第二 よみがへりたる救主すくひぬしその約束



よみがへりししゅ職務つとめ

二、三節

 使徒行傳一章二節から見ますれば、主イエスがよみがへりの四十日間にみつの事をなし給ひました。

 第一は二節『聖靈によりて命じ』、すなはち命令を與へ給ひました。しゅイエスは弟子等でしたちたゞ勸め、あるひたゞそのかんがへのみを與へ給ひませんでした。命令を與へ給ひました。しゅイエスは弟子等でしたちしゅでありましたから、彼等はその命令に従はねばなりませんでした。私共わたくしどもしゅも同じしゅであります。私共わたくしども指圖さしづを與へ給ふしゅであります。さうですから私共わたくしどもそれに從ひましても、從ひませんでも構はぬといふものではありません。必ず從順に從はねばなりません。

 しゅは何について命じ給ふたかと申せば、四節をはりに『われきける所の父の約束し給ひし事をまつべし』。これは第一の命令であります。祈禱いのりもって聖靈を待望まちのぞむ事、聖靈に滿みたさるゝ事、これが第一の命令でありました。敎會の組織について何も命令がありません。又傳道の方法についても命令がありません。れども聖靈を待望まちのぞめよとの、固い命令がありました。弟子等でしたちは最早幾分いくぶんか傳道した者であります。又その手を病人にいて、病人が癒された事もあります。この點について經驗がありましたから、又大分だいぶ新しい光を得ましたから、格別にしゅよみがへりからおほいなる光を得ましたから、多分走って出行いでゆいて、傳道したかったでせう。走ってほかの人に永生かぎりなきいのちを與へたく思ふたかも知れません。れどもしゅは『爾曹なんぢらヱルサレムをはなれずしてわれきける所の父の約束し給ひし事をまつべし』と命じ給ひました。ほかの人に安慰なぐさめを與へる代りに、なんぢ自身めぐみを受けよ。配與わけあたへる代りにづ受けよ、といふ事でありました。これしゅの第一の命令でありました。

 第二の命令は福音を宣傳のべつたふる事でありました。馬太傳マタイでん廿八章十九節廿節を見ますれば『是故このゆゑ爾曹なんぢらゆきて萬國ばんこくたみにバプテスマを施し、これを父と子と聖靈の名にいれて弟子とし、かつわがすべ爾曹なんぢらに命ぜしことを守れと彼等にをしへよ』。これ私共わたくしどもに對するしゅの命令でありました。傳道はしゅイエスの命令であります。私共わたくしどもたゞ便利のよい時に、あるひたゞ迫害のない時にけ、それを致しますれば、それ眞正ほんたうしゅの命令に従ふ事ではありません。眞正ほんたうの服從は何時いつでも、どんなに不便利でありましても、又どんな犧牲を拂はねばなりませんでも、福音を宣傳のべつたふる事であります。

 第二にしゅイエスは、御自分がける者である事を示し給ひました。『それイエスは苦難くるしみうけのちおほくの確據たしかなるしるしおのれいきたる事を現し……』(三節)。これは實に大切なる事でありました。何故なぜなればよみがへりは福音の基礎どだい確固たしかなる基礎どだいであるからであります。さうですからよみがへりを確かめる事は、何よりも大切であります。しゅ苦難くるしみを受け給ひましたのちに、よみがへり給ひました事は、私共わたくしどもすくひ聖潔きよき事の基礎どだいです。又これ私共わたくしども宣傳のべつたへる福音の一番大切なる基礎どだいであります。さうですからしゅは多くの確據たしかなるしるしもって、弟子等でしたちそれを示し給ひました。馬可傳マコでん十六章を見ますれば、弟子等でしたちに取っても、それは信じ難い事で、はじめには彼等もそれを信じませんでした。さうですからしゅイエスは、おほく確據たしかなるしるしもって、明白あきらかそれを示し給ひました。しゅ唯今たゞいまも同じしゅでありますから、私共わたくしどもにもよみがへりを確かめさせやうとなし給ひます。その基礎どだいすわって居ませんならば、どうぞ祈禱いのりもっしゅに近づき、しゅ確據たしかなるしるしもって、あなたそれを示し給ふやうに祈りなさい。その基礎どだいあなたの心のうちに堅くすわってないならば、あなたきよき生涯を暮す事が出來ません。又必ず傳道する事も出來ません。

