第三十七 マケドニヤよりヱルサレムまで



その 旅 行

第 二 十 章

一〜六節

 三節にある三ヶ月のあひだ哥林多後書コリントこうしょ加拉太書ガラテヤしょ及び羅馬書ロマしょみつふみ書送かきおくりました。

 パウロは今やロマにく旅を始め、處々しょしょの信者に暇乞いとまごひを致しました。ロマにけば最早ふ事が出來ぬと思ったからです。ロマにく事はまことあぶない事で、もう一度此邊このへんを廻って傳道する事が出來ないと思ったのです。

七〜十二節

 此處こゝにパウロはその生涯中最もおほいなる奇蹟を行ひました。九節をはりを見れば、この若者は既に死んでたのですが、祈禱いのりによりてよみがへりました。

傳道者としてのパウロ

十三節以下

 パウロはその旅行を段々續けて參りましたが、十七節を見ますとミレトスより使者つかひをエペソに遣はして、敎會の長老ちゃうらうを呼び寄せて暇乞いとまごひを致しました。

 十八節よりの話のうちに、傳道者の精神、又は傳道者のつとめついて詳しく知る事を得ます。私共わたくしども度々たびたび此處このところを讀んで、祈禱いのりうちに自分の事を省み、悔改くいあらたむべきは悔改くいあらためて祈りたうございます。此處こゝでパウロの精神、パウロ自身の寫眞を見る事が出來ます。使徒行傳の今迄いまゝでところおいて、パウロの旅行や說敎、又パウロの受けた迫害について讀みましたが、此處こゝではパウロの心、その傳道の精神を知る事を得ます。

 十八節を御覽なさい。第一に傳道者は常に人々と交際して、人々の眼の前に明らかになるはずであります。ある傳道者はおのれを隱して人々を離れますが、しゅイエスもパウロも人々の眼の前に生涯を暮して、少しも隠れませなんだ。又第二に傳道者は謙遜へりくだる者でなければなりません。『われすべての事に謙遜へりくだり』(十九節はじめ)。第三に感じ易いもの、又親切なる者でなければなりません。『また淚を流し』、英語でいふ tenderhearted でなければなりません。第四に耐忍たへしのびがあるはずです。『ユダヤびと詭謀くはだてにより艱難かんなんあひしゅつかへ』。又第五に信用すべきものであるはずです。『えきある事は殘す所なくこれのべあるひは人々の前あるひは家々におい爾曹なんぢらに敎へ』(廿節)。すなはち力をつくし、熱心を盡して働くものであるはずであります。どうぞこのいつゝの點についみづからを省みなさい。パウロは斯樣かやうに力を盡して傳道しましたから、廿六節おいて『すべての人の血においわれいさぎよくしてあづかることなし』とあかししてます。どうぞ私共わたくしどもも力を盡して傳道し、かういふことばふ事が出來る者となりたうございます。

宣傳のべつたふべき事柄

 眞正ほんたうの傳道者は何を宣傳のべつたふべきかについても、此處このところより學ぶ事を得ます。第一に廿四節に『神のめぐみの福音をあかしする事』とあるやうに、神のめぐみあかしします。神のめぐみによりて最も惡い、罪の深い者でも救はれる事が出來ます。これまことに福音であります。第二に廿五節にあるやうに、『神の國を傳へ』る事です。神のおほいなる計畫、神のおほいなる政治の權威と力、神が信者に與へ給ふ幸福さいはひなる神の國を傳へねばなりません。第三に廿七節にある『神のむね』を傳へる事です。すなはち神の命令と神のみちを傳へる事です。それによりてある人はかへって心を痛められませう。ある人はそれに從ふ事によりておほいなる損失そんをするかも知れません。ども傳道者は忠實に『神のむねを殘す所なくことごとく』傳へなければなりません。第四に廿一節を御覽なさい。罪人つみびとの義務はなんでありますかならば、『神にむかひては悔改くいあらたしゅイエスキリストにむかひては信仰すべき事』であります。私共わたくしどもも熱心に罪人つみびとたいして悔改くいあらためと信仰を宣傳のべつたへなければなりません。

