第十一 キリストの御榮光
ペテロの三の說敎の題
十四節以下のペテロの說敎を讀みますれば、ペテロは此三の事について話しました。第一に聖靈に滿されし人々に就て述べ、第二に聖書を引いて語り、第三にキリストを宣傳へました。此キリストに由って聖書の言が成就しました。
神の御子
今迄此ユダヤ人等は主イエスを信ぜず、却て輕蔑し、是を憎みました。今ペテロは格別に、主イエスが神の格別に愛し給ふ御子であると示します(廿二節)。其活きて居給ふた時に、神はキリストに由て働き給ひました。『それナザレのイエスは爾曹の知ごとく神かれに託て爾曹の中に行し妙なる能力と奇跡と休徵とを以て爾曹に證し給る所の人なり』。神は其通りに、ユダヤ人の眼の前に主イエスを指し給ひました。是は此『證」といふ語の原語の意味であります。第二に廿四節『神は……之を甦らせ給へり』。第三に卅三節『神の右に擧られ』。第四に卅六節『神これを主となしキリストとなし給しこと』。此四の事によって、ペテロが主イエス・キリストのメシヤたる事を證據立てました。第一の證據は卽ち主イエスの行で、ユダヤ人が其行を見た事でした。第二の事は甦で、ペテロは聖書を引いて其を示しました。又卅二節に自分の證を以て其を示しました。第三の事の證據は、今の聖靈の傾注です、卅三節の終に『今なんぢらが見ところ聞ところの者を注り』。又第四の事、卽ちイエスが主となり、またキリストとなり給ひました事については、聖書によって是を確めました。
こんな明白な證據がありましたから、ペテロは初めに廿二節にイエスをナザレのイエスと申しました。ユダヤ人は此名を輕蔑しました。然れども神は賤しいナザレ村より、其救主を遣はし給ひました。又或人はイエスが十字架に釘られましたから、其に由って神の御子又メシヤでない事を證據立てます。然れどもペテロは然うでないと答へ、廿三節に十字架も神の定め給ふた聖旨であり、又救を與ふる神の道である事を述べ、又聖書を引いてメシヤが必ず死に給ふ事を語りました。然れども神は主を甦らせ給ひました。『神は其死の苦を釋て之を甦らせ給へり 彼は死に繫れ在べき者ならざれば也』(廿四節)。他にも死んだ後此世に歸った者がありました。然れども神がイエスの死の苦を釋き給ひました通りに、他の人々の死を釋き給ひませんでした。主イエスは死に繫がれ居るべき者でありませんから、最早何時迄も死に給ひません。
神の聖前の全き者
詩篇十六篇にそんな事を見ます。ダビデは其處に全き者に就て預言しました。全き道を踏む全き者、卽ち常に其前に主の在し給ふ事を見るもの、斷えず神の光の中に步んで、少しも神の聖旨を犯さぬ者の踏む處の道は、大なる望の道であります。『我心は樂み我舌は喜べり 且わが肉體は望に居ん』(廿六節)。其望は格別に甦の望でありました。廿七節のやうに死を甞ひましても、必ず甦るといふ望でした。又廿八節の終のやうに、神の聖顏を見て榮光を得る望でした。(廿八節の『爾の前に置て』は『汝の聖顏を見る事に於て』といふ意味です)。ダビデは其樣な者でありません。ダビデは最早死んで葬られた者です(廿九節)。是はダビデが自分の裔であるメシヤの事を預言した處であります。甦を得給ふたキリストは此言を成就し給ひました。
卅三節を見ますと、今神の聖前に全き人が立って居給ひます。是は天國に於て新しい事實でありました。始から自分の義の爲に、神の聖前に立つ事を得る人は一人もありません。けれ共今其樣な人が神の聖前に立って居給ひます。其人は甦の初穗となり給ひまして、其人に由て多の人が義を以て神の聖前に立つ事を得ます。神の右に擧げられる事は、天に於る新しき事實でした。其故に地の上にも新しい事實が出來ました。其はペンテコステであります。神の聖前に完全なる人が立って居るといふ事は、不思議なる事實でありました。其が神の聖前に出來ましたから、地上に於てペンテコステといふ新しい事實が出來ました。此二の事實は深い關係があります。ナザレのイエスが神の聖前に立つ事を得ましたから、聖靈が私共の心の中に宿り給ふ事が出來るのです。天に昇り給ふた救主がありますから、私共の心の奥底に聖靈が王となり給ふ事が出來るのです。完全なる人間が神の榮光に入る事を得ましたから、私共も此世に居る間、潔き者となって神の御榮光を頂戴する事が出來ます。さうですから聖靈を得ました人々がありますならば、其はキリストが天に昇り給ひました事の外部の證據であります。
他の人に由りて聖靈を受く
繰返して始からペテロの說敎を見まして、神はどんな管を以て私共に聖靈を與へ給ひますかを見ますならば、唯キリストに由って與へられます。卽ち私共は自分の熱心の爲、或は自分の献身の爲、又は自分の祈禱の爲ではなく、他の人の爲に聖靈を頂戴します。
