第 五 章  罪祭の続き、及び愆祭



二〜四節

 二節から心付こゝろづかない罪のめに献げる罪祭ざいさいを見ます。私共わたくしどもこの世を步むあひだに、度々たびたび知らずして聖なる神の前に罪を犯します。又私共は生來うまれつき罪のめに分別心さとりが鈍れてりまするから、あきらかに善悪をわきまへる事が出來ません。それですから私共は神の前に、みづかおのれひくくして、神の光を求めなければなりません。斷えず聖書の光に照らされて、生涯を送らねばなりません。私共はそのめに聖書のうちで歷史の部分ところを、祈禱いのりもって讀む事が最も大切であると思ひます。多くの人が不注意に、これを讀み流しにいたしまする事は、おほいなる損であると思ひます。又ほかの人を扱ふ時にも、罪のめに悟りが鈍くせられてる事を心にめて、最も柔和にしなければなりません。私共のいふ事がたゞしくありましても、强く責めまするならば、悟りに鈍いめにかへって神を離れて堕落することが度々たびたびです。注意しなければなりません。又私共が罪と感じないとが澤山たくさんあります。度々たびたび神の前にきよく步みいと熱心に求むる人が罪を犯す事があります。此樣このやうな罪のめにも、あがなひを信ぜねばなりません。それがめにしゅの血潮に依賴よりたのみ、その功績いさをしに祈り訴へねばなりません。イスラエルびとが知らずして罪を犯しまするならば、そのめに犧牲いけにへを献げねばなりませんでしたやうに、私共も知らざる罪、感じない罪であるといひて、等閑なほざりにして置いてはなりません。斷えず主の寳血ちしほ功績いさをし依賴よりたのみて、神の前に步まねばなりません。

五  節

 その罪がわかりまするならば、必ずこれいひあらはさねばなりません。さうしまするならば神にさかえします。しへん五十一・四ヨシュア七・十九を御覽なさい。又その罪のめに血を流して犧牲いけにへを献げねばなりません。

七〜十節

 貧乏人まづしきひとの献げる罪祭ざいさいがあります。貧乏人まづしきひとならば羊のかはりに、鴿はと二羽を持ってる事が出來ます。そのひとつは神のめでした。今一いまひとつは祭司のめでした。祭司がそのひとつを受けれる事によりて、神がその罪祭ざいさいを受けれ給ひました事を示します。さうですからその人は安心して歸る事が出來ました。

十一〜十三節

 鴿はとをも献げる事の出來ません人のめに、神が罪祭ざいさいの道を備へ給ひました。その人が鴿はとを持ちきたる事が出來ませんならば、麥粉むぎこもって神に罪祭ざいさいを献げる事が出來ます。これはまこと貧乏人まづしきひとに福音をつたふる事です。神は貧しき者に同情をあらはしてこれを慰め受けれ給ひたう御座ります。さうですから此樣このやうな僅かな者をもってゞもあがなひを受けられます。その量は一エパの十分の一でした。しゅつエジプト十六・三十六を見まするに、れは丁度ちゃうど一日一人前いちにんまへの常食でした。この人は多分日々の食事のほかに、献ぐべき物がありませんから、神はこれをも受けれ給ひます。又この人は自分の罪をあがなめに、一日斷食してそのしょくを神に献げます。それによりてこの人は深く罪の恐ろしきことを感じました。この麥粉むぎこ罪祭ざいさいの上にあぶらを注ぎません。乳香にうかうをもつけません。何故なぜなればこの罪祭ざいさいは罪のめです。たゞ神に馨香かうばしきにほひ献物さゝげものをする時にはこれをつけます。れども罪祭ざいさいいかりを轉ずるめですから、かざりを附けずして其儘このまゝに献げます。

 その一握ひとつかみは全く壇の上に、ヱホバに燒かれました。神のいかりの火のなかに全く燒かれてしまいました。これによりて罪人つみびとの受くべきむくいわかります。又十三節をはりに祭司がその殘餘のこりを食べます。それによりて神がその罪祭ざいさいを受けれ給ひましたことを示します。

 今一度いまいちどしかせば彼はゆるされん』と言ふことばがあります。神は罪人つみびとを御自分に引くめに、献物さゝげものをすれば早速罪のゆるしを與ふる約束をなし給ひます。罪人つみびと神の聖旨みむねに從ひて犧牲いけにへを献げるならば、おそれを棄てゝ大膽だいたんに自分は神に受けれられたといふ事が出來ます。

愆  祭

 五章十四節より愆祭けんさいの事であります。愆祭けんさいは格別なる罪(原語では犯す罪一々ひとつひとつを指すことばです)のめです。イザヤ五十三・五を見まするに、とがと不義のめにあがなひがあるとしるしてあります。不義のめのあがなひはキリストの罪祭ざいさいです。とがめのあがなひはキリストの愆祭けんさいです。

