第十六章  贖 罪



 今より神はあきらかに罪の事を敎へ給ひます。十章おいて神を拜む時に罪を犯す事、十一章おい受造物つくられしものうちに罪がある事、十二章おいて人間は生來うまれつきよりけがれたる者なる事、十三章十四章おいて人間の生來うまれつきけがれ、十五章おいて人間はけがれの泉である事を敎へられました。漸々だんだん深く罪の恐るべき事、罪のけがれを敎へ給ひました。今十六章おいて全き贖罪あがなひを敎へ給ひます。罪は神の前に如斯このやうに恐るべき者であります。けれども罪のために全きあがなひがあります。罪人つみびと如斯このやうけがれたる者、けがれの泉であります。けれども聖血ちしほの力によりて、人間は聖なる神にちかづく事が出來ます。

 イスラエルびとこひつじの血によりて、エジプトの國より救はれました。私共わたくしどもは第一にそれを學ばねばなりません。すなはこひつじの血の力を學ばねばなりません。

 次にこの十六章おいて、奈何どうして神とのまじはりを續くる事が出來るかを敎へられます。すなは聖血ちしほために、續いて神とまじはりて神のものとなる事が出來ます。この十六章の血のために、イスラエルびとは續いて神のものといはれました。罪がありましても、續いて神とまじはる事が出來ました。信者は生更うまれかはりたる時に、格別に聖血ちしほの力がわかりました。聖血ちしほためすくひを得ました。けれども生涯のをはりまで續いて聖血ちしほの力がなければなりません。如何いかなる深き經驗がありましても、聖血ちしほりませんならば、續いて神とまじはる事は出來ません。神はイスラエルびと眞中まんなかに宿り給ひました。イスラエルびと度々たびたび罪を犯しました。度々たびたび不信仰がありました。けれども聖なる神は、其中そのうちに宿り給ひました。それはなにためですかならば、流されたる聖血ちしほためであります。その聖血ちしほよりて、聖なる神はイスラエルびとうちに宿り給ふ事が出來ました。私共は如斯このやう聖血ちしほの力を經驗せなければなりません。

 エジプト十二章は、聖書中一番大切なる章であるとムーデー氏は申しました。すなはちそれは踰越すぎこしの章であります。けれどもそれとひとしく大切なるは、レビ十六章であります。この二つの章は共に血の力を示しますから、聖書のうちに極めて大切なる章であります。

 イスラエルびと毎年まいねんこの二つのいはひを大切に行ひました。すなは踰越すぎこしいはひあがなひの日のいはひであります。毎年まいねんエジプトの國より救はれたる事を紀念しました。又毎年まいねんあがなひの日において、聖血ちしほの力によりて續いて神とまじはる事が出來る事を紀念しました。信者は不斷たえず心のうちに二つのいはひを祝はなければなりません。不斷たえず心のうち聖血ちしほよりて救はれたる事と、聖血ちしほために續いて神にり、又神が信者のうち給ふ事を紀念せなければなりません。

 格別にこのあがなひの日に、祭司のをさ至聖所いときよきところはいる事を得ました。それにより聖血ちしほよりて一番親しきまじはりが出來る事を示しました。これは通常のまじはりではありません。これはかほかほとをあはして神にまみゆる事であります。それによりて私共は今でも聖血ちしほの力がわかります。

 私共はこの十六章よりて、如何どうして神にちかづいて、神と親しくまじはる事が出來るかといふ事を學びます。

一、二節

 『贖罪所しょくざいしょ』。こゝは神の寳位みくらゐであります。イスラエルびと眞中まんなかいまし給ふ神の寳位みくらゐであります。さうですからおそれ敬虔つゝしみもっはいらなければなりません。しへん八十・一を御覽なさい。すなはちこゝはイスラエルのうちいます神の聖なる寳位みくらゐでありますから、敬虔つゝしみの念をもってちかづかなければなりません。

