第廿二 神の計畫の擴張
悔改の三の例
此章二十六節より後に悔改の三の例が記されてあります。其を調べる事は、私共に大に利益があります。神はどうして罪人を導き、どうして罪人を照し、どうして罪人を更生らせ給ふかを學ぶ事は、大切な事であるに相違ありません。格別に職を務める私共は、此三の例を注意して調べなければなりません。八章にエテオピア人の悔改があります。九章にサウロの悔改があります。十章にはコルネリオの悔改があります。是は即ちアフリカ人と、猶太人と、羅馬人の悔改の話であります。又此三人は案外な道によりて悔改めました。此人々は皆自然には救はれる望のない者でありましたが、神は是等の人々を救ひ、此人々を悔改の例となし給ひました。サウロの悔改は格別に悔改の型であります。提摩太前書一章十六節を御覽なさい。『然ども我が矜恤を受しはキリストイエス首先に我に寛容を悉く顯し後かれを信じて永生を受る者の我を模楷となし給へる也』。即ちパウロの悔改は、後の人の悔改の型であります。其悔改の話の中には、悔改に關する肝要なる點が明かに記されてありますから、格別に其を讀み、又其を調べなければなりません。然れ共其許りでなく、尚二の例が記してありますから、其をも讀みたう厶います。
第一はエテオピア人の悔改です。神は尚々廣く傳道させ給ひたう厶います。此八章の初に於てサマリアに迄福音を宣傳へさせ、今八章の終にアフリカの中央に至る迄福音を宣傳へさせ給ひました。
舊約全書にもエテオピア人の話が記されてあります。又其も矢張エテオピアの寺人でありました。(耶利米亞記卅八章七、八節參照)。此奴隷たる寺人が、大膽にエレミヤの事を王に申しました。此奴隷がエレミヤに同情を表し、是非エレミヤを穴より救出したう厶いました。此エテオピア人は眞正にヱホバに依賴みたる者でありました。耶利米亞記卅九章十六節を見れば、神は其人に聖言を遣はし給ひました。然うですから此舊約のエテオピア人も信者でありました。又神を信じて居りましたから、神の僕を助けたう厶いました。
成功ある傳道者の警戒すべき事
神は今ピリポをリバイバルの所より寂しい處に導き給ひました。リバイバルが起りますなれば、私共は其處に行って助けるのは自然の事であります。然れ共或時には神はリバイバルの處より、一人の魂を救はしめんが爲に、寂しい處に私共を導き給ふ事があります。神はピリポを以て、此リバイバルを起し給ひました。然れ共唯今ピリポを他の處に導き給ひます。然うですからピリポは其リバイバルの爲に大切でありません。若しピリポが此時に神の聖聲を聞かずして、續いて其リバイバルの中に働きましたならば、續いてサマリアに留りましたならば、或はリバイバルの妨害となったかも知れません。度々其樣な事があります。神が或兄弟を用ひて、リバイバルを起し給ひました後に、其兄弟を他の處に導き給ひますのに、其導に從はずに續いて其處に留りますから、自分が却てリバイバルの妨害となる事があります。神が其兄弟の働を祝福し給ひます時に、自分は其働に必要であるといふ考が、度々起りますから、却て其爲に働が妨げられます。
五年前印度にリバイバルが起りました時、十二歲位の一人の少女が用ひられまして、其少女によりて九百人位の人が、キリストに導かれたさうであります。其がどんな風であったかと申しますと、其少女が多くの魂に就て重荷を覺えました。どうかして主に導きたいと祈って居りました。其女は其人々を導く爲に、神が誰か傳道者を送り給ふやうに願って居りましたが、或時神は其女に近づき、我は其人々を導く爲に人を用ふる必要がない、もし人を用ふるならば其人が高ぶるから、用ひぬ方が却てよい。若し御前が行って語るならば、我は御前を助ける、といふ事を語り給ひましたから、其女は主に賴りて行き、單純に神の言を語りましたが、其爲に多の人々が信仰したといふ事です。
傳道の成功がありましたならば、格別に其時は傳道者に取って危い時であります。パウロでも其爲に高慢に陷る恐がありましたから、神は彼に刺を與へ給ひました。神がピリポを曠野に導き給ひましたのも此理由であります。
