第三十四 アテンスに於けるパウロ
アテンスに於ける彼の心痛
兄弟等はアテンス迄パウロを見送って參りましたが、『シラスとテモテを速に來しめよ』といふ傳言を受けて出立致しました。ですからパウロはアテンスの大都會に、唯一人殘りました。パウロは愛の深い人でしたから、何時でも兄弟の交際を願って、一人で居る事を欲しません。或人は一人で働き、一人居る事を願ひますが、さういふ人の心の中には眞正に聖靈の愛が燃えて居るのではありません。愛の人は兄弟の交際を願ひます。パウロは常に其を願ひました。
テモテはパウロの命を受けて、多分早速アテンスに參りました。然れ共テサロニケの信者の苦と患難の消息を持って參りましたから、パウロは又早速テモテをテサロニケに遣はしました。帖撤羅尼迦前書三章一節『是を以て我忍ぶこと能はず 故に獨アテンスに留ることを意に定め キリストの福音を傳へ神と偕に働く我儕の兄弟テモテを爾曹に遣しゝ也 これ爾曹を固し又爾曹の信仰の爲に爾曹を慰め 一人もこの患難に搖されざらしめんため也 それ患難は我儕に定れることなるを爾曹自ら知り』(一〜三節)。パウロはテサロニケの迫害の事をきいて、心の中に心配が起りました。或は其爲に信者が墮落するかも知れぬといふ心配がありましたから、テモテを早速テサロニケに遣はしました。然れ共テモテは其處に行きて、テサロニケの信者の强い事を見ました。『われら爾曹と偕に在し時われら患難に遭んとすることを預じめ爾曹に告たり 今果て其如く成り 爾曹知ところの如し 是故に我忍ぶこと能はず爾曹の信仰を知ん爲に人を遣しゝなり 試る者の爾曹を試みて我儕の勞の徒然ならんことを恐れたる也 今テモテ爾曹より我儕に來りて爾曹の信仰と愛との嘉音を聞せ 又なんぢら常に我儕を切々に念われらに遇ことを欲ひ我儕が爾曹に遇ことを欲ふが如しと告たり 是故に兄弟よ 我儕さまざまの禍害と患難との中に爾曹の信仰に因て安慰を得たり そは爾曹もし堅く主に屬ば我儕これに由て生べければ也』(四〜八節)。
當時アテンスは全世界に於ける學者と學問の中心地でありました。其處は格別に敎育の進んで居た處でありまして、今日に至る迄敎育のある人々は、アテンスの哲學や其他色々の書物を見ます。パウロは其アテンスに參りました。アテンスはそんな處でありましたから、其處の人々は喜んで眞理をきゝ、又喜んで救の道に耳を傾けたかと申しますれば、決して然うでありませなんだ。アテンスの敎育ある人々は、丁度今の學者のやうに、眞正に眞理と眞の神を求めませなんだ。パウロは『その邑こぞりて偶像に事るを見て甚く心を傷め』ました。其町は非常に偶像の盛んな處で、其時代の或人はアテンスの人民の數よりも神の數が多いと申しました。何處にも偶像が立てられ、或は町の中にも家の中にもありました。其偶像は餘程立派に彫刻したもので、眞正に美術の傑作と申すべきものでありまして、今日に至る迄斯樣に上手に石を彫刻する者はないと申します。今日でも歐羅巴の都にある美術の傑作は、今作ったものでなく、二千年前に、此アテンスに於て作ったものであります。アテンスはさういふ處でありました。パウロは敎育のある人でありましたから、其樣な文明を重んずる人であります。然れども其樣な美はしい建築物と美術を見ました時に、心の中にどういふ感情が起りましたかならば、『甚く心を傷め』ました。其樣な物の爲に人が神を離れて、却て目に見ゆる物許り喜んで居る事を見て歎きました。是は主イエスの心と同じ心であります。馬太傳廿四章に於て、弟子が殿の構造を彼に觀せんとしました時に、二節『イエス彼等に曰けるは 爾曹すべて此等を見ざるか 我まことに爾曹に告ん 此處に一の石も石の上に圯れずしては遺らじ』。即ち未來の事を見て、此立派な建築物は人の罪の爲に皆崩れて仕舞うと知って、甚く心を傷め給ひました。
