第二 甦りたる救主と其約束
甦りし主の職務
使徒行傳一章二節から見ますれば、主イエスが甦の四十日間に三の事をなし給ひました。
第一は二節『聖靈に託て命じ』、即ち命令を與へ給ひました。主イエスは弟子等に唯勸め、或は唯其考のみを與へ給ひませんでした。命令を與へ給ひました。主イエスは弟子等の主でありましたから、彼等は其命令に従はねばなりませんでした。私共の主も同じ主であります。私共に指圖を與へ給ふ主であります。さうですから私共は其に從ひましても、從ひませんでも構はぬといふものではありません。必ず從順に從はねばなりません。
主は何に就て命じ給ふたかと申せば、四節の終に『我に聞る所の父の約束し給ひし事を待べし』。是は第一の命令であります。祈禱を以て聖靈を待望む事、聖靈に滿さるゝ事、是が第一の命令でありました。敎會の組織に就て何も命令がありません。又傳道の方法に就ても命令がありません。然れども聖靈を待望めよとの、固い命令がありました。弟子等は最早幾分か傳道した者であります。又其手を病人に按いて、病人が癒された事もあります。此點に就て經驗がありましたから、又大分新しい光を得ましたから、格別に主の甦から大なる光を得ましたから、多分走って出行いて、傳道したかったでせう。走って他の人に永生を與へたく思ふたかも知れません。然れども主は『爾曹ヱルサレムを離ずして我に聞る所の父の約束し給ひし事を待べし』と命じ給ひました。他の人に安慰を與へる代りに、汝自身惠を受けよ。配與へる代りに先づ受けよ、といふ事でありました。是は主の第一の命令でありました。
第二の命令は福音を宣傳ふる事でありました。馬太傳廿八章十九節廿節を見ますれば『是故に爾曹ゆきて萬國の民にバプテスマを施し、之を父と子と聖靈の名に入て弟子とし、且わが凡て爾曹に命ぜし言を守れと彼等に敎よ』。是は私共に對する主の命令でありました。傳道は主イエスの命令であります。私共は唯便利のよい時に、或は唯迫害のない時に丈け、其を致しますれば、其は眞正に主の命令に従ふ事ではありません。眞正の服從は何時でも、どんなに不便利でありましても、又どんな犧牲を拂はねばなりませんでも、福音を宣傳ふる事であります。
第二に主イエスは、御自分が活ける者である事を示し給ひました。『夫イエスは苦難を受し後おほくの確據なる證を以て己の活たる事を現し……』(三節)。是は實に大切なる事でありました。何故なれば甦は福音の基礎、確固なる基礎であるからであります。さうですから甦を確かめる事は、何よりも大切であります。主が苦難を受け給ひました後に、甦り給ひました事は、私共の救又聖潔き事の基礎です。又是は私共の宣傳へる福音の一番大切なる基礎であります。さうですから主は多くの確據なる證を以て、弟子等に其を示し給ひました。馬可傳十六章を見ますれば、弟子等に取っても、其は信じ難い事で、始には彼等も其を信じませんでした。さうですから主イエスは、多の確據なる證を以て、明白に其を示し給ひました。主は唯今も同じ主でありますから、私共にも甦を確かめさせやうとなし給ひます。未だ其基礎が据って居ませんならば、どうぞ祈禱を以て主に近づき、主が確據なる證を以て、卿に其を示し給ふやうに祈りなさい。其基礎が卿の心の中に堅く据って居ないならば、卿は潔き生涯を暮す事が出來ません。又必ず傳道する事も出來ません。
