第十 聖書に循ふ說明
新しき能力
『此人々は醉る者に非ず』。然うですからペテロの說敎の題は何であるかと申すなら、此人々の前に立って居る百廿人でありました。聖靈に滿されし敎會、目で見ゆる敎會がペテロの說敎の題でした。是はよい題であります。哥林多後書三章三節にあるやうに、此人々はキリストの書となりました。未信者の前に神の聖書となりました。又エルサレムの罪人は、此百廿人を見て幾分か神の聖言を受くる仕度が出來ました。
此說敎で、ペテロが新しい能力を得た事が解ります。聖靈に滿されし人は、何時でもそんな能力を頂戴します。其能力は何であるかと申せば、第一に聖靈の劒を使ふ事でした。十六節と廿五節を見れば、ペテロは聖靈の劒をよく使ふ事を得ました。聖靈の能力を有て居らねば、其劒を使ふ事は出來ません。子供は父の劒を使ふ事は出來ません、然れども聖靈のバプテスマを得て、キリストに在る大人となりました者は、此樣に聖靈の劒を使ふ能力を有ちます。
第二に、其眞理を以て罪人の心を刺します。ペテロは新しく其樣な能力を有ちました(卅七節)。明かに此人々の前に、神の眞理と、神の道を示す事を得ました。
第三に、イエス・キリストを示します。今迄此罪人はイエスの榮光を見る事が出來ませんでした。今ペテロが其光を放つ能力を有ちます。
第四に、此罪人に自分の罪を悟らせます。自分の鈍い事、また自分の危い事を悟らせます。
第五に、心を刺されし者を平安に導きます。
傾注の結果
ペテロは此新しい能力を以て、十六節に於てヨエルの書より引照を引きました。又其によって神は唯今、誰にも聖靈を注ぎ給ふ事を認はします。例へば婦人でも聖靈を頂戴する事が出來ます。若者でも、或は奴隷たる者でも聖靈を頂戴する事が出來ます。(十八節の『我僕』の意味は奴隷です)。さうですから、神は唯敬虔ある人々に、又唯勢ある人々、唯位の高い人々に許り此恩惠を與へ給ひません。誰でも、一番賤しい者でも、唯信じさへすれば、頂戴する事が出來ます。今ヱルサレムの人々の前に、其が成就した事が見えます。今其恩惠を頂戴した人々は、大槪輕蔑せられた無學なるガリラヤ人のみでありました。
又此引照によって、傾注の結果を見ます。第一の結果は預言する事です、卽ち活ける能力を以て神の言を宣傳へます(十七節)。第二は異象です。卽ち明白に眞相を見ることを意味します。第三は夢、卽ち聖なる望の成就する事を見る事です。第四の結果は奇跡と休徵です(十九節)。第五は神の審判の確實なる事です(廿節)。ペンテコステによって、神は必ず此世を審判き給ふことを確め給ひます。神は第一に恩惠を注ぎ、次に罪を審判き給ひます。ペンテコステと審判の兩方は、神の奇しき御業であります。第六は罪人が救はれる事であります(廿一節)。
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