい。これは漸う力の抜ける者の絵画です。白髪がその身に混って参ります。漸う性質の力を失います。雅歌五・十一をご覧なさい。これはほんとうに力の性質があることを示します。癩病は必ずそんなものではありません。弱きところがありますならば白い毛ができて参ります。また癩病のために漸うその病気を感じません。手足に患処がありましても痛みを感じません。ちょうど罪のために同じ結果があります。エペソ四・十九をご覧なさい。『無感覚になって』。無感覚の者になります。自分の罪を構わずにおきます。罪の耻が解りません。神の愛を感じません。罪の癩病はそんなものです。また癩病は癒されません。癒すことができません。ちょうど罪と同じことです。私共はいかにして性質を癒すことができましょうか。いかにして心を治すことができましょうか。決して人間の力、或いは学問によってはできません。ローマ七・十三、二十四、エレミヤ十四・十九をご覧なさい。癒されることを望みます。けれども自分の力ではできません。そのために苦痛を得ます。けれどもエレミヤ十七・九、十四をご覧なさい。心は人間の力では癒すことはできません。けれども神を仰ぎて癒されます。エレミヤ三十・十二、十三をご覧なさい。またその反対に同十七をご覧なさい。どうぞこの二つのことを深く感じとうございます。第一に、罪は自然に癒されることはできません。罪は漸う悪くなります。罪人は漸う腐れて参ります。仕方がありません。望みがありません。漸う無感覚となって構わずにおきます。けれども今一方から見ます時に神の力で救われることができます。神の力で潔められることができます。どうぞこの二つのことによって、生来の罪の恐ろしいこと、神の完全なる恵みの力を深く感じとうございます。罪はそのままに置きますならば必ず死に至ります。癩病は死の働きの始めです。罪はちょうど同じことです。また地獄は同じことです。けれども地獄は最早その働きの全うせられたる処です。もはや莟が全く開きたるものです。罪と死は性質において同じことです。
 この十三章を見ますならば、祭司たる者はいかにして癩病を弁別することができるかを記してあります。その時代の祭司は深く神の言葉を研究して、癩病と思う者が自分の許に来る時に、神の言葉に従ってその人を審きました。その人が癩病であるや否やを大切に審きました。私共も他の人々を判断せねばなりません。私共はいかにして他の人々を判断することができますか。ただ神の聖書を研究して、その中より光を得て罪人であるや否やを判断することができます。それゆえに祭司たる者は深く神の言葉を研究せねばなりません。また時によって大胆にこの人は癩病であると定めなければなりません。これは祭司の畏るべき務めです。けれども神の前になさねばならぬことです。私共も同じようにたびたびこの人は罪人であると判断して、その人の聖潔を図らねばなりません。けれどもこの人は罪人であると定める時に、畏れと慎みとを抱かねばなりません。この十三章を見ますならば、祭司はその人を丁寧に検査してその有様を審きます。また全く定めることができませんならば、四節の終わりのごとくにその患処ある人を七日のあいだ留め置いて、また検査せねばなりません。またその人を見て深く思うことです。軽々しく定めることではありません。どうぞ軽々しく人間を審きませずして、気を付けてその人を審きとうございます。
 また幸いに癩病人の審判者は祭司です。審き主ではありません。祭司です。祭司は何でありますかならば、癩病の聖潔を助ける者です(十四章)。それを深く考えとうございます。黙示録一、二、三章のごとく、主は見透す焔のような眼をもって私共を検査したまいます。私共を判断したまいます。けれども主は私共がこの世に在る間はまだ私共の審き主ではありません。私共の祭司のような者です。また主の祭司たることは力ある務めです。すなわち癩病を潔める力を持っていたまいます。主はそんな力をもって、恵みをもって私共の癩病を指したまいます。それを審くためではありません。報いを与えるためではありません。けれども癩病の祭司としてその癩病を癒すために私共を検査したまいます。