第三に其時に主は何をなし給ふたかと申しますれば、三節の終に『神の國の事に就て語り』、種々の事を教へ給ひました。格別に舊約全書の事を教へ給ひました。路加傳廿四章の四十四、四十五節又卅二節を見ますれば、主は其時舊約全書の大切なる事を教へ給ひました。又舊約全書の始より終までが、私共の受くべき靈の糧であること、又其に由りて私共が主イエスを識り、又主イエスの惠を受けらるゝ事を教へ給ひました。其時に最早主イエスは甦りて、靈の體を有って居給ひました。最早全く天に屬ける者となって居給ひました。而して其時弟子等の手に、舊約全書を與へ給ひました。是は大なる賜物であります。弟子等は之を新しく悟る事が出來ましたから、舊約全書は彼等の爲に全く新しき書となりました。甦の主は卿等にも新しい聖書を與へ給ひたう厶います。どうぞ謙って、其通りに甦の救主から聖書を受入れなさい。是が第一に敎へ給ふた事であります。
第二は御自分の事を教へ給ひました。馬太傳廿八章十八節『イエス進て彼等に語いひけるは 天のうち地の上の凡の權を我に賜れり』。御自分が能力ある救主、勝利を得給ふた救主である事を教へ給ひました。言葉ばかりでなく、又種々の行を以て、其を弟子等に示し給ひました。此主は私共にも同じ事を教へ給ひます。私共も靈の眼を開いて、活ける主イエスを見ますれば、其に由りて能力ある生涯を送る事が出來ます。又甦に屬ける生涯を暮す事が出來ます。又此世に於て勝利を得る生涯を暮す事が出來ます。
最も大なる約束
主は格別に此命令を與へ給ひました。『父の約束し給ひし事を待べし』。舊約全書に父の種々な約束があります。何百何千の約束があります。然れども主は此處に或約束を撰んで、是は格別に父の約束であると曰給ひました。何故なれば聖靈を與へられるといふ事は、父の至大なる約束であるからであります。其のみならず、其約束の中に他の約束も皆入って居ります。例へば父は私共に、平安を與へるとの約束を爲し給ひました。又勝利を與へるとの約束をも爲し給ひました。けれども聖靈を受けますれば、平安も勝利も、豐かに經驗する事が出來ます。聖靈の約束は舊約全書の中に、度々明らかに見えます。賽四十四・三、六十一・一、結卅六・廿七、四十七・一〜十、耳二・廿八等に此約束は明白に記してあります。靈の眼を開いて其を見ますならば、是は舊約の一番大切な約束であると解ります。然れども其ばかりではありません。此四節に、『我に聞る所の……』とあります。即ち主が格別に此約束を指して、說明し給ひました。格別に約翰傳十四、十五、十六章の三章に於て、其約束を新しく弟子等に與へ給ひました。甦り給ふた主が、私共にも其舊約の約束を指し給ひまして、私共にも其を新しく與へ給ひたう厶います。
五節を見ると、此約束の聖靈を受ける事は、卿の爲にバプテスマであると曰給ひました。卿の爲にバプテスマであるといふのは、卿の全生涯の轉機になると云ふ事であります。靜に愛に由りて導かれ、又敎へられるといふ事ではありません。卿の生涯に際立った大變化の起る事であります。バプテスマには深い意味がありまして、是は死ぬる事と甦る事であります。さうですから卿が聖靈を受けますならば、其は死ぬる如き惠、又甦る如き惠であります。其樣に生涯の大なる變化となる筈であります。父の約束を得ますれば、續いて以前と同じ人ではありません。新しき人となります。舊き人がなくなり、甦に屬ける人となります。其に由って新しい生涯を始めます。以弗所書を見ますと、天の處に坐すとありますが、聖靈を受けますれば其天の處に入る事が出來ます。さうですから他の人々を見ます時に、天國の立場から其を見ます。或は自分の事を見るにも、天國の立場から其を眺め、又判斷致します。何故なれば聖靈のバプテスマを得ました者は、最早死んだ者、又最早甦った者であるからであります。是は實に大なる約束であります。聖靈の約束は舊約全書の中で、一番大切な約束であるやうに、新約全書の中でも、一番大切な約束であります。其爲に新約の中に、此約束が六度書いてあります。四福音書の各書に一つ宛、又使徒行傳に二度記してあります。聖靈が私共に六度繰返して、此約束を與へ給ひますのは、丁度父親が其子供に大切なる事を教へるのに、度々同じ事を繰返して、其を教へるのと同じであります。此弟子等は其約束を受入れ、其約束通りに惠を受けましたやうに、私共も其約束を待望んで求めたう厶います。其爲に俯伏して祈り求むべき筈であります。