 第三にその時にしゅは何をなし給ふたかと申しますれば、三節をはりに『神の國の事について語り』、種々いろいろの事を教へ給ひました。格別に舊約全書の事を教へ給ひました。路加傳ルカでん廿四章の四十四、四十五節卅二節を見ますれば、しゅ其時そのとき舊約全書の大切なる事を教へ給ひました。又舊約全書のはじめよりをはりまでが、私共わたくしどもの受くべきれいかてであること、又それりて私共わたくしどもしゅイエスを識り、又しゅイエスのめぐみを受けらるゝ事を教へ給ひました。その時に最早しゅイエスはよみがへりて、れいの體をって給ひました。最早全く天にける者となって給ひました。してその弟子等でしたちの手に、舊約全書を與へ給ひました。これおほいなる賜物であります。弟子等でしたちこれを新しく悟る事が出來ましたから、舊約全書は彼等のために全く新しきほんとなりました。よみがへりしゅ卿等あなたがたにも新しい聖書を與へ給ひたうございます。どうぞへりくだって、その通りによみがへり救主すくひぬしから聖書を受入うけいれなさい。これが第一に敎へ給ふた事であります。

 第二は御自分の事を教へ給ひました。馬太傳マタイでん廿八章十八節『イエスすゝみて彼等にかたりいひけるは 天のうち地の上のすべてけんわれたまはれり』。御自分が能力ちからある救主すくひぬし勝利かちを得給ふた救主すくひぬしである事を教へ給ひました。言葉ばかりでなく、又種々いろいろおこなひもって、それ弟子等でしたちに示し給ひました。このしゅ私共わたくしどもにも同じ事を教へ給ひます。私共わたくしどもれいまなこを開いて、けるしゅイエスを見ますれば、それりて能力ちからある生涯を送る事が出來ます。又よみがへりける生涯を暮す事が出來ます。又此世このよおい勝利かちる生涯を暮す事が出來ます。

最もおほいなる約束

四、五節

 しゅは格別にこの命令を與へ給ひました。『父の約束し給ひし事をまつべし』。舊約全書に父の種々いろいろな約束があります。何百何千の約束があります。れどもしゅ此處こゝある約束をえらんで、これは格別に父の約束であるといひ給ひました。何故なぜなれば聖靈を與へられるといふ事は、父のいとおほいなる約束であるからであります。それのみならず、その約束のうちほかの約束も皆はいってります。例へば父は私共わたくしどもに、平安やすきを與へるとの約束をし給ひました。又勝利しょうりを與へるとの約束をもし給ひました。けれども聖靈を受けますれば、平安やすき勝利しょうりも、豐かに經驗する事が出來ます。聖靈の約束は舊約全書のうちに、度々たびたび明らかに見えます。イザヤ四十四・三六十一・一エゼキエル卅六・廿七、四十七・一〜十、ヨエル二・廿八とうこの約束は明白あきらかに記してあります。れいまなこを開いてそれを見ますならば、これは舊約の一番大切な約束であるとわかります。れどもそればかりではありません。この四節に、『われきける所の……』とあります。すなはしゅが格別にこの約束をゆびさして、說明し給ひました。格別に約翰傳ヨハネでん十四十五十六章の三章において、その約束を新しく弟子等でしたちに與へ給ひました。よみがへり給ふたしゅが、私共わたくしどもにもその舊約の約束をゆびさし給ひまして、私共わたくしどもにもそれを新しく與へ給ひたうございます。

