第三十六 第三傳道旅行



プリスキラとアクラ、アポロを導く

廿三節

 パウロはアンテオケで暫く休んだのち、三度目の傳道旅行に出懸でかけました。此度このたびは格別に牧師のつとめを致しました。パウロは平生巡廻傳道者じゅんくゎいでんだうしゃつとめを致しましたが、此度このたびは牧師のつとめをして各處かくしょの信者を堅くし、新しき恩惠めぐみ分與わけあたへたうございました。ガラテヤ及びフルギヤの地を段々と巡廻してそのはたらきを致しましたが、それついては何も書いてありませんけれども、必ず到るところおい恩惠めぐみくだったに相違さうゐありません。のちにパウロはこのガラテヤの信者に加拉太書ガラテヤしょ書送かきおくりましたから、そのしょによりて當時ガラテヤの信者の心靈上の有樣ありさまを幾分か知る事を得ます。格別にそのガラテヤびとは、深い愛をもってパウロを迎へた事を、そのふみによりて知る事を得ます。

廿四節

 このアポロは格別な賜物たまものを有する人でありました。『辯才べんさいありかつ聖書に達したる』人で、舊約全書を詳しく知り、それを講義する事を得ました。

廿五節

 ちひさい時分からしゅみちをしへを受けた人で、必ず更生うまれかはった人であったに相違さうゐありません。又熱心な傳道者で、イエスの事を詳細つまびらかに敎へました。しゅイエスの事を知り、又すくひみちをも必ず知ってたに相違さうゐありませんから、たゞ罪を捨てる事ばかりでなく、しゅイエスのすくひみち初步はじめをも宣傳のべつたへてました。この人はたゞ平信徒へいしんとであったけでせうが、じつに熱心な傳道者でありました。又廿六節を見ますと大膽だいたんもありました。『されたゞヨハネのバプテスマをしれるのみ』。すなはだ聖靈のバプテスマを得た經驗をってりません。斯樣かやうによく聖書を解し、又熱心にしゅイエスの事を宣傳のべつたへましたが、だ聖靈の恩惠めぐみを得てりません。うするとある人はかう言ふかも知れません。斯樣かやうに熱心にしゅイエスの事を宣傳のべつたへますれば、なんの不足もありませんから、聖靈のバプテスマは構いません、受けても受けないでもどうでもよい、と言ふかも知れません。又今でも斯樣かやうに聖書に達したる傳道者で、だペンテコステの恩惠めぐみを得ない人が多くあります。ども私共わたくしどもは是非ペンテコステの恩惠めぐみを得なければなりません。

廿六節

 これ眞正ほんたうしゅイエスの精神でありました。天幕テント製造人のプリスキラとアクラは、この熱心なる學者である兄弟の說敎を聞きました時に、この人はだ聖靈の火と聖靈の力を得てらぬに相違ちがひないとわかりましたから、自分の家にこの人を招き、一緖に聖書を調べ、又自分のあかしを話して一緖に祈りました。プリスキラとアクラは斯樣かやうねんごろにアポロをあしらひました。妻のプリスキラの名が先に書いてありますから、あるひは妻の方が熱心に、又能力ちからもってアポロに勸めたのかも知れません。かくアポロのために重荷を負ふて、アポロと一緖に祈りたうございました。

 デー・エル・ムーデーが傳道を始めました時に、何處どこでも敎會に一杯の聽衆が集まり、何時いつでも悔改くいあらためる者があって、成功もありましたが、ある集會あつまりに二人の婦人が出席してりまして、ムーデーがだ聖靈のバプテスマを受けてらぬ事を知りましたから、ムーデーにむかって、あなために祈ってますと申しますと、ムーデーはこれに答へて、わたくしためでなくこの多くの罪人つみびとために祈って下さいと申しました。どもその婦人たちは、いゝえあなただ福音の力を得てりませんから、あなたために祈りますと申しました。ムーデーはそのことばために自分の不足を感じ、つひに聖靈のバプテスマを求めてこれを得ました。又神は其時そのときより彼をおほいに用ひて、おほいなるはたらきをなさしめ給ひました。丁度ちゃうどそのやうに此時このときにも、プリスキラとアクラの二人はアポロを自分の家に招き、彼を聖靈のめぐみに導く事を得ました。アポロは其爲そのために新しき力を得ました。

