第三十六 第三傳道旅行
プリスキラとアクラ、アポロを導く
パウロはアンテオケで暫く休んだ後、三度目の傳道旅行に出懸けました。此度は格別に牧師の職を致しました。パウロは平生巡廻傳道者の職を致しましたが、此度は牧師の職をして各處の信者を堅くし、新しき恩惠を分與へたう厶いました。ガラテヤ及びフルギヤの地を段々と巡廻して其働を致しましたが、其に就ては何も書いてありませんけれ共、必ず到る處に於て恩惠が降ったに相違ありません。後にパウロは此ガラテヤの信者に加拉太書を書送りましたから、其書によりて當時ガラテヤの信者の心靈上の有樣を幾分か知る事を得ます。格別に其ガラテヤ人は、深い愛を以てパウロを迎へた事を、其書によりて知る事を得ます。
此アポロは格別な賜物を有する人でありました。『辯才あり且聖書に達したる』人で、舊約全書を詳しく知り、其を講義する事を得ました。
小い時分から主の道の敎を受けた人で、必ず更生った人であったに相違ありません。又熱心な傳道者で、イエスの事を詳細に敎へました。主イエスの事を知り、又救の道をも必ず知って居たに相違ありませんから、唯罪を捨てる事許りでなく、主イエスの救の道の初步をも宣傳へて居ました。此人は唯平信徒であった丈けでせうが、實に熱心な傳道者でありました。又廿六節を見ますと大膽もありました。『然ど惟ヨハネのバプテスマを知るのみ』。即ち未だ聖靈のバプテスマを得た經驗を有って居りません。斯樣によく聖書を解し、又熱心に主イエスの事を宣傳へましたが、未だ聖靈の恩惠を得て居りません。然うすると或人はかう言ふかも知れません。斯樣に熱心に主イエスの事を宣傳へますれば、何の不足もありませんから、聖靈のバプテスマは構いません、受けても受けないでもどうでもよい、と言ふかも知れません。又今でも斯樣に聖書に達したる傳道者で、未だペンテコステの恩惠を得ない人が多くあります。然れ共私共は是非ペンテコステの恩惠を得なければなりません。
是は眞正に主イエスの精神でありました。天幕製造人のプリスキラとアクラは、此熱心なる學者である兄弟の說敎を聞きました時に、此人は未だ聖靈の火と聖靈の力を得て居らぬに相違ないと解りましたから、自分の家に此人を招き、一緖に聖書を調べ、又自分の證を話して一緖に祈りました。プリスキラとアクラは斯樣に懇ろにアポロを待ひました。妻のプリスキラの名が先に書いてありますから、或は妻の方が熱心に、又能力を以てアポロに勸めたのかも知れません。兎に角アポロの爲に重荷を負ふて、アポロと一緖に祈りたう厶いました。
デー・エル・ムーデーが傳道を始めました時に、何處でも敎會に一杯の聽衆が集まり、何時でも悔改める者があって、成功もありましたが、或時集會に二人の婦人が出席して居りまして、ムーデーが未だ聖靈のバプテスマを受けて居らぬ事を知りましたから、ムーデーに向って、卿の爲めに祈って居ますと申しますと、ムーデーは之に答へて、私の爲でなく此多くの罪人の爲に祈って下さいと申しました。然れ共其婦人等は、否卿は未だ福音の力を得て居りませんから、卿の爲に祈りますと申しました。ムーデーは其言の爲に自分の不足を感じ、遂に聖靈のバプテスマを求めて之を得ました。又神は其時より彼を大に用ひて、大なる働をなさしめ給ひました。丁度そのやうに此時にも、プリスキラとアクラの二人はアポロを自分の家に招き、彼を聖靈の惠に導く事を得ました。アポロは其爲に新しき力を得ました。