 五節を見ると、この約束の聖靈を受ける事は、あなたためにバプテスマであるといひ給ひました。あなたためにバプテスマであるといふのは、あなたの全生涯の轉機ターニングポイントになるとふ事であります。しづかに愛にりて導かれ、又敎へられるといふ事ではありません。あなたの生涯に際立った大變化の起る事であります。バプテスマには深い意味がありまして、これは死ぬる事とよみがへる事であります。さうですからあなたが聖靈を受けますならば、それは死ぬる如きめぐみ、又よみがへる如きめぐみであります。其樣そのやうに生涯のおほいなる變化となるはずであります。父の約束を得ますれば、續いて以前と同じ人ではありません。新しき人となります。ふるき人がなくなり、よみがへりける人となります。それって新しい生涯を始めます。以弗所書エペソしょを見ますと、天のところすとありますが、聖靈を受けますればその天のところに入る事が出來ます。さうですからほかの人々を見ます時に、天國の立場からそれを見ます。あるひは自分の事を見るにも、天國の立場からそれを眺め、又判斷致します。何故なぜなれば聖靈のバプテスマを得ました者は、最早もはや死んだ者、又最早もはやよみがへった者であるからであります。これじつおほいなる約束であります。聖靈の約束は舊約全書のうちで、一番大切な約束であるやうに、新約全書のうちでも、一番大切な約束であります。其爲そのために新約のうちに、この約束が六度ろくたび書いてあります。四福音書の各書かくしょに一つづゝ、又使徒行傳に二度記してあります。聖靈が私共わたくしども六度ろくたび繰返くりかへして、この約束を與へ給ひますのは、丁度ちゃうど父親がその子供に大切なる事を教へるのに、度々たびたび同じ事を繰返くりかへして、それを教へるのと同じであります。この弟子等でしたちその約束を受入うけいれ、その約束通りにめぐみを受けましたやうに、私共わたくしどもその約束を待望まちのぞんで求めたうございます。其爲そのため俯伏ひれふして祈り求むべきはずであります。

火のバプテスマ

 この弟子等でしたちは必ず『火をもって』ということばを、覺えてゐたに相違ありません。ヨハネがこのことばを申しましてから、それを覺えて、そのめぐみ待望まちのぞみました。約翰傳ヨハネでん一章その話が書いてあります(約翰傳ヨハネでん一章卅三〜卅七節を御覽なさい)。この二人はその時、火のバプテスマを求めたと思ひます。その晩イエスと共に宿り、イエスの聖顏みかほを見、その聖言みことばを聞く事が出來ましたが、火のバプテスマを得ませんでした。その時からイエスに伴ひ、イエスの不思議なる聖業みわざを見、イエスのめぐみ聖言みことばを聞きました。れどもまだ火のバプテスマを得ません。漸く三年ののち、イエスはほか訓慰師なぐさむるものの事を教へ給ひました。聖靈がきたり給ふやうに、約束し給ひました。又よみがへり給ひましたのちいきいて『聖靈を受けよ』といひ給ひました。その時にも必ず幾分いくぶんめぐみを得ました。れどもだ火のバプテスマを得ませなんだ。どもこの時にイエスは『久しからずして』聖靈を受ける事が出來るといひ給ひました。さうですから必ず彼等の心のうちに、おほいなるのぞみが起ったと思ひます。この『久しからずして』といふことばを聞きました時、このことばがどんなに弟子等でしたちの心を勵まし、振起ふるひおこしましたらうか。心の底まで刺しとほすやうに感じた事でせう。けるしゅ私共わたくしどもにも同じ事をいひ給ひます。今その御足下おんあしもとに坐して居る私共わたくしどもにさへも、『ひさしからずして聖靈によりバプテスマをうくべければなり』といひ給ひます。どうぞ私共わたくしどもその聖言みことばを聞き、心のうちに信仰とのぞみを起し、熱心にそれを求めたうございます。

 火をもってバプテスマを受ける! この弟子等でしたち此言このことばを聞いて、舊約全書の種々いろいろところ思出おもひだしたに相違ありません。必ず創世記十五章十七節おいて、アブラハムが其樣そんな火のバプテスマを得た事を覺えましたらう。アブラハムはその時に身も魂も献げて、神に犧牲いけにへを献げました。アブラハムはその犧牲いけにへそばに坐して、神のめぐみ待望まちのぞみました。十二時間待って、漸く十七節の經驗を得ました。神の火を得ましたのです。又それって、神がアブラハムと契約を立て給ふた事を知りました。アブラハムは格別に神のものとなりました。