二十七節

 アポロはコリントに參りましたが、其處そここの人によりておほいなるめぐみくだりました。コリントの信者のうちある人々は、アポロは丁度ちゃうどパウロのやうな傳道者であると思ひました。哥林多前書コリントぜんしょ三章四節を見ますと、コリントの敎會の内に『われはパウロにつきわれはアポロにつくといふ者』がありました。それを見てもアポロは丁度ちゃうどパウロのやうな力をもって、パウロのはたらきを續ける事を得た事がわかります。アポロは斯樣かやうに新しきおほいなる力を得ました。

二十八節

 うですから明白あきらかなる光をってりました。又眞正ほんたう大膽だいたんもありました。まことの力もありました。このみっゝのものすなはち光と大膽だいたんと力とを新しく得ました。

十二人の信者聖靈に滿みたさる

第 十 九 章

 パウロは此時このときから三年間亞細亞アジアの國、格別にそのみやこエペソに傳道しました。十六章六節を見ますと、此時このときより三四年ぜん其處そこに傳道する事を許されませなんだ。『彼等フルギヤとガラテヤの地をすぎし時アジアにみちつたふることを聖靈にとゞめられ』。どもこれたゞ其時そのときの事だけで、今は聖靈に導かれて三年間このアジアに傳道しました。(廿章卅一節を見ますと三年間とわかります)。又格別にこの十九章おいて、エペソのリバイバルの事を讀みます。

一節

 この弟子等でしたちは必ず救はれてしゅイエスのものとなった者で、最早更生うまれかはった者に相違ちがひありません。多分この人々はアポロに導かれて、信者になった者でありました。

二節

 『信者となりしとき』とは、原語では『信者になりし以來』とやくする事が出來ます。兩方どちらでも正しいやくであります。このとひは新しい信者にった時に、パウロが何時いつでもたづねた事であったと思ひます。信仰の有様ありさま、心靈上の有樣ありさまや心靈上の立場を尋ねて、『爾曹なんぢら信者となりしとき聖靈をうけしや』と尋ねました。又そのとひに對してきまった明白はっきりとしたこたへ待望まちのぞみました。ある人は聖靈を得たと答へる事を得、又ある人はだ聖靈を得ないと答へなければなりません。いづれにてもきまった明白はっきりとした答があるはずであります。

 『こたへけるは 我儕われら聖靈のあることだにきかざりき』。その意味は聖靈が此世このよくだりて、此世このよに働いて給ふ事を聞かなかったといふ事であります。

三節

 パウロは彼等にバプテスマの時に聖靈の名に入れられた事がないかをたづねました。ども彼等はたゞヨハネのバプテスマに入れられた事を答へました。

四節

 うですからヨハネのバプテスマを受けました者は、必ず悔改くいあらためてしゅイエスを信ずべきはずでありました。又多分パウロは續いて聖靈の事を說明し、ペンテコステの經驗についてあかしし、又それついて聖書を開いて講義した事と思ひます。

五節

 何故なぜ新しくバプテスマを受けたか、わたくしそれついて存じません。ヨハネのバプテスマを受けた者は、普通新しくバプテスマを受けなかったと思ひます。例へばしゅイエスの弟子等でしたち大槪たいがいヨハネのバプテスマを受けた者でありましたが、しゅイエスに從ひました時に、新しくしゅ御手おんてよりバプテスマを受けなかったと思ひます。それでこれなんためであるかよくわかりませんが、かくこの人々は新しくバプテスマを受けました。新しくバプテスマの深い意味をわきまへて、しゅイエスとともに死に、又しゅイエスとともよみがへりました。これによりてしゅイエスの證人あかしびとであると大膽だいたんに示しました。それのみならず、