 この章を見ますならば、或る病は癩病のごとくでした。けれども癩病でありませずして、ただ腫れ物でした。それを深く考えとうございます。この六節を見ますならば、ただ吹出物でした。二十三、二十八、三十七、三十九、四十一節をもご覧なさい。癩病の病と見えました。けれども癩病でないものがあります。このような人は神の前に潔き者であります。吹出物のごとき罪ができます。けれども性質からの罪ではありません。必ず罪は恐ろしき忌むべきものであります。けれども他の人々を判断する時に、その人の罪は癩病の罪であるか、或いは吹出物の罪であるかを見なければなりません。ほんとうに性質から起こる罪であるか、或いは一時の罪であるか、いずれかと判断せねばなりません。ユダの罪は癩病でした。滅亡に属ける罪でした。ペテロの罪はただ吹出物のごとき罪でした。表面から見ますならば少しも違わぬかも知れません。けれども性質は全く違います。神は恵みと憐れみとをもって罪人を判断したまいます。神はできるならば罪人のために申し訳を言いたまいとうございます。また神は私共をいかにして審きたまいますかならば、この四節の終わりにあるごとくにその患処ある人を七日間閉鎖し置きたまいます。それゆえその間に蔓延しませんならば潔き者と言いたまいます。けれども恐るべきことは何ですかならば、そんな吹出物からも癩病が起こることです。

【二十節】
 瘍瘡(はれもの)より癩病が起こります。それは恐ろしきことです。アダムの罪は或いは腫れ物のような罪であったかも知れません。けれどもその腫れ物より癩病が起こりました。或る人は潔き者です。けれども罪を犯します。また深く悔い改めませんならばその腫れ物より癩病が生じて汚れたる者となります。今ヨハネ五・十四をご覧なさい。癒されました。けれどもまた癩病が起こることを恐れます。また罪を犯しますならば癩病が起こるでしょう。なおなおまされる禍が起こります。そうですから罪を犯さぬようにお気をつけなさい。
 この十三・二を見ますならば、癩病の初めの徴は肉の皮の落ちです。イザヤ三・九をご覧なさい。ちょうどそのように性質に癩病がありますならば必ず皮に顕れて参ります。必ず顔色にそれを顕します。それゆえにその人を祭司の許に携え行かねばなりません。必ずその人は好みません。いま罪人は主に探られることを好みません。けれどもそれは恵みと奇蹟の道ですから、その人は神より探りを受けねばなりません。詩篇十九・十二をご覧なさい。どうぞ自分の身を主に携えて探られて罪の有様を検査せられねばなりません。ヨハネ二・二十五をご覧なさい。私共の祭司はそのように私共の心を知りたまいます。生来の有様を知りたまいます。そうですから主に見て頂かねばなりません。私共は自分の心を探ることはできません。他の兄弟は私共の心を探ることはできません。祭司の長たる主はそれを探って有様を悟らせたまいます。ヘブル四・十三、黙示録一・十四をご覧なさい。私共はたびたびそんな祭司に往きて審判を得なければなりません。罪を犯しますならば、患処が見えますならば、どうぞ主の円満なる光の中に主の導きを受けなさい。これは祭司の務めです。主の祭司たることを考えます時に、主は私共の仲保であることを考えます。祈りを捧げたもうことを考えます。けれどもそれのみではありません。祭司の務めは癩病人を探ることです。今でも主の務めは心を探りたもうことです。その人にほんとうの有様を示したもうことです。それは主の今の務めです。それゆえにどうぞ心を開いて主の足下に往き、主の探りを得とうございます。
 愛する兄弟姉妹よ、自分の思想に従って自分を審きなさいますな。どうぞ主の足下に近づいて聖書の光を得て主の審きを得なさい。祭司たる主は汝を聖き者と言いたまいますか、或いは汚れたる者と言いたまいますか。これは実に厳粛なることです。私共は祭司の前に探りを得ます。祭司は今日汝を聖き者と言いたまいますか。或いは汚れたる者と言いたまいますか。
