第三十三 希臘ギリシャける舊約の宣傳



テサロニケにける聖靈のはたらき

第 十 七 章

一節

 ピリピよりアムピポリスまでと、アムピポリスよりアポロニヤまでとのあひだは皆大槪たいがい同じ道程みちのりで、十五程ありました。多分はじめの晩はアムピポリスでとまり、その次の晩はアポロニヤでとまってテサロニケに參りました。何故なぜその二ヶ所でとゞまって傳道せなかったかはよくわかりませんが、聖靈のみちびきがなかった事と思ひます。

 パウロは前の晩恐ろしい鞭刑むちを受けました。普通鞭刑むちを受けますと、其爲そのために一週間位は何も出來ません。パウロはその傷が一生涯身に殘ってたやうですから、ひどい鞭刑むちを受けたのですが、神の力によりていやされて、翌日あくるひ直樣すぐさまピリピを去りてこの長い旅行をする事を得ました。

 ピリピを去りましたけれども其處そこの信者と愛のつなぎつながれて、何時いつでもピリピを覺え、又ピリピの信者たちもパウロを覺えました。腓立比書ピリピしょ四章十六節爾曹なんぢらわがテサロニケにありしとき一度ならず二度までも人を遣はしともしきを助けたり』。まことの愛の贈物おくりものを送りました。

 パウロがテサロニケにった時には、みづから働いて暮しました。帖撤羅尼迦前書テサロニケぜんしょ二章九節『兄弟よ 爾曹なんぢらわれらのらうくるしみをしる 爾曹なんぢらのうちの一人をもわづらはせざるため夜晝よるひるわざなして神の福音を爾曹なんぢら宣傳のべつたへたり』。夜遲くまで自分の手をもって働きましたでせう。ピリピで斯樣かやうな迫害を受け、その背にむちの傷をも受けましたから、このテサロニケでは迫害にはぬやうに、靜かに休む方がよいではないかと思はれますが、それはパウロの精神ではありません。帖撤羅尼迦前書テサロニケぜんしょ二章二節爾曹なんぢらしれる如く我儕われらさきにピリピにてくるしみうけまたはづかしめうけたり されなほなんぢらに至り我儕われらが神によりはゞかる所なく神の福音をおほいなる紛爭あらそひうちにて爾曹なんぢらに語れり』。

二、三節

 うですからパウロはテサロニケにおいても、早速その聖書にもとづきて福音を宣傳のべつたへました。すなはち聖書にもとづきこのみっゝの事を論じました。第一は『キリストの必ず苦難くるしみをう』くべき事です。普通の猶太人ユダヤびとそれを信じません。メシヤは必ず權威をち、榮光さかえを受けるはずであると思ひました。どもパウロは必ず苦難くるしみを受くべき事を、聖書の上から論じました。第二に『死よりよみがへるべき事』を說きました。矢張やはり聖書の上より救主すくひぬしは死にてのち、必ず生命いのちを得て此世このよあらはれ給ふべき事を論じました。第三は『わがなんぢらにつたふる所のこのイエスはすなはちキリストなる事を說明ときあか』しました。すなはちナザレのイエスこそ舊約に預言せられしメシヤであると、力をつくして論じました。

 これは長いあひだはたらきでなく、『三回みたび安息日あんそくにちごとに』とありますから、三週間ぐらゐはたらきでありました。しかるに聖靈が働き給ひましたから、おほいなる經果けっくゎあがり、リバイバルが起りました。すなは

