第三十 大なる決議
純粹なる福音に反對す
此十五章は敎會歷史中に於て、最も肝要なる一の章であります。此問題は唯昔起った問題である許りでなく、今でも度々起って來る問題であります。此章に於て決められた事を、未だ敎會と信者は眞正に學んで居りません。神は先に十章に於てペテロに異象を與へて、此問題に明らかなる答を與へ給ひました。然れども敎會は其を受入れず、今一度其に就て論じました。神は聖書によりて私共に明らかなる敎を與へ給ひましたが、尚度々此論が出ます。其問題といふのは何でありますかならば、純粹なる福音を宣傳すべきかどうかといふ事であります。神の恩惠を傳へ、罪人は價なしに、儀式を行はず共神に近づいて永生を得らるゝか、或はかういふ福音に幾分か儀式を加ふべきかといふ事であります。又特權ある階級を設けて、唯其階級に屬する者のみ全き救を得べきかといふ問題であります。パウロは後に同じ問題についてガラテヤの敎會に書送りました。
『彼等と爭ひ且論ぜしかば』、何を論じたかと云へば、加拉太書を見れば解ります。此問題は何よりも大切な問題でありました。私共神の戰爭に出ますれば、一番よい武具を以て行かなければなりません。神は其爲に私共に純粹なる鐵を以て製へた刀を與へて居給ひます。而して私共が其に他の物を混へて、其刀を鈍くする事のない樣に望み給ひます。加拉太書一章六、七節『キリストの恩をもて爾曹を召たる者を爾曹が此如すみやかに離れて異なる福音に遷し事を我怪しむ 此は福音に非ず』。此ガラテヤ人は儀式を重んじて異なる福音に移りましたが、其は福音即ち喜の音信ではありません。福音即ち喜の音信とは、神が價なしに、唯御自分の恩惠の故に罪人を救ひ給ふ事であります。又かういふ福音を受入れますれば、眞の自由を得ます。加拉太書五章一節『イエスキリスト我儕を釋て自由を得させたり 是故に爾曹堅立て復び奴隷の軛に繫るゝ勿れ』、儀式的の考を以て古の傳說に從ひますれば、必ず奴隷の軛に入ります。『我パウロ爾曹にいふ 爾曹もし割禮を受なばキリスト更に爾曹に益なし』、即ち其によりて全くキリストの救の力を徒らにして仕舞ひます。『我また割禮を受たる各々の人に就て證す 其人は全き律法を行ふべき者なり なんぢら律法に由て義とせらるゝ者はキリストと與りなく恩より墮たる者なり』(加五・一〜四)。かういふ人は恩惠に依賴まず、己の手の行と己の力に依賴んで救を求めます。其當時の或人々は申しますのに、割禮は神が命じ給ふた事ですから、神を敬ひ神を信ずる者は必ず其を受けねばならぬと主張しました。又かういふ論を打消す事は容易の事ではありません。パウロは必ず斯る論に反對したでせうが、向ふの人は其に滿足しませんから、ヱルサレムに行かねばならぬ事となりました。パウロは其に就て何と云ひましたかならば、加拉太書三章三節を御覽なさい。『爾曹かく愚なる乎 なんぢら靈に因て始り今肉に因て全うせらるゝ乎』。割禮を行ふ事は、此樣に信仰の道を離れて肉に由って全うせんとする事です。廿四節廿五節『かく律法は我儕をして信仰に由て義とせらるゝ事を得しめんが爲に我儕をキリストに導く師傅となれり 然ども今信仰すでに來たれば我儕もはや師傅の下にあらず』。即ち神が立て給ふた儀式は師傅のやうなもので、私共にキリストを示し、又信仰の道を示す爲であります。けれ共今最早信仰の道を發見しましたから、師傅の助は必要でありません。四章三節を續いて讀みますれば『此のごとく我儕も童蒙の時は此世の小學の下に在て僕たる也 然ども期すでに至るに及びて神その子を遣し給へり 彼は女よりうまれ律法の下に生れたり これ律法の下にある者を贖ひ我儕をして子たることを得しめんが爲なり』(三〜五)。