第二十三章  ヱホバの節期



 この章はヱホバの節期いはひであります。喜ばしきいはひです。今迄いまゝで利未レビ記を硏究して、罪人つみびとの罪を深く感じました。又罪の結果、すなはち神を離れる事、やまひほろびくるしみ等を見ました。又それと同時にキリストの全きあがなひを見ました。罪人つみびと如何どうして聖なる神にちかづく事が出來るかと硏究しました。けれども人間は生來うまれつきよりそんなひど罪人つみびとですから、生涯のをはりまで神の前にかなしんでるべきはずでせうか。いゝえ、さうではありません。この二十三章を見まするならば、神は人間を喜ばしめ給ひます。神は私共わたくしども不斷ふだん罪のためかなしんでる事を願ひ給ひません。かへって父の愛と救主すくひぬしの全きすくひを感じて喜ぶことを願ひ給ひます。しんめい廿八・四十七、四十八上半じゃうはんを御覽なさい。神はイスラエルびとめぐみを與へ給ひます。圓滿なるあがなひを與へ給ひます。格別に私共のよろこびを願ひ給ひます。それよりて神の慈愛がわかります。父がその子の喜ぶことを願ひまするならば、それは本當にその子を愛するゆゑです。格別に今まで放蕩したる子にむかって、そのよろこび幸福さいはひを願ひまするならば、その父は本當の父であります。私共の神は其樣そのやうな神であります。私共の神は其樣そのやうに全く私共を受入うけいれたる事を示し給ひます。今迄いまゝで私共の罪を全く赦し給ひました。今迄いまゝで私共を全くやはらがしめ給ひました。こゝで私共に命じ給ふところいはひの話を見ます。このいはひの意味は私共のよろこびです。イスラエルびとだ時によりて神の前にいはひを祝ひました。私共は不斷たえず神の前に喜ばねばなりません。又そのいはひの時に格別に安息を見ます。この章においはたらきを休むことが度々たびたびしるしてあります(二十一二十五二十八三十三十一三十六)。

 さうですから神の喜ばしきいはひの時に休むことは必要です。神は安息を與へ給ひます。基督キリスト信者は心のうちにそんな圓滿なる安息を頂戴する事が出來ます。これは神のよろこびの特質です。心の安心立命あんしんりうめいがありませんならば、神の前に本當に喜ぶことが出來ません。これは神の確實なるめぐみです。人間は自分の罪のために苦勞を耐忍たへしのばねばなりません。働くこと(work)ばかりではありません。勞して(toil)働かねばなりません。これはさうせい三章ののろひであります。人間は罪のために勞して働かねばなりませなんだ。けれども神はめぐみもってイスラエルびとに安息を與へ給ひます。私共は心のうちにそんな圓滿なる安息を經驗せねばなりません。苦勞することは罪の結果です。心の平安はすくひの結果です。さうですからこの喜ばしきいはひおいて喜ばねばなりません。又安息は特質です。さうですからこのいはひは未來のこひつじの婚姻の雛形であります。イスラエルびとはそれを望んでこの喜ばしきいはひを祝ひました。私共は何故なにゆゑ心のうちにのぞみよろこびを抱くことが出來ますかならば、未來のよろこびまっるのです。そのために心の平安があります。又そのために神の前にくるしみうちに喜ぶことが出來ます。

 またこのいはひほかの特質は火祭くゎさいです。十三十八二十五二十七三十六三十七を御覽なさい。さうですからいつでもいはひの時に火にて物を献げます。これはどういふ意味ですか。すなはち神のよろこびを經驗したう御座りまするならば、十字架を負はねばならぬことを指します。よろこびは十字架の下に隱れてあります。私共は十字架を負ひませんならば、本當によろこびを經驗することは出來ません。度々たびたび私共は自分の心に従うて、十字架を負ふことをまぬがたう御座ります。けれどもそれはよろこびを避くる事です。オー私共は神の前に喜ばしきいはひを祝いたう御座りまするならば、いつでも心のうちに火にて祭物そなへものを献げなければなりません。いつでも神の前にすべての物を献げて、聖靈の火のうちに、それを燒盡やきつくさねばなりません。

 第一 安息日あんそくにち三節
 第二 踰越節すぎこしのいはひ五節
 第三 初穗節はつほのいはひ九節以下)
 第四 ペンテコステのいはひ十五節以下)
 第五 喇叭ラッパいはひ二十四節以下)
 第六 贖罪あがなひいはひ二十六節以下)
 第七 結茅節かりほずまひのいはひ三十三節以下)