アポロはコリントに參りましたが、其處に此人によりて大なる惠が下りました。コリントの信者の中或人々は、アポロは丁度パウロのやうな傳道者であると思ひました。哥林多前書三章四節を見ますと、コリントの敎會の内に『我はパウロに屬われはアポロに屬といふ者』がありました。其を見てもアポロは丁度パウロのやうな力を以て、パウロの働を續ける事を得た事が解ります。アポロは斯樣に新しき大なる力を得ました。
然うですから明白なる光を有って居りました。又眞正に大膽もありました。眞の力もありました。此三のもの即ち光と大膽と力とを新しく得ました。
十二人の信者聖靈に滿さる
パウロは此時から三年間亞細亞の國、格別に其都エペソに傳道しました。十六章六節を見ますと、此時より三四年前其處に傳道する事を許されませなんだ。『彼等フルギヤとガラテヤの地を過し時アジアに道を傳ることを聖靈に禁られ』。然れ共是は唯其時の事だけで、今は聖靈に導かれて三年間此アジアに傳道しました。(廿章卅一節を見ますと三年間と解ります)。又格別に此十九章に於て、エペソのリバイバルの事を讀みます。
此弟子等は必ず救はれて主イエスの屬となった者で、最早更生った者に相違ありません。多分此人々はアポロに導かれて、信者になった者でありました。
『信者と爲しとき』とは、原語では『信者になりし以來』と譯する事が出來ます。兩方どちらでも正しい譯であります。此問は新しい信者に遇った時に、パウロが何時でも問ねた事であったと思ひます。信仰の有様、心靈上の有樣や心靈上の立場を尋ねて、『爾曹信者と爲しとき聖靈を受しや』と尋ねました。又其問に對して定った明白とした答を待望みました。或人は聖靈を得たと答へる事を得、又或人は未だ聖靈を得ないと答へなければなりません。何れにても定った明白とした答がある筈であります。
『答けるは 我儕聖靈の有ことだに聞ざりき』。其意味は聖靈が此世に下りて、此世に働いて居給ふ事を聞かなかったといふ事であります。
パウロは彼等にバプテスマの時に聖靈の名に入れられた事がないかを問ねました。然れ共彼等は唯ヨハネのバプテスマに入れられた事を答へました。
然うですからヨハネのバプテスマを受けました者は、必ず悔改めて主イエスを信ずべき筈でありました。又多分パウロは續いて聖靈の事を說明し、ペンテコステの經驗について證し、又其に就て聖書を開いて講義した事と思ひます。
何故新しくバプテスマを受けたか、私は其に就て存じません。ヨハネのバプテスマを受けた者は、普通新しくバプテスマを受けなかったと思ひます。例へば主イエスの弟子等は大槪ヨハネのバプテスマを受けた者でありましたが、主イエスに從ひました時に、新しく主の御手よりバプテスマを受けなかったと思ひます。それで是は何の爲であるかよく解りませんが、兎に角此人々は新しくバプテスマを受けました。新しくバプテスマの深い意味を辨へて、主イエスと偕に死に、又主イエスと偕に甦りました。是によりて主イエスの證人であると大膽に示しました。其のみならず、
唯バプテスマのみならず按手禮をも受けました。バプテスマに由りて主と共に死に、新しく身も魂も献げた事を示しましたが、此按手禮によりて新しく神より惠を受けました。如何して此人々は聖靈を得る事が出來ましたかならば、此二の事によってゞあります。即ち第一、身も魂も献げる事。是は己に死ぬる事で、バプテスマの深い意味です。第二、神より惠を受ける事。是は按手禮の意味です。第一に神に献げ、次に神より注がれる事であります。