今最早此樣に子となる事を得ましたから、儀式の助を求めずして、キリストが與へ給ふ自由を経験する筈であります。今でも罪人は神の救を得る爲にいろいろの儀式を行はんとし、又基督信者も其信仰に各樣の儀式を加へんと致します。どうか私共は神の救を得る爲にも、恩惠を受くる爲にも唯一の事、即ち信仰のみが必要である事を、充分に覺えたう厶います。猶太書三節の終に『聖徒が一たび傳られし信仰の道の爲に力を盡して戰はん事を爾曹に勸ざるを得ず』とありますやうに、此問題は罪人が救はるゝ事に關係があり、餘程大切でありますから、其爲に力を盡して戰はなければなりません。
『その中の數人』とありますから、此時アンテオケの信者も一緖に參りました。テトスも其中の一人でありました。加拉太書二章一、二節を見ますと、『十四年の後われバルナバと偕にテトスを伴ひて亦ヱルサレムに上る わが上りしは默示に循へるなり』。此默示とは英語では Revelation で、即ち神の明らかな導きに從ったのであります。使徒行傳を見れば、敎會の信者が其を勸めました。『兄弟等この事に就てパウロ、バルナバ及びその中の數人をヱルサレムに上せ』とあります。然しパウロは信者等の勸の爲のみならず、神の導を蒙ってヱルサレムに上りました。若し明らかな導きがなかったならば、肝腎な傳道を捨てゝヱルサレムに行くやうな事をせなかった事と思ひます。加拉太書二章二節を見ますと、ヱルサレムに着いた時に、先づ第一に『私に名ある人等』と相談致しました。第一に私に、次に公けに全會衆の前に其を論じました。
彼等は敎會の人々に送られて出ましたから、其處の敎會の信者等はパウロに同情を有って居った事が解ります。
彼等は此旅の時に、毎晩基督信者の家に泊る事を得ましたでせう。此時分最早此邊はよく福音が宣傳へられて居ましたから、多分其が出來たと思ひます。毎晩着いた處では美はしい集會を開き、其地の信者等と樂しく交って、神が行ひ給ふた御業を述べて、『すべての兄弟を大に喜ばしめ』ました。又其爲にも何處に於ても、其田舎の信者等が勵まされて恩惠を得たでせう。
『すべての兄弟を大に喜ばしめたり』。八章八節に於て、サマリアの信者等は大なる喜を得ました。是は始めて福音を聞いて救を得た時の事でありましたが、今もう一度其邊の信者等が大なる喜を得ました。此度は傳道の成功を聞いて、救はれし者に同情を表する爲に新しく大なる喜を得たのであります。基督信者は其やうに、自分の救はれた爲に大に喜び、又他の人が救はれた爲にも大に喜びます。丁度路加傳十五章五節或は十節のやうであります。
ヱルサレムの會議
此『接られ』といふのは原語では心から歡迎せられた事を示します。然うですからパウロと此ヱルサレムの敎會の人々とは、此問題の爲に交際の切れたやうな事は少しもありませなんだ。ヱルサレムの敎會の使徒や長老等は、今愛を以てパウロとバルナバを歡迎しました。
パウロは此處でももう一度傳道の成功や、救はれし人々の事を、ヱルサレムの信者に話しました。其によって其處の信者の信仰が勵まされましたでせう。
此パウロに反對した人々も眞正に信者でありました。更生った者でありました。主イエスに依賴んで救を得た者でありました。然れ共此やうに心の中に惡い分子が殘って居りました。惡いと申しましても、其は昔の宗敎に適ふ事でした。又一度神の默示し給ふた事に適ふ事でありました。然れ共こんな福音に反するパン種が信者の心の中に殘って居りますれば、其信者は何時でも敎會の妨害となり、敎會の中の爭の原因となります。私共は未信者を救に導く時に、純粹なる福音を敎へて置くことは大切な事であります。