火のバプテスマ
此弟子等は必ず『火を以て』という言を、覺えてゐたに相違ありません。ヨハネが此言を申しましてから、其を覺えて、其惠を待望みました。約翰傳一章に其話が書いてあります(約翰傳一章卅三〜卅七節を御覽なさい)。此二人は其時、火のバプテスマを求めたと思ひます。其晩イエスと共に宿り、イエスの聖顏を見、その聖言を聞く事が出來ましたが、火のバプテスマを得ませんでした。其時からイエスに伴ひ、イエスの不思議なる聖業を見、イエスの惠の聖言を聞きました。然れどもまだ火のバプテスマを得ません。漸く三年の後、イエスは他の訓慰師の事を教へ給ひました。聖靈が來り給ふやうに、約束し給ひました。又甦り給ひました後、氣を噓いて『聖靈を受けよ』と曰給ひました。其時にも必ず幾分か惠を得ました。然れども未だ火のバプテスマを得ませなんだ。然れ共此時にイエスは『久しからずして』聖靈を受ける事が出來ると曰給ひました。さうですから必ず彼等の心の中に、大なる望が起ったと思ひます。此『久しからずして』といふ言を聞きました時、此言がどんなに弟子等の心を勵まし、振起しましたらうか。心の底迄刺し透すやうに感じた事でせう。活ける主が私共にも同じ事を曰給ひます。今其御足下に坐して居る私共にさへも、『久からずして聖靈によりバプテスマを受べければ也』と曰給ひます。どうぞ私共も其聖言を聞き、心の中に信仰と望を起し、熱心に其を求めたう厶います。
火を以てバプテスマを受ける! 此弟子等は此言を聞いて、舊約全書の種々の處を思出したに相違ありません。必ず創世記十五章十七節に於て、アブラハムが其樣な火のバプテスマを得た事を覺えましたらう。アブラハムは其時に身も魂も献げて、神に犧牲を献げました。アブラハムは其犧牲の側に坐して、神の惠を待望みました。十二時間待って、漸く十七節の經驗を得ました。神の火を得ましたのです。又其に由って、神がアブラハムと契約を立て給ふた事を知りました。アブラハムは格別に神の屬となりました。
又弟子等は必ずモーセの火のバプテスマを覺えましたと思ひます。出埃及記三章二節で、モーセは燃ゆる棘を見ました。其燃ゆる棘の側で、神はモーセに火のバプテスマを與へ給ひました。又此弟子等は幕屋が火のバプテスマを得ましたことを覚えて居ったに相違ありません(出埃及記四十章三十四節)。其時にモーセは神の誡に從ひ、幕屋を建てました。又其を神に聖別しました。其時に神は榮光を以て下り給ひました。弟子等は其を覺えて、其樣に自分の體を献げますれば、神は同じ樣に榮光を以て下り給ひまして、火のバプテスマを與へ給ふと信じたことゝ思ひます。
此弟子等は又、イザヤが火のバプテスマを得ましたことを覺えましたでせう(以賽亞書六章六節)。イザヤは其時潔められ、其時ヱホバを見て、ヱホバの使命を成就しました。弟子等はこんな火のバプテスマを待望みました。舊約全書を有ってゐましたから、必ず火のバプテスマの意味を知って居ったと思ひます。其意味と申しますのは、神の能力と、神の御臨在の新しい顯現です。弟子等は火のバプテスマを待望みて、必ず其通りに神の能力と、神の御臨在とを新しく經驗する事であると解りましたらう。