 私共はいま聖書の明らかなる光の中に判断せられました。愛する兄弟姉妹よ、主は汝に向かって聖き者と言いたまいますならば、感謝して信仰に堅くお立ちなさい。けれども主は汝に向かって汚れたる者と言いたまいますならば、恐れをもって速やかに主の聖潔と癒しをお求めなさい。そういうことについて機会を伺いませんならばその病気は漸う悪くなって滅亡に往きます。速やかに主の奇蹟を求めて主の証を聞きて神の前に聖き者として立つことを得なさい。
 この十三章においていかにして癩病を弁えることができるかについて明らかに録されてあります。一、二、三節において、或る人はたぶん癩病人であると思います。けれども神はその人を審きたまいません。四節の終わりを見ますならば、『七日のあいだ留め置かなければならない』とあります。疑いがありますから神は恵みをもって留め置きたまいます。時によって主はその通りに私共を留め置きたまいます。或いは病気を与え、或いは他の状態を与えたもうて留め置きたもうことがあります。これは恵みです。それによって私共の心を試みたまいます。神は怒ることに遅い者ですからそのように罪人を扱いたまいます。それゆえに私共も同じ恵みの仕方をもって他の人々を判断しなければなりません。申命記十七・四をご覧なさい。容易にその人を死罪に宣告しません。漸次それを調べます。そうですから早く兄弟を審くことは慎むべきことです。私共はそのように念を入れて兄弟を審かねばなりません。私共は肉に属ける者ですから早くその人を審きます。どうぞ霊に属ける愛をもって、怒りに遅き心をもって他の人を判断しとうございます。テサロニケ後書三・十四、十五をご覧なさい。そのように兄弟のごとくその人を取り扱いなさい。私共は時によって軽々しくその人は潔められておらぬと審くかも知れません。けれども神はそのようになしたまいません。神は審判に遅うございます。黙示録二・四、五をご覧なさい。これは本章の四節と同じことであります。この人の心の中にこのような癩病の徴ができました。すなわち愛を失いました。けれどもほんとうに癩病の徴であるや否やと審く前にその人に時を与えたまいます。ほんとうの癩病でありませんならばそのことを悔い改めます。あたかも癩病人を留め置くようにこの人に時を与えたまいます。神はそのように人間を取り扱いたまいます。またこの五節を見ますならば、祭司は一週間また一週間念を入れてその人を調べます。六節を見ますならば、『祭司はこれを清い者としなければならない。』幸いにこれはほんとうに生来の汚れでありません。一時の罪です。一時起こりたる罪ですから潔き者となすべし。潔き者でありましても時によって感情が出て、生来の癩病であるや否やの疑いが出ます。そうですからそのように念を入れて、兄弟を判断するに時を遷しとうございます。
 また格別にこの祭司は何によって癩病であるや否やを判断しますかならば、拡がるか或いは拡がりませぬかによってであります。罪の運動が止まりますならばそれはただ一時的に起こった罪です。ほんとうに癩病のような生来の罪ではありません。けれども生来の汚れですならば必ず拡がって参ります。続いて運動してなおなお悪くなります。テモテ後書二・十六、十七をご覧なさい。これはほんとうの癩病であります。生来の癩病でありますならばこのようです。けれども潔き者でも時によって罪を犯しますならば如何しましょうか。ガラテヤ六・一をご覧なさい。どうぞこのような柔和をもって自己を省みて霊に感じてその人を判断なさい。またその人を導きなさい。けれども、そうでありませんならば、すなわち漸う拡がって参りますならば、『その人を汚れた者としなければならない。』これは恐ろしい審判です。もはや癩病です。それゆえにその人を人間より離れしめ、神より離れしめねばなりません。