四節

 大リバイバルが起り、多くの人々は悔改くいあたらめてキリストを信じました。帖撤羅尼迦前書テサロニケぜんしょ一章此時このときのリバイバルについて詳しい事が書いてあります。『我儕われらの福音なんぢらにきたりしはたゞことばよりてのみならずちからにより聖靈によりまたあつき信仰によりてなり』(五節)。たゞ三週間ばかりのはたらき斯樣かやうおほいなる結果が起りましたから、これことばの力にあらず、聖靈の力によりて起ったリバイバルであります。又ほかの方面よりいへば『あつき信仰によりて』であります。福音を聞いた人々が、喜んであつい信仰をもっこれ受入うけいれましたから、斯樣かやうなリバイバルが起ったのです。このリバイバルの結果、この信者等しんじゃたちは三種類の人となりました。第一に六節をはりにあるやうに、『しゅなら』ふ者となりました。これは英語で followers すなはしゅに從ふ者であります。たゞすくひを得た事をもって滿足せず、しゅに從ふ者となりました。第二に七節にあるやうに、『信者の模楷かたすなはち手本となりました。又第三に八節おいわかりますやうに、ほかの人々にしゅの福音を宣傳のべつたふる傳令者でんれいしゃとなりました。テサロニケの信者はかういふ者となりましたから、眞正ほんたうに救はれたに相違さうゐありません。

 又同じ帖撤羅尼迦テサロニケの一章をはりを見ますれば、その悔改くいあらための順序もわかります。第一に九節にあるやうに神に歸りました。『なんぢら偶像ぐうざうをすて神にして』。これまこと悔改くいあらためでありました。斷然罪を捨て、偶像を離れて神に歸りました。第二にこの神につかふる者となりました。『いけ眞神まことのかみつかへ』。神の命令に從ひ、神のために働く者となりました。又第三に十節にあるやうに、キリストの再臨を望む者となりました。『その子の天よりきたるをまついへなり』。今でもまこと悔改くいあらためた者は、このみっゝの事があるはずです。罪をすてる事と神のしもべとなる事及びキリストの再臨を待望まちのぞむ事です。

 うですから聖靈はこの三週間のうちに、じつに深いはたらき成遂なしとげ給ひました。ども五節を見ますと、聖靈が働き給ひましたから、惡魔も働いて迫害を起しました。又その迫害は何處どこから起りましたかならば、偶像信者からでなくして、神を敬ふ猶太人ユダヤびとから起りました。

その地にける惡魔のはたらき

五節

 ヤソンはパウロの親類でありました。羅馬書ロマしょ十六章廿一節に『が親戚ルキ、ヤソン』とあります。パウロの家族は多分多く、處々しょしょたふとい人のうちその親戚がありました。又その親戚はパウロを信用してましたから、ほかの人々より早く悔改くいあらためて、パウロの信ずる宗敎を信じました。此時このときパウロたちこのヤソンの家にとまったらうと思ふて、この猶太人等ユダヤびとらは始めにづヤソンの家に參りました。

六節

 『天下を亂す』者といふことばは、英語では尚々なほなほ强い意味で、天下をひっくり返す者(These that have turned the world upside down)といふことばであります。これは神を信じない人の言ったよいあかしであります。三週間のうちおほいなる聖靈のはたらきがありましたから、この人々はパウロは天下をひっくり返したとはねばなりませんでした。どうぞ聖靈が私共わたくしどもをも用ひて、其樣そんおほいなるはたらきをなさせ給はん事を願ひます。罪人つみびとをひっくり返す事は神の御業みわざであります。詩篇百四十六篇九節『ヱホバは他邦人あだしくにびとをまもり孤子みなしご寡婦やもめとをさゝへたまふ、されどあしきものゝみちはくつがへしたまふなり』。このくつがへすといふ字は矢張やはり同じ字であります。このヱホバがパウロと一緖に働き給ひまして、丁度ちゃうどこの不信者ふしんじゃが言ひましたやうに、天下をひっくり返しました。

七節

 帖撤羅尼迦書テサロニケしょ(1, 2)を見れば、テサロニケの信者は格別にしゅイエスの再臨を待望まちのぞみました。そのふみの各章のうちに、しゅの再臨の事が書いてあります。その心のうちに格別にこののぞみが輝いてたのです。すなはしゅきたり給ふて、その國を建て給ふ事を望みました。うですから不信者がこれを聞いて、『イエスといふほかの王ありと言』ふと申しました。