 この二節よりて、その時代のあがなひいままったあがなひでない事がわかります。全きあがなひがありまするならば、何時いつでも神にちかづく事が出來ます。ヘブル九・七、八を御覽なさい。このあがなひいまだ完全ではありません。けれどもヘブル十・十九を御覽なさい。私共は今はゞからずして、聖なる神にちかづく事が出來ます。何故なぜなれば私共のために全うせられたるあがなひがあるからです。けれどもその時にアロンは罪のために神にちかづく事を得ませなんだ。さうせい三・二十四を御覽なさい。今迄いまゝで人間は神と共にまじはって、神のうるはしきところに住む事が出來ました。けれども今罪のため隔障へだてが出來て、人間は神にちかづく事が出來ません。エジプト三・五を御覽なさい。これは新約の時代の誡命いましめではありません。これは舊約の誡命いましめです。今あがなひ完全まったうせられましたから、神は私共を御自分に招き給ひます。エステル四・十一を御覽なさい。これは舊約時代の有樣ありさま譬喩たとへであります。人間は神にちかづく事は出來ません。たゞ毎年まいねん一度いちど、神は祭司長さいしのをさめぐみ金圭きんけいを延ばしめ、その人のみを受入うけいれ給ひます。今私共は全きあがなひために、何時いつでも神の前にづる事が出來ます。又不斷たえず神と共に生涯をくらす事が出來ます。私共は如斯このやう特権とくけんがありますから、それを蔑視なみせずに、不斷たえずそれを受入うけいれて、それを經驗せなければなりません。

三、四節

 如斯このやうにアロンはその日にうるはしきころもを着ませずして、だ白きころもを着ました。エジプト二十八章に祭司長さいしのをさうるはしきころもの話を讀みます。不斷たえず如斯このやううるはしき服裝ころもにて神にちかづいて御用を務めました。けれどもあがなひの日にのみ白きころもを着て働きました。如斯このやうに區別がありました。それはなにためですかならば、自己おのれを卑下するためでした。罪のために又罪人つみびとため自己おのれひくくしました。ヘブル二・十七を御覽なさい。如斯このやうしゅ自己おのれを卑下して私共の肉のかたちを取りて、私共のためあがなひし給ひました。しもべかたちを取りてあがなひし給ひました。ヨハネ十三・四を御覽なさい。主はそのころもを脫いで手巾てぬぐひを取りて御自分をおびし給ひました。これは同じ譬喩たとへであります。主は私共を洗はんがためうるはしき榮光のころもを脫いで、いやしき人間の肉のからだを取り給ひました。さうして私共の祭司長さいしのをさとして、私共のためあがなひし給ひました。

 又それのみではありません。この白きころもよりて御自分のきよきをあらはし給ひました。あがなひる者はきよき者でなければなりません。アロンはその日に白きころもを着た事によりて、自分のきよき事をあらはしました。ヘブル七・二十六を御覽なさい。それはその白きころもの意味であります。キリストは如斯このやうに神の前に聖なる者である事をあらはし給ひました。

 祭司長さいしのをさ如斯このやうころもを着けて、五節六節献物さゝげものをさゝげました。

五、六節

 その時に神の前にこの動物を献げました。いまだこれをほふりませなんだ。たゞ神に献げたるのみでした。

七  節

 このふたつの山羊はあがなひの日の確實なる犧牲いけにへでありました。私共はこのふたつの山羊によりて、格別に敎へられたう御座ります。

 アザゼルとは逃れる山羊(the goat that escapes)の意味です。くじあたれる山羊を神に献げて、くじに逃れたる山羊を野に放します。恰度ちゃうど十四・五献物さゝげものと同じ事です。彼處あすこおいひとつの雀は殺されひとつの雀は逃れました。今此處こゝで同じ事を見ます。ひとつの山羊は殺されます。ひとつの山羊は野に放たれます。私共はキリストのために自由を得て、神の刑罸を逃るゝ事が出來ました。

 それからアロンは四度よたびあがなひを致しました。

 第一 自己おのれためと家族のためすなはほかの祭司のためあがなひをしました(十一節)。
 第二 たみためあがなひをしました(十五節)。
 第三 聖所きよきところためあがなひをしました(十六節)。
 第四 ヱホバの壇のためあがなひをしました(十八節)。