初より唯信仰の道により救はれる事、即ち己を捨て、儀式の功能に依賴まずして唯主イエス御自身に依賴む事によりて救はれる事を、力を入れて敎へなければなりません。若し信者になった者で此信仰の道が充分解りませんならば、或は後に至って其人が敎會の害となるかも知れません。実際今日の敎會の中に、基督信者の中にさへも、自由の恩惠の道を知らない者が多う厶います。かういふ信者は必ず能力ある信者ではありません。必ず罪人の爲に重荷を負ふ信者ではありません。又必ず敎會の爲になりません。
今神は此時に、幸にもパリサイ人の中の一番熱心なる者を救ふて、其人を立たせて、此問題につきて論を戰はせ給ひました。パリサイ人に反對させる爲に、パリサイ人を立たせ給ひました。
此處では唯使徒と長老等と許り集まったことが書いてあります。然れども後の集會は唯使徒と長老等だけの集會でなく、廿二節にありますやうに、信者全體も集まって此事について論じました。
ペテロの證
是からはヱルサレムの使徒ペテロの論であります。ペテロはパウロの福音と同じ福音を宣傳へましたので、パウロに同情を表します。ペテロの論は何ですかならば、コルネリヲの家にて行はれた神の恩惠に就て論じました。彼處で儀式を行ふ事なくして、律法に從はざる罪人が救はれたのを見ましたから、罪人は儀式を行はず共、唯信仰によりて必ず救はれる事を論じました。
割禮を受けず、モーセの律法に從はざる異邦人にも、自分等が受けし恩恵と同じ恩惠を、神が與へ給ふた事を、ペテロは證致しました。是は神御自身の働であります。ペテロは是が神の働である事を申しました。神我を選び(七節)、神は聖靈を賜へて(八節)、神心を潔め(九節)、神分を爲さゞりき(九節)。是がペテロの論です。神が其をなし、其樣に罪人を救ひ給ひました。然るに
是は恐ろしい罪であります。神を試みる事ですから、大なる罪です。パリサイ人は割禮を命ずる事は、神を喜ばせる事であると思ひましたが、ペテロは其は却て神を試みる事で、神の前に罪を犯す事であると申しました。
コルネリヲの家に集ってゐた人々は全き救を得ました。又今パウロの導きし罪人も、全き救を得ました。唯主イエス・キリストの恩惠によりて、信仰によりて其を得ました。其樣に割禮を受けた者も、そんな儀式や特權に賴まずして、丁度此異邦人の如く主イエス・キリストによりて救はれる事を得ると述べました。斯樣に大なる特權と、大なる光を得ましたペテロも、其儀式に依賴まずして、唯イエス・キリストの恩惠によりて救はれる事を經驗致しました。丁度腓立比書三章七節のやうであります。『我さきに我が益となりし所の事はキリストに由て損ありと意へり』。
今迄のペテロの話によりて、コルネリヲの家で救を得た者が、どういふ恩惠を得たかを御覽なさい。其時に其人々は異なる方言を語る事を得、又大なる喜を得ました。然れ共格別にペテロはそんな事を言ひませなんだ。信仰によりて其心が潔められた事を申しました(九節)。是は明らかな兆で、又之は恩惠の中の最も大切なる恩惠でありますから、此事を言って證據立てました。
九節の終に『我儕と彼等の間に分を爲ざりき』とあります。即ち誰でも區別なしに、聖靈の感化と聖潔の惠を受ける事が出來ると書いてあります。羅馬書三章廿二節及び十章十二節を見ますと、罪人は同じ樣に、區別なく神の救を受ける事が出來ると書いてあります。然うですから特權ある人もない人も、同じやうに救或は聖潔を得る事が出來ます。
是がペテロの話でありました。次にパウロとバルナバの話が書いてあります。
パウロとバルナバの證