 第一安息日あんそくにちほかいはひよりも大切であるかも知れません。さうですから神は毎週一度宛いちどづゝそれを祝ふことを命じ給ひました。神は格別に信者に安息を與へ給ひたう御座ります。すくひの特質は安息ですから、七日目なぬかめごとにそれを紀念致します。この安息はなにですかならば、物を造り給へる神の安息の紀念です。パラダイスの安息の紀念です。人間は罪のため一度いちどそれを失ひました。けれども神はめぐみもって毎週一度いちどづゝ、その失はれたる安息をふたゝび與へ給ひます。又それは來るべき安息の前表しるしであります。私共はさういふ心をもって、安息日あんそくにちを祝はねばなりません。神のめぐみを思うてそれを祝はねばなりません。ある人は嚴しき命令であると思ひます。律法おきてくびきであると思ひます。けれどもさうではありません。これは神のめぐみです。勞して働く人々に與へられたる神のめぐみの賜物です。

 第二いはひ踰越節すぎこしのいはひであります。これは何を紀念しますかならば、イスラエルびとがエジプトより救はれたる事を記念するためです。イスラエルびとは最早救はれたる確信がありましたから、このいはひを祝ふことが出來ました。すくひを得ましたから喜ぶ事が出來ました。私共はそのやうに救はれたる確信がありまするならば、不斷たえず神の前に喜ぶはずです。さういふ確信がありませんならば、心のうちうたがひあるひおそれがありますから、喜ぶ事が出來ません。けれども心のうちにさういふ確信がありまするならば、不斷たえず神の前に堅くたって喜ぶ事が出來ます。さういふよろこびがありまするならば、格別に惡を去ります。

 六節たねいれぬパンのいはひがあります。これは何を指しますかならば、全く罪と惡を離れることです。哥前コリントぜん五・七、八を御覽なさい。さうですから麪酵ぱんだね惡毒あしき暴很よこしまを指します。たねいれぬパンは眞實と至誠まことを指します。私共は心のうちにすくひよろこびがありまするならば、必ず其樣そのやうに眞實と至誠まこともって神の前に喜びます。必ず惡毒あしき暴很よこしまを去りて神の前に聖なるよろこびちます。

 第三いはひ初穗節はつほのいはひであります。これは何を指しますかならば、すべて收穫かりいれを神に献げることです。初穗を献げましたから、すべてのものを神に献げました。ロマ十一・十六を御覽なさい。初穗にきよければすべての物がきよくなります。さうですからイスラエルびとは初穗を神に献げる事によりて、すべての產物を神に献げることを示しました。私共は救はれたる者でありまするならば、必ずすべての物を神に献げます。すべての物をもって神に仕へます。すべてを献げて神に感謝します。格別に收入の十分の一を献ぐる事によりて、すべてかねが神のものであることを示します。これは神の前に喜ばしきいはひであります。神に物を献げる事は困難でありません。神に一切を献げる事は喜ばしきいはひであります。けれども、こゝで尚々なほなほ深い意味があります。しゅは人間の收穫かりいれの初穗であります。哥前コリントぜん十五・廿を御覽なさい。原語で復生よみがへりの初穗となれりといふ意味です。ロマ八・三十四を御覽なさい。キリストは私共の初穗となり給ひましたから、私共すべての代理人となり給ひました。私共の初穗は神の前にあらはれ給ひましたから、すべて收穫かりいれ漸次だんだん神のものとなりて神の前にあらはれる事を指します。

 さうですからこのいはひの話にて、本當の順序を見ます。踰越節すぎこしのいはひおいてキリストの死を祝ひます。カルバリさんあがなひを祝ひます。初穗節はつほのいはひの時にキリストの復生よみがへりと昇天を紀念します。