 如斯このやう四度よたびあがなひをしました。第一に自分のために致しました。何故なぜならば自分も罪人つみびとであります。自分も神の前にけがれたる者ですから、自己おのれためあがなひをせなければなりません。次にたみためあがなひをしました。このあがなひの日は、格別にたみためあがなひをする日ですから、これは一番大切であります。さうですからイスラエルびと全體が、續いて神と共に步む事が出來ます。又次に聖所きよきところためあがなひをします。何故なぜならばイスラエルびとけがれたる者であります。祭司も罪人つみびとであります。如斯このやうこの天幕はけがれたるたみうちに建てられたる者ですから、聖所きよきところためにするあがなひをせなければなりません。又その次に壇のためあがなひをせなければなりません。何故なぜならば祭司もけがれたる者ですから、その奉仕のために壇もけがれを得ます。さうですからその壇のためあがなひがなければなりません。如斯このやうに神の前にすべての物があがなはれて、ふたゝきよき者となる事が出來ます。それより聖血ちしほの力がわかります。私共のために流されたる血は、そのやうすべての物のために全きあがなひをなします。私共はそのあがなひために、はゞからずして神にちかづく事を得ます。西コロサイ一・廿〜二十二を御覽なさい。如斯このやうに十字架の血のために、すべての物はあがなはれました。又其爲そのために私共も神にちかづく事を得ます。神とやはらぐ事が出來ます。祭司長さいしのをさ四度よたびあがなひをせなければなりません。主は十字架上一度いちどにて全きあがなひをなしをはり給ひました。私共はその全きあがなひために今神にちかづいて神とまじはる事が出來ます。

 私共は今主が私共のためその榮光をすてゝ、人間のかたちを取り給ひたることを見ました。主はその榮光のころもを脫ぎ、白きころもを着て、私共と又すべての物のために全きあがなひをなし給ひました。人間はけがれましたから、萬物まんぶつけがれを得ました。造られたるすべての物は、神の前にけがれの傳染を得ました。けれども主は今聖血ちしほために、全きあがなひをはり給ひました。それゆゑに私共は今はゞからずして、神に近付く事が出來ます。何卒どうぞ聖靈によりて、この深き意味を敎へられたう御座ります。

十 二 節

 十一節おい祭司長さいしのをさは最早罪祭ざいさいを献げました。これは當然の事です。毎日天幕において、さういう犧牲いけにへが献げられました。けれども十二節を見まするならば、其爲そのためにこんな結果を見ます。本當に罪祭ざいさいをさゝげます。又罪祭ざいさいよりあがなひをなしましたから、十二節おい祭司長さいしのをさが、神の前にづる事を得ます。その門は平生閉ぢられてました。祭司長さいしのをさでも神の前にづる事は出來ません。けれどもその時に罪祭ざいさいが正しく献げられたるために、神の前にて神と親しくまじはる事が出來ます。

十 三 節

 さうですから、祭司長さいしのをさ彼處あすこはいる事はじつに危險なる事でした。死ぬるか生きるかといふ危險な場合でした。けれどもこのかうばしきにほひそゝがれたる聖血ちしほために、『しぬることあらじ』といひ給ひます。希伯來ヘブル書を見ますれば、この節の說明があります。希伯來ヘブル書の大體の意味は、この十三節の說明であります。ヘブル九・十一、十二を御覽なさい。それゆゑに主が神の前にはいり給ふたる事は何を示しますかならば、私共のため永遠かぎりなきあがなひを成しをはり給へる事を指します。さうですから私共は主の昇天を喜ばねばなりません。これは私共のすくひに親しき關係があります。主が神の前にはいり給ふことの出來ましたのは、私共にすくひが成し遂げられたる事の表面うはべしるしです。主は神の子でありますから、自分一人としては何時いつでもはいる事が出來ました。けれどもその時には人間の祭司長さいしのをさとしてはいり給ひました。すなはけがれたる者の代理としてはいり給ひました。これは最早あがなひの成就せられたる事を示します。あがなひが成就せられてありませんならば、必ずはいる事は出來ません。聖なる神はけがれたる者の身代みがはり受入うけいれ給ふ事は出來ません。あがなひが成就せられてありませんならば、主は昇天なし給ふ事は出來ません。世につける話をりまするならば、王は何時いつでも自分の子を皇子わうじとして受入うけいれる事が出來ます。けれどもその子が謀反人の味方となり、その謀反人を代表して面會を求めまするならば、それを受入うけいれる事は出來ませんでせう。その謀反人の全きあがなひがありまするならば、初めてその代表者を受入うけいれる事が出來ます。恰度ちゃうど其樣そのやうに主が天の至聖所いときよきところはいり給ふ事が出來ましたことによりて、私共のために全きあがなひの成就せられたる事を知ります。又それによりて自分の安心立命あんしんりつめいる事が出來ることを悟ります。この十三節だ歷史のみではありません。あるひは神の律法おきてでもありません。これはじつ豫言よげんであります。主の昇天の豫言よげんであります。何卒どうぞその意味をもってこれをお讀みなさい。又それによりて圓滿なる安慰なぐさめを得なさい。