是は第一の明らかな論でありました。パウロは今迄の傳道の事を語って、唯神の恩惠を宣傳へて罪人が救はれた事を證致しました。是によりて神は儀式を願ひ給はず、唯信仰のみを願ひ給ふ事を知る事を得ます。
主イエスはパリサイのパン種を戒め給ひました。何時の時代に於ても、唯主イエスの恩惠に依賴んで救はれたと確信する事は六づかしい事で、パリサイのパン種を受入れ易いものであります。私共はどうか各自自分の心を探り、パリサイのパン種があるかどうか深く省みなければなりません、而して唯神の恩惠に依賴んで、價なしに、功績なくして救はれた事を、確く心の中に信じたう厶います。
神のプログラム
三番目にヤコブが語ります。第一に七節からペテロの話、第二に十二節にはバルナバとパウロ、第三に今ヤコブが論じます。此ヤコブの論は餘程大切であります。此話によりて神の順序書を知る事が出來ます。即ち恩惠の時代に就いて、神の働の順序を知ります。此處は新約全書中、此事に就て一番明らかな處であります。然うですから氣を附けて硏究したう厶います。今此時の問題は儀式に關する問題でありましたが、ヤコブは其場合に神の時代に就て話しました。私共は神の時代に就て知りませんならば、神がいかに働き給ふかを知ることが出來ません。ヤコブが神の時代に就て論じた譯は、最早儀式的の時代は終り、神は今や新しき福音的の時代を始め給ひましたから、儀式は最早大切でなく、却て罪人は唯信仰によりて救はれるといふ事を示す爲でありました。
是は今の時代の事であります。舊約時代に於て異邦人が救はれるには、先づ其異邦人が割禮を受けて一旦猶太人とならなければなりませなんだ。然れ共神は今他の時代を始め給ひましたから、他の方法を以て異邦人を救ひ給ひます。ペテロは其を證しました。即ち神はコルネリヲの家に奇しき御業を行って、其樣な時代を始め給ふた事を示し給ひました。然うですから今は福音の時代です。神は異邦人にも唯信仰によりて恩惠を與へ給ふ時代であります。然れ共此後にもう一つ別の時代があります。其は何ですかならば、猶太人が悔改めて、もう一度神の恩惠と繁榮を受くる時代であります。
是は第二の時代であります。即ち神はもう一度猶太人を惠み、猶太人に光を與へ、猶太人を全世界の國々の長とならしめ給ひます。
是は其次に起る第三時代であります。其時には全世界の大リバイバルが起ります。是は即ち千年時代であります。其時には凡の異邦人は神を知り、又神を敬ひます。
然うですからヤコブは此時、其時より此世の終に至る迄の三の時代に就て申しました。第一は異邦人より幾分か救はれる者の起る時、第二は猶太人が恩惠を受ける時、第三は凡の異邦人が神を敬ふ時であります。今私共はヤコブと同じ樣に、此第一の時代に暮して居るのであります。
神は初より此樣に、今唯恩惠を以て異邦人を救ふ事を企て給ひました。是は唯ペテロの傳道の仕方、又はパウロの傳道の遣方ではありません。神御自身が初から此事を定め給ふたのです。私共は時の兆を悟って、神の働き方を知る事が肝腎であります。然うですから
神は斯樣に働いて居給ひますから、此救はれた異邦人に割禮や他の儀式を命じない方がよいと申しました。
然れども周圍に居る猶太人の爲めに、即ち彼等の心を傷めない爲に、此四の事を戒めました。羅馬書十四章廿一節を御覽なさい。『肉を食ふ 酒をのむ 何事に由ず爾の兄弟を倒し或は礙かせ或は懦弱するは宜らざる也』。其爲に此事を戒めます。此四の事の中には姦淫の如な恐ろしい罪もありますが、他の三の事は格別に罪といふ事は出來ません。私共は今かういふ事に就ては主イエスに由りて自由を得ました。然れ共其時の異邦人の習慣と行とを思ふて、此時はこんな事はせない方がよいと、新しい信者に戒めました。哥林多前書十章廿七節を見ますと、『爾曹もし不信者に請かれて往んとせば凡て爾曹の前に陳る物を良心の爲に問ことをせずして食すべし』。然うですから此時にパウロは、信者に是を戒めず、却て自由を以て何でも食するやうに勸めました。私共は今さういふ自由を得て居ります。然れ共若し其が他の兄弟の良心に逆くならば、其樣な事を全く廢める方がよう厶います。