 又弟子等でしたちは必ずモーセの火のバプテスマを覺えましたと思ひます。出埃及記しゅつエジプトき三章二節で、モーセは燃ゆるしばを見ました。その燃ゆるしばそばで、神はモーセに火のバプテスマを與へ給ひました。又この弟子等でしたちは幕屋が火のバプテスマを得ましたことを覚えてったに相違ありません(出埃及記しゅつエジプトき四十章三十四節)。其時そのときにモーセは神のいましめに從ひ、幕屋を建てました。又それを神に聖別しました。其時そのときに神は榮光をもっくだり給ひました。弟子等でしたちそれを覺えて、其樣そのやうに自分のからだを献げますれば、神は同じやうに榮光をもっくだり給ひまして、火のバプテスマを與へ給ふと信じたことゝ思ひます。

 この弟子等でしたちは又、イザヤが火のバプテスマを得ましたことを覺えましたでせう(以賽亞書イザヤしょ六章六節)。イザヤはそのきよめられ、その時ヱホバを見て、ヱホバの使命を成就しました。弟子等でしたちはこんな火のバプテスマを待望まちのぞみました。舊約全書をってゐましたから、必ず火のバプテスマの意味を知ってったと思ひます。その意味と申しますのは、神の能力ちからと、神の御臨在の新しい顯現あらはれです。弟子等でしたちは火のバプテスマを待望まちのぞみて、必ずその通りに神の能力ちからと、神の御臨在とを新しく經驗する事であるとわかりましたらう。

 しかこれと一緖にほかの豫言が成就されると思ひました。六節あつまれる者かれにとひけるは しゅなんぢいま國をイスラエルにかへさんとするか』。これは理にかな質問とひでありました。時期が來ますれば、神は必ずイスラエルに國をかへすやうに、約束し給ひましたから、イスラエルじんそれ待望まちのぞむべき筈でありました。れども唯今たゞいまそれは大切なる問題ではありません。これは神のおほいなる約束ではありません。それよりもおほいなる約束がありました。すなはち聖靈を受ける事の約束であります。イスラエルが國を受ける事は、おほいなるのぞみでありましたけれども、唯今たゞいまそれよりも尚々なほなほ大切なる、おほいなるのぞみがありました。神がイスラエルに國をかへし給ひますならば、イスラエルじんは榮光を受けます。れども唯今たゞいまこの弟子等でしたちために、尚々なほなほ輝くところの榮光があります。その榮光は何であるかと申せば、しゅの十字架を負ひ、しゅために戰ひ、靈魂たましひる事、又神の聖國みくにる事、勝利かちる兵卒となる事です。私共わたくしどもは聖書にりて、未來のさかえのぞみってゐますが、そればかりを喜びますならば、割合に低いかんがへです。かへって今しゅイエスのため苦難くるしみを忍び、眞正ほんたういくさに出る事は、信者の眞正ほんたうさかえです。十字架を負ふ事は、信者の慾望であります。どうぞ私共わたくしども聖靈のバプテスマを求めますならば、低いかんがへたず、高いかんがへのぞみもって、それを求めたうございます。すなはち聖靈の能力ちからって十字架を負ひ迫害を耐忍たへしのび、罪人つみびとを導くことが出來る事を、俟望まちのぞまなければなりません。

最も高き慾望

六、七節

 申命記廿九章廿九節にう記されてあります。『隱微かくれたる事は我らの神ヱホバに屬する者なり また顯露あらはされたる事は我らと我らの子孫に屬し我らをしてこの律法おきてすべてことばを行はしむる者なり』。神はある事を隱し、又ある事をあらはし給ひました。そのあらはし給ひました事のうちに、聖靈のバプテスマの事があります。私共わたくしどもは隱れたる事を求めませずして、神の默示し給ひました約束のものを受けて、神のすべてのことばを行ふ者となりたうございます。