 けれども十二節のような癩病ですならば潔き者です。それはどういう意味ですかならば、もはや癩病の毒は普く拡がりました。もはや全く顕れました。この上に毒ができません。この上に運動するところがありません。このような人は神の前に潔き者です。その癩病の働きは止まりましたならば潔き者です。癩病の結果として醜き感情があります。けれども癩病の働きと運動は止まりました。その意味は何ですかならば、自分が癩病と知りて全く神に顕すものならば、その罪の働きが止まるならば、神はその人を潔き者と言いたまいます。幸いにその人は罪を懺悔しますならば、また罪を悔い改めますならば、今でも前の罪の醜き結果がありましても、神はその醜き者を潔き者と言いたまいます。ローマ五・二十をご覧なさい。この癩病患者のごとくに頭より足に至るまで全く汚れたる者です。けれども罪の増すところには恵みもいや増します。それによって神の恵みが分かります。けれどもなおなお気を付けるべき処があります。すなわちまたひとたび罪の働きが始まりますならば汚れたる者です。その『生肉』(十四節)の意味について、ローマ七・二十五をご覧なさい。これは生肉の意味です。ヤコブ一・二十一をご覧なさい。それは癩病のことです。癩病の働きがまた顕れませぬように気をお付けなさい。またその癩病の働きはちょうどマタイ十五・十九のようです。

【二十一節】
 十八節より見ますならば、もはや腫れ物が癒されました。けれども危険な人があります。それゆえにもはや自分の心が潔くなりましても、不断慎んで気を付けねばなりません。『それは腫れ物に起こった癩病』。実に気を付けるべきところです。ひとたび潔められたる者は、サタンの誘いのために時によって罪を犯すかも知れません。潔き者でありますならば必ず罪を憎み、早く再び聖潔を求めます。けれどもそうでありませんならば、或いは腫れ物からまた癩病が起こるかも知れません。言葉を換えて言いますならばその偶然の罪よりまた汚れを受けるかも知れません。そのために格別に罪を恐れねばなりません。

【二十四、二十五節】
 それも気を付けねばなりません。罪の中にこういう恐れがあります。罪を犯しますならばまたもとの汚れたる有様になるかも知れません。それゆえに罪を犯しますならば早くその罪の潔められることを求めねばなりません。格別にこの『やけど』はどういう罪を示しますかならば、慾の火、或いは心配の火です。そういうことはやけどです。それゆえに潔められたる者は誇るところはありません。かえっていつまでも慎んで気を付けて罪を恐れねばなりません。

【二十九節】
 罪は思いの外にできますかも知れません。本節のごとく貴きところに、栄えあるところに患処が生じるかも知れません。コリント後書十一・三をご覧なさい。この信者はもはやキリストに向かう真実の中に生涯を暮らしました。潔き者でありました。けれどもパウロはサタンの誘いのために汚れが起こることを恐れました。コロサイ二・十八をご覧なさい。それゆえに礼拝の場所でも癩病が起こることができます。礼拝の場所でももう一度汚れを受けることができます。テトス一・十五をご覧なさい。その知性と良心ともに汚れました。貴き所なる良心も汚れを得ます。頭、或いは髪のところに患処を受けるのと同じことです。そうですからその人は何をせねばならぬかならば、剃ることです。髭、頭の髪をも剃らねばなりません。それはどういう意味ですかならばペテロ前書五・六をご覧なさい。すなわち自己を卑くすることです。日本ではあまりそういうふうではありませんが、外国では頭を剃ることは自己を卑くする意味です。神の大能の手の下に自己を卑くしてその全体を顕すことです。少しも隠さずして全体を打ち明けて神に示すことです。
 かの所にも漸うその患部が蔓延しますならばその人は癩病人であることが分かります。けれども三十四節のごとくにその人は潔き人でありますならば、祭司は『その人を清い者としなければならない。』神は速やかにその人に証を与えたまいます。祭司の口によって証を与えたまいます。

【四十節】