『聖靈かれらに臨』。是は多分始めてパウロに遇った其日の事でありました。初の集會の事で、其集會の初には未だ聖靈の降りし事さへ知りませなんだが、其同じ集會の終に聖靈を受けました。是によりて私共は如何して聖靈を受ける事ができるかゞ解ります。長らく苦んで罪を懺悔せなければならぬ譯がありません。又長らく祈らなければならぬ譯もありません。ペンテコステの日に最早聖靈が降りましたから、今神の惠により信仰によりて聖霊を受ける事を得ます。唯今は聖靈の時代です。今迄少しも聖靈の事を知りませんでも、唯今信仰によりて受ける事を得ます。然うですから私共はどうぞ何處の信者に向っても、聖靈を受ける樣に勸めたう厶います。神は唯今冷淡なる信者にも、知識の淺い信者にも、又生溫い愛の信者にさへも、聖靈を注ぎ給ひます。
『みな異なる諸國の方言にて語かつ豫言せり』。聖靈の惠を得ました結果は、何時でも語る事であります。今迄は一向證の出來なかった啞者でも、聖霊を受けますれば口が開かれて、大膽に神の惠、救の事を語るやうになります。他の人々に救の事を說明し、又神を讃美します。證を以て、又讃美を以て主イエスを讃め稱へます。是は聖靈のバプテスマに必ず伴ふべき正當の兆であります。
聖靈の降臨の五の例
然うですから今迄使徒行傳に於て、五度聖靈の降る事に關する記事を讀みました。其によりて如何なる人が聖靈を受ける事が出來るかゞ解ります。第一、二章卅八節、『爾曹おのおの悔改めて罪の赦を得んが爲にイエス、キリストの名に託てバプテスマを受よ 然ば爾曹も聖靈の賜を受べし』。即ち今迄主イエスを捨てゝ居た敵でも、悔改めて信ずれば聖靈を得る事が出來ます。第二、八章十七節に、今迄半分偶像を拜み、僞の說を有って居た、半ば異敎徒のサマリア人であっても、信ずる事によりて聖霊を受けました。第三に十章四十四節に、今迄異邦人であった者でも、主イエスを信じて聖靈の惠を受けました。第四に九章十七節、今迄聖靈に逆ひ聖靈を憂へしめて居た人(サウロ)でも、信仰によりて聖霊に滿される事を得ました。第五に今此十九章の六節に於て、唯福音の半分だけしか得て居らなかった者でも、今信仰によりて聖靈を得ました。
どうぞ此五の例を深く考へ、此五の例によりて眞正に神の惠を知りたう厶います。又血潮の力を知りたう厶います。血潮の力によりて其樣な人でも早速潔められて、聖靈の殿となる事を得ます。父の許に歸った放蕩息子が、最も美服を衣せられ、又最も善物を與へられました如に、神は信ずる者に最も善物を與へ給ひたう厶います。私共は聖靈の惠を受けるには、長らく基督信者としての經驗を積まねばならぬ譯もなく、又熟した信者となった後でなければならぬ譯もありません。誰でも、今でも、信ずるならばペンテコステの惠を受ける事が出來ます。
リバイバル起る
太陽の光線によって蠟は熔けますが、土は固くなります。其やうに今聖靈が働き給ひましたから、其爲に或人は心が熔かされて悔改めましたが、或人々は反對に却て頑固になりました。
パウロは『日々テラノスと云る人の講堂に於て論』じました。然うですから每日說敎會が開かれました。每日人々に勸め、每日罪人を救ふ事を願ひました。
大なる勢力がありました。パウロは此時アジアの凡の町に巡廻して行ったのではありません。然れ共彼の傳道に力がありましたから、何處にも救の道の噂が立ち、誰でも其を聞きに參りました爲に、『ユダヤ人もギリシヤ人も凡てアジアに住る者悉く主の道を聞』ました。又神は其時に格別なる力を加へ給ひました。
神は格別なる力を加へて不思議なる御業を表はし給ひました。
似而非なる働人