併し是と一緖に他の豫言が成就されると思ひました。六節『集れる者かれに問けるは 主よ爾いま國をイスラエルに還さんと爲か』。是は理に合ふ質問でありました。時期が來ますれば、神は必ずイスラエルに國を還すやうに、約束し給ひましたから、イスラエル人は其を待望むべき筈でありました。然れども唯今其は大切なる問題ではありません。是は神の大なる約束ではありません。其よりも未だ大なる約束がありました。即ち聖靈を受ける事の約束であります。イスラエルが國を受ける事は、大なる望でありましたけれども、唯今其よりも尚々大切なる、大なる望がありました。神がイスラエルに國を還し給ひますならば、イスラエル人は榮光を受けます。然れども唯今此弟子等の爲に、尚々輝く
最も高き慾望
申命記廿九章廿九節に斯かう記されてあります。『隱微かくれたる事は我らの神ヱホバに屬する者なり また顯露あらはされたる事は我らと我らの子孫に屬し我らをしてこの律法おきての諸すべての言ことばを行はしむる者なり』。神は或ある事を隱し、又或ある事を顯あらはし給ひました。其その顯あらはし給ひました事の中うちに、聖靈のバプテスマの事があります。私共わたくしどもは隱れたる事を求めませずして、神の默示し給ひました約束のものを受けて、神の凡すべての言ことばを行ふ者となりたう厶ございます。
『父の其その權ちからにて定さだめたまへる時または期きは爾曹なんぢらが知しるべき所に非あらず 然されども聖靈なんぢらに臨むに因よりて』。五節に於おいて此この經驗をバプテスマと申しましたが、此處こゝでは少し言ことばを換へて『聖靈なんぢらに臨む』と厶ございます。又二章四節には『聖靈に滿みたされ』とあります。此この三みつの事は一々ひとつひとつ眞實まことです。又一々ひとつひとつ大切です。此この經驗は一つの人間の言ことばで、說明する事が出來ませんから、此この三みつの言ことばが與へられました。さうですから注意して此この三みつの言ことばを御調べなさい。バプテスマの意味は眞正ほんたうの死です。臨むといふことは、上うへよりの能力ちからと武具を頂くことです。滿みたされるといふ事は、神の完全圓滿ゑんまんなる、溢あふれる程の惠めぐみを受けて、少しの不足もない事であります。此この經驗の中うちに、此この三みつの意味を含んで居をります。
聖靈臨み給ふ
此この節に『聖靈なんぢらに臨む』とあります。今迄いまゝで舊約全書の時代に、聖靈が時々人間に臨み給ひました。士師記三章十節『ヱホバの靈みたまオテニエルにのぞみたれば』。是これは眞正ほんたうにペンテコステの惠めぐみでありました。又其その六章卅四節『ヱホバの靈みたまギデオンに臨みて』。また十一章廿九節、十四章六節、十五章十四節を御覽なさい。此この引照を見ますれば、聖靈が臨み給ふ事によりて、何時いつでも能力ちからと勝利しょうりを與へ給ひます。
又士師記の時代は、丁度ちゃうど使徒行傳の時代や、又今の時代と同樣おなじでありました。即すなはち神の民たみは神を遠ざかって參りましたから、神に歸かへす爲ために、神が斯樣かやうに聖靈を與へ給ひました。然けれども其その時代の或ある人々が、其樣そんな經驗を得ましたのは、唯たゞ臨時の經驗でありましたが、今は續いて其その經驗を與へ給ひます。此この弟子等でしたちに聖靈は宿り給ひまして、續いて其その衷うちに止とゞまり給ふ經驗を與へ給ひます。是これは實じつに貴たふとい經驗であります。
最も貴たふとき聖靈の經驗
約翰傳ヨハネでん十四章十七節を見ますと、其處そこに二ふたつの經驗を見ます。『此これは即すなはち眞理まことの靈みたまなり 世これを接うくること能あたはず 蓋そはこれを見ず且またしらざるに因よる されど爾曹なんぢらは之これを識しる そは彼かれなんぢらと偕ともに在をりかつ爾曹なんぢらの衷うちに在をればなり』。
第一の經驗は『なんぢらと偕ともに』であります。私共わたくしどもが幾分か聖靈の惠めぐみを味あぢはひましたならば、其その通りに聖靈は私共わたくしどもと偕ともに在いまし給ひます。是これは實じつに幸福さいはひな事であります。又其それに由よって聖靈御自身を知る事が出來ます。此處こゝに主しゅが曰いひ給ひましたやうに、此世このよに屬つける人は聖靈を見ません。又識しる事が出來ません。然けれども『爾曹なんぢらは之これを識しる』。是これは實じつに貴たふとい經驗であります。