卽ち肉體を取り給へる神の御子の爲(廿二節)。又十字架に懸り給へるキリストの
又其爲そのために、ヨハネは幻の中うちに天から聖靈の下くだる事を見ました。『天使てんのつかひ生命いのちの水と河かはを我われに示せり 其その水澄澈すきとほりて水晶の如し 神と羔こひつじの寶座くらゐより出いづ』(默もくしろく廿二・一)。是これはペンテコステの事です。聖靈が聖座みくらゐに坐し給ふ神の羔こひつじから流れて參ります。聖靈が殺されし羔こひつじから流れて參ります。どうか私共わたくしどもも靈の眼まなこを開いて、今でも十字架又甦よみがへりによって聖靈が下くだり給ふ事を見たいものです。又其その恩寵めぐみの聖座みざに近づく者が、價あたひなしに其その生命いのちの水を頂戴する事が出來る事を見たいものです。今私共わたくしどもも其それを見る事が出來ます。どうか兄弟姉妹よ、今聖書の御言おんことばに敎へられて、信仰の眼めを擧げて聖座みくらゐに坐し給ふ救主すくひぬしを御覽なさい。又信じて其その御手おんてから豐かに聖靈を御受けなさい。
エゼキエルも同じ事を見ました。以西結書エゼキエルしょ四十七章に、天から此この川が流れて來る事を見ました。又其その川が段々深くなりまして、泳ぐ程の深い川となりました。私共わたくしどもが信じて其その川の水を受入うけいれますならば、段々だんだん心の中うちに經驗が深くなって、終つひに神の御能力おんちからに流され、神の御慈愛ごじあいに引かれて生涯を暮す事が出來るやうになります。
悟さとり開かる
ペテロの說敎を見ますれば、二つの事を新しく悟る事を得たと思はれます。第一は新しく詩篇を悟る事を得ました、三度さんど詩篇を引いて、主しゅイエスの榮光を宣傳のべつたへました。二十五節に十六篇を引き、三十節に百三十二篇を引き、三十五節に百十篇を引きました。又其その詩篇の深い意味を握って、主しゅイエス・キリストを宣傳のべつたへ、主しゅイエスが王の王となり給ひました事を證據立てました。私共わたくしどもも聖靈の光によって、其樣そのやうに詩篇の深い意味を握る事が出來ます。
第二にペテロは明白あきらかに主しゅイエスの榮光を悟りました。主しゅイエスが御自分の王たる權利と、祭司たる權利を得たまひました事を、明白あきらかに悟りました。又主しゅは能あたはざる所なき能力ちからを以もって居ゐたまふ救主すくひぬしである事を知りました。又主しゅは唯今たゞいま一番惡い罪人つみびとをも忽たちまち救ひ給ふ事が出來る事を知りました。其故それゆゑにペテロは此このヱルサレムの罪人つみびとにさへも、其その時に救はれる事を宣傳のべつたへました。斯樣かやうに此この時から主しゅイエスの榮光と、主しゅの恩惠めぐみとを知り始めました。(日本語で恩惠めぐみといふ語ことばは、意味が淺いやうですが、此處こゝでは價あたひなしに受くる恩惠めぐみを指します。イエスが救はれる價値ねうちもない者を即座に其その場にて救ひ給ふ事の出來る能力ちからを有し、極惡の罪人つみびとをも救はんとして待って居ゐ給ふ事を表あらはします。)ペテロは可驚おどろくべき事を宣傳のべつたへました。即すなはち十字架に釘つけられた、罪人つみびとと見えるイエスが、今冕かんむりを戴いたゞいて全世界の王となり給ひました。王となり給ひましたから、凡すべての膝が其その前に屈かゞむ筈はずです。以賽亞書イザヤしょ四十五章二十三節『われは己おのれをさして誓ひたり、この言ことばはたゞしき口よりいでたれば反かへることなし』。神は此言このことばを確たしかめ、此言このことばに御自分の印いんを捺おして其それを曰いひ給ひます、『すべての膝はわがまへに屈かゞみすべての舌はわれに誓ちかひをたてん』。ペテロは此言このことばが主しゅイエスを指すと悟りました。又詩篇二篇九節より十二節迄までの言ことばが成就した事をも知りました。
人間の考かんがへと神の考かんがへ
此この人々は十字架の上に、主しゅイエスの爲ために場所を設けましたが、神は聖座みくらゐの上に其その場所を設け給ひました。其それに由よって人間の心と、神の心の區別が解わかります。其それに由よって人間の深い深い罪が解わかります。主しゅイエスが位くらゐに擧げられましたから、人は二つに分れて參ります。即すなはち一方は廿一節の通りに、主しゅイエスの名を呼賴よびたのむ者です。さういふ人は救はれます。も一つの方は主しゅの敵です(卅五節)。此この主しゅの敵は必ず滅ほろぼされます。
| 総目次 | 序文と目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 |