第十六 震動ける祈禱會
迫害の四の幸福なる結果
迫害によりて四の幸福なる結果がありました。第一は祈禱の精神です。神に近づきたう厶いました。第二は新しい聖靈のバプテスマです。第三は愛の一致。第四は傳道の成功であります。此四の幸福なる結果がありますれば迫害は恐ろしいものではありません。又此結果によりて神は凡てを統治め給ふ事が明らかに解ります。人間は此世に屬ける力を以て、全く傳道を消したう厶いますけれども、却て其怒によって神は尚々能力と祝福を加へ給ひます。
信者の會の空氣
『かれら釋されて其友の所にゆき』。是は美はしう厶ましたでせう。今迄猶太人の宗敎會議の空氣を吸って居ましたが、今基督信者の中に全く違った空氣を吸ふ事を得ました。愛の空氣、感謝祈禱の空氣、かういふ美はしい事を經驗しました。多分是は祈禱會の半ばでありました。祈禱會は感謝會に變りました。今迄使徒等が此世に屬ける有司等の前に立って居りましたが、今其人々の前を去りて天地の王の御前に跪いて祈りました。其時詩篇四十六篇を歌ふ事は適當でありましたでせう。『神はわれらの避所また力』、『なやめるときの最ちかき助』であると經驗しました。又其三節の如く人々は『なりとゞろきて』騒ぎましたけれ共、其時にも靜かに流れて居る神の喜樂と平安の『河あり』と經驗しました。然うですから今十節の通りに、神の神たる事を知る事を得ました。
造主なる神の力
彼等は神の力を握って祈る事を始めました。神の聖名に依賴みて祈りました。格別に此二十四節に神の御名前を見ます。『主よ 爾は天と地と海と其中の萬物を造たまひし神なり』。此造主に近く事を得ました。萬物を造り、萬物を支配し、萬物の上に力を有って居給ふ神を拜しました。私共は幾分か其信仰を失ったと思ひます。私共は私共を贖って下すった神を信じます。又私共を潔め、又私共を祝福し給ふ神を信じます。然れども割合に、天地萬物を造り給ふた造主なる神を信ずる信仰が薄う厶います。然れども造主なる神を仰ぎますれば、信仰が強められます。詩篇百廿一篇一、二節『われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや わがたすけは天地をつくりたまへるヱホバよりきたる』。造主なる神は必ず此小い者を守り又助け給ひます。又詩篇百四十六篇六節より御覽なさい。六節に『あめつちと海とそのなかにあるあらゆるものを造り とこしへに眞實をまもり』。かういふ能力を有って居給ひますから、必ず七、八、九節の恩惠を與へ給ひます。其靈的意味を考へて之を讀みますれば、大に信仰の助となります。是は天地萬物を造り給ふた神の恩惠であります。
又以賽亞書四十二章五節六節『天をつくりてこれをのべ、地とそのうへの產物とをひらき、そのうへの民に息をあたへ、その中をあゆむものに靈をあたへたまふ神ヱホバかく言給ふ 云く、われヱホバ公義をもてなんぢを召たり われなんぢの手をとり汝をまもり、なんぢを民の契約とし異邦人のひかりとなし』。私共は祈禱を以て、神が造主たる神であると認める事を求めなければなりません。主イエス・キリストも、かういふ名を以て神に祈り給ひました。馬太傳十一章廿五節『其とき』。是は矢張人々が頑固にして聖言を聞かなんだ時でありました。『其ときイエス答て曰けるは 天地の主なる父よ』。私共この言を味ひまして、强き信仰を以て神の御能力を待望みたう厶います。
ペテロは今造主なる神に自分を委ねました。後に彼が信者に書翰を送りました時に、矢張同じ事を勸めました。『是故に神の旨に循ひて苦に遇ものは善を行ひて其靈魂を信ずべき造物者に託すべし』(彼前四・十九)。
