第廿七 ヘロデ王との合戰
兩軍の實力
『當時』とは十一章廿八節に記してある饑饉の頃であります。其爲に貧しき信者は惱まされましたが、其苦き事の上に尚苦き事が起りました。即ちヘロデ王が手を伸して、基督信者を迫害しました。今迄度々迫害がありましたが、何時でも宗敎を信じて居る人々が、基督信者を迫害しました。即ち猶太人の有司等や祭司等が迫害致しましたが、今始めて王が迫害します。王が世に屬ける力を以て、神の國の廣まるのを妨げたう厶います。今迄使徒行傳に於て讀みましたやうに、聖靈に滿されました人々は、大なる幸福を經驗し、或は傳道の成功を見る事を得ます。然れ共其許りでなく、聖靈に滿された人は、必ず時としては此十二章の通りに、ヘロデに遇はねばなりません。世に屬ける力に妨げられて迫害せられます。如何いふ心を以て其樣な敵に遇はねばなりませんか、此章に於て其を知る事が出來ます。
又此十二章に於て神が如何して其樣な迫害を消し、其敎會を護り給ふかを見ます。ヘロデ王は恐るべき者でありました。此王には兵隊もあり、牢屋もあり、専制的の王でありましたから、ひどい迫害をする事を得ました。然れ共信者は神を信じましたから、神に護られ、此王に勝利を得る事を得ました。
此處で馬太傳廿章廿三節が成就しました。『イエス彼等(是はヤコブとヨハネです)に曰けるは 誠に爾曹は我が杯を飮また我うくるバプテスマを受べし』。即ち此處でヤコブは主の預言の如に、其杯を飮みましたから、多分馬太傳の引照にあるやうに、主の右に擧げられましたでせう。ヤコブは其のやうに殺されましたが、ペテロは此時神の攝理によりて、ヘロデの刃より救はれました。両方共神の攝理でありましたから、二人共必ず其によりて、恩惠と榮光を得ましたでせう。其時ペテロが救はれました事によりて、敎會は恩惠と安心を得ました。併し又ヤコブの死によりても、敎會は必ず恩惠を得たと思ひます。然れ共若し敎會がペテロの爲に祈ったやうに、此時ヤコブの爲にも祈りましたならば、或はヤコブは救はれたかも知れません。
是は恐ろしい事です。人望を得る爲に迫害を行ひました。ペテロは其爲に捕へられました。主イエスは約翰伝二十一章十八節に、ペテロに就て預言して『誠に實に爾に告ん 爾いとけなき時みづから帶し意に任せて遊行ぬ 老ては手を伸て人爾を束り意に欲ざる所に曳至らん』と曰ひ給ひましたから、此時に多分ペテロの心の中に、今其主の言が成就するのではないかと思ひましたでせう。今ペテロは段々死に近づいて參りました。ダビデが申しました『われは死をさること只一歩のみ』(母前廿・三)とは、此時のペテロの有樣でありました。
ペテロは前に五章十九節に於て、主の使者によりて牢屋から救出されました。然うですからヘロデは、今度はさういふ事のないやうに、格別に力を與へてペテロを守らせました。今度はペテロが是非逃げぬ樣に氣を附けました。『十六人の兵卒に之を守しめたり』。然うですから合戰がありました。大なる戰がありました。一方はヘロデと其兵卒及び牢屋の力、他の方には祈って居る數人の信者がありました。五節に此合戰の有樣が記してあります。
祈禱の三ヶ條
敎會は是が爲に神に祈って戰ひました。どんなに力のある王でありましても、祈って居る敎會と戰ひますなれば、必ず王の方が敗北します。其時に信者等は迫害を恐れず、續いて集りました。是は大膽な事でありました。
彼等は第一に神に祈りました。人間の力に依賴まず、自分の力に賴らず、己を低くして神に救を願ひました。
