第二十 ステパノの殉敎



ステパノの變貌すがたがはり

八〜十五節

 此處こゝふたつうったへがあります。すなはち一つはステパノは律法おきてそむいた者と訴へ、も一つは彼は神殿みやけがしたと訴へました。どもステパノは格別にそれついて答へません。七章おいてステパノは尚々なほなほ大切なあかしをせなければなりませんから、自分のためには言譯いひわけをしませなんだ。ども話のうちに、律法おきてに從ふよりも律法おきての神の聖聲みこゑ聽從きゝしたがふ事は大切である事を言ひました。又神殿みやを敬ふよりも神殿みやの神を敬って、これに從ふ事が大切であると申しました。

 彼等はステパノがモーセをけがしたと言ひましたから、十五節を見ますと、神はモーセに與へ給ふた榮光さかえを、ステパノの顏にも與へ給ひました。『こゝおいて集議所にせる者みな目をとめて彼を見しにそのかほ天使てんのつかひかほごとくなりき』。その周圍まはりにある證人等あかしびとたちは、虛僞うそいてどうかしてステパノをほろぼしたく願ひました。しかるに其樣そんな時に、心にあふれる程の平安やすきために顏が輝きますれば、これ眞正ほんたう聖潔きよめであります。眞正ほんたうの勝利であります。ほかの人が私共わたくしどもつい虛僞うそを申します時に、どうか其樣そのやうすこしおこらずして、かへっ天使てんのつかひの顏をしてりたうございます。其時そのときにステパノは神の御榮光みさかえを見上げてりましたから、その榮光さかえはステパノの顏にてらされました。夜明よあけほかところ何處どこも皆暗い時にも、高い山のいたゞきには最早もはや太陽の光が照りますから、其處そこは輝いてります。其通そのとほりにステパノの周圍まはりにある人々は皆暗黑くらやみうちりましたが、かれの顏は神のかゞやきを得ました。私共わたくしども其樣そのやうに斷えず面蔽かほおほひなくしてしゅ御榮みさかえを見るはずです。う致しますれば、周圍まはりにある人々のいかりに目をつけず、かへって心のうち平安やすき喜樂よろこびつ事が出來ます。詩篇卅一篇十三節より十六節までを御覽なさい。『そはわれおほくの人のそしりをきゝ到るところにおそれあり かれらわれにさからひてたがひにはかりしが わが生命いのちをさへとらんとくはだてたり されどヱホバよ われなんぢによりたのめり またなんぢはわが神なりといへり わが時はすべてなんぢのみてにあり ねがはくはわれをあたの手よりたすけ われに追迫おひせまるものより助けいだしたまへ なんぢのしもべのうへに聖顏みかほをかゞやかせ なんぢの仁慈いつくしみをもてわれをすくひたまへ』。これはステパノのいのりでしたらう。ステパノは必ずかういふ心をってりましたでせう。神は必ず豐かにその祈禱いのりに答へ給ひまして、彼に變貌すがたがはりを與へ給ひました。昔モーセが四十日間山におい祈禱いのりを獻げ、神とまじはりました時、變貌すがたがはりの榮光を得ました。長いあひだ祈って神を求めましたから、神はそれを與へ給ひました。ステパノは敵のうちくるしんでる時に、格別に靜かに祈る事が出來ぬ時に、變貌すがたがはりの榮光を得ました。詩篇廿三篇五節『なんぢわがあたのまへにがためにえんをまうけ わがかうべにあぶらをそゝぎたまふ わが酒杯さかづきはあふるゝなり』。今ステパノはその敵の前で其樣そん恩惠めぐみを得ました。

 又そのやうに神のさかえを得ましたから、必ずそのあほうるはしうございました。神たるうるはしさ、天にけるうるはしさがありましたから、みな目をとめて彼を見ました。見ずにる事が出來ない程、神の榮光が輝きました。多分パウロはのちに碎けたる心をもって、それを話したらうと思ひます。