ふたつつゝしむべき事

 二十八節ふたつの愼むべき事が書いてあります。これは大切な事であります。『ゆゑ爾曹なんぢらみづから愼み かつなんぢらが聖靈にたてられて監督となれるその全群ぜんぐん愼み しゅおのが血をもてかひ給ひし所の敎會をやしなふべし』。第一に氣を附けねばならん事は自分です。次に敎會です。私共わたくしどもづ自分の心を愼まなければなりません。ある人は敎會の重荷を負ひますが、自分の靈魂たましひの事を一向いっかう省みません。これおほいなる間違まちがひであります。有名な英國のジョージ・ムラーはその孤兒院には始終三千人の子供がりまして、大變忙しうございましたが、毎朝神の聖前みまへみづから省みて、祝福しゅくふくを求める事を第一と心得てりました。ムラーのったことばに、わたくしはたらき如何いかに忙しくとも、日々わたくし自身の靈魂たましひ祝福めぐみる事が、わたくしの最も肝腎な仕事で、しかのち全力をつくして働きますといふやうなことばがあります。これは正しい順序です。これすなはこの廿八節の順序であります。『みづからつゝしかつ……全群ぜんぐんつゝしみ』。神がジョージ・ムラーを祝福しゅくふくし給ふたのは其爲そのためでありました。又神は何時いつでもかういふ心をってる人のはたらきを祝福し給ひます。

 第二に愼むべき事は敎會であります。敎會はたふといもので、しゅおのが血をもっ買上かひあげ給ふたものであります。外部うはべより見れば、その信者は少なくしていやしい弱い者であるかも知れませんが、これしゅたふとおのが血をもっかひ給ふたものでありますから、力をつくしてそれを養はなければなりません。

 これは容易の事ではありません。必ず危險が起って參ります。『そはわがさらのちこのむれをしまざるあらおほかみなんぢらのなかいらんことをしればなり』(廿九節)。惡は何處どこから敎會にはいるかといへば、周圍まはり罪人つみびとからではなく、又迫害する者からでもありません。かういふ者は敎會をいためるものではありません。ども敎會のうちにある敎師より、講壇の上からその敎會を害し腐らせるものがはいって參ります。パウロは此處こゝに『あらおほかみ』と申しましたが、これあるひ按手禮あんしゅれいを受けた牧師であるかも知れません。あるひは熱心な傳道師であるかも知れません。どもそれかへって敎會をほろぼあらおほかみとなるかも知れません。

 このあらおほかみはどういふものでありますかならば、格別にほかの信者をおのれに從はせんとし、おのれを高くするもの、すなはち名譽心の强いものであります。『またなんぢらのなかよりも弟子等でしたちおのれに從はせんとて悖理よこしまなること言出いひだす者おこらん』(三十節)。うですから格別にこの事を御注意なさい。し人々をおのれに從はせたいならば、傳道をめてほかところ退しりぞき、淚を流して悔改くいあらためなさい。おのれを高くする傳道者は敎會をわづらはすあらおほかみであります。

エペソの長老等ちゃうらうたちに告別のをはりことば

三十一節

 『おもふべし』。あなたが聖靈に滿みたされし傳道者を見ましたならば、どうぞそれ何時迄いつまでも心にめて置きなさい。それを記憶し、それによりておのれの熱心を勵ましなさい。その人の手本にならって同じ心を御求めなさい。『わが三年のあひだひるたえず淚を流して各人おのおのすゝめしことをおもふべし』。淚を流す事の出來る心を神にお求めなさい。私共わたくしどもが淚を流さないのは、信仰と愛が生溫なまぬるいからであります。パウロは斷えず涙を流して勸めました。