ピリポは曠野に行って、一人の人を導く事を得ました。然れ共其結果は唯一人丈けではありません。其一人に由て、アフリカの一國に福音が傳はりました。此エテオピア人がアフリカに歸りまして、其處で福音を宣傳へましたから、其時からしてエテオピアが基督敎國となりました。ピリポは此時曠野に下りましたから、或は心の中に幾分か失望があったかも知れませんが、靈の導に服從しました結果、サマリアのリバイバルよりも大なる働が出來ました。又多分サマリアに居る人々も、續いて熱心に傳道しましたでせう。眞の傳道者は人々を自分に依賴ませず、却て其人々に獨立の信仰を與へます。肉に屬ける傳道者は、悔改めました者を自分に依賴ませます。然れ共聖靈に滿されました者は、其信者に獨立の信仰を敎へます。然うですから傳道者が他の處に行きましても、其信者は神と交り、惠の中に生涯を暮す事を得ます。
エテオピア人なる熱心なる求道者
此エテオピア人は多分、神を拜む爲にヱルサレムに參りました者です。シバの女王のやうに、神の事を聞き、神を拜む爲に態々遠方から參りました。併し今或は失望して歸る處であったかも知れません。ヱルサレムに於て兼てから求めて居った惠を得られませなんだ。又其光をも得ませなんだ。今此途中で以賽亞書を讀んで居ましたのは、多分ヱルサレムで其を新しく買求めましたから、熱心に其を讀んで居たのでせう。然れ共其によりても未だ光を得ません。此人は熱心に光を求めました。又知識はありました。又其手には神の言がありました。然れ共傳道者がなければ多分救を得なかったかも知れません。私共は人々が最早聖書を讀むことが出來ますから、別段熱心に其人に勸める必要がないと思ふ事が、時々あるかも知れませんが、是は不信仰と臆病の事であります。其人の手に聖書がありますれば、尚ほ私共は近づいて熱心に福音を說かねばなりません。
此エテオピア人は多分神に祈って光を求めたと思ひます。又神は意外の途によりて其祈禱に答へて、光を與へ給ひました。曠野に於て光を得る望は殆んどありません。ヱルサレムに於てさへも其光を得ませんならば、歸り途に曠野に於て、其光を得られる理由がありません。然れ共神は喜んで、思の外に祈禱に答へ給ひました。
多分其車はそろそろ行いて居りましたから、ピリポは步いて其と共に行く事が出來ました。併し『往て此車に就』との靈の聲を聞きましたから、『趨よりて』、即ち喜んで其靈の聲に從ひました。
『若われを啓く者なくば如何で曉ることを得んや』。是は何處に於ても聞く事の出來る、憐むべき者の叫です。約翰傳五章七節を御覽なさい。『病る者こたへけるは 主よ 水の動るとき我を扶て池に入る人なし』。今私共の周圍に居る人々の中に、多くの人は其樣な叫を叫んで居ります。『我を助くる者なし』。此寺人の嘆も丁度其樣な嘆きでありました。
『遂に請てピリポを己と同に坐せしむ』。然うですから是は面白い有樣であります。大なる國に於て名高い、又位も高い金滿家と、田舎の貧乏な傳道者とが一緖になりました。而して此貧乏な人が身分の高い金滿家に平安を與へました。
然うですから誰かが殺されます。又其死ぬる時には柔和に忍びます。
公平がありませなんだ。無慈悲の事が行はれました。『かれの生命地より滅れたれば也』。即ち是には他の處で生きて居るやうな意味があります。寺人は其樣な聖言を讀んで居りましたが、是を知る事が出來ません。
最早神は此人の心を備へ給ひました。神は此人に聖書を讀む事によりて、其心を備へしめ給ひましたから、此人を導く事は容易い事でありました。ピリポは喜んで此人に主イエスの事を宣傳へました。又罪人は單純に信ずる事によりて、救を得る事が出來ると說明しました。此エテオピア人は最早備へられましたから、其時其場で喜んで福音に從ひ、又神の聖言を受入れました。多分ヱルサレムに居る時に、基督信者の事を聞きまして、基督信者になれば必ず迫害せられる事を知りましたでせうから、今自分が基督信者になれば迫害せられねばならぬと解りましたが、然し是は眞實の事ですから、是を受入れて神に降參せねばならぬと解りました。又此傳道者は早速決心するやうに導きました。