第二の經驗は『爾曹なんぢらの衷うちに在います』といふ事であります。是これは更に貴たふとい經驗であります。靈みたまは衷うちの人を强め、心の願ねがひを治め、又心の王となり給ひまして、又其その人の全靈全生全身ぜんれいぜんせいぜんしんを潔きよき者となし給ひます。
第三の經驗は尚々なほなほ貴たふとい經驗であります。『聖靈なんぢらに臨む』。是これであります。其それに由よりて天より來きたる能力ちからを有もち、又天に屬つける武具を着る事が出來ます。さうですから其それに由よりて私共わたくしどもは、眞正ほんたうに役に立つ主しゅイエスの兵卒となる事が出來ます。
私共わたくしどもが第一の經驗を得ましたならば、之これを私共わたくしどもは聖靈の感化を得たと申します。第二の經驗を得ましたならば、聖靈を受けたと申します。然けれども第三の經驗を得ましたならば、聖靈が私共わたくしどもを占領し給ふたと申します。是これは實じつに大切であります。
爆烈彈ダイナマイトの能力ちから
聖靈は私共わたくしどもを占領し給ひます。占領し給ふならば、神は御自身の神たる御能力おんちからを以もって、私共わたくしどもを使ひ給ふ事が出來ます。以賽亞書イザヤしょ四十一章十四、十五節を御覽なさい。『また宣給のたまふ、なんぢ虫にひとしきヤコブよ イスラエルの人よ、おそるゝなかれ 我われなんぢをたすけん 汝なんぢをあがなふものはイスラエルの聖者なり 視みよ われ汝なんぢをおほくの鋭齒ときはある新しき打麥むぎうちの器うつはとなさん、なんぢ山をうちて細微こまやかにし岡を粃糠もみがらのごとくにすべし』。『虫にひとしきヤコブよ』、是これは肉に屬つける信者の心を喜ばせる言ことばではありません。然けれども眞正ほんたうに碎けたる心を有もって居をりますならば、此樣このやうな言ことばを喜ぶ事が出來ます。神は此この蟲むしのやうな者を取って、山を打碎うちくだく事が出來ます。蟲むしとは自分に何の能力ちからも、何の價値ねうちもない者であります。然けれども使徒行傳一章八節のやうに、聖靈のバプテスマを得ましたから、聖靈が其その人を占領し給ひましたから、聖靈は其その人を以もって山を打碎うちくだき給ふ事が出來ます。今の時代の人は、鐵道を作る時に、山を打碎うちくだく爲ためにダイナマイトを用ゐます。此この八節の『能力ちから』といふ言ことばの希臘ギリシャの原語は、ダイナマイトであります。さうですから神は私共わたくしども各自めいめいに、ダイナマイトの能力ちからを與へ給ひたう厶ございます。言ことばを換へて曰いひますれば、私共わたくしどもをダイナマイトのやうな者となし給ひたう厶ございます。ダイナマイトの働きは、何であるかと申しますれば、大おほいなる岩を打碎うちくだくことであります。先まづ其その岩に小ちひさい坑を穿あけ、其その穴の中に、小ちひさいダイナマイトを入れます。而そして其それに火を點つけますれば、其その大おほいなる、强い、固い岩が打碎うちくだかれます。主しゅは此處こゝで其樣そのやうな雛形を以もって、私共わたくしどもに聖靈の能力ちからと、聖靈のバプテスマは何であるかを說明ときあかし給ひます。主しゅは其樣そのやうに私共わたくしどもを以もって、山を打碎うちくだきたう厶ございます。聖靈が臨み給ひますならば、其その働人はたらきびとはどんな六むつかしい働はたらきをも恐れません。パウロは頑固な人間の心に向って、鬼に憑つかれたる心に向って、こんな能力ちからを以もって勝利かちを得ました。天に昇り給ひました主しゅは、私共わたくしどもにもこんな神の能力ちからを與へ給ひたう厶ございます。