第二に懇切其を願ひました。ペテロの生命が危い時であります。今度ペテロが死にますれば、唯ペテロの損許りでなく、敎會の爲にも大なる損であります。又ヘロデは最早ヤコブを殺しましたが、今ペテロをも殺し、其より他の働人をも段々殺しますれば、段々敎會が負けると思ふて、懇切祈りました。
第三に心を合せて祈りました。是は一個人一個人の祈禱ではなく、敎會全體の祈禱でした。皆が心を合せて主に近づきましたから、力ある祈禱でした。私共も戰の時に、其樣に祈らなければなりません。又何時でも戰の時であります。目に見ゆるヘロデ王は居りませんでも、靈の敵が居りますから、何時でも戰の時であります。然うですから何時でも懇切神に祈らなければなりません。此信者等は神が曩に一度ペテロを救出し給た事を覺えて、信じて祈る事が出來ましたでせう。
神の御手に在りての平安
『ヘロデ彼を曳出さんとする前夜』。是はペテロの生涯の終の晩である筈でした。而してヘロデの手に固く守られて居ると見えました。迫害者の手の中に固く保たれて、其翌朝必ず殺されると思はれました。然れ共然うではありませなんだ。ペテロはヘロデの手の中にありませずして、實は神の御手の中にありました。傳道之書九章一節『我はこの一切の事に心を用ひてこの一切の事を明めんとせり 即ち義き者と賢き者およびかれらの爲ところは神の手にあるなるを明めんとせり』。是は幸福であります。私共もペテロのやうな場合に遇ひました時に、神の御手の中にある事を信じて、安心する事が出來ます。其晩ペテロに其樣な信仰があったと思ひます。十二時間の後に曳出されて、殺されねばならぬといふ場合にも、安らかに眠りました。天使がペテロを醒さうとしました時に、ペテロの脇を拊いて起さねばなりませなんだから、必ず安らかに熟睡して居りました。詩篇三篇四、五、六節を御覽なさい。『われ聲をあげてエホバによばゝればその聖山より我にこたへたまふ われ臥ていね、また目さめたり、ヱホバわれを支へたまへばなり われをかこみて立かまへたる千萬の人をも我はおそれじ』。是は其晩ペテロが歌ふべき歌でありましたでせう。又詩篇百廿七篇一、二節をも御覽なさい。『ヱホバ家をたてたまふにあらずば建るものゝ勤勞はむなしく ヱホバ城をまもりたまふにあらずば衛士のさめをるは徒勞なり なんぢら早くおき遲くいねて辛苦の糧をくらふはむなしきなり、斯てヱホバその愛しみたまふものに寢をあたへたまふ』。然うですからヘロデの力は空しき事であると解ります。又其晩に助なきペテロは、其樣に神に護られました。第二節の終にあるやうに、神に愛せられ護られましたから、安らかに眠る事を得ました。然うですからペテロは安らかに眠りました。信者も目を醒して、ペテロの爲に祈りました。天使はペテロの爲に力を出しました。
天使の働と導
然うですからペテロは、自分の出來る事は自分で爲なければなりませなんだ。帶をしめる事、靴をはく事等は自分で出來ますから、其をせなければなりませんでした。然れ共鏈を斷切る事、戶を開く事等は出來ませんから、其樣な事は天使が致しました。神は何時でも其樣に働き給ひます。私共の力で出來る事は私共に命じて行はしめ、其以上の事は御自分が爲し給ひます。
又神は人を救ひ給ひますならば、詳しく其人を導き、其人に爲すべき事を教へ給ひます。救を求めて居る者は、心の中に種々の思煩が起りますが、神は其人を詳しく細かに導き給ひます。又私共が六かしい場合に遇ひましても、祈禱に答へて私共を導き給ひます。此處で貴い天使がペテロに衣物を着るやうに敎へます。是は一方から考へますと、可笑しい事です。又天使が靴をはくやうに教へる事も、可笑しい事のやうです。然れ共天使は唯大い事許りでなく、私共に極小い事をも、懇ろに細かに敎へ導く者である事を、此處から知る事が出來ます。