十 四 節

 『ヱホバいひたまはく』。默示錄の二章三章おいて、同じ神が今一度いまいちど語り給ふて、その時の信者の心を探り、そのまこと有樣ありさまを示し給ひます(もくし二・二十三十九三・一十五)。此處こゝ知る七度なゝたび記してあります。これじつに嚴肅なることばです。ことごとく私共の心の有樣ありさまを知り、ことばおこなひを全く知り給ふ神の聖聲みこゑとして、そのいましめを受ける事は嚴肅なる事です。神はその時代の信者の心を探り給ひましたやうに、今私共の心をも探り給ふ事を願ひます。神が私共を探り給ひまするのは、私共を叱るめではありません。私共の心をいやめであります。私共を今一度いまいちど御自分に近づかせ給ふめです。十四節ヱホバ、モーセに告げて言い給ひましたのはめです。すなはちイスラエルを導くめです。過失あやまちを責むるめではありません。罪をあがなふ道、和平やはらぎの道を示すめでした。私共は度々たびたび神の探り給ふ事を知りません。又眞實ほんたうに注意いたしません。何故なぜですか、これは罪を捨てる事ををしむからです。れども神が探り給ふならば、常に私共に尚々なほなほうるはしき恩惠めぐみを與へ給ふためであります。さうですから常に神の圓滿なる光を受けねばなりません。

十五〜十九節

 この十五〜十九を見ますれば、神に対して行われる事が記してあります。六・一〜七を見ますれば人間に對して行はれたる罪の事です。十五節を御覽なさい。眞實ほんたうに身もたまも神に献げませんならば、神にかたりをいふ事になります。自分のめに働いて、さかえを神にしませんならば、神をかたる事にあたります。十五節じつに私共の心を刺します。知らずして此樣このやうな罪を犯しましても、その罪は神の聖前みまへに罪です。あがなひがないならば、その罪の刑罰を受けねばなりません。

 けれどもこの節によりまして、又神の恩惠めぐみをも知る事が出來ます。神が『人過失あやまちをなし知らずして罪をる事あらば』といひ給ひまするならば、それかなふ刑罰を與へ給はねばなりませんと思ひませう。れどもさうではありません。過失あやまちがあるならば、神は過失あやまちあがなふ道を示して、にもかくにも今一度いまいちど御自分の足下あしもとに導き給ひたう御座ります。

 さうですから、常に神の聖旨みむねを探り求めて、眞心まごゝろもっこれを行はねばなりません。罪のめに私共の心が暗くなりました。さうですから良心に敎へられましても、十分に神の聖旨みむねを知る事が出來ませずして罪を犯します。此樣このやうな罪を逃るゝめに、不斷たえず聖書を讀み、その意味をあぢははねばなりません。しへん十九・十二を御覽なさい。私共は聖書の光のうちに、しんに己を探りて善惡をわきまへる事が出來ます。しへん九十・八を御覽なさい。『隱れたる罪』、さうですから私共はその罪を知りませんでも、神はこれを知り給うてそのめに心を痛め給ひます。度々たびたび神はほかの兄弟をもって、私共に此樣このやうな罪を諭さとし給ひます(ヘブル三・十三)。常に柔和をもっかゝる勸めを受けなさい。心のうちに高慢がありまするならば、勸めを受けれません。あるひ種々いろいろなる申譯まをしわけをします。さうですから神の光を得ませずして、續いて知らず識らず罪を犯します。まことの謙遜がありますならば、喜んでかゝる忠告を受けます。格別に傳道師がほかの傳道師の忠告を喜んで受けます。又その忠告に從ひてそのおこなひを改めます。此樣このやうな謙遜によりて、まことに罪を恐れる心、又神の聖旨みむねを行ひたい心があらはれます。愆祭けんさいの時に常に牡羊をひつじを屠ります。アブラハムはさうせい二十二・十三に、此樣このやう犧牲いけにへを献げました。このきずなき牡羊をひつじはキリストを指します。私共のすべてのとがあがなあたひあるキリストを御覽なさい。そのあがなひめにいやしき私共も、神の前にあたひある者となります。そのきずなき有樣ありさまめに、きずある私共は全き者とせられます(イザヤ五十三・五)。この牡羊をひつじの通りに、キリストは私共のめにきずつけられ給ひました。私共のめに死に給ひました。それを献げるイスラエルびとそのくるしみと傷を見る時に、自分の罪の恐ろしき事を知りました。私共はそのやうに、キリストのくるしみと傷を見て、私共の罪の深き事を感ずるはずです。この牡羊をひつじじつあたひたふとき者でありました。『聖所きよきところのシケルに從ひて』(十五)。これによりてもこれを献げる人が罪を悟る事が出來ました。罪を犯すたびごとに、あたひたふと牡羊をひつじを献げねばなりませんから、罪の損失そんおほいなる事がわかります。今は此樣このやう献物さゝげものをして、神の恩寵めぐみを求むる事を致しません。れども罪を犯すごとに、五圓あるひじふ圓を出さねばならぬならば、眞面目まじめなる人はこれりて罪の損失そんを感じます。してその罪のめに、神の子の寳血ちしほが流されましたならば、罪のめにきた損害そんの、おほいにして恐るべき事を感ずるはずです。けれどもキリストの寳血ちしほを見ましても、罪の恐るべき事を感じません人が多くあります。これはまことに悲しむべき事です。