 『たえ各人おのおのすゝめ』。どうぞ私共わたくしどもも怠らずして斷えず、各人おのおのに勸めたうございます。パウロが最もつとめた事は個人傳道でありました。勿論おほいなる集會あつまりおいおほやけの說敎もしました。多分大槪たいがい每晚說敎會を開きましたが、それよりも大切な事は、このやうに『たえ各人おのおのすゝめ』る事であります。私共わたくしどもおほやけの傳道ばかりを致しますれば、それまことの傳道ではありません。力ある傳道ではありません。力ある傳道者は個人個人各自おのおのに勸める事を最も勉めます。

三十二節

 どうしてあらおほかみ其他そのたの危險より避ける事が出來るかといへば、ちからある神とその恩惠めぐみことばおのれゆだねる事であります。パウロは自分が去る時に、殘る信者をこのふたつのものに賴らしめたうございました。ちからある神と聖書のことばに賴る事は肝腎です。集會あつまりも大切です。おほやけの傳道も說敎も大切ですが、最も大切な事は信者各自めいめいを神に依賴よりたのましめ、又自分で聖書を調べて、その聖言みことばに賴るやうにする事であります。敎會が神とそのことばに賴りますれば、力ある敎會となりて益々ますます罪人つみびとを救ふ事を得ます。

三十三、三十四節

 パウロは廿六節おいて『われいさぎよくして』と申してりますが、此處こゝにもほかの點よりきよき事をあかししてます。熱心な傳道者でも時として貪婪むさぼりけがれを心のうちに受ける事がありますから、私共わたくしどもおほいに愼まなければなりません。惡魔は度々たびたび貪婪むさぼりもって傳道者を倒しますから、此事このことを覺えて常に自分の心を省みたうございます。私共わたくしどもこの三十三節ことばあかしする事が出來ますか。人の前にも神の前にも大膽だいたん赤心まごゝろもっこのやうにあかしする事が出來ますか。

三十五節

 まことの傳道者はあはれむべき者を助けます。聖靈に滿みたされたる傳道者は貧しきあはれむべき者を助けて、肉體上の恩惠めぐみをもこれに與へます。うですからパウロは精神においても行爲おこなひおいても、傳道者の手本たるべきものであります。私共わたくしどももどうぞほかの人々の手本となりたうございます。

愛されたるパウロ

三十六、三十七節

 パウロはじつに愛せられた者でありました。今迄いまゝでそれついて詳しく讀みませなんだ。今迄いまゝではパウロは何處どこでも憎まれた事を讀みました。ども今パウロは一方においてはじつに愛せられた者である事を見ます。加拉太書ガラテヤしょ四章十四節を御覽なさい。『爾曹なんぢらこゝろむる者のが身にありしを爾曹なんぢらいやしめずまたきらはかへっ天使てんのつかひの如くキリストイエスの如くにわれあつかひたり』。ガラテヤの人々も其樣そのやうにパウロを愛しました。又パウロが眼が惡うございましたから、喜んでできれば自分の眼を與へんとまで申しました。『爾曹なんぢらその時のさいはひ如何いかにありし われ爾曹なんぢらあかし爲得なしうべくば爾曹なんぢらみづからの目をとりわれあたへんとまでねがひたり』(十五節)。又帖撤羅尼迦前書テサロニケぜんしょ三章六節『今テモテ爾曹なんぢらより我儕われらきたりて爾曹なんぢらの信仰と愛との嘉音よきおとづれきかせ又なんぢら常に我儕われら切々ねんごろおもひわれらにあふことをねが我儕われら爾曹なんぢらあふことをねがふが如しとつげたり』。テサロニケの信者も此樣このやうに常にパウロを慕ひました。又腓立比書ピリピしょ一章廿六節を見ますと、『われ再び爾曹なんぢらと共にをら爾曹なんぢらの喜びわれによりてイエスキリストのうちますますおほいならん』。うですから何處どこの信者も心からパウロを愛しました。熱心に彼を愛し、彼を慕ひました。聖靈に滿みたされてる傳道者は、世にける者よりはおほいに憎まれますが、まことの信者からはおほいに愛せられます。どうぞ私共わたくしども斯樣かやうに憎まれ又愛せられる者となりたうございます。



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