聖靈は人の心にかういふ傷みを起し給ひます。彼得後書二章八節を見れば、ロトもかういふ心を有て居りました。『この義人かれらの中にをり日々その不法の行を見聞して己の義き心を傷たり』。又路加傳十九章四十一節を御覽なさい。是は眞正に主イエスの精神でありました。『既に近づけるとき城中を見て之が爲に哭』。其處からヱルサレムの宮殿を見れば眞に奇麗でありました。又主は心から其町と民を愛し給ひました。然れ共今其を見て是が爲に哭き給ひました。どうぞ聖靈が私共の心の中にも、かういふ心を起し給ふ事を願ひます。是は傳道者の心です。かういふ心がなければ、眞正の傳道は出來ません。かういふ心があれば、何處に於ても、機のある時にもない時にも、是非福音を宣傳へたう厶います。
アテンスに於ける彼の傳道
然うですから、安息日には『會堂に於て』、また安息日と安息日との間は『日々市に於て』、即ち何處に於ても、『其遇ところの者と』、即ち誰に向っても、福音を宣傳へました。又何を宣傳へましたかならば、十八節の終にあるやうに、『イエス及び復生の事を宣』ました。又此時に幾分か成功がありました。哥林多前書十六章十五節にある『ステパナの家は即ちアカヤの初の果』でありましたから、必ず此時に救はれたのに相違ありません。
エピクリアンの人々は自分の快樂の爲に生涯を暮さねばならぬと論じまして、自分の快樂を第一の目的と致して居りました。ストイックの人々は自分の力で心を統治める事が出來ると論じて、自分の義を以て大に高ぶって居る人等でありました。パウロはかういふ人等よりも、却てひどい罪人に福音を宣傳ふる事を願ひましたでせう。主イエスが福音を宣傳へ給ひました時に、パリサイ人やサドカイ人等よりも、却て罪人がよく神の國に入りました。
アレオ山といふのは當時其處の大學校のやうな處でありました。肉に屬ける傳道者は、斯樣に學者の丁寧なる願を聞きますれば、心の中に大に喜び、その大學校に行って其處で神の存在に就て論ずるかも知れません。然れどもパウロはさういふ人ではありません。パウロは其よりも却て迫害に遭ふて、ピリピの獄の奥に繫がれる事を願ひましたでせう。アテンスの學者に導かれてアテンスの大學校に行く事よりも、却て鞭をうけて血の流るゝ事を願ひましたでせう。アテンスの學者等には眞正に聞きたい心がありませなんだ。彼等は眞面目に救の道を求めるのではありませんから、救はれる望がありません。然れ共ピリピにて迫害に遭ひました時には、其爲に救はれる者が起りました。
アレオ山に於ける說敎
『パウロ、アレオ山の中に立て曰けるは』。パウロは偶像に事へる者の中に立ち、今迄少しも福音を聞いた事のない人々の中に立ちて、今說敎致します。是は私共の爲に手本となる說敎であります。私共も度々其樣な人々に遇ふて神の言を宣傳へる事がありますから、どうぞよく此說敎を調べたう厶います。パウロは必ず此人々の爲に心が傷められ、重荷を負ふて、是非其人々の心を刺し、其人々に光を與へたう厶いました。其爲に聖靈に導かれて、其人々を救はんが爲にこんな說敎を致しました。私は以前に日本に居りました時、度々出雲の村々を巡廻して、此說敎を繰返して致しました。どうぞよく此パウロの說敎の順序を御調べなさい。
第一に二十二節以下に、パウロは彼等に對する同情を表しました。彼等が宗教心のある人々である事を見て、同情を表し、彼等の心を引きたう厶いました。
斯樣に會衆の心の中に宗敎心があり、又神を敬ふ考がありましたから、今パウロは其に訴へて、眞の神の存在する事を宣傳へ、又明らかに神の聖旨を宣傳へます。