 第四はペンテコステのいはひであります。これは聖靈の降臨を紀念します。御承知の如くペンテコステのことばの意味は第五十を意味します。これは五十日目のいはひですから、格別にその隱れたる意味は聖靈の降臨です。その日には異なる初穗の献物さゝげものを見ます。十七節を御覽なさい。この初穗の献物さゝげものは、以前の初穗の献物さゝげもののやうではありません。其儘そのまゝに穗を献げることではありません。これは最早パンに造られたるむぎ献物さゝげものであります。前の初穗の献物さゝげものはキリスト御自身の昇天を指します。今の献物さゝげものは敎會を指します。すなはちキリストのはたらきが最早成就せられたる事を指します。ペンテコステの日において、敎會が神に献げられました事を指します。キリストは一粉ひとつぶむぎとして墓に葬られ給ひました。又その復生よみがへりと昇天によりて、多くの實が結ばれました。又そのために今このパンが出來ました。その譬話たとへばなしを說明しまするならば、キリストのあがなひよりて救はれたる者又きよめられたる者を神に献げる事が出來ます。キリストのあがなひはたらきは最早成就せられました。さうですから救はれたる者は神の初穗といひます。ヤコブ一・十八を御覽なさい。すなははじめに結べる實です。もくし十四・四を御覽なさい。すなははじめです。さうですから私共は神の收穫かりいれの初穗であります。敎會も神のおほいなる收穫かりいれの初穗となります。

 又十八節の如く、それを神に献ぐると同時に血を流してそのあがなひをします。私共は自己おのれを神に献げるならば、こひつじの血に依賴よりたのんでその身を献げねばなりません。自分の功績いさをし依賴よりたのんで、あるひは自分の義に依賴よりたのんで、きよ献物さゝげものを献げる事は出來ません。だ流されたる聖血ちしほために、神にきよき初穗の献物さゝげものを献げる事が出來ます。私共は其樣そのやうに神に献げられたる者ですならば、格別に生涯の上に親切をあらはさねばなりません。

 二十二節を御覽なさい。神は其樣そのやういつでも親切をつくす事を敎へ給ひます。貧しき者をあはれみ、又旅する異邦人をあはれむことを不斷たえず命じ給ひます。又格別に神の初穗として献げられたる者であれば、私共は其樣そのやうに親切をつくさねばなりません。神のさかえために人間をあはれみ、人間に親切をあらはさねばなりません。

 二十三節以下を見まするならば、七月のいはひの話がしるしてあります。七月にみついはひしるしてあります。これはおほいなるいはひの月であります。最早ユダヤびと收穫かりいれをはりました。さうですから、格別に休むべき時であります。又格別に神の前にあつまってその收穫かりいれを感謝してきよいはひを祝ひます。

 第五 七月の第一のいはひはラッパを吹くいはひであります。これは何を紀念しますかならば、エジプト十九・十六、十九を紀念します。このいはひは格別に其樣そのやうな事を紀念します。又このラッパは神の聲を指します。人間にその聖聲みこゑを聞かせる事を指します。イスラエルびとそのいはひのラッパを聞きました時に、神は最早人間にその聖聲みこゑを聞かしめ給うたることを紀念します。さうして嚴肅にその命令に從はねばならぬと思ひました。それは私共に何を敎へますかならば、ほかの人々に神の聲を聞かせる事です。イザヤ五十八・一、ホセア八・一、ヨエル二・一を御覽なさい。さうですからラッパを吹く事は、人間に神の聖聲みこゑを聞かせる事を指します。すなはち福音の宣傳を指します。神の聖旨みむねを傳へることです。私共は不斷たえず神の前にそんないはひを祝はねばなりません。これは神のたみよろこびであります。よろこびいはひです。ほかの人々に福音のラッパを吹くことです。

 第六 又七月の第二のいはひあがなひいはひです。私共は前に十六章おいあがなひの日を硏究しました。格別にその日にユダヤびとの罪が皆取除とりのぞかれました。復一度もういちど神とやはらぐ事を得ます。これはその年中としのうちの一番さいはひなるいはひでありますかも知れません。格別に罪を紀念する日ですから、身を惱まし自分の罪を思ひ、かなしんで神の前にいでなければなりません。