戰爭に於ける大膽
弟子等は此處で舊約全書の言を借りて祈りました。其に依賴んで祈りました。今神は詩篇二篇の通りに働き給ふ事を信じました。又今は戰爭の時であると深く感じました。私共も其を深く感じなければなりません。一方に於て神及びキリストが在し給ひます。他の一方には此世につける人々が、此世に屬ける能力を以て戰ひます。此詩篇二篇は戰の時の詩でありますが、此詩篇によりて神は人間の力と人間の迫害を嘲り笑ひ給ひます。神は未だ何もなし給はず、未だ御力を表はし給ひません時にも、天の位に坐して笑って居給ひました。此神と共に働く者は、神と共に信じて迫害の時にも笑ふ事が出來ます。其信仰の原因は何でありますといふに、六節に神は其王たる主イエスを立て給ひましたから、必ず神は御自分が立て給ふた王の敵を滅し給ひます。又必ず此八節のやうに、主イエスの國が廣められまして、地の極に迄及びます。弟子等は此詩篇二篇を信じて、今迫害が無くなる事を願はず、大膽に戰に出る事が出來るやうに願ひました。又巧みに聖靈の劒を用ふる事が出來るやうに願ひました(卅節=英譯では廿九節)。以弗所書六章十九節に於て、戰の時憚らずして福音の奥義を大膽に傳へる事が必要である事を見ます。腓立比書一章廿節にも『臆せず』とあります(英譯は以上三の引照共大膽(boldness))。私共もかういふ大膽を願はねばなりません。
震動かし給ふ神の能力
弟子等は自分の利益、又は自分の幸福、又は自分の安逸を全く捨てまして、唯神の榮光の表はれる事を願ひました。神は必ずかういふ祈禱に答へ給ひます。今神は御自分が全地の王である事を示して、其集れる處を震ひ動かしめ給ひました。是は造主に適ふ祈禱の答であります。詩篇百十四篇一節より七節迄を御覽なさい。神は今集會を震動かしめ給ひました事によりて、此樣に必ず聖前に凡ての物が震ひ動く事、又必ず反對者が退く事を示し給ひました。詩篇九十七篇四節にも『ヱホバのいなびかりは世界をてらす 地はこれを見てふるへり』とあります。今神は弟子等に、御自分は詩篇九十七篇の神で、其樣な榮光と能力とを有って居給ふ事を示し給ひます。又哈基書二章六、七節をも御覽なさい。『萬軍のヱホバかくいひたまふ いま一度しばらくありてわれ天と地と海と陸とを震動はん 又われ萬國を震動はん、また萬國の願ふところのもの來らん』。即ちキリストと、キリストの國が參ります。神はまだ其を成就し給ひませんけれども、必ず未來に於ても其通りに全地を震動かしめ給ひます。今祈禱の時に、其集れる處を震動かし給ひました事によりて、御自分が未來の審判主である神たる事を示し給ひます。未來に於て凡の人の心を恐れしめ給ふ神が、其祈禱を聞き給ふ事を、明らかに示します。又以賽亞書六十四章一節二節を御覽なさい。『願くはなんぢ天を裂てくだり給へ、なんぢのみまへに山々ふるひ動かんことを 火の柴をもやし火の水を沸すがごとくして降りたまへ、かくて名をなんぢの敵にあらはし、もろもろの國をなんぢのみまへに戰慄かしめたまへ』。神は此時の祈禱の答によりて、御自分が其敵に名を表はす事が出來る事を示し給ひました。私共は私共の周圍にある人々の心が、動かされるやうに願ひますなれば、此能力ある神に祈らなければなりません。詩篇十八篇を御覽なさい。此篇は實に美はしい祈禱に就て敎を見ますが、其四節五節を御覽なさい。『死のつな我をめぐり惡のみなぎる流われをおそれしめたり 陰間のなは我をかこみ死のわな我にたちむかへり』。