然けれどもダイナマイトは、其その能力ちからを失ひますれば、何の役にも立ちません。却かへって捨てられ、人の足に踏まれます。私共わたくしどもも丁度ちゃうど其樣そのやうに、聖靈の能力ちからを失ひますれば、何の役にも立たぬ者であります。おおどうぞ私共わたくしどもは、爆烈ばくれつする能力ちからを有もって居をりたう厶ございます。何時いつでも其その能力ちからを以もって、生涯を送りたう厶ございます。唯たゞ時々ではなく、何時いつでもダイナマイトのやうに、爆烈ばくれつする事の出來る能力ちからを有もって居をりたう厶ございます。
證 人あかしびと
其樣そんな能力ちからを以もって居をりますれば、八節の終をはりに『我わが證人あかしびとと爲なるべし』とあります。是これは大おほいなる特權とくけんであります。主しゅイエスを此世このよに現あらはす事が出來、主しゅイエスの御光おんひかりを證あかしする事が出來ます。主しゅイエスが此世このよに現あらはれて參りますれば、必ず此世このよに正義たゞしきと、喜悅よろこびと、平和の國が出來ます。主しゅイエスは私共わたくしどもに、此樣このやうな果みを結ぶ力と、特權とくけんを與へ給ひます。何故なぜなれば、私共わたくしどもに主しゅイエスを證あかしする能力ちからを與へ給ふからであります。神は此世このよの暗黑くらきの中うちに、主しゅイエスを示す能力ちからを與へ給ひたう厶ございます。罪人つみびとの目の前に、主しゅイエスを現はす能力ちからを與へ給ひたう厶ございます。主しゅイエスが罪人つみびとの目の前に見えて參りますれば、罪人つみびとは主しゅの足下あしもとに倒たふれて、絕對的に服從せずには居をられなくなります。
『我わが證人あかしびと』! 或ある基督キリスト信者は道德を敎へます。是これは大切な事でありますが、主しゅイエスの證あかしは尚々なほなほ貴たふとい事です。或ある人は唯たゞ救すくひの道、或あるひは敎會の組織を宣傳のべつたへます。是これも大切の問題であります。然けれども主しゅは私共わたくしどもに、其それより貴たふとい職務つとめを與へ給ひました。即すなはち主しゅイエスの證人あかしびととなる事です。證人あかしびとは何なんであるかと申しますれば、自分の見聞みきゝした事を宣傳のべつたへる者であります。主しゅが私共わたくしどもに御自分を見せ、又御自分の聲を聞かせ給ひますから、私共わたくしどもは其その證人あかしびととなる事が出來ます。聖靈のバプテスマに由よりて、主しゅイエスと其樣そんな親しい交まじはりに入いる事が出來ます。主しゅイエスの事を親しく知る事を得ますから、主しゅの證人あかしびととなる事が出來ます。裁判の時、實際の事を見た子供が、證據立てますならば、其その話は判事に取って、餘程よほど大切であります。他ほかの學者は自分の考かんがへ、又は思想を宣傳のべつたへる事が出來ます。然けれども實際の事を見た子供の話は、學者の話よりも力があります。主しゅは私共わたくしどもを學者とならしめ給ひたう厶ございません。證人あかしびととならしめ給ひたう厶ございます。其爲そのために毎日々々、聖靈によりて主しゅイエスを知り、又主しゅイエスと伴ひ行ゆく事が出來ます。
使徒行傳を見ますれば、此この時から此この弟子等でしたちは、其その證あかしといふ職務つとめを誇りました(二・卅二、四十。三・十五。四・卅三。五・卅二。八・廿五。十・卅九、四十一、四十二、四十三。十三・卅一。廿・廿一、廿四。廿二・十五、廿。廿三・十一。廿六・十六。廿八・廿三)。弟子等でしたちは何時いつでも、此この職務つとめを務めました。