 『父のそのちからにてさだめたまへる時または爾曹なんぢらしるべき所にあらされども聖靈なんぢらに臨むによりて』。五節おいこの經驗をバプテスマと申しましたが、此處こゝでは少しことばを換へて『聖靈なんぢらに臨む』とございます。又二章四節には『聖靈に滿みたされ』とあります。このみつの事は一々ひとつひとつ眞實まことです。又一々ひとつひとつ大切です。この經驗は一つの人間のことばで、說明する事が出來ませんから、このみつことばが與へられました。さうですから注意してこのみつことばを御調べなさい。バプテスマの意味は眞正ほんたうの死です。臨むといふことは、うへよりの能力ちからと武具を頂くことです。滿みたされるといふ事は、神の完全圓滿ゑんまんなる、あふれる程のめぐみを受けて、少しの不足もない事であります。この經驗のうちに、このみつの意味を含んでります。

聖靈臨み給ふ

八節

 この節に『聖靈なんぢらに臨む』とあります。今迄いまゝで舊約全書の時代に、聖靈が時々人間に臨み給ひました。士師記三章十節『ヱホバのみたまオテニエルにのぞみたれば』。これ眞正ほんたうにペンテコステのめぐみでありました。又その六章卅四節『ヱホバのみたまギデオンに臨みて』。また十一章廿九節、十四章六節、十五章十四節を御覽なさい。この引照を見ますれば、聖靈が臨み給ふ事によりて、何時いつでも能力ちから勝利しょうりを與へ給ひます。

 又士師記の時代は、丁度ちゃうど使徒行傳の時代や、又今の時代と同樣おなじでありました。すなはち神のたみは神を遠ざかって參りましたから、神にかへために、神が斯樣かやうに聖靈を與へ給ひました。れどもその時代のある人々が、其樣そんな經驗を得ましたのは、たゞ臨時の經驗でありましたが、今は續いてその經驗を與へ給ひます。この弟子等でしたちに聖靈は宿り給ひまして、續いてそのうちとゞまり給ふ經驗を與へ給ひます。これじつたふとい經驗であります。

最もたふとき聖靈の經驗

 約翰傳ヨハネでん十四章十七節を見ますと、其處そこふたつの經驗を見ます。『これすなは眞理まことみたまなり 世これをうくることあたはそはこれを見ずまたしらざるによる されど爾曹なんぢらこれしる そはかれなんぢらとともをりかつ爾曹なんぢらうちをればなり』。

 第一の經驗は『なんぢらとともに』であります。私共わたくしどもが幾分か聖靈のめぐみあぢはひましたならば、その通りに聖靈は私共わたくしどもともいまし給ひます。これじつ幸福さいはひな事であります。又それって聖靈御自身を知る事が出來ます。此處こゝしゅいひ給ひましたやうに、此世このよける人は聖靈を見ません。又る事が出來ません。れども『爾曹なんぢらこれしる』。これじつたふとい經驗であります。

 第二の經驗は『爾曹なんぢらうちいます』といふ事であります。これは更にたふとい經驗であります。みたまうちの人を强め、心のねがひを治め、又心の王となり給ひまして、又その人の全靈全生全身ぜんれいぜんせいぜんしんきよき者となし給ひます。

 第三の經驗は尚々なほなほたふとい經驗であります。『聖靈なんぢらに臨む』。これであります。それりて天よりきた能力ちからち、又天にける武具を着る事が出來ます。さうですからそれりて私共わたくしどもは、眞正ほんたうに役に立つしゅイエスの兵卒となる事が出來ます。

 私共わたくしどもが第一の經驗を得ましたならば、これ私共わたくしどもは聖靈の感化を得たと申します。第二の經驗を得ましたならば、聖靈を受けたと申します。れども第三の經驗を得ましたならば、聖靈が私共わたくしどもを占領し給ふたと申します。これじつに大切であります。