 癩病のごとくに見えますけれども神の前に潔き者であります。幾分かその身に弱き所があります。それゆえにその毛が落ちます。けれども癩病ではありません。今も潔き者の中にそういう弱点を見ますけれども、それは心の癩病のゆえではないかも知れません。ガラテヤ四・十三をご覧なさい。弱きことを見ました。コリント前書二・三をご覧なさい。そういうことは不信仰のように見えます。この禿頭のように幾分か肉の弱き処があります。けれどもほんとうに肉の汚れではありません。潔き兄弟は幾分か肉に属ける癖が見えましても、或いは弱き点がありましても、その人は癩病であると早く定めることはできません。或いは神は潔き者と言いたもうかも知れません。

【四十四〜四十六節】
 ほんとうの癩病人はいかにせねばならぬかがここに録されてあります。これはこの章の一番大切なる所です。癩病の恐ろしき有様がここに顕れてあります。その性質の中に癩病の恐ろしき病がありますならば、漸う身の力が衰えて額が落ちて参ります。神の前に全く汚れたる者です。詩篇三十八篇は自分の癩病が分かる者の叫びです。今その三、五、七、十一をご覧なさい。これは癩病人の叫びです。自分の心の痛みが分かる者の叫びです。癩病人はその衣を裂かねばなりません。それゆえに何人でもその癩病を知ることができます。裂けたる衣を着ておりますから必ず栄えがありません。少しも誇る処なくしていつも悲しんでおらねばなりません。衣を裂くことは悲しみの徴です。ヨエル二・十三その他にこれを見ます。癩病人はそのように自分の有様を悲しんでおらねばなりません。またその頭を蔽いません。それを露しております。それはその国とその時代の人々の耻です。人々は頭を蔽います。頭を露すならば全く栄光を失ったことを顕します。またその口に蓋を当てております。すなわち潔き言葉を言うことのできぬ意味です。その意味も汚れたる者です。口より出ずる気息も汚れの大いなる気息でありますから口を蔽います。
 また『汚れた者、汚れた者』と言います。罪人はそれを自然に言います。その言葉によって自然に自分の汚れた者であることが分かることができます。明白に汚れたる者と言いませんでも、その言葉の流れを聞きますならばそれが分かります。ヨブ四十・四をご覧なさい。申し訳はありません。自分の癩病が分かりました。イザヤ六・五をご覧なさい。自分の癩病が分かって汚れたる口でありますからその口を蔽わねばならぬと思いました。ローマ三・十九をご覧なさい。自分の癩病が定められました。口を蔽わねばなりません。神の前に毫も申し訳はありません。
 『そのすまいは宿営の外でなければならない。』癩病人は営の外に住まうべき者です。前の詩篇三十八・十一のごとくに他の人と交わらずして別の所に住みます。コリント前書五・五をご覧なさい。これは癩病人を営の外に置くことです。その人は神と交わることはできません。
 『離れて住まなければならない。』また人間と交わることはできません。イザヤ五十九・二をご覧なさい。罪人は相互に交わることはできません。ただ神に属ける潔き者のみがほんとうに人間の交わりを経験します。
 宿営の外に住まうことについて、黙示録二十二・十五、マタイ二十五・三十二をご覧なさい。相互に離れしめたまいます。すなわち汚れたる者を離れしめたまいます。それゆえに汚れたる者は人間と交わることはできません。マタイ二十五・四十一をご覧なさい。『わたしを離れて』。神をも離れねばなりません。神を離れ兄弟を離れなければなりません。これは罪人の恐ろしき有様です。今でもそれを経験することができます。未来において全き成就を見ます。けれども今この世の有様は実に反対になってしまいました。神の営の外に追い出されたる癩病人が多くありますから癩病人の営もあります。それゆえに罪人は潔められて癩病人の営を離れて神の営に参りますならば、罪人を離れなければなりません。罪人は自分の営を本営としましたから潔められたる者はその営を離れて神の営に参らねばなりません。ヘブル十三・十三をご覧なさい。神の聖き営に帰るために癩病人の営を離れなければなりません。これは実に幸いなることです。神の営に帰ることは幸いです。けれども癩病人は潔められたる癩病人を迫害します。そのために苦痛があるかも知れません。迫害せられたる者はそれを省みずして、自分は癩病を潔められて神の営に帰り得ることを感謝せねばなりません。