六、七節

 たゞバプテスマのみならず按手禮あんしゅれいをも受けました。バプテスマにりてしゅと共に死に、新しく身もたまも献げた事を示しましたが、この按手禮あんしゅれいによりて新しく神よりめぐみを受けました。如何どうしてこの人々は聖靈をる事が出來ましたかならば、このふたつの事によってゞあります。すなはち第一、身もたまも献げる事。これおのれに死ぬる事で、バプテスマの深い意味です。第二、神よりめぐみを受ける事。これ按手禮あんしゅれいの意味です。第一に神に献げ、次に神よりそゝがれる事であります。

 『聖靈かれらにくだり』。これは多分始めてパウロにったその日の事でありました。はじめ集會あつまりの事で、その集會あつまりはじめにはだ聖靈のくだりし事さへ知りませなんだが、その同じ集會あつまりをはりに聖靈を受けました。これによりて私共わたくしども如何どうして聖靈を受ける事ができるかゞわかります。長らくくるしんで罪を懺悔せなければならぬわけがありません。又長らく祈らなければならぬわけもありません。ペンテコステの日に最早もはや聖靈がくだりましたから、今神のめぐみにより信仰によりて聖霊を受ける事を得ます。唯今たゞいまは聖靈の時代です。今迄いまゝで少しも聖靈の事を知りませんでも、唯今たゞいま信仰によりて受ける事を得ます。うですから私共わたくしどもはどうぞ何處どこの信者に向っても、聖靈を受けるやうに勸めたうございます。神は唯今たゞいま冷淡なる信者にも、知識の淺い信者にも、又生溫なまぬるい愛の信者にさへも、聖靈をそゝぎ給ひます。

 『みな異なる諸國くにぐに方言ことばにてかたりかつ豫言よげんせり』。聖靈のめぐみを得ました結果は、何時いつでも語る事であります。今迄いまゝで一向いっかうあかしの出來なかった啞者おうしでも、聖霊を受けますれば口が開かれて、大膽だいたんに神のめぐみすくひの事を語るやうになります。ほかの人々にすくひの事を說明ときあかし、又神を讃美します。あかしもって、又讃美をもっしゅイエスをたゝへます。これは聖靈のバプテスマに必ず伴ふべき正當のしるしであります。

聖靈の降臨のいつゝの例

 うですから今迄いまゝで使徒行傳において、五たび聖靈のくだる事に關する記事を讀みました。それによりて如何いかなる人が聖靈を受ける事が出來るかゞわかります。第一、二章卅八節、『爾曹なんぢらおのおの悔改くいあらためて罪のゆるしを得んがためにイエス、キリストの名によりてバプテスマをうけしから爾曹なんぢらも聖靈のたまものうくべし』。すなは今迄いまゝでしゅイエスを捨てゝた敵でも、悔改くいあらためて信ずれば聖靈をる事が出來ます。第二、八章十七節に、今迄いまゝで半分偶像ぐうざうを拜み、いつはりの說をってた、半ば異敎徒のサマリアびとであっても、信ずる事によりて聖霊を受けました。第三に十章四十四節に、今迄いまゝで異邦人であった者でも、しゅイエスを信じて聖靈のめぐみを受けました。第四に九章十七節今迄いまゝで聖靈にさからひ聖靈を憂へしめてた人(サウロ)でも、信仰によりて聖霊に滿みたされる事を得ました。第五に今この十九章の六節おいて、たゞ福音の半分だけしか得てらなかった者でも、今信仰によりて聖靈を得ました。