八〜十節

 すなは馬太傳マタイでん十章廿三節しゅことばの通りに、パウロたちその地を去りました。『このむらにて人なんぢらをせめなばほかむらのがれよ』。パウロはテサロニケを去りましたが、何時迄いつまでもテサロニケの信者等しんじゃたちを愛しました。帖撤羅尼迦前書テサロニケぜんしょ二章十七、十八節を見ますと、『兄弟よ 我儕われら暫時ときのまなんぢらに離れをる これかほのみなり 心にあらしきりに願ひて急ぎ爾曹なんぢらかほを見んとせり 是故このゆゑ我儕われらなんぢらに至らんとねがへり ことわれパウロこれを願ふこと一次ひとたびのみならず兩次ふたゝびなりしかどサタン我儕われらを妨げたり』とあります。すなはちパウロは二度テサロニケに歸りたうございましたが、そのみちが開かれませなんだ。『我儕われらのぞみまたよろこびまたほこりかんむりたれぞや 我儕われらしゅイエスキリストのきたらん時その前にて爾曹なんぢらこのものとなるにあらず それ我儕われらさかえよろこび爾曹なんぢらなり』(十九、廿節)。まことに親しい愛のことばではありませんか。パウロはわづか三週間この人々とまじはりましたが、かれの心のうちに燃え立ってる愛がありましたから、その短いあひだにもこのやうな愛の交際まじはりを結ぶ事を得たのであります。

 パウロが其處そこを去ってからのちに、その信者等しんじゃたちに對しておほいなる迫害が起りました。帖撤羅尼迦テサロニケ前書ぜんしょ二章十四節『兄弟よ 爾曹なんぢらユダヤのうちなるキリストイエスにある神の敎會にならへる者となれり そはかれらユダヤびとくるしめられし如く爾曹なんぢらおのが國の人々にくるしめられたればなり』。又後書こうしょ一章四節是故このゆゑ我儕われらなんぢらのために神の敎會のなかに誇る そはなんぢら窘迫せめ患難なやみなかあり忍耐しのびと信仰をたもてばなり』。此處こゝからわかるやうに、彼等はひどい迫害にはねばなりませんでした。

强き信仰の基礎

十一節

 パウロは何時いつでも聖書にもとづいて福音を宣傳のべつたへましたが、このベレアの信者はもう一度聖書を讀んで、パウロの傳へる事が実際であるかどうかを調べました。この人々は使徒パウロの云ふ事をも信用する事が出來ず、直接に聖書より光を得たうございました。永生かぎりなきいのちるやいなやといふ大切なる問題でありますから、使徒のをしへをも信仰の土臺とする事が出來ず、自分で神の聖言みことばを調べて、その聖言みことばに從って、その聖言みことばの上に信仰を立たせたうございました。神は其爲そのためこの人々を祝福し給ひました。罪人つみびと私共わたくしどもことばを聞いてこれを信じ、それによって信者となりますれば、その信仰は弱く、あるひは又たふれるかも知れません。どもその罪人つみびと私共わたくしどもことばを聞きて聖書を調べ、神の聖言みことばの上に信仰を立てますならば、その人は必ず堅い信者となります。

十二節

 『是故このゆゑに』、すなはち聖書を自分で調べて見ましたから、其爲そのために信仰を起した者が澤山たくさんありました。

十三節

 『彼處かしこいたりて』。テサロニケからベレアまで廿里程ありますが、その長い道程みちのりを旅して來て、人々をさわがせました。

十四節

 『海にゆかしむ』。すなはちベレアより船に乗ってアテンスにかしめました。どもシラスとテモテは若い信者を助けるため、又なほ一層福音を宣傳のべつたへるため其處そことゞまりました。



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