然れ共其時にパウロの力を眞似した者も起りました。聖靈が働き給ひますと、必ず惡魔も聖靈の働の眞似をします。何時でも然うです。其爲に僞預言者や僞信者を起す事があります。聖靈の働のあった時に、私共は格別に是を恐れなければなりません。又此事を覺えて格別に自分の心を省みたう厶います。聖靈の働を見ますれば、自分も其樣な働が出來ると思ふて、大なる間違をするかも知れません。唯傳道上の外部の工夫だけを眞似して、其によって同じ結果を見やうと思ひますれば、其は大なる間違であります。同じ結果を得たう厶いますれば、同じ聖靈の力を受けなければなりません。然うですから此十三節からの話は、私共に餘程大切であります。又適當であります。
惡魔は此人々に汝等を知らずと申しました。惡魔に知られる事は幸であります。惡魔はパウロを知って居りました。パウロは惡魔の手より多くの捕虜を取出しまして、惡魔は度々パウロに敗北しましたから、パウロをよく知って居ります。私共もどうぞ斯ういふ風に惡魔に知られたいものであります。
惡魔は勝利を得ました。此十六節は今でも度々行はれます。他の人の傳道を眞似して、罪人の心より惡魔の力を逐出したい傳道者は、度々このやうに却て自分の心の中に惡魔の力によりて害を受けます。惡魔は却て其樣な傳道者に打勝ちます。傳道者が惡魔に汚されて逃去らなければならぬ事となります。惡魔の手より人を救ふ事は、恐るべき戰であります。淺い考を以て人の言や働方を眞似して傳道に行ってはなりません。さういふ働は實に危う厶います。決して惡魔の手より靈魂を救出す事は出來ません。又必ず其心より惡魔を逐出す事も出來ず、却て惡魔が其傳道者を汚すかも知れません。
然れ共此人々は主イエスの名を呼び、イエスの事を語った事を御注意下さい。聖靈の力を有って居らぬのに、主イエスの名を用ふる事は危い事であります。能力がないのに唯眞理を宣傳へる事は却て危い事です。傳道に出ますならば、活ける敵が居ます。私共は此事を感じなければなりません。傳道者は醫者のやうな務ではありません。醫者は病人を醫す事を致しますが、自分が其病氣に罹る恐は大槪ありません。然れ共傳道者は然うではありません。活る敵に向って戰ふのですから、其敵に打勝たなければ、却て傳道者は其敵の爲に傷をつけられます。實に是は恐ろしい戰ですから、斷えず主の召を感じ、斷えず祈禱を以て、又斷えず主と偕に傳道に出なければなりません。其やうにして出行きますれば、必ず惡魔に勝利を得て、罪人の心より惡魔の力を逐出す事を得ます。
贋者の曝露されし爲め起りし四の結果
此事の噂が立ちました爲に、大なる結果が起りました。此四の結果を御覽なさい。第一に『彼等みな懼を懷ぬ』。罪人の心に懼が起りました。私共は罪人の爲に此事を熱心に祈らなければなりません。罪人の心の中に、神を畏るゝ懼が起りますれば、段々救の道を求めて參ります。
第二に『又主イエスの名崇られたり』。今迄エペソに於る人々は、主イエスの名を輕蔑したかも知れません。唯猶太國で死罪に宣告せられた罪人として、輕蔑して居た事でせう。是はパウロの心の憂でありました。愛する主が斯樣に輕蔑せられて居るのを見て、彼はどの樣に嘆いた事で厶いませうか。然れ共今イエスの名が崇められました。
第三に基督信者が悔改めました。即ち
信者の悔改は未信者の悔改よりも、或は大切であるかも知れません。ウェスレーの說敎の中に、信者の悔改につける說敎がありますが、彼は能力を以て信者の悔改を說きました。信者が深く悔改めますれば、必ずリバイバルの發端となります。ウェールスのリバイバルも、支那のリバイバルも皆信者の悔改から始まりました。
第四に今迄の汚れたるものを斷然捨てました。即ち