二十四節から見ますと、パウロは此學者等に對して神の存在を論じましたでせうか。此人々は無神論者でありまして、神の存在し給ふ事を全く拒んで居た人々でありましたから、パウロは先づ始めに神の存在を論じましたか。否、パウロは其に就て論じません。始から神の存在は決定った事として說敎して居ります。私共は議論や理窟をいふ事によって、決して人の心を引くものではありません。
神は如何いふ御方でありますかならば、第一に諸の物を作り給ふた神です。『それ宇宙と其中の萬物を造り給へる神は是天地の主なれば』。然うですから今でも凡の事を統治め給ひます。神は初に凡の物を造り、又今に至る迄天地の主として凡の物を統治め給ひます。私共の爲に太陽や月を輝かし、私共の爲に每年每年收穫を與へ給ひます。此神は人の『手にて造れる殿に住たま』ひません。
又此神は『衆人に生命と氣息と萬物を予たまへば物に乏きことなし』(廿五)。然うですから神は何時でも與へ給ひたう厶います、人より得たく思ひ給ひません。其恩惠の庫を開いて、其榮の富に從って喜んで與へ給ひます。是は人が造った宗敎と眞の宗敎の違って居る所であります。人の造った宗敎は、神に何か物を與へますれば、又は神の爲に何か難行を致しますれば、其によって神を喜ばせますから、其爲に神は恩惠を與へ給ふと思ひます。然れ共眞の宗敎は然うではありません。神には少しの乏しき事なく、何時でも愛の爲に喜んで、罪人にさへも其恩惠を與へ給ひます。然うですから碎けたる心を以て神に近づきますれば、神の生命をも、又美はしき恩惠をも受ける事を得ます。
『人の手にて事らるゝものに非ず』。神と人間との關係を申しますれば、此神は凡の人を作り給ひましたので、私共も神の御手にて作られたものですから、親しい關係があります。自然に出來たものでなく、神が御自身作り給ふたものでありますから、神は何時迄も私共に同情し、私共を愛し給ひます。又神が作り給ひましたから、何時迄も私共を統治め給ひます。
神は國々に其國土を與へ、又幸福なる時を與へ給ひました。當時アテンスは最も繁榮を極め、幸福の時でありましたが、是は神の賜でありました。
又人は皆一の血より作られたものでありますから、人類は皆一家族であります。然うですから國々に於て、別々に異なる鬼神を敬ふ筈でありません。皆一の王、一の創造主、一の父なる神に從はなければなりません。
神は何故二十六節の如く、親切に取扱ひ給ひますかならば、『人をして神を求しめ』ん爲であります。是は神の願であります。神は人間が御自身を知り、又御自身を求むる事を願ひ給ひます。然れば私共は活る神を知る事が出來ます。又其道は困難ではありません。是は神の聖旨に適ふ事でありますから、必ず神は人を助けて光を與へ、御自分を悟らせ給ひます。然うですから神を求むる者は神の近くに在す事を知ります。『神は我儕各人を離るゝこと遠からざる也』。若し心の中に神が遠ざかり給ふたやうに感じましても、決して然うではありません。神は最も罪深き者にも近く在し給ひます。神はかういふ御方でありますから、二十四節の終にあるやうに、此神の爲に神殿を作る事は理に合はない事で、又二十九節のやうに此神の爲に偶像を作る事は間違った事であります。是は人間の間違又罪で、神の聖旨を傷める事であります。然れ共三十節を見ますと、神は其間違を見過しにし給ひました。
神の命令
神は今迄の間違、又今迄の罪を赦して見過しにし給ひましたが、今悔改むべき事を命じ給ひます。私共は福音を宣傳へる時に、明かに『今』といふ事を宣傳へなければなりません。今悔改めよと命じなければなりません。神は今は『何處の人にも皆悔改む』べき事を命じ給ひます。神は此時パウロを通して、此アテンスの會衆に向って、無神論を唱へる學者にも、鬼神を敬ふ一般の人々にも皆、悔改むべき事を命じ給ひました。