聖靈に滿みたされたる敎會のなゝつの結果

 この六章おいて、聖靈に滿みたされたなゝつを見ます。第一、三節すなはち世にける職業つとめを務める事が出來ます。第二、七節おい罪人つみびとが救はれます。第三、八節おいて不思議なる行爲わざをなす事が出來ます。第四、十節おいて力をもっあかしする事が出來ます。第五、十二節に迫害せられます。第六、十五節おいて顏が輝きます。第七、七章をはりにペンテコステ的の死があります。今迄いまゝで使徒行傳において、ペンテコステの力をもっきよき生涯を暮す事、あるひは道をひろめる事、あるひは敵に對する事等について學びましたが、今此處こゝで始めてペンテコステ的の死について讀みます。私共わたくしどもは生涯を暮すためにペンテコステの聖靈を求めなければなりませんが、それと同時に、死ぬる時にもペンテコステの力を求めなければなりません。ペンテコステの能力ちからもって生涯を暮しますれば、これは神のためあきらかなるあかしであります。又ペンテコステの能力ちからもって死にますれば、これまたおほいなるあかしとなります。

ステパノの說敎

第 七 章

 『さて祭司のをさいひけるは此事このことかくのごとくなる ステパノいひけるは』。これはステパノに備へられたをりでありました。今迄いまゝでステパノはヱルサレムの諸方をまはって、しゅイエス・キリストをあかしいたしました。又しゅイエスは共に働き給ひました。今こゝで神はステパノのあかしをきかしめんがために、大傳道會を開き給ひました。祭司のをさ及び長老等としよりたちことごとく集めて、其前そのまへ證人あかしびとステパノを立たせ給ひました。さうしてステパノが一言ひとことも話しませぬうちに、神はその御榮光をあらはし給ひました。これじつ嚴肅おごそかなる集會あつまりでありました。この人々の頑固かたくななる心は其爲そのために溶けないでせうか。また碎かれないでせうか。ういふ時にステパノは自分のため申譯まをしわけする事が出來ません。ういふ大切なをりに神のことば宣傳のべつたへて、どうかしてこの長老等としよりたち悔改くいあらために導かねばならぬと思ひました。

 其爲そのためにステパノはなんいひましたかならば、第一に、今迄いまゝで千五百年のあひだ、神は如何どうしてイスラエルのたみ取扱とりあつかひ給ふたかを話しました。神は何時いつでも其民そのたみを惠み、其民そのたみを愛し、何時いつでも思廻おもひめぐらし給ふて、其民そのたみを新しき祝福に導き給ひたうございました。又其爲そのためにいろいろの導者みちびきて其民そのたみに與へ給ひました。第二に、ステパノはそのイスラエル人民は如何どうして神を取扱とりあつかったかと話しました。彼等は神に反對し、神の聖聲みこゑに從はず、神の與へ給ふた導者みちびきてそむきまして、此時迄このときまで頑固かたくなにしてたゞ自分のみちばかりを踏みました。其爲そのために神のめぐみを斷りまして、色々の禍害わざはひと困難にひました。

 ステパノは神の榮光えいこうを見ながら、又その榮光を受けて、話のはじめに榮光の神があらはれ給ふた事について語りました(二節をはり)。五十五節を見ますれば、この說敎の終った時にも、神の榮光について記してあります。ステパノは顏にその榮光を得まして、榮光の神について正しくあかし致しましたから、面蔽かほおほひなくして神の榮光を見上げる事を得ました。

 榮光の神がアブラハムにあらはれ給ひました(二節)。何故なぜイスラエルびとが敬ってゐたアブラハムが、神の祝福を得ましたかならば、榮光の神に從ひ、その光を得て神を信じた、其爲そのためでありました。其時そのときには律法おきてもなく、又神殿みやもありませなんだ。ども其樣そんなものよりも尚々なほなほ大切なるものがありました。すなはち榮光の神があらはれ給ひました。ステパノが此事このことを申しました時、必ずしゅイエスのうちにもう一度ひとたび榮光の神があらはれ給ふた事を言ったと思ひます。又この時代のイスラエルびとが、アブラハムが得ました恩惠めぐみを得たうございますならば、しゅイエス・キリストによりてあらはれ給ひました榮光の神を信じ、その聖聲みこゑを聞き、アブラハムのやうに一切いっさいを捨てゝ、それに從はねばならぬ事をも申しましたでせう。

 ステパノは格別にこの三人について話しました。すなわち第一はアブラハム、第二はヨセフ、第三はモーセです。九節、十節おいてヨセフは神の選び給ふたしもべ、又働人はたらきびとである事を申しました。神はその十一人の兄弟等きゃうだいたち及び一家族いっかぞくを、ヨセフの手をもって救ふ事を計畫し給ひました。ども兄弟等きゃうだいたちはヨセフを拒み、かへって彼を迫害し、力を盡して彼をほろぼさんと致しました。ども神は逐出おひだされたヨセフを惠み、榮光を與へ給ひました。又つひその十一人の兄弟等きゃうだいたちはヨセフの前にひさまづいて、めぐみを願ふやうになりまして、逐出おひだされたヨセフはその人々を救ひました。ステパノはそれを言ひました時に、必ずそれを聞きました人は、しゅイエスを例へた者であるとわかりましたでせう。ステパノのかんがへは、しゅイエスはイスラエルびとために新しいヨセフであるといふ事でありました。