ペテロは十章の幻を見た時に、其を事實であると思ひました。今此處では此事實を幻であらうと思ひました。かういふ結構な事は事實であるとは信じられませなんだ。おお神は私共に其程の靈の恩惠と、靈の助とを與へ給ひたう厶います。事實であると信じられぬ程の、大なる幸福を私共に與へ給ひたう厶います。詩篇百二十六篇一、二節『ヱホバ シオンの俘囚をかへしたまひし時 われらは夢みるものゝごとくなりき そのとき笑はわれらの口にみち歌はわれらの舌にみてり、ヱホバかれらのために大なることを作たまへりといへる者もろもろの國のなかにありき』。神は其樣に私共の爲に働き給ひまして、思よりも愈る大なる恩惠を與へ給ひ度う厶います。私共を夢みる者の如くならしめ給ひたう厶います。
列王紀略上三章十五節を御覽なさい。是はソロモンが神に面會した時で、思より愈りたる約束と恩惠を神より得た時の事であります。『ソロモン目寤て視るに夢なりき』。是は唯何でもない夢であると思ふ事を得ました。然れ共ソロモンは唯夢だけの事でなく、神が眞正に私に近づいて、私に此約束を與へ給ふたのであると、堅く信じましたから、神は其夢にあったやうな恩惠を彼に與へ給ひました。
今ペテロの道には、目に見える大なる妨害がありました。迚も救はれる事が出來ぬといふ困難が、其途を妨げて居りました。然れ共天使の手に連れられて出ました時に、其大なる妨碍が皆無くなり、皆熔かされて仕舞ひました。
救はれたり、然れど寂し
『斯て第一第二の警固を過て』。然うですからペテロは、奥の獄に入れられて居りました。
天使はペテロを牢屋より引出して町に出で、忽ち彼より去りました。今迄ペテロは神の使者に引かれて、天使の光の中に救出され、又天使の手に觸る事を得ました。然れ共今天使が忽ち彼より離れて、ペテロ一人寂しい暗黑の中に殘されました。神は度々其やうに私共を取扱ひ給ひます。或時は祈禱の答として、私共に大なる幸福を與へ、大なる救を經驗せしめ、私共に其御臨在を暁らしめ給ひます。然れ共其榮光が忽ち失くなる事があります。是は神の攝理であります。時としては私共に感情を與へ、時としては天につける光を與へ、又御臨在を深く感ぜしめ給ひます。然れ共時としては唯信仰を以て、暗黑の中を步かしめ給ひます。路加傳二章十五節を御覽なさい。今迄此牧羊者等は天の開かれし事を見、又天使をも見、天の歌をも聞きました。實に天の處にて天の空氣を吸った經驗を有ちました。然れ共其節を見ますと『天使等かれらを離て天に行ければ』、最早再び前の通りで、暗黑の中に、何の光をも見ません。然うですから今見た事は、何でもない唯幻であると思ふ事が出來ました。然れ共其樣な不信仰に陷らずして、天使が彼等を離れ去りて天に昇りました時に、此牧羊者等はイエスを尋ねる爲に、ベテレヘムに參りました。
『ペテロ悟て』。ペテロは此事を靜に考へました。是は大切であります。私共は確實に神の惠を戴いて居る時に、ペテロの如く靜に立止って、其を考へて悟る事を求めなければなりません。詩篇百七篇四十三節を御覽なさい。此篇に救の五の例が記してありまして、其終の四十三節に『すべて慧者はこれらのことに心をよせヱホバの憐憫をさとるべし』とあります。斯ういふ救を經驗します時に、靜に深く其を御考へなさい。又其爲に光を得て、神の憐憫と愛とを解する事を得ます。
路加傳十七章十五節を御覽なさい。此時十人の癩病人が潔まりましたが、其中の九人は潔められました時、餘り深く其に就て考へずに、其儘祭司の許に參りました。然れ共『その一人己が醫されたるを