原語を見ますれば、『證人あかしびと』とは能力ちからある者といふ意味も見えますが、此この語ことばは又殉敎者の意味であります。主しゅイエスは私共わたくしどもに證人あかしびとの職務つとめを與へ給ひますから、殉敎者の靈れいを與へ給ひます。是これは幸福さいはひであります。是これは眞正ほんたうに兵卒の精神であります。私共わたくしどもは生命いのちを捐すてゝ證あかしをせなければ、眞正ほんたうの證人あかしびとではありません。殉敎者の精神を以もって參りますれば、どんな迫害があっても構ひません。迫害が起りますれば、ステパノのやうに天の使つかひの顏を以もって、其それを忍ぶ事が出來ます。又パウロのやうに喜び、歌を歌うて其それを忍びます。
是これは殉敎者の靈れいであります。性來うまれつきの精神ではありません。私共わたくしどもは皆みな罪の爲ために、性來うまれつき臆病の者でありますけれども、聖靈のバプテスマを得ますならば、眞正ほんたうの勇氣と大膽だいたんとを得ます。眞正ほんたうに兵卒らしい心を有もつ事が出來ます。さうですから喜んで、生命いのちを捐すてゝ傳道する事が出來ます。弟子等でしたちは今迄いまゝでそんな心がありませんでしたから、十字架の時に、皆主しゅイエスを捨てゝ逃げましたが、ペンテコステの後のちに、殉敎の精神が起りました。使徒行傳五章四十一節を御覽なさい。『使徒等しとたちはイエスの名の爲ために辱はづかしめを受うくるに足たる者とせられし事を喜びて議員の前を去さり』。是これは普通の情じゃうではありません。然けれども聖靈に感じて生涯を暮しましたから、こんなに恥辱はぢを喜びて受入うけいれました。何故なぜなれば靈れいの眼まなこが開かれましたから、是これは眞正ほんたうの榮光であると解わかったからであります。其その通り十字架を負ふ事は、天使てんのつかひの前に眞正ほんたうの榮光であります。私共わたくしどもも靈れいの眼まなこが開かれて居をりますれば、斯樣かやうに迫害の榮光を辨わきまへることが出來ます。私共わたくしどもも斯樣かやうに臆病の罪から救はれて、眞正ほんたうに主しゅイエスの兵卒となりたう厶ございます。
證あかし の 順 序
此この順序は大切であります。主しゅイエスの證人あかしびとは第一に、ヱルサレムに其その證あかしをせなければなりません。即すなはち自分の都みやこで、自分の町で、自分の家うちで、其それを始めなければなりません。或ある人は主しゅイエスを受入うけいれますれば、自分の親類や友達を忘れて、遠方に行って傳道したく思ひます。然けれども是これはペンテコステの順序ではありません。聖靈に滿みたされた證人あかしびとは、先まづ自分の親しき者や友達に證あかしを致します。然けれども其處そこに止とゞまりませずして、段々廣く證あかしし、ユダヤ、サマリヤ、又地の極はて迄までも福音を宣傳のべつたへたう厶ございます。心の中うちに斯樣かやうな願ねがひがありませんなら、未まだ聖靈を受けて居ゐないのであります。聖靈のバプテスマを得ましたならば、幾分いくぶんか外國の人々の爲ためにも重荷を負ひます。而そして又出來る丈だけ、自分も地の極はてまで參りまして、傳道したく思ひます。
ヱルサレムとは即すなはち弟子等でしたちが失敗した處ところであります。其處そこで此この弟子等でしたちは、主しゅイエスを捨てゝ逃げた事があります。主しゅは其そのヱルサレムに於おいて、先まづ證あかしせよと命じ給ひます。舊約に於おいてヨナがニネベに行ゆくやうに命令を受けました時に、其それに從ひませずして他處ほかに行ゆきました。然けれども悔改くいあらためました時に、神は再びニネベに行ゆけよと命じ給ひました。其時そのときヨナは從順にニネベに參りました。丁度ちゃうど其その通り、唯今たゞいま主しゅは失敗した處ところに證あかしせよと命じ給ひます。私共わたくしどもも其その命令に耳を傾けて從はねばなりません。