 第三に二十節を見ますと、モーセは神にたてられた救主すくひぬしでありました。卅五節に『救者すくひびと』とあります。彼は廿一、廿二節にあるやうに、おほいなる榮光をってる者でありました。ども廿三節おいて、その愛する兄弟等きゃうだいたちあはれみて、その榮光を後ろに捨てゝ、イスラエルびとを顧みました。卅八節を見ますと、彼は『いけことば』をもって參りました。又このことばといふ字は、原語で宣言又は詔勅みことのり(Oracle)といふ字でありまして、普通のことばといふのと違ひます。ども廿七節を見ればたみはモーセを『拒却おしのけ』ました。又卅五節にあるやうにモーセを『こばみ』ました。卅九節にはこのモーセに『したがふことをこのまかへっこれしりぞけ』ました。今迄いまゝで神はおほいなるめぐみもってイスラエルびとを顧み給ひました。ども神が遣はし給ふた使者つかひを自分から斯樣こんなに拒みましたから、四十二節を見ますと『こゝおいて神は彼等を顧みずしてその天の軍勢を祭るにまかせ給へり』。これは恐ろしい事であります。

 四十七節を見ますと、ソロモンは神のため殿いへを建てました。神はもう一度めぐみもって、めぐみを受ける方法を與へ給ひました。どもステパノの意味はなんでありましたかならば、神殿みや左程さほど大切ではありません。神の御聲みこゑに從ふ事が大切であるといふ事です。ソロモンは自分の建てた殿みやに滿足しましたかならば、彼は四十八節のやうな事を申しました。『しかれども至上いとたかき神は手にて造れる所にたまはず』。これはソロモンの意見であったばかりでなく、神が立て給ふた預言者の預言でありました。『すなはしゅいひたまはく 天はわが座位くらゐなり 地はわが足凳あしだいなり 爾曹なんぢらわがために如何いかなるいへたてんとするか 又わがやすむ所は何處いづこなる が手はこのすべての物を造らざりし』(四十九、五十節)。これイザヤの預言であります。ステパノの意味は、此民このたみのやうにこの神殿みやを敬ふのはかへって神の尊い御名みなけがす事で、又神殿みやを敬って神の與へ給ひました導者みちびきてと預言者を拒む事は、何よりもひどい罪であるといふ事でありました。

頑固かたくななる心

 ステパノは斯樣このやうに聖靈の力をもって、聖靈のつるぎを使ひました。その最後にこの人々の心を刺すために、このひどい力あることばを用ひました。『强頑かたくなにして心と耳に割禮かつれいうけざる者よ 爾曹なんぢら常に聖霊にさからその先祖たちの如く爾曹なんぢらなすなり』(五十一節)。これは彼がこの尊い宗敎議會サンヒドリムの前において、この長老等ちゃうらうたちに向っていったことばであります。ステパノは神の榮光を見ましたから、この人々のくらゐを顧みず、是非神のことばのべその人々を悔改くいあらために導きたうございました。今迄いまゝで猶太人ユダヤびとは異邦人を心の頑固かたくななる者、又耳に割禮かつれいを受けない者だと度々たびたび申しました。どもステパノは今彼等に向って、猶太人ユダヤびと有司つかさたる汝等なんぢらも異邦人の如き者であると申しました。汝等なんぢらは神のイスラエルびとでない、その心はたゞ神を信じない異邦人に過ぎないと申しました。五十二節を見れば『義者たゞしきもの』といふ字があります。神はこの時代に恩惠めぐみもって新しき導者みちびきてを與へ給ひました。すなはちイスラエルびと幸福さいはひに導くために、イスラエルびとに御自分の律法おきてを與ふるためたゞしきしゅイエスを遣はし給ひました。しかるに汝等なんぢら先祖等せんぞたちほか導者みちびきてを殺したと同じやうに、今汝等なんぢらこの神の義者たゞしきものを殺し、又其許そればかりでなく、わたくし律法おきてに從はない者だと訴へるけれども汝等なんぢら天使てんのつかひによりて律法おきてを受け、なほこれを守らないのであると申しました(五十二、五十三節)。