是は患難に居る者の祈禱でありますが、六節を見ますれば、神は其樣な人の祈禱を聽き、七節に於て其祈禱に答へんが爲に、御自分の力を延ばし、天地を動かしめ給ひます。『われ窮苦のうちにありてヱホバをよび又わが神にさけびたり ヱホバその宮よりわが聲をきゝたまふ その前にてわがよびし聲はその耳にいれり このときヱホバ怒りたまひたれば地はふるひうごき山の基はゆるぎうごきたり』(六、七)。此祈禱者は未だ其を見ませなんだけれ共、遂に十六、十七節に於て其祈禱の答を經驗しました。『ヱホバはたかきより手をのべ我をとりて大水よりひきあげ わがつよき仇とわれを憎むものとより我をたすけいだしたまへり』。私共は信仰の祈禱を献げる時に、見えぬ處に於て天地が動かされるかも知れません。私共の祈禱が答へられ、此地上に於て其驚くべき結果が表はれる前に、先づ見えざる世界即ち天に於て、驚くべき變動が起る事を、此詩篇に於て見ます。私共は是を認めて置かねばなりません。
人の心を動かす三の方法
私共の祈禱會の時にも、此弟子等の祈禱會の時の樣に神の榮光が表はれる筈であります。此處では祈禱によりて震ひ動きます。使徒行傳十六章廿五、廿六節を見ますれば、感謝によりて震ひ動きます。又以西結書卅七章七節では、說敎によりて震ひ動きます。此三つの方法によりて、人の心を動かしてリバイバルを起す筈であります。
燃立つ熖の如き愛
此弟子等は迫害せられましても、心の中に燃立つ焰のやうな熱心を有って居りました。又其許りでなく、卅二節を見ますれば、人間に對しても燃立つ焰のやうな愛を有って居りました。神に對しても消すべからざる熱心と愛を有ち、又人に對しても消すべからざる愛を有って居りました。然うですから三十三節のやうに、大なる力を有って居りました。又同じ節に大なる恩惠を蒙りました。又其爲に五章十一節に人々に大なる恐が起りました。
今迄使徒行傳に由りて、聖靈に滿されし者が能力ある事を學びました。此處で聖靈に滿されました者は、能力ある祈禱を献げる事を學びました。どうぞ祈禱によりて震ひ動かす力を得る爲に、聖靈を御求めなさい。
ペンテコステの祈禱會の順序
此四章の終に、ペンテコステの祈禱會の記事があります。今槪略ペンテコステの祈禱會の順序に就て見たう厶います。第一、心を合せる事(廿四節)。第二、神の存在と其御力に依り賴む事(同節、又希伯來書十一章六節を參照)。第三、聖書の言を引く事(廿五節)。第四、此戰が自分のものでなく、神の戰であると知る事(廿六節)。第五、神は其企て給ひし事を必ず成就し給ふと信ずる事(廿八節『預じめ定め』)。第六、明かなる證をする爲に大膽を願ふ事(卅節)。第七、神はイエスの名に榮光を歸し給ふ事を願ふ事(同節)。神はかういふ祈禱會に、必ず新しきペンテコステを與へ給ひます。
神の道
『神の道』。舊約全書に於ても、新約全書に於ても、度々此言を讀みます。福音は神の道であります。然うですから嚴肅に其を宣傳へなければなりません。其を宣傳へますれば、必ず以弗所書六章十七節のやうに、聖言は劒となります。『聖靈の劍すなはち神の道を取』。又是には生命がありますから、必ず路加傳八章十一節の通りに果を結びます。『種は神の道なり』。然うですから、私共が說敎する事は、聖靈の劒を使ふ事です。又他方より見れば、生る種を播く事であります。
使徒行傳に於て神の道に就て書いてある處を御覽なさい。六・二、七。八・十四。十一・一。十二・廿四。十三・五、七、四十四、四十六。十七・十三。十九・二十(原語では是も神の道です)。
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