敎會に送れる書
『全會と偕に』とありますから、皆心を合せ又聲を合せて、是を決めたのであります。
然うですから、ヱルサレムに居る使徒等及び信者等は、心からバルナバとパウロに同情を表して居る事を示しました。又其によりてパウロとバルナバは必ず神の聖旨を述べ、純粹なる福音を宣傳へる者である事を表はしました。『我儕の愛するバルナバ、パウロ』といひ、又『この二人は我儕の主イエスキリストの名の爲に其命をも愛ざりし者なり』と賞賛致しました。其時の働人は第一に、其樣な犧牲の心がなければなりませなんだ。其やうに愛に勵まされて、生命をも惜みませんならば、其人は必ず信用すべき神の人であります。
是は全會一致の決議でありました。然うですから此手紙を受けた人々は、是によりて聖靈の聖旨を知り、聖靈が共に働き給ふた事を確く信ずる事を得ました。是は唯一個人一個人の確信ではなく、全會衆の確信でありました。聖靈は全會衆の中に在し、全會衆に其聖旨を悟らせ、全會衆に確信を與へ給ひました。どうか斯ういふ敎會を今でも見たう厶います。此敎會のやうに、聖靈が最も新しい信者に至る迄、信仰の弱い者に至る迄、全會衆凡の者を照し、全會衆を一つにならしめ、全會衆に慰藉を與へ給ふやうに願ひます。
どうか私共も深く之を學びたう厶います。此ヱルサレムの敎會が、新しい敎會にモーセの儀式を命じなかったやうに、私共も小い嬰兒のやうな他の敎會に、自分共の風俗習慣、或は自分等の敎會組織を負はせない樣に注意しなければなりません。是を負はせる事は却て神の聖旨に反する事です。私共は自分の風俗に從ふ事はよい事でありますが、他の信者、格別に新しい信者が、是非私共を眞似て、私共の風俗に從はねばならぬと思ふのは、大なる間違であります。然れども今日の敎會にかういふ事は普通に行はれて居ります。其により敎會が神の光の中に步んで居ない事が解ります。どうか私共は、神は必ず嬰兒のやうな新しい敎會を牧し給ふ事、又聖靈は必ずかういふ新しい信者を導き養ひ給ふといふ事を信じたいものであります。
アンテオケの信者は唯信仰によりて救はれたに相違ありませんが、後にパリサイ人が來て儀式的の敎を傳へました。然れども初に信仰によりて更生の經驗を得て、神の子となった者でありますから、此手紙を受けて大に喜びました。
此ヱルサレムより來た使者も預言者、即ち神の聖言を宣傳へる者でありましたから、說敎もし勸もしました。必ず純粹なる福音を宣傳へ、唯信仰によりて神の全き救に與かる事が出來ると宣べたに相違ありません。
唯パウロとバルナバ及び他の預言者のみならず、『其餘の多の人と共に敎をなし』とありますから、多くの平信徒も敎をなし、皆心を合せて神の聖國を廣めました。アンテオケの敎會は聖靈の宿って居給ふ敎會でありましたから、其やうに多の證人が居りました。皆能力を以てキリストの恩惠を證する事を得ました。然れ共其人々の中唯僅か許りが、普通の職業を捨てゝ外國傳道に出ました。多くはアンテオケに止って、其處で兵卒らしき心を以て主イエスを證しました。
此處迄でパウロの第一傳道旅行は終ります。三十五節より第二傳道旅行が始ります。
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