 復一度もういちどヘブル九・十二を御覽なさい。『永遠かぎりなきあがなひをなすことを得たり』。おなじく廿四を御覽なさい。『我儕われらために神の前にあらはれんとて眞實まことの天にいりぬ』。私共の祭司長さいしのをさは私共の身代みがはりとなり給ひました。又さいはひにこれはだ自分のためのみではありません。イスラエルの祭司長さいしのをさはいりました時に、イスラエルの身代みがはりとなりました。けれどもだ自分一人ではいる事を得ました。キリストは御自分がはいり給ふ事によりて、私共をもはいらせ給ひます。この廿四節をはり我儕われらためことばがあります。またヘブル十・十九を御覽なさい。私共も至聖所いときよきところはいる事が出來ます。私共の祭司長さいしのをさは全きあがなひをなし給ひましたから、私共も共にはいる事が出來ます。

 又ヘブル九・二十五、二十六を御覽なさい。さうですから主のあがなひかぎりなき功能いさをしを見ます。イスラエルの祭司長さいしのをさ毎年まいねん其樣そのやう犧牲いけにへを献げなければなりませなんだ。十字架の功績いさをしは永遠かぎりなき能力ちからであります。私共は今ほとんど二千年ののちその流されたる聖血ちしほために、至聖所いときよきところはいる事を得ます。

 祭司長さいしのをさふたつの品をもっはいりました。すなはかうであります。けるかうけぶりために雲が出來ました。雲は何時いつでも神の宿り給ふことを指します。假令たとへばしへん十八・八を御覽なさい。雲は神のいまし給ふことを示します。又雲は神の性質をあらはすしるしであります。祭司長さいしのをさ其樣そのやうかういて神の前にました。主は神の性質にかな功績いさをしもって又榮光をもって、神の前にで給ひました。又このかうかうばしきにほひもあります。すなはち神を喜ばす所のにほひました。主は神の前にで給ひました時に、神は主御自身を喜び給ふ事が出來ました。さうせい八・廿一を御覽なさい。彼處あすこに献げたる献物さゝげものために、神はかうばしきにほひぎ給ひました。又其爲そのためすべてのろひを消し給ふ事が出來ました。主は神の前に御自分からかうばしきにほひとなり給ひました。神を喜ばす者、神を慰める者として神の前にで給ひました。夫故それゆゑに神は人間に對してすべてのろひを消し給ひました。

十四、十五節

 さうですから、祭司長さいしのをさは血をもって神の前にました。さうしてその血は贖罪所しょくざいしょの上とその前の地の上にそゝがれました。さうですから祭司長さいしのをさの立つ所にそゝがれたる血もあります。私共は其樣そのやうに流されたる血の上に立って、神の前に立つ事を得ます。又流されたる血のために、神と語り合ふ事が出來ます。エジプト二十五・二十一、二十二を御覽なさい。何故なにゆゑ神は其處そのところおいて、人間と語り合ひ給ひますかならば、血がそゝがれてあるからです。何故なにゆゑ私共は神とまじはる事が出來ますか。何故なにゆゑ今聖書によりて、あるひほかの事によりて、神の聖聲みこゑを聞くことが出來ますか。それは天のところに主の血がそゝがれてあるからです。其爲そのために神は私共にちかづいて私共と語り合ひ給ひます。

 この血はいと聖なる所にそゝがれました。贖罪所しょくざいしょそゝがれてあります。さうですから神はその血を受入うけいれたることを示し給ひます。神はこのあがなひために滿足を得給ひます。主の十字架を見て滿足を得給ひます。如斯このやうに神が滿足し給ふならば、して私共は聖血ちしほもって滿足し得られぬことがありませうか。必ず滿足しはずであります。