 どうぞこのいつゝの例を深く考へ、このいつゝの例によりて眞正ほんたうに神のめぐみを知りたうございます。又血潮の力を知りたうございます。血潮の力によりて其樣そんな人でも早速きよめられて、聖靈の殿みやとなる事を得ます。父のもとに歸った放蕩息子が、いと美服よきころもせられ、又いと善物よきものを與へられましたやうに、神は信ずる者にいと善物よきものを與へ給ひたうございます。私共わたくしどもは聖靈のめぐみを受けるには、長らく基督キリスト信者としての經驗を積まねばならぬわけもなく、又熟した信者となったのちでなければならぬわけもありません。だれでも、今でも、信ずるならばペンテコステのめぐみを受ける事が出來ます。

リバイバル起る

八、九節

 太陽の光線によってらうけますが、土は固くなります。そのやうに今聖靈が働き給ひましたから、其爲そのためある人は心がかされて悔改くいあらためましたが、ある人々は反對にかへっ頑固かたくなになりました。

 パウロは『日々テラノスといへる人の講堂において論』じました。うですから每日說敎會が開かれました。每日人々に勸め、每日罪人つみびとを救ふ事を願ひました。

十節

 おほいなる勢力がありました。パウロは此時このときアジアのすべての町に巡廻して行ったのではありません。どもかれの傳道に力がありましたから、何處どこにもすくひみちうはさが立ち、だれでもそれを聞きに參りましたために、『ユダヤびともギリシヤびとすべてアジアにすめる者ことごとしゅことばきゝ』ました。又神は其時そのときに格別なる力を加へ給ひました。

十一、十二節

 神は格別なる力を加へて不思議なる御業みわざあらはし給ひました。

似而非にてひなる働人はたらきびと

 ども其時そのときにパウロの力を眞似まねした者も起りました。聖靈が働き給ひますと、必ず惡魔も聖靈のはたらき眞似まねをします。何時いつでもうです。其爲そのためにせ預言者や僞信者にせしんじゃを起す事があります。聖靈のはたらきのあった時に、私共わたくしどもは格別にこれを恐れなければなりません。又この事を覺えて格別に自分の心を省みたうございます。聖靈のはたらきを見ますれば、自分も其樣そんはたらきが出來ると思ふて、おほいなる間違まちがひをするかも知れません。たゞ傳道上の外部うはべの工夫だけを眞似まねして、それによって同じ結果を見やうと思ひますれば、それおほいなる間違まちがひであります。同じ結果を得たうございますれば、同じ聖靈の力を受けなければなりません。うですからこの十三節からの話は、私共わたくしども餘程よほど大切であります。又適當であります。

十三〜十五節

 惡魔はこの人々に汝等なんぢらを知らずと申しました。惡魔に知られる事はさいはひであります。惡魔はパウロを知ってりました。パウロは惡魔の手より多くの捕虜とりこ取出とりだしまして、惡魔は度々たびたびパウロに敗北しましたから、パウロをよく知ってります。私共わたくしどももどうぞういふふうに惡魔に知られたいものであります。

十六節

 惡魔は勝利かちを得ました。この十六節は今でも度々たびたび行はれます。ほかの人の傳道を眞似まねして、罪人つみびとの心より惡魔の力を逐出おひいだしたい傳道者は、度々たびたびこのやうにかへって自分の心のうちに惡魔の力によりて害を受けます。惡魔はかへっ其樣そんな傳道者に打勝うちかちます。傳道者が惡魔にけがされて逃去にげさらなければならぬ事となります。惡魔の手より人を救ふ事は、恐るべきたゝかひであります。淺いかんがへもって人のことば働方はたらきかた眞似まねして傳道にってはなりません。さういふはたらきじつあぶなございます。決して惡魔の手より靈魂たましひ救出すくひだす事は出來ません。又必ずその心より惡魔を逐出おひいだす事も出來ず、かへって惡魔がその傳道者をけがすかも知れません。