爆烈彈ダイナマイト能力ちから

 聖靈は私共わたくしどもを占領し給ひます。占領し給ふならば、神は御自身の神たる御能力おんちからもって、私共わたくしどもを使ひ給ふ事が出來ます。以賽亞書イザヤしょ四十一章十四、十五節を御覽なさい。『また宣給のたまふ、なんぢ虫にひとしきヤコブよ イスラエルの人よ、おそるゝなかれ われなんぢをたすけん なんぢをあがなふものはイスラエルの聖者なり よ われなんぢをおほくの鋭齒ときはある新しき打麥むぎうちうつはとなさん、なんぢ山をうちて細微こまやかにし岡を粃糠もみがらのごとくにすべし』。『虫にひとしきヤコブよ』、これは肉にける信者の心を喜ばせることばではありません。れども眞正ほんたうに碎けたる心をってりますならば、此樣このやうことばを喜ぶ事が出來ます。神はこのむしのやうな者を取って、山を打碎うちくだく事が出來ます。むしとは自分に何の能力ちからも、何の價値ねうちもない者であります。れども使徒行傳一章八節のやうに、聖靈のバプテスマを得ましたから、聖靈がその人を占領し給ひましたから、聖靈はその人をもって山を打碎うちくだき給ふ事が出來ます。今の時代の人は、鐵道を作る時に、山を打碎うちくだためにダイナマイトを用ゐます。この八節の『能力ちから』といふことば希臘ギリシャの原語は、ダイナマイトであります。さうですから神は私共わたくしども各自めいめいに、ダイナマイトの能力ちからを與へ給ひたうございます。ことばを換へてひますれば、私共わたくしどもをダイナマイトのやうな者となし給ひたうございます。ダイナマイトの働きは、何であるかと申しますれば、おほいなる岩を打碎うちくだくことであります。その岩にちひさい坑を穿け、その穴の中に、ちひさいダイナマイトを入れます。してそれに火をけますれば、そのおほいなる、强い、固い岩が打碎うちくだかれます。しゅ此處こゝ其樣そのやうな雛形をもって、私共わたくしどもに聖靈の能力ちからと、聖靈のバプテスマは何であるかを說明ときあかし給ひます。しゅ其樣そのやう私共わたくしどももって、山を打碎うちくだきたうございます。聖靈が臨み給ひますならば、その働人はたらきびとはどんなむつかしいはたらきをも恐れません。パウロは頑固な人間の心に向って、鬼にかれたる心に向って、こんな能力ちからもっ勝利かちを得ました。天に昇り給ひましたしゅは、私共わたくしどもにもこんな神の能力ちからを與へ給ひたうございます。

 れどもダイナマイトは、その能力ちからを失ひますれば、何の役にも立ちません。かへって捨てられ、人の足に踏まれます。私共わたくしども丁度ちゃうど其樣そのやうに、聖靈の能力ちからを失ひますれば、何の役にも立たぬ者であります。おおどうぞ私共わたくしどもは、爆烈ばくれつする能力ちからもっりたうございます。何時いつでもその能力ちからもって、生涯を送りたうございます。たゞ時々ではなく、何時いつでもダイナマイトのやうに、爆烈ばくれつする事の出來る能力ちからってりたうございます。

證 人あかしびと

 其樣そん能力ちからもっりますれば、八節をはりに『證人あかしびとなるべし』とあります。これおほいなる特權とくけんであります。しゅイエスを此世このよあらはす事が出來、しゅイエスの御光おんひかりあかしする事が出來ます。しゅイエスが此世このよあらはれて參りますれば、必ず此世このよ正義たゞしきと、喜悅よろこびと、平和の國が出來ます。しゅイエスは私共わたくしどもに、此樣このやうを結ぶ力と、特權とくけんを與へ給ひます。何故なぜなれば、私共わたくしどもしゅイエスをあかしする能力ちからを與へ給ふからであります。神は此世このよ暗黑くらきうちに、しゅイエスを示す能力ちからを與へ給ひたうございます。罪人つみびとの目の前に、しゅイエスを現はす能力ちからを與へ給ひたうございます。しゅイエスが罪人つみびとの目の前に見えて參りますれば、罪人つみびとしゅ足下あしもとたふれて、絕對的に服從せずにはられなくなります。