十五、十六節

 これは二番目のあがなひです。イスラエルの民等たみらためにも同じあがなひが献げられました。その意味は何ですかならば、その民も祭司長さいしのをさと同じめぐみを受くるはずです。神は祭司長さいしのをさと同じくイスラエルのたみを、受入うけいれ給ふことを示します。神は最早主を受入うけいれ給ひましたから、同じよろこびと愛をもって私共を受入うけいれ給ひます。全きあがなひために私共の代理人を受入うけいれ給ひましたから、私共を受入うけいれ給うたる事と同じ事です。私共はそれによりて神とまじはり神の祝福を頂戴することが出來ます。

十 七 節

 祭司長さいしのをさを助ける者は一人もありません。祭司長さいしのをさは自分一人にて、この犧牲いけにへほふりて、これを全く献げなければなりません。これはおほいなるはたらきであります。これは何を指しますかならば、主は御自分一人にて私共のためあがなひを成し遂げ給ひました。主を助ける者は一人もありませなんだ。私共は誤りたる思想かんがへもって、度々たびたび幾分か自分の功績いさをしために、あるひは自分のはたらきために、神にちかづく事が出來ると思ひます。これは主の全きはたらきを助けるといふあやまりたる思想かんがへです。主は一人にて全きあがなひを成し遂げ給ひました。イザヤ五十九・十六を御覽なさい。これは丁度ちゃうど同じ事です。祭司長さいしのをさは自分一人にて、私共のためはたらきを成し遂げ給ひました。イザヤ六十三・三、五を御覽なさい。人間の眼をもって見ますれば、主は種々いろいろなる友達がありました。けれどもそのはたらきために事を共にする者は一人もありません。だ一人にて進み給はねばなりませなんだ。十字架のために、エルサレムにのぼり給ふ時に、主は弟子より進みきて一人もまじはる者はありませなんだ。ゲツセマネのそのにてだ一人重荷を負ひ給ひました。ピラトの庭にも一人でした。カルバリさんにも一人でした。しに給うたる時も陰府よみくだり給うたる時も、だ一人でした。主は如斯このやうに一人にてあがなひを成しをはり給ひました。私共の祭司長さいしのをさ如斯このやうにして全きあがなひを立て給ひました。さうですから今全き救主すくひぬしであります(提前テモテぜん二・五)。

十八、十九節

 これはいのりの壇です。主は聖血ちしほために私共のためいのりところを備へ給ひました。エジプト三十・一、十を御覽なさい。これはいのりの壇です。神は人間のためいのりところを備へ給ふ事はじつに感謝すべき事です。私共は神に自分のいのりねがひを聞いて頂く事の出來るのは、何よりもさいはひなる事であります。

 天使てんのつかひは祈る事は出來ないでせう。天使てんのつかひは神に感謝し神を拜む事は出來ます。けれども自分の懇願ねがひを神に聞いて頂く事は出來ないでせう。たゞ人間のみがそんなおほいなる特權とくけんもっります。私共は流されたる血のためいのり特權とくけんを頂戴します(ヘブル四・十四〜十六)。

二十〜二十二節

 このあがなひの日に二番目の儀式が始まります。以前に硏究しらべましたやうに、祭司長さいしのをさは二匹の山羊を取りました。一匹を神の前に罪祭ざいさいとしてほふりました。其爲そのため祭司長さいしのをさすなはちイスラエルびとの代理人は神の前にる事を得ました。又二十〜二十二の山羊のために、イスラエルびとは自分の罪が全く取除とりのぞかれたる事がわかりました。彼等はこの山羊を見て何を感じましたかならば、自分の罪と惡が皆除かれて仕舞しまったことを知りました。

 如斯このやうに一方においては、ほふられたる山羊のために、その全きあがなひが成就せられたる事がわかりました。私共は主の十字架を見ますれば、全きあがなひが最早成就せられたる事がわかります。又それのみではなく主によりて自分の罪が全く取除とりのぞかれたる事を見ます。イザヤ五十三・六を御覽なさい。恰度ちゃうどこの祭司は逃れたる山羊の頭の上に、すべての罪を承認いひあらはしましたやうに、神は主に私共の罪惡を負はしめ給ひました。さうですからそれが全く取除とりのぞかれたる事を見ます。しへん百三・十二を御覽なさい。その時に神はこの山羊をもってイスラエルびとの罪を彼等よりとほざけ給ひました。恰度ちゃうど其樣そのやうに神は主によりて私共の罪をとほざけ給ひます(ミカ七・十九)。

