第九 町の震動
天の葡萄酒
六節の終と七節に『躁あへり みな駭き異みつゝ』。又此十二節に『皆おどろき』とあります。即ち其時の敎會は悔改めない人々を驚かせました。どうか唯今でも罪人を驚かせる敎會を見たう厶います。こんな敎會がありますならば、私共も一日に三千人悔改める事を見ませう。
此驚異は段々信仰になります。是は度々神の順序です。第一恩惠を以て人々を驚かせ、次に信じさせ給ひます。此人々は神の奇跡を見て驚きましたが、其爲に救はれませんでした。其よりも後に聖言の爲に救はれました。是は大切です。神は何時でも聖言の能力を以て人間を更生に導き給ひます。其を見て此十二節の如く、或人は驚いて、神を畏るゝ畏を以て滿されました。然れども十三節を見ますれば、他の人々は同じ事を見て、嘲って神の聖名を汚しました。實に人間の心の鈍い事が解ります。神は明白に其御榮光を示し給ふても、或人は暗い心を以て其を嘲ります。
又此十三節を見ますれば、そんな人々は基督信者の喜悅について、眞實でない理由を申します。『此人々は甘き葡萄酒に滿されたる者なり』。此理由をつける事は易い事です。神は明白に働き給ひましても、そんな人々は、自分の鈍い心に從って其を說解します。どうかそんな不信仰の話を受入れませずに、神の働き給ふ事を見上げて、信じて神の大なる御業を感謝致したう厶います。『此人々は甘き葡萄酒に滿されたる者なり』。是は眞正でありました。此人々は知りませんでしたが、眞正の事を申しました。此弟子等は天に屬ける甘き葡萄酒に滿され、今迄は自分の靈に導かれて生涯を送りましたが、是からは他の靈に導かれて生涯を暮します。撤加利亞書九章十七節と十五節『その福祉は如何計ぞや 其美麗は如何計ぞや 穀物は童男を長ぜしめ 新酒は童女を長ぜしむ』、『萬軍のヱホバ彼らを護りたまはん 彼等は食ふことを爲し 投石器の石を踏つけん 彼等は飮ことを爲し酒に醉るごとくに聲を擧ん』。新しき葡萄酒によりて、そんな福祉とそんな美麗を頂戴します。神は此通りに聖靈を下して、私共に新しい葡萄酒を飮ましめ給ひます。耶利米亞記廿三章九節『預言者輩のために我心はわが衷に壞れわが骨は皆震ふ 且ヱホバとその聖言のためにわれは醉る人のごとく酒に勝るゝ人のごとし』。其通りに聖靈に滿されて罪人の重荷を負ひます。丁度此人々のやうに、葡萄酒に滿されし者の如くです。神は私共に此通りに聖靈を與へ給ひたう厶います。其通りに心が滿されますならば、他の人々に神の御業を認はさずには居られません。其通りに大膽に、罪人の前に主イエス・キリストを宣傳へます。其通りに心の中に重荷を負ふて、罪人の爲に働きます。罪人に嘲られても、是非神の言を說解し、其罪人を導きたう厶います。神は私共にも同じやうにペンテコステを與へ給ひます。
シナイ山とペンテコステ
人間は自分の智慧で神の御業を悟ることが出來ません。神は明白に聖聲を出し給ひましても、人間は自分の智慧で其を知る事が出來ません(約翰傳十二章廿九節)。神は奇しき御慈愛を以て、十字架の上に於て人間の爲に働き給ひましたが、人間は其を知りません。今又此ペンテコステの日に神が明白に天より聖聲を出し給ひましたから、人間は心から其意味を尋ねる筈です。『此は何なる故ぞや』。即ち何の意味であるかを尋ねました。其意味は何であるかならば、神が罪人を救ふことを求め給ふ事です。神は罪人を御自分に導き給いたう厶います。是がペンテコステの深い意味です。
モーセが神の焰を見ました時に、同じ事を尋ねました。出埃及記三章三節『我ゆきてこの大なる觀を見 何故に棘の燃たえざるかを見ん』。神は其民を救はん爲に下り給ひました。是が燃ゆる棘の深い意味でした。
シナイ山の麓で、イスラエル人は神の聖聲を聞きました、即ち神は火と暴風から聖聲を聞かしめ給ひましたが、ペンテコステの火は其シナイ山の火と同じものでした。其シナイ山の火は、埃及から救はれてから五十日後の事でした。其時に出埃及記十九章四節を見れば、神は第一に今迄の事を憶えさせ給ひました。『汝らはエジプト人に我がなしたるところの事を見 我が鷲の翼をのべて汝らを負て我にいたらしめしを見たり』。過去の事は皆、神の御慈愛と惠のみであった事を覺えさせ、而して新しい約束を與へ給ひました。五節、六節『然ば汝等もし善く我が言を聽きわが契約を守らば汝等は諸の民に愈りてわが寳となるべし 全地はわが所有なればなり 汝等は我に對して祭司の國となり聖き民となるべし』。今此ペンテコステの日に此約束を成就し給ひました。此百廿人を御自分の寳とし、御自分の祭司又王とならしめ給ひました。神は續いてイスラエル人に御約束を與へ給ひました。一方から十誡を見ますれば、是は皆神の御約束でありました。誡でなくして、神は其通りに罪を免れて義しい事を行ふ事の出來る樣に約束し給ひました。今ペンテコステの日に、神は其通りに信者に新しい契約を與へ給ひます。又其を與ふる事許りでなく、心の中に其を書記し給ひます。即ち其心の願を御自分の聖旨に象らしめ給ひます(哥林多後書三章三節)。神はシナイ山で石牌に記して誡を與へ給ふた通りに、ペンテコステの日に信者の心に其を書記し給ひます。
ペンテコステの火は、丁度新しいシナイの火でありました。然うですから私共はペンテコステを求めますならば、シナイの火を求むるやうな考を以て求むる筈です。即ち畏を以て、神の榮光を見ると思って、謹んで其を求めねばなりません。又其から新しい服從を以て神の誡に從はねばなりません。希伯來書十二章十八節以下に、シナイ山とペンテコステの火が比べられてあります。又其を讀んで、心を開き、今神は私共を最も高き恩惠の中に入らしめ給ふと信じて、神に近かねばなりません。私共は幾分かシナイ山に於ける意味を以て此十二節の問に答ふる事を得ます。
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