 どもこの人々はしゅイエスの名を呼び、イエスの事を語った事を御注意下さい。聖靈の力をってらぬのに、しゅイエスの名を用ふる事はあぶない事であります。能力ちからがないのにたゞ眞理まこと宣傳のべつたへる事はかへっあぶない事です。傳道にますならば、ける敵がます。私共わたくしどもこの事を感じなければなりません。傳道者は醫者のやうなつとめではありません。醫者は病人をなほす事を致しますが、自分がその病氣にかゝおそれ大槪たいがいありません。ども傳道者はうではありません。いける敵に向って戰ふのですから、その敵に打勝うちかたなければ、かへって傳道者はその敵のために傷をつけられます。まことこれは恐ろしいたゝかひですから、斷えずしゅめしを感じ、斷えず祈禱いのりもって、又斷えずしゅともに傳道に出なければなりません。そのやうにして出行いでゆきますれば、必ず惡魔に勝利かちを得て、罪人つみびとの心より惡魔の力を逐出おひいだす事を得ます。

贋者にせもの曝露ばくろされしめ起りしよっゝの結果

十七節

 この事のうはさが立ちましたために、おほいなる結果が起りました。このよっゝの結果を御覽なさい。第一に『彼等みなおそれいだきぬ』。罪人つみびとの心におそれが起りました。私共わたくしども罪人つみびとためこの事を熱心に祈らなければなりません。罪人つみびとの心のうちに、神を畏るゝおそれが起りますれば、段々すくひみちを求めて參ります。

 第二に『又しゅイエスの名あがめられたり』。今迄いまゝでエペソにおける人々は、しゅイエスの名を輕蔑したかも知れません。たゞ猶太國ユダヤこくで死罪に宣告せられた罪人つみびととして、輕蔑してた事でせう。これはパウロの心のうれひでありました。愛するしゅ斯樣かやうに輕蔑せられてるのを見て、彼はどのやうに嘆いた事でございませうか。ども今イエスの名が崇められました。

 第三に基督キリスト信者が悔改くいあらためました。すなは

十八節

 信者の悔改くいあらためは未信者の悔改くいあらためよりも、あるひは大切であるかも知れません。ウェスレーの說敎のうちに、信者の悔改くいあらためにつける說敎がありますが、彼は能力ちからもって信者の悔改くいあらためを說きました。信者が深く悔改くいあらためますれば、必ずリバイバルの發端はじめとなります。ウェールスのリバイバルも、支那のリバイバルも皆信者の悔改くいあらためから始まりました。

 第四に今迄いまゝでけがれたるものを斷然捨てました。すなは

十九節

 このおほいなるあたひをしまずして、しゅめ又聖潔きよめために、かういふけがれたる書物を斷然燒棄やきすてました。此等これらの書物は今迄いまゝでけがれたる生涯の遺物かたみ今迄いまゝでの罪のしるしでありましたから、それを憎み、しゅみまへに斷然それ燒棄やきすてました。私共わたくしどももかういふ態度をってらねばなりません。例へば今私共わたくしどもの書物のうちに、あるひは又私共わたくしども持物もちものうちに、以前に犯せし罪の記念物が殘ってりますれば、そのあたひをしまず、神の御前みまへに斷然それを捨てなければなりません。このやう基督キリスト信者は偶像敎ぐうざうけうしるしを全く捨てるはずです。たゞ偶像のみならず、其他そのたけがれたる物を一切捨てゝ、それによりて外部うはべの生涯をきよめなければなりません。のちにパウロはこのエペソの信者にふみを送りましたが、そのふみにはほかふみよりも深い眞理が書いてあり、又高い恩惠めぐみが記してあります。パウロは何故なぜかういふ高い恩惠めぐみ、深い眞理を書送かきおくる事を得ましたかならば、この信者は其樣そんな深い恩惠めぐみわきまへる事が出來、又信ずる事が出來たからであります。さうしてその心は何處どこから起りましたかならば、聖潔きよきを慕ふて斷然たる悔改くいあらためをしたからであると思ひます。今この十九章に書いてあるやうに、斷然たる悔改くいあらためを實行致しましたから、其爲そのため悟識さとりを得、神の深いめぐみをもあぢはふ事を得るやうになりました。又そのやうに自分の心のうちに、其樣そんな結果が起ったばかりでなく、二十節を見ますと、その結果が其邊そのへん全體にも及びました。

二十節

 『かちうること』。これまことうるはしうございます。福音が勝利を得ました。たゞ數名の信者が出來たけでなく、一般の人々の心を感じさせ、又一般の人々の心のうちに神をおそるゝおそれが起りました。これ眞正ほんたう勝利しょうりであります。眞正ほんたうのリバイバルのはじめであります。どうかこのやうに福音が勝利かちる事を信じて祈らなければなりません。

パウロの大決心

二十一節

 これは大決心であります。『かならずロマをもみるべし』に附點ふてんをなさい。これ餘程よほど大切なる所です。この廿一節から使徒行傳のをはりまでは、如何どうしてこの決心が成就せられたかについて書いた記事であります。しゅイエスの傳記においても同じ事を見ます。路加傳ルカでん九章五十一節は同じやうなところです。『イエス天にのぼるのときいたりければヱルサレムにゆくことをかたくさだめたり』。此時このときからしゅはヱルサレムに行くみちを踏み給ひました。これしゅイエスの生涯の回轉機くゎいてんきでありました。しゅイエスの今迄いまゝで三年間の傳道は、たゞ此處迄こゝまで始めの九章うちに記されてありますが、此時このときからヱルサレムにきつゝあるあひだの傳道とその生涯のをはりの記事は、十章より終迄をはりまでの十五の章に記してあります。

 『かならずロマをもみるべし』。パウロの心のうち其程それほど大膽だいたんがありました。ロマに行って、其處そこに福音を宣傳のべつたふる事はまことに困難であります。其處そこの傳道は非常なるたゝかひであります。ども其爲そのために身を献げました。羅馬書ロマしょ一章十四節を見ますと、パウロは如何どういふ心をもっったかゞわかります。『われはギリシヤびと及び異邦人また智人かしこきひとおよび愚人おろかなるひとにもおへる所あり 是故このゆゑわれ力をつくして福音を爾曹なんぢらロマにある人々にもつたへんことを願ふ われは福音をはぢとせず』(十四〜十六)。此言このことばを考へますれば、パウロの心のうちに幾分かおそれがあったやうであります。どもしゅの愛に勵まされて喜んでロマにもしゅためきたうございました。羅馬書ロマしょ十五章廿三節を御覽なさい。『今この地につたふべきところなし』。此地このちとはアジアすなはちエペソの地方の事です。エペソにリバイバルが起り、最早もはや神の火が燃立もえたってりますから、最早此地このちに傳ふべきところがありません。うですから『われ年來としごろなんぢらにゆかんことをねがへゆゑに イスパニヤにおもむかんついで爾曹なんぢらいたるべし』。かういふかんがへもって、パウロはこの大決心を致しました。この旅行の順序はこの廿一節にありますやうに、マケドニヤ、アカヤ、ヱルサレム、ロマといふ順序を心のうちに決めてりました。

二十二節

 このアジアにとゞまってあひだに、哥林多前書コリントぜんしょ書送かきおくりました。

惡魔のリバイバル

 二十節おいて聖靈の一般のはたらきについて讀みました。エペソにおいて聖靈は著しく働き給ひました。又其爲そのためにサタンも働きました。二十三節より見ますと、容易よういならぬ騒擾さわぎが起りました。何時いつでもこの通りで、リバイバルが起れば必ず迫害も起ります。私共わたくしどもはリバイバルのために祈りますが、此事このことを深く記憶してなければなりません。リバイバルのために祈る事は、一面からいへばあぶない事であります。これは迫害や困難を願ふのと同じ事であります。どもリバイバルのために重荷を負ふて祈る者は、何時いつでも兵卒らしき心をもっる者でありますから、迫害と苦痛がありましても、リバイバルを願ひます。如何どんくるしみがあっても、如何どんあぶない事が起っても、身もたましひも献げて、是非聖靈のはたらきを見物したうございます。これは祈る者のまことの心であります。

二十三節以下

 おほいなる騒擾さわぎが起りました。此處こゝにはその騒擾さわぎひとつだけ記してありますが、その騒擾さわぎは非常なものでありました。哥林多前書コリントぜんしょ十五章三十二節を見ますと、『もしわれ人の如くエペソにおいけものと共にたゝかひしならば』とありますが、それは今此時このときの事でありました。けものたゝかふやうな騒擾さわぎが起りました。ですからこの使徒行伝に記されてらぬおほいなる事もありました。アクラとプリスキラが格別に生命いのちを懸けて、パウロを助けたのは、あるひ其時そのときであったかも知れません。 羅馬書ロマしょ十六章三、四節こふプリスキラとアクラにやすきとへ かれらはイエスキリストについわれと共につとむる者なり 又わが命のためおのれくびつるぎしたおけたゞわれ而已のみならず異邦人のすべての敎會もまた彼等に感謝せり』。パウロがこの羅馬書ロマしょ書送かきおくったのは、この騒擾さわぎをはってもなくの事ですから、多分今此時このときこの二人が生命いのちを賭けてパウロを助けました。

 哥林多後書コリントこうしょ一章八節をも御覽なさい。このことば丁度ちゃうど此時このときに書いたことばでありますから、これ矢張やはり此時このとき騒擾さわぎを指すと思ひます。『兄弟よ 我儕われらがアジアにおいあひし所の苦難なやみ爾曹なんぢらしらざるをこのまず すなはち責めらるゝことはなはだしくしていきほあたりがたく生命いのちたもたのぞみをも失ふに至れり』うですから其時そのときほとんど生命いのちを失ふばかりになりました。斯樣かやうな非常な迫害がありました。

 其時そのとき卅一節を見ますと、『またアジアの祭をつかさどる者のうちに彼としたし者等ものどもありて人を彼につかはそのみづか戲園ぎゑんいらざらん事を求めたり』。うですからくらゐの高い人々のうちにも、パウロを信用してる親しき友がありました。それによりて福音がいかに勝利しょうりを得たかゞわかります。

 廿九節を見ますと、ガイヨスとアリスタルコの二人はとらへられて戯園ぎえんに入れられました。多分この二人を殺すつもりでありました。どものち救出すくひだされましたが、この二人は此時このときより始終パウロと共に旅行しました。廿章四節にも、廿七章二節おいてもそれわかります。又このアリスタルコは哥羅西書コロサイしょ四章十節を見ますと、パウロとともに牢屋にまで入れられました。

 卅三節を見ますと、猶太人ユダヤびとはアレキサンデルをします。アレキサンデルは猶太人ユダヤびとを辯護しやうとますが、かへっ其爲そのためなほ一層騒擾さわぎが大きくなります。其時そのとき卅五節を見れば、羅馬ロマの役人たる書記官が神の使者つかひとなってその騒擾さわぎを靜めます。神はしばしば羅馬ロマ法律おきてによりて、又は羅馬ロマの政府によりてパウロを助け、又福音の門戶もんこを開き給ひました。今もある國においては、例へば印度インドあるひ亞非利加アフリカなど英國の領分においては、神は英國の政府によりて傳道を助け、福音の門戶もんこを開いて給ひます。

 このエペソの騒擾さわぎと迫害によりて、いかに福音が勝利しょうりを得たかを知る事が出來ます。福音が如何いかに人の心を動かしたかを察する事を得ます。今一般の人の心は福音に對してまことに冷淡であります。ども聖靈が働き給ひますれば、それによりて人々の心は動かされます。其爲そのために一方においてはリバイバルが起りますが、他方においては迫害も起ります。聖靈が働き給ひますれば、必ず惡魔も働きます。



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