悔改は唯恩惠を受ける道、安慰を受ける道である許りでなく、是は神の命令であります。自分の心に任せて其に從っても從はなくてもよいといふ如な事ではありません。是は各自勝手の事でなく、誰にもに對する神の命令であります。福音を宣傳へる事は神の命令を宣傳へる事です。神が人間に對して要求し給ふ事を宣傳へる事であります。私共は此事を覺えて、此心を以て福音を宣傳へなければなりません。
何故早く悔改めなければならぬかといふに、審判が近く、其審判の時には皆神の前に出て審判を受けなければならぬからであります。最早神は審判の日を定め給ひました。毎日毎日其日に近づいて居ます。如何して其を知るかならば、神は或一人の人を死より甦らせ、又其によりて審判の日が定められた事を、明かに證據立て給ひました。實に神がイエスを此世に下し給ふた事は、失はれたる世人に對する最後の使命でありました。馬可傳十二章六節を御覽なさい。『爰に一人の愛子ありけるが此わが子は敬ふならんと曰て遂に其子を遣しゝに』。然うですから是は最後の手段でありました。人間が其を拒めば最早仕方がありません。是非罰せられなければなりません。希伯來書一章二節『この末日には其子に託て我儕に告たまへり』。神が御自分の御子によりて私共に告げ給ふのは、之は最後の勸であります。私共は其を覺えて嚴肅に悔改と福音を宣傳へなければなりません。之を受入れませんならば其人は最早仕方なく、救の望は少しもなく、未來の審判を待つだけであります。神は其審判の時を決めて居給ひます。
以上パウロは此處で三の主意に就て說敎しました。第一に活る一の神。第二に審判の主。第三に甦りし主イエスに就てゞあります。未來に於て誰でも必ず甦りし主イエスの前に立たなければなりません。然うですから唯今その主イエスと和らいで、罪の赦を得ることが大切であります。
說敎の結果
此アテンスの人々は如何いふ心を以て、此嚴肅なる使命に接しましたか、『或人は戲笑』ました。今でも或人は嘲ります。又『ある人は我儕この言を再び爾に聽んと曰』ひました。即ち第二の人は今悔改めて救を求める事を欲まず、又何時か聞いて見やうと時を延します。今もこんな人が澤山あります。第三に或人は信じて救はれます。『然ど數人彼に從て信ぜり』(卅四節)。パウロは此時に其心を甚く傷めて、熱心に神の眞理を宣傳へましたが、大槪の者は心を頑固にして馬鹿にしたり、或は冷淡に聞流して信じませなんだが、其時にさへも救はれた者もありました。神は是によりてパウロを慰め給ひました。
パウロは今此處では迫害を受けません。皆終迄丁寧に聽きました。ピリピで受けた如な鞭も受けず、其脊に傷をも受けませなんだ。然れ共其話を聞いた人が悔改めて救を求める事を致しませなんだ。ですからパウロは失望して此地を去りました(卅三節)。ピリピでは先に大なる迫害を受けて、殆んど殺されんとする迄に至りましたが、其ピリピにはパウロは何時でも行きたい心を有って居りました。然れども此アテンスに對しては其樣な心がありません。此處では身體も無事でありましたが、再び此處に行きたい願は最早起りませなんだ。此人々は神の嚴肅なる聖言を拒みましたから、足の塵を拂って此處を去りました。是は傳道者の心であります。傳道者は迫害や困難、或は死ぬる事をさへ恐れません。然れども人が神の使命を嘲りますれば、身體は安全でも、其處を去らなければなりません。
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