 ステパノは聖靈のおほいなる力をもって、其樣そのやうな事を申しました。しゅイエスは必ず其時そのとき馬太傳マタイでん十章廿節の約束を成就し給ふたでせう。この人々は心がさゝれて悔改くいあらためるはずでしたが、哥林多後書コリントこうしょ四章四節のやうに、サタンはその心をくらましました。『これ神のかたちなるキリストのさかえの福音の光をして彼等をてらさゞらしめんがためなり』。此爲このためにサタンが働き、この人々はサタンの感化を受けました。ステパノの話は眞正ほんたうの事で、彼等はこれに答へる事が出來ませなんだが、心のうちにサタンのいかりを得て福音に反對し、その議會は地獄のやうでありました。

ペンテコステ的の死

五十四節

 『衆人ひとびとこれらのこときゝおほいに憤り切齒はがみしつゝ』。これは地獄の有樣ありさまであります。彼等は其樣そんないかって、ステパノに向ひました。どもステパノはその嵐、そのいきどほりを少しも見ません。これさいはひな事であります。

五十五、五十六節

 ステパノは天が開かれて榮光を見ました。この周圍まはりには地獄が開かれて、地獄よりのれいが働いて反對致しましたが、彼はたゞ神の榮光を見上げました。又この人々の前に、しゅイエス・キリストについをはりあきらかなるあかしを致しました。これよりあきらかなるあかしは出來ません。かみ終迄をはりまでこの有司等つかさたちを憐れんで、最後にもう一度あきらかなあかしを與へ給ひました。『われ天ひらけて神の右に人の子のたてるをみる』(五十六節)。この罪人等つみびとたちそれを聞くはずでした。ども心が頑固かたくなで、地獄の口から出るさけびのやうに、おほいよばはりました。

五十七〜六十節

 サタンのれいによって、このたふと有司等つかさたち狂人きちがひのやうになりました。少しも神の使者つかひの聲を聞かぬために『耳をおほひ』、みな心をあはせて、ステパノの所にかけよりて、彼をちました。『彼をまちより逐出おひいだし石をもてこれをうつ』(五十八節)。この死はひどいいたみくるしみの死でありました。どもからだくるしんでる時にさへも、ステパノは全き平和をもって神の異象まぼろしを見る事を得ました。しゅイエスとしゅの御榮光を見て、しゅの形にかたどらせられて、その一番苦痛くるしみ困難なやみの時にさへも、キリストのれいもって、キリストが死にかけて給ふ時のこの祈禱いのりを献げました。『わが靈魂たましひうけたまへ』『しゅこの罪を彼等におはしむるなかれ』(五十九六十節)。

 『此言このことをいひをはりねむりつく』(六十節)。死をめませなんだ。最早もはや神の御榮光が開かれて、死のくるしみを感ぜずに、すぐに天國に移りました。神はもう一度このイスラエルびとに、あきらかなあかしを與へ給ひましたが、彼等はこれを斷りました。さうしてもう一度彼等は神の使者つかひを殺しました。彼等は以前さきしゅイエスのあかしを消すために、しゅイエスを殺しましたが、神は尚々なほなほ忍耐をもって、又種々いろいろの工夫をもって、このイスラエルびと恩惠めぐみあらはし給ひました。今このステパノのあかしそのをはりあかしでした。ども彼等はこれを拒みましたから、この章の四十二節のやうに、神は彼等を捨て給ひました。これよりのちに神はイスラエルびと全體にあかしを與へ給ひません。かへって段々滅亡ほろびと神のいかりが彼等に近づきました。

 この聖靈に滿みたされた靑年が死にました。これ犬死いぬじにでありましたでせうか。いゝえ、決してうではありません。この章のをはりことばを見ますと、『サウロかれの殺されしをよしとせり』とありますが、必ずサウロはその日に見聞みきゝせし事のために、あと悔改くいあらためましたと思ひます。ステパノが天のさかえを見て、そのさかえうちしゅイエスを見上げる事を得ましたやうに、あとでサウロも榮光のしゅイエスを見上げる事を得ました。この一粒のむぎは地に落ちました。其爲そのためにパウロがえて參りました。ステパノの死のために、パウロのはたらきが始まったのであります。今でもそのやうに、損と思はれる死でありましても、神が惠み給ひますならば、その麥の粒より百倍の收穫かりいれが得られます。



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