使徒行傳を槪略あらましに讀みますと、此この歷史は左さの順序に從って居をります。一章より七章迄までがヱルサレムに於ける傳道の記事。八章の一節にユダヤの傳道がありまして、次に八章より十二章の終をはり迄までが、サマリヤの傳道、十三章から終をはり迄までが地の極はて迄までの傳道の記事であります。聖靈は其その順序に從って、弟子等でしたちを導き給ひました。
『なんぢら……地の極はてにまで我わが證人あかしびとと爲なるべし』。主しゅはどんな人等ひとたちに、此この大おほいなる役目を命じ給ひましたか。こんな廣い、大おほいなる働はたらきでありますから、必ず其それを命ぜられました人々は、多額おほくの金かねを有もち、或あるひは大おほいなる勢力のあった人でなければなるまいと思はれますけれども、さうでありませんでした。一人も金持かねもちはありませず、一人も勢力のある人はありませんでした。又一人も敎育の充分あった人はありませんでした。さうですから其樣そんな大おほいなる働はたらきを命ぜられましても、必ず失敗すると思はれました。然けれ共ども主しゅは聖靈の働はたらきを待望まちのぞみ給ひましたから、此この大おほいなる働はたらきを賤いやしき者等ものどもに命じ給ひましても、必ず成功があると知って居ゐ給ひました。此この賤いやしき者等ものどもの中うちにも、活いける火が燃立もえたちますれば、其その火は必ず地の極はてに至る迄まで燃續もえつゞきます。おお私共わたくしどもも同じ事であります。私共わたくしどもが自分の智慧や、自分の力や、又此世このよに屬つける金錢かねを以もって傳道しやうと思ひますなれば、必ず失敗致します。然けれども、私共わたくしどもの心の中うちに神の活いける火がありますならば、其その火は必ず能力ちからを以もって燃續もえつゞいて參りますから、其それによりて地の極はてに至る迄まで天の國を擴ひろめる事が出來ます。
九節を見ますと、是これは主しゅイエスの終をはりの御言みことばであった事が解わかります。終をはりに遺のこし給ひし御命令ですから、格別に大切なる御命令であります。どうぞ此この八節を讀みまして、是これが主しゅイエスの終をはりの御言みことばであることを思ひ、其その御命令を大切に受入うけいれ、其それに聽從きゝしたがひたいもので厶ございます。
復活よみがへりの證人あかしびと
使徒行傳を槪略あらまし讀みますれば、證人あかしびととは皆主しゅイエスの甦よみがへりの證人あかしびとであった事が解わかります。是これは神學的に甦よみがへりを知ることではありません。實驗的に甦よみがへり給ふた主しゅイエスを知ることです。又心の眼まなこが開かれて、信じない人々に甦よみがへりの事實を宣傳のべつたへ、活いけるイエスを示す者となる事であります。
一寸ちょっと使徒行傳を槪略あらまし御覽なさい。證人あかしびとは何時いつも甦よみがへりを宣傳のべつたへました。二・廿四〜卅一。三・十五、廿六(「其その僕しもべイエスを立たて」= "having raised up his Son Jesus")。四・一、十、卅三。五・卅。十・四十、四十一。十三・卅、卅七。十七・三、十八、卅一。廿三・六。廿四・十五。廿六・廿三。
こんな風ふうで何處どこでも甦よみがへりの事を宣傳のべつたへた事を見ます。私共わたくしどもも其樣そのやうに甦よみがへりの事實を確信して、活いける主しゅイエスを宣傳のべつたへなければなりません。此世このよにある罪人つみびとは活いける救主すくひぬしが必要であります。私共わたくしどもは活いける救主すくひぬしと交まじはりて、活いける救主すくひぬしを宣傳のべつたへますれば、必ず人々を導く事が出來ます。
| 総目次 | 序文と目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 |