 主イエスは度々たびたびこの比喩たとへを用ひ給ひました。マタイ十八・二十四千萬金せんまんきん負債おひめしたる者の話があります。このおほいなる負債おひめ罪人つみびとの罪を指す事です。私共はその通りに神の前に多くの罪を犯しました。マタイ五・廿六を御覽なさい。さうですから神は公平をもっその罪のあがなひあるひその罪の刑罰ばつを要求し給ひます。ルカ七・四十一を御覽なさい。今神はその通りに罪人つみびとあはれみ、罪のおほいなる借金を赦し給ひます。れども罪は必ず損を招きます。あるひ罪人つみびと損失そんです。そうでないならば神の損失そんです。神が罪人つみびと負債おひめを拂ひ給ひますならば、あがなひをなし給ひますならば、必ず御自分に損失そんを受け給はねばなりません。それを考へまして、深く神の恩寵めぐみを感謝せねばなりません。神は何もなくしていたづらに罪を赦し給ふ事が出來ません。必ず自ら損失そんをしてこれを償ひ給ひます。しへん四十九・七をご覧なさい。『たれ一人おの兄弟はらからあがなふ事あたはず』。必ず自分の力で、あるひほかの人々の力で、神に對して罪の負債おひめを拂ふ事は出來ません。ヨブ三十三・二十四を御覽なさい。その通りに神は御自分より、罪の損失そんに對して贖代あがなひしろを出し給ひます。提前テモテぜん二・六彼前ペテロぜん一・十八その通りにイスラエルびとをすの羊を屠ほふりまして、その血を流して罪のつぐなひをする事が出來ました。キリストは全く罪のあしき結果を癒し給ひます。キリストのあがなひによりて、神に榮光がせられ、罪人つみびとに義がせられました。何卒どうぞあなたの牡羊をひつじたる神の聖子みこを御覽なさい。又その牡羊をひつじゆゑに私共に與へられたる全きすくひを御覽なさい。そのめに罪人つみびと今一度いまいちど憚らずして、神の前に立つ事が出來ます。そのめに罪のはぢ、又罪のほろびが全く取り除かれました。オーそれにる者と共に私共の罪祭ざいさいたるキリスト又その血を賞讃ほめたゝへよ。

 十四〜十六節に『五分の一を加へて』とあります。六・五にも同じ事があります。必ず犯したる罪のめに、私共はえきを得ません。惡魔は私共を欺きて、罪を犯すならばそのめに利益をやうに思はせます。大槪たいがい人はこれを信じます。れども罪のめにえきする所は少しもありません。神にかたりを申しました。利益をる事は出來ません。五分の一を加へる事は、罪の損失そんを示します。神をかたりまするならば、全く亡ぼさるべき者であります。れども神はこの通りに私共の罪のゆるしみちを備へ給ひました。

 この五分の一を加へる事によりて、何を敎へられますか。これによりて、すべての物が神のものたる事を表します。さうせい四十七・二十四、二十五を御覽なさい。このエジプトびとは五分の一を王に献げる事ををしみません。何故なぜなれば王はその生命いのちを救ひ給ひました。飢饉のめにくるしんでりました。饑死うゑじにせんとしてりました。れども王はその生命いのちを助けましたから、エジプトびとは喜んで、その所有もちものの五分の一を王に献げました。そはすべて王のものたるべきはずでした。けれどもたゞその五分の一を求めました。その通りに五分の一を加へて神に献げます。罪を犯しますならば、すべてを神に献げねばなりません。れどもその表號しるしとして神はたゞ五分の一を求めて、その罪を救ひ給ひます。罪人つみびとは罪の損失そんを償はねばなりません。又これに五分の一を加へねばなりません。神は罪のめに損を受け給ひますか。罪のめに神のおほいなる御工みわざこぼたれ榮光はけがされました。れども神の御働おんはたらきは損ぜられません。罪のめにはすべてののぞみがなくなりましたと思はれます。けれども神はかへって十字架によりおほいなる勝利を得給ひました。人の罪を犯しません前よりもおほいなる榮光を受け給ひます。これによりて神の全能を知る事が出來ます。



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