此大なる價を惜まずして、主の爲め又聖潔の爲に、かういふ汚れたる書物を斷然燒棄てました。此等の書物は今迄の汚れたる生涯の遺物、今迄の罪の兆でありましたから、其を憎み、主の前に斷然其を燒棄てました。私共もかういふ態度を有って居らねばなりません。例へば今私共の書物の中に、或は又私共の持物の中に、以前に犯せし罪の記念物が殘って居りますれば、其價を惜まず、神の御前に斷然其を捨てなければなりません。この樣に基督信者は偶像敎の兆を全く捨てる筈です。啻偶像のみならず、其他汚れたる物を一切捨てゝ、其によりて外部の生涯を潔めなければなりません。後にパウロは此エペソの信者に書を送りましたが、其書には他の書よりも深い眞理が書いてあり、又高い恩惠が記してあります。パウロは何故かういふ高い恩惠、深い眞理を書送る事を得ましたかならば、此信者は其樣な深い恩惠を辨へる事が出來、又信ずる事が出來たからであります。而して其心は何處から起りましたかならば、聖潔を慕ふて斷然たる悔改をしたからであると思ひます。今此十九章に書いてあるやうに、斷然たる悔改を實行致しましたから、其爲に悟識を得、神の深い惠をも味ふ事を得るやうになりました。又其やうに自分の心の中に、其樣な結果が起った許りでなく、二十節を見ますと、其結果が其邊全體にも及びました。
『勝を得こと』。是は實に美しう厶います。福音が勝利を得ました。唯數名の信者が出來た丈けでなく、一般の人々の心を感じさせ、又一般の人々の心の中に神を畏るゝ懼が起りました。是は眞正の勝利であります。眞正のリバイバルの始であります。どうか此やうに福音が勝利を得る事を信じて祈らなければなりません。
パウロの大決心
是は大決心であります。『かならずロマをも見べし』に附點をなさい。是は餘程大切なる所です。此廿一節から使徒行傳の終迄は、如何して此決心が成就せられたかに就て書いた記事であります。主イエスの傳記に於ても同じ事を見ます。路加傳九章五十一節は同じやうな處です。『イエス天に升るの期いたりければヱルサレムに往ことを確定めたり』。此時から主はヱルサレムに行く道を踏み給ひました。是は主イエスの生涯の回轉機でありました。主イエスの今迄三年間の傳道は、唯此處迄始めの九章の中に記されてありますが、此時からヱルサレムに行きつゝある間の傳道と其生涯の終の記事は、十章より終迄の十五の章に記してあります。
『かならずロマをも見べし』。パウロの心の中に其程の大膽がありました。ロマに行って、其處に福音を宣傳ふる事は實に困難であります。其處の傳道は非常なる戰であります。然れ共其爲に身を献げました。羅馬書一章十四節を見ますと、パウロは如何いふ心を以て行ったかゞ解ります。『我はギリシヤ人及び異邦人また智人および愚人にも負る所あり 是故に我力を盡して福音を爾曹ロマにある人々にも傳んことを願ふ 我は福音を耻とせず』(十四〜十六)。此言を考へますれば、パウロの心の中に幾分か恐があった樣であります。然れ共主の愛に勵まされて喜んでロマにも主の爲に行きたう厶いました。羅馬書十五章廿三節を御覽なさい。『今この地に傳べき處なし』。此地とはアジア即ちエペソの地方の事です。エペソにリバイバルが起り、最早神の火が燃立って居りますから、最早此地に傳ふべき處がありません。然うですから『我年來なんぢらに往んことを願る故に イスパニヤに赴かん時に爾曹に就るべし』。かういふ考を以て、パウロは此大決心を致しました。此旅行の順序は此廿一節にありますやうに、マケドニヤ、アカヤ、ヱルサレム、ロマといふ順序を心の中に決めて居りました。
此アジアに留って居る間に、哥林多前書を書送りました。
惡魔のリバイバル