 『證人あかしびと』! ある基督キリスト信者は道德を敎へます。これは大切な事でありますが、しゅイエスのあかし尚々なほなほたふとい事です。ある人はたゞすくひの道、あるひは敎會の組織を宣傳のべつたへます。これも大切の問題であります。れどもしゅ私共わたくしどもに、それよりたふと職務つとめを與へ給ひました。すなはしゅイエスの證人あかしびととなる事です。證人あかしびとなんであるかと申しますれば、自分の見聞みきゝした事を宣傳のべつたへる者であります。しゅ私共わたくしどもに御自分を見せ、又御自分の聲を聞かせ給ひますから、私共わたくしどもその證人あかしびととなる事が出來ます。聖靈のバプテスマにりて、しゅイエスと其樣そんな親しいまじはりる事が出來ます。しゅイエスの事を親しく知る事を得ますから、しゅ證人あかしびととなる事が出來ます。裁判の時、實際の事を見た子供が、證據立てますならば、その話は判事に取って、餘程よほど大切であります。ほかの學者は自分のかんがへ、又は思想を宣傳のべつたへる事が出來ます。れども實際の事を見た子供の話は、學者の話よりも力があります。しゅ私共わたくしどもを學者とならしめ給ひたうございません。證人あかしびととならしめ給ひたうございます。其爲そのために毎日々々、聖靈によりてしゅイエスを知り、又しゅイエスと伴ひく事が出來ます。

 使徒行傳を見ますれば、この時からこの弟子等でしたちは、そのあかしといふ職務つとめを誇りました(二・卅二四十三・十五四・卅三五・卅二八・廿五十・卅九四十一四十二四十三十三・卅一廿・廿一廿四廿二・十五廿廿三・十一廿六・十六廿八・廿三)。弟子等でしたち何時いつでも、この職務つとめを務めました。

 原語を見ますれば、『證人あかしびと』とは能力ちからある者といふ意味も見えますが、このことばは又殉敎者の意味であります。しゅイエスは私共わたくしども證人あかしびと職務つとめを與へ給ひますから、殉敎者のれいを與へ給ひます。これ幸福さいはひであります。これ眞正ほんたうに兵卒の精神であります。私共わたくしども生命いのちてゝあかしをせなければ、眞正ほんたう證人あかしびとではありません。殉敎者の精神をもって參りますれば、どんな迫害があっても構ひません。迫害が起りますれば、ステパノのやうに天の使つかひの顏をもって、それを忍ぶ事が出來ます。又パウロのやうに喜び、歌を歌うてそれを忍びます。

 これは殉敎者のれいであります。性來うまれつきの精神ではありません。私共わたくしどもみな罪のために、性來うまれつき臆病の者でありますけれども、聖靈のバプテスマを得ますならば、眞正ほんたうの勇氣と大膽だいたんとを得ます。眞正ほんたうに兵卒らしい心をつ事が出來ます。さうですから喜んで、生命いのちてゝ傳道する事が出來ます。弟子等でしたち今迄いまゝでそんな心がありませんでしたから、十字架の時に、皆しゅイエスを捨てゝ逃げましたが、ペンテコステののちに、殉敎の精神が起りました。使徒行傳五章四十一節を御覽なさい。『使徒等しとたちはイエスの名のためはづかしめうくるにたる者とせられし事を喜びて議員の前をさり』。これは普通のじゃうではありません。れども聖靈に感じて生涯を暮しましたから、こんなに恥辱はぢを喜びて受入うけいれました。何故なぜなればれいまなこが開かれましたから、これ眞正ほんたうの榮光であるとわかったからであります。その通り十字架を負ふ事は、天使てんのつかひの前に眞正ほんたうの榮光であります。私共わたくしどもれいまなこが開かれてりますれば、斯樣かやうに迫害の榮光をわきまへることが出來ます。私共わたくしども斯樣かやうに臆病の罪から救はれて、眞正ほんたうしゅイエスの兵卒となりたうございます。

あかし の 順 序

 この順序は大切であります。しゅイエスの證人あかしびとは第一に、ヱルサレムにそのあかしをせなければなりません。すなはち自分のみやこで、自分の町で、自分のうちで、それを始めなければなりません。ある人はしゅイエスを受入うけいれますれば、自分の親類や友達を忘れて、遠方に行って傳道したく思ひます。れどもこれはペンテコステの順序ではありません。聖靈に滿みたされた證人あかしびとは、づ自分の親しき者や友達にあかしを致します。れども其處そことゞまりませずして、段々廣くあかしし、ユダヤ、サマリヤ、又地のはてまでも福音を宣傳のべつたへたうございます。心のうち斯樣かやうねがひがありませんなら、だ聖靈を受けてないのであります。聖靈のバプテスマを得ましたならば、幾分いくぶんか外國の人々のためにも重荷を負ひます。して又出來るけ、自分も地のはてまで參りまして、傳道したく思ひます。