 第七 又七月の第三のいはひ結茅節かりほずまひのいはひであります(卅四〜四十一)。其樣そのやうにユダヤびとは七月に枝をもって小さき小屋を作りました。又それより毎年まいねん荒野あれのおいて旅せし時に、天幕のうちに生涯をくらせし事を紀念しました。毎年まいねん何日いつかでしたかならば、丁度ちゃうど收穫かりいれの濟みたる時でした。丁度ちゃうど神の手よりもう一度ゆたかなるめぐみを得たる時でした。豐かに富を得たる時に如斯このやうに祝ひます。荒野あれのおいて何をもちませなんだ。富を蓄ふる折がありませなんだ。毎日神の手よりめぐみを得て生涯をくらしました。毎日だ信仰をもっくらしました。ゆふべになれば翌朝あくるあさために何のたくはへもありませなんだ。けれども今カナンの地において、さうではありません。毎年まいねん收穫かりいれたくはえて生涯をくらします。さうですから丁度ちゃうどその富を得たる時に、すなは毎年まいねん收穫かりいれの時に、以前の信仰の生涯を紀念します。神はそれをもってユダヤびとに何を示し給ひましたかならば、富が與へられましても、何をももっりませなんだ時と同樣おなじやうに、だ信仰をもって生涯をくらさなければならぬ事を敎へ給ひました。收穫かりいれのなき時に旅行たびをしました時に、神を信じて毎日神よりめぐみを與へられました。今神は豐かなる富を與へ給ひました。けれども、これも神の聖手みてより與へられたるめぐみである事を紀念しなければなりません。さうですから神が與へ給うたる富をたくはへました時に、神はが神である、神はめぐみの源であることを毎年紀念しました。

 又このいはひは格別にきたるべき榮光の雛形であります。未來における主の聖國みくにの雛形であります。イスラエルびといつでも如斯このやう思想かんがへもってこのいはひを祝ひました(ゼカリヤ十四・十六〜二十一)。さうですからこのいはひは格別にきたるべき平安の時、きたるべきよろこびの時を指します。ペテロは變貌山すがたがはりのやまおいて、主の榮光を見たる時に、結茅節かりほずまひのいはひが最早成就せられたと思ひました。そのまことが最早來ましたと思ひました。主の聖國みくにきたりて今から結茅節かりほずまひのいはひまことを經驗すると思ひました(マタイ十七・四)。又エルサレムにる人々は、主を迎へたる時に、最早本當のいはひが來ましたと思ひました。さうですから結茅節かりほずまひのいはひの時に樹の枝を用ゐましたやうに、樹の枝をもって主を迎へました(マタイ二十一・八)。又その意味は最早主の聖國みくにまゐりました。主の榮光があらはれました。さうですから今から平安とのぞみもって神を祝はうと思ひました。もくし七・九、十を御覽なさい。これは本當の結茅節かりほずまひのいはひでありました。人間はこのとほりに樹の枝をもって神の聖前みまへました。勝利の印、平安の印、よろこびの印をもって神の前にました。又この人々は神の收穫かりいれでありました。イスラエルびと收穫かりいれが最早濟みました時にそれを祝ひました。この人々は神の收穫かりいれでありますから、神の前にて神を祝ひました。

 毎年まいねんイスラエルびとはこのいはひを祝ひました時に其樣そのやうな事を俟望まちのぞみました。

 本章のいはひを考へて見ますれば、格別におほいなるいはひが三つあります。第一踰越節すぎこしのいはひ、第二ペンテコステのいはひ、第三結茅節かりほずまひのいはひでありました。踰越節すぎこしのいはひおい過去の事を紀念しました。こひつじの血によりて救はれたる事を紀念して神の前に喜びました。ペンテコステのいはひおい現在の事を思うて喜びます。收穫かりいれの初穗でありますから、神のめぐみを受けて喜びました。これは今聖靈を受けて喜ぶ事です。又結茅節かりほずまひのいはひおい未來の事を俟望まちのぞみました。これは未來のさかえと未來の安息を俟望まちのぞいはひであります。私共は不斷たえずこのみつ喜樂よろこびもって神の前に喜ぶはずです。過去おい救はれたる事を喜び、今聖靈を受くる事を喜び、未來のさかえを望みて喜ぶはずです。オー兄弟姉妹よ、これは私共に取りて滿足ではありませんか。私共はさういう事を考へて喜ぶ事が出來ませんならば、じつに頑固なる者であります。さういふ事を考へまするならば、身につけくるしみ、世につけくるしみが如何に烈しくありましても、神の前に喜ぶはずです。又これは三位一體の神を喜ぶ事です。過去におい聖子みこの血に救はれました。今聖靈めぐみを得ます。未來におい天父榮光さかえを見ます。如斯かく三一さんいちの神を祝うてお喜びなさい。又過去のすくひを紀念して格別に信仰のばす事を得ます。又現在のめぐみを考へて格別にを抱く事を得ます。未來のさかえを望んで格別にのぞみを抱く事が出來ます。何卒どうぞ信仰と愛とのぞみもって神の前に喜びたう御座ります。これは二十三章の意味とをしへの要點です。



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