二十節に於て聖靈の一般の働について讀みました。エペソに於て聖靈は著しく働き給ひました。又其爲にサタンも働きました。二十三節より見ますと、容易ならぬ騒擾が起りました。何時でも此通りで、リバイバルが起れば必ず迫害も起ります。私共はリバイバルの爲に祈りますが、此事を深く記憶して居なければなりません。リバイバルの爲に祈る事は、一面からいへば危い事であります。是は迫害や困難を願ふのと同じ事であります。然れ共リバイバルの爲に重荷を負ふて祈る者は、何時でも兵卒らしき心を以て居る者でありますから、迫害と苦痛がありましても、リバイバルを願ひます。如何な苦があっても、如何な危い事が起っても、身も魂も献げて、是非聖靈の働を見物したう厶います。是は祈る者の眞の心であります。
大なる騒擾が起りました。此處には其騒擾の一だけ記してありますが、其騒擾は非常なものでありました。哥林多前書十五章三十二節を見ますと、『若われ人の如くエペソに於て獸と共に鬪ひしならば』とありますが、其は今此時の事でありました。獸と鬪ふやうな騒擾が起りました。ですから此使徒行伝に記されて居らぬ大なる事もありました。アクラとプリスキラが格別に生命を懸けて、パウロを助けたのは、或は其時であったかも知れません。 羅馬書十六章三、四節『請プリスキラとアクラに安を問 かれらはイエスキリストに屬て我と共に勤る者なり 又わが命の爲に己の頸を劔の下に置り 惟われ而已ならず異邦人の凡の敎會もまた彼等に感謝せり』。パウロが此羅馬書を書送ったのは、此騒擾が終って間もなくの事ですから、多分今此時に此二人が生命を賭けてパウロを助けました。
哥林多後書一章八節をも御覽なさい。此言は丁度此時に書いた言でありますから、是も矢張今此時の騒擾を指すと思ひます。『兄弟よ 我儕がアジアに於て遇し所の苦難を爾曹が知ざるを欲まず 即ち責めらるゝこと甚しくして勢ひ當がたく生命を保ん望をも失ふに至れり』然うですから其時殆んど生命を失ふ許りになりました。斯樣な非常な迫害がありました。
其時に卅一節を見ますと、『またアジアの祭を司どる者の中に彼と親き者等ありて人を彼に遣し其自ら戲園に入ざらん事を求めたり』。然うですから位の高い人々の中にも、パウロを信用して居る親しき友がありました。其によりて福音がいかに勝利を得たかゞ解ります。
廿九節を見ますと、ガイヨスとアリスタルコの二人は執へられて戯園に入れられました。多分此二人を殺す積りでありました。然れ共後に救出されましたが、此二人は此時より始終パウロと共に旅行しました。廿章四節にも、廿七章二節に於ても其が解ります。又此アリスタルコは哥羅西書四章十節を見ますと、パウロと偕に牢屋に迄入れられました。
卅三節を見ますと、猶太人はアレキサンデルを出します。アレキサンデルは猶太人を辯護しやうと出ますが、却て其爲に尚一層騒擾が大きくなります。其時に卅五節を見れば、羅馬の役人たる書記官が神の使者となって其騒擾を靜めます。神は屢羅馬の法律によりて、又は羅馬の政府によりてパウロを助け、又福音の門戶を開き給ひました。今も或國に於ては、例へば印度或は亞非利加等英國の領分に於ては、神は英國の政府によりて傳道を助け、福音の門戶を開いて居給ひます。
此エペソの騒擾と迫害によりて、いかに福音が勝利を得たかを知る事が出來ます。福音が如何に人の心を動かしたかを察する事を得ます。今一般の人の心は福音に對して眞に冷淡であります。然れ共聖靈が働き給ひますれば、其によりて人々の心は動かされます。其爲に一方に於てはリバイバルが起りますが、他方に於ては迫害も起ります。聖靈が働き給ひますれば、必ず惡魔も働きます。
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