【四十七〜五十節】
 『衣服に癩病の患部が生じた時は』。そうですから人間の罪のために起こるところの病気は衣服にまで及びます。人間の罪のためにすべての造られたる物は汚れを得ました。今よろずの造られたる物は主の再臨を待ってその時の完き贖いを待ち望んでおります。格別にこの衣は私共の平生の行為と習慣を指します。これは自分のことではありません。自分の衣のことですから親しき関係があります。ユダ二十三をご覧なさい。この下着という言葉は同じ意味であります。汚れたる衣のごときもの、すなわち汚れたる癖、汚れたる習慣を悪みなさい。その反対に黙示録三・四をご覧なさい。その衣を汚しません。潔き心ばかりではありません。その行いもみな潔くあります。その習慣もみな潔くあります。詩篇百九・十八をご覧なさい。『のろいを衣のように着た。』汚れたる言葉は詛われたる衣のようです。そういうことが起こりますならば或いはそれは癩病であるかも知れません。人間の力で癒すことはできぬかも知れません。そういう汚れがありますならば、それを全く焼き尽くさねばなりません。五十二節をご覧なさい。『その物を火で焼かなければならない。』その衣を癩病のように悪まねばなりません。たとえばその汚れたる癖、その汚れたる習慣を癩病のように悪まねばなりません。これはちょうど申命記七・二十五のようです。偶像は癩病の用いているものでありますから全くそれを焼き尽くさねばなりません。金銀或いは価値あるものがあるかも知れません。けれどもそれを焼き尽くさねばなりません。使徒行伝十九・十九、二十をご覧なさい。この人々はその書物を売ることができました。けれども癩病のついている物ですから全くそれを焼き尽くしました。私共はそのように癩病のついている物を全く焼き尽くさねばなりません。少しもそれによって利益を得ませずして、全く亡ぼしてしまわねばなりません。もしそうしませんならば或いはその癩病が漸次拡がって、ついに全く悪くなるに至りましょう。
 けれども癩病であるや否やがほんとうに分かりませんならば、五十三、四のごとくに、第一にそれを洗わねばなりません。ハガイ一・四〜六をご覧なさい。この人々はただ世に属ける考えをもって自分の安易なることばかりを謀って働きました。そうですから実に不満足がありました。成功がありません。その世に属ける心はほんとうの癩病であるや否やいまだ知れません。それゆえに神は第一に悔い改めるように命じたまいました。家を焼き尽くすわけはありません。ほんとうの癩病であるや否やを知りませんから、初めにこの例話のことを藉りてそれを洗わねばなりません。悔い改めて悪い処を捨ててこれから神のために生涯を暮らすつもりを致さねばなりません。もう一度その洗いたるものの中に世に属ける考えが起こりますならば、全くその家またはそういうことを焼き尽くさねばなりません。この五十五節のように汚れたる処が蔓延して参りますならば、それは癩病でありますから全くそれを焼き尽くさねばなりません。仕方がありません。それを焼き尽くしませんならば漸次蔓延してついにその人全体を汚しますから、それを焼き尽くさねばなりません。マタイ五・二十九、三十をご覧なさい。それゆえに右の眼また右の手に癩病が起こりまするならば、全くそれを棄てる方が宜しゅうございます。火に焼き尽くさねばなりません。この五十七節に『再発した』との言葉があります。全くその物を焼き尽くさねばなりません。そのように罪の癩病を恐れなさい。たびたび同じ罪が起こりますならば、断然その汚れたる処を火にてお焼きなさい。けれども五十八節に、『洗った衣服‥‥‥から、患部が消え去るならば云々』とあります。ほんとうに悔い改めた後にその病気が起こりませんならば潔き者となりましたからそのままで神のために尽くすことができます。



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