二十四節

 これよりは第三のあがなひです。し私共が本當に十字架を悟りまするならば、最早罪の問題が濟みましたから、私共を神のものとならしめ給ひます。

 『水にそゝぎ衣服ころもをつけてで』とあります。今輝ける衣服ころもを着て、人々の前にます。キリストは永い間人間のあがなひために人の目に見えざる所にて働き給ひました。けれどもよみがへりの時にこの祭司が出行いでゆきし如く、弟子たちの前にれい身體からだもっ出行いでゆき給ひました。祭司はあがなひをなす時にきよき衣のみを着けました。今あがなひを成し遂げた時に、うるはしき衣服ころもを着て出行いでゆきました。主もよみがへりのちれいの衣を着て弟子たちの前にで給ひました。主は私共をきよめ神の前にまこと燔祭はんさいとなり給ひました。

 此處このところの『で』といふことばは主の再臨を指します。主キリストは今神の前に至聖所いときよきところにいりて、私共のため仲保とりなしいのりを捧げて給ひます。けれどものちさかえかゞやきとをもっ出來いできたり給ひます。その時に私共は肉眼をもって見る事が出來ます。民等たみらが祭司の至聖所いときよきところより出來いできたる事を待ってりましたやうに、私共も今あらはで給ふ主キリストを待ちます。彼前ペテロぜん四・十三を御覽なさい。主はさかえもっあらはれ給ひます。私共は主のよみがへりあづかりましたものならば、そのさかえあらはれ給ふ時喜び躍ります。

二十五節

 罪祭ざいさい犧牲いけにへあぶらがまだ殘ってります。今これを献げます。これは一番あぶらの善き者であります。この意味はあがなひが出來ましたから、たれが一番喜びますか。一番喜ぶ者は神であります。神はあがなひあぶらを一番喜び給ひます。罪人つみびとの救はれしあがなひあぶらであります。

二十六節

 『かの山羊をアザゼルにおくりし者は衣服ころもあらひ水に身をそゝぎ』ます。私共は度々たびたび他人の罪の承認いひあらはし、又おほいなる罪人つみびとを導かんとするうちに、時としてはその罪に傳染する事があります。さうですから如斯このやうな時には必ず聖靈の力を受けて、自分をきよこれうつらぬやうにせなければなりません。

二十八節

 これも同じ意味であります。罪にかゝはって働きまするならば、復一度もういちど自分をきよめねばなりません。

二十九〜三十一節

 本節以下、如何にしてこの式を續いて守るべきやを敎へられます。この日イスラエルびとあがなひの日を覺ゆるため如何どうしますか。第一にその身をなやまします。罪のためくるしみを感ずることです。罪の恐るべきを知ることです。しへん三十四・十八五十一・十七を御覽なさい。これは身をなやますことの雛形であります。私共はあがなひの結果と雛形をたう御座りまするならば、如斯このやうに身をなやまして、碎けたる心をもって、かなしんで神にちかづかねばなりません。しへん百四十七・三を御覽なさい。このあがなひの日は大安息日だいあんそくにちですから、心の大安心だいあんしんる日です。私共はあがなひためおほいなる歡喜よろこびと安心があります。ヘブル四・九、十を御覽なさい。これよりて私共の心を判斷する事が出來ます。まことあがなひあぢはうたる者ならば、心のうちおほいなる安息があります。

三十二節

 これは全く祭司のはたらきよりてゞある事を敎へられます。私共の祭司長さいしのをさは自分一人であがなひをなし給ひました。私共の悔改くいあらためと信仰をもってしても、彼のはたらきを助ける事は出來ません。さうですから私共は全くこれを主にまかせねばなりません。し私共が少しでもこれを助けねばならぬならば、そのあがなひは必ず幾分か不滿足であります。けれども主は一人にて全くこれを成し給ひました(ヘブル七・二十三〜二十五)。

 私共は只今たゞいま大切なる利未レビ記十六章をはりました。兄弟姊妹よ、何卒どうぞ各自めいめい深くこれを硏究し、聖靈に敎へられて、この章を學びあぢははれん事を望みます。これは聖書中大切なる章のひとつであります。



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