 ヱルサレムとはすなは弟子等でしたちが失敗したところであります。其處そここの弟子等でしたちは、しゅイエスを捨てゝ逃げた事があります。しゅそのヱルサレムにおいて、あかしせよと命じ給ひます。舊約においてヨナがニネベにくやうに命令を受けました時に、それに從ひませずして他處ほかきました。れども悔改くいあらためました時に、神は再びニネベにけよと命じ給ひました。其時そのときヨナは從順にニネベに參りました。丁度ちゃうどその通り、唯今たゞいましゅは失敗したところあかしせよと命じ給ひます。私共わたくしどもその命令に耳を傾けて從はねばなりません。

 使徒行傳を槪略あらましに讀みますと、この歷史はの順序に從ってります。一章より七章までがヱルサレムに於ける傳道の記事。八章の一節にユダヤの傳道がありまして、次に八章より十二章をはりまでが、サマリヤの傳道、十三章からをはりまでが地のはてまでの傳道の記事であります。聖靈はその順序に從って、弟子等でしたちを導き給ひました。

 『なんぢら……地のはてにまで證人あかしびとなるべし』。しゅはどんな人等ひとたちに、このおほいなる役目を命じ給ひましたか。こんな廣い、おほいなるはたらきでありますから、必ずそれを命ぜられました人々は、多額おほくかねち、あるひおほいなる勢力のあった人でなければなるまいと思はれますけれども、さうでありませんでした。一人も金持かねもちはありませず、一人も勢力のある人はありませんでした。又一人も敎育の充分あった人はありませんでした。さうですから其樣そんおほいなるはたらきを命ぜられましても、必ず失敗すると思はれました。どもしゅは聖靈のはたらき待望まちのぞみ給ひましたから、このおほいなるはたらきいやしき者等ものどもに命じ給ひましても、必ず成功があると知って給ひました。このいやしき者等ものどもうちにも、いける火が燃立もえたちますれば、その火は必ず地のはてに至るまで燃續もえつゞきます。おお私共わたくしどもも同じ事であります。私共わたくしどもが自分の智慧や、自分の力や、又此世このよける金錢かねもって傳道しやうと思ひますなれば、必ず失敗致します。れども、私共わたくしどもの心のうちに神のいける火がありますならば、その火は必ず能力ちからもっ燃續もえつゞいて參りますから、それによりて地のはてに至るまで天の國をひろめる事が出來ます。

 九節を見ますと、これしゅイエスのをはり御言みことばであった事がわかります。をはりのこし給ひし御命令ですから、格別に大切なる御命令であります。どうぞこの八節を讀みまして、これしゅイエスのをはり御言みことばであることを思ひ、その御命令を大切に受入うけいれ、それ聽從きゝしたがひたいものでございます。

復活よみがへり證人あかしびと

 使徒行傳を槪略あらまし讀みますれば、證人あかしびととは皆しゅイエスのよみがへり證人あかしびとであった事がわかります。これは神學的によみがへりを知ることではありません。實驗的によみがへり給ふたしゅイエスを知ることです。又心のまなこが開かれて、信じない人々によみがへりの事實を宣傳のべつたへ、けるイエスを示す者となる事であります。

 一寸ちょっと使徒行傳を槪略あらまし御覽なさい。證人あかしびと何時いつよみがへり宣傳のべつたへました。二・廿四〜卅一三・十五廿六(「そのしもべイエスをたて」= "having raised up his Son Jesus")。四・一卅三五・卅十・四十四十一十三・卅卅七十七・三十八卅一廿三・六廿四・十五廿六・廿三

 こんなふう何處どこでもよみがへりの事を宣傳のべつたへた事を見ます。私共わたくしども其樣そのやうよみがへりの事實を確信して、けるしゅイエスを宣傳のべつたへなければなりません。此世このよにある罪人つみびとける救主すくひぬしが必要であります。私共わたくしどもける救主すくひぬしまじはりて、ける救主すくひぬし宣傳のべつたへますれば、必ず人々を導く事が出來ます。



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