然うですからピリポは喜んで其人を受入れて、其時直樣其處でバプテスマを施しました。或時には此やうに早速バプテスマを施す事が、聖旨であるかも知れません。此人は最早キリストを信じて更生りましたから、其樣な人に早速バプテスマを施す事は善い事です。今からピリポは去って他の國に參りますから、一緖に聖書を硏究する機がありませんから、ピリポは此人を靈に任せて、其時にバプテスマを施しました。然うですから此寺人は、臣等の前で大膽に主イエスの事を證しました。國に歸りました時、必ず此臣等は方々に其事を言ひ廣めたに相違ありませんから、此洗禮式は此寺人の證となり、其によりて國に歸りました時に、大膽に證する事が出來ました。
寺人はピリポが去りましたが、主が共に在す事を知って、喜んで行きました。若し此寺人がピリポに依賴みますれば、信仰の妨害になりますから、靈はピリポを去らしめ給ひました。或はピリポは此エテオピア人と一緖にアフリカに行く事を、熱心に願ったかも知れません。然れ共今未だ其樣な機ではありません。却て此若い信者が一人アフリカの眞中に行き、一人彼處で傳道する方がよう厶いました。此寺人は自分と共に主イエスが行き給ふ事を信じて、滿足して喜んで行きました。
罪人の救の爲に働く四の者
此話を見ますと、此寺人の救はれる爲に色々の者の働が見えます。此人は何の爲に救はれましたかならば、天使の働もありました(廿六節)。聖靈の働もありました(廿九節)。聖書即ち聖言の働もありました(卅節)。又ピリポの働もありました(卅節)。是等のものが皆一緖に働きまして此一人の魂が導かれました。今でも罪人の救の爲に、斯樣に神は多の者を使って、其人に救を施し給ひます。ピリポの働は割合に小いものでありました。何にも誇るべき處がありません。神が聖靈と聖言を以て備へて居給ふた人の處に導かれて、說明した丈けであります。是は誇るべき事ではありません。私共も罪人を導く事を得ましても、決して誇るべきではありません。神は他の人々を使ひ、又聖書を用ひ、或は天使をも使ひ給ふたかも知れませんから、私共の働は割合に僅少なものであります。
個人傳道者の精神
然うですから此話を調べまして、人を導く爲に、傳道者はどういふ者である筈であるかと申しますと、第一は六章五節を見ますれば、此ピリポは信仰と聖靈の滿たる者でありました。是は私共にも第一に必要な事であります。第二は服從がなければなりません。此ピリポは主の使者の嚮導に從って寂しき野の途に參りました(八章廿七節)。私共も從順に神の聖聲に聽從はねばなりません。第三に大膽がなければなりません。卅節に此人の許に行きて話する大膽がありました。第四に丁寧でなければなりません。卅節の終に、ピリポは丁寧に、此人を敬ふて話しました。第五に聖書を使ふ事です(卅五節)。第六、イエスの福音を宣傳へなければなりません(卅五節)。是は唯聖書の說明許りではありません。又唯道德の道ではありません。又是は基督敎を說明す事ではありません。又敎會の事を話す事でもありません。イエスの喜ばしき音信を宣傳へる事であります。又第七に、即座に決心する樣に勸めなければなりません。今決心せよ、今君は救はれる事が出來ると勸める筈です。私共は今決心せよと勸める大膽がなければなりません。私共も罪人を導きたう厶いますれば、此七の事がなければなりません。どうぞ神の光の中に其を調べ、自分の不足を知って、其に就て聖靈をお求めなさい。
此八章の初の部分に於て、神は公けの說敎によりて罪人を救ひ給ひました。又終の部分に於ては、個人的に聖書を調べる事によりて罪人を救ひ給ひました。第三には九章の初に於て、神は御自分を表はす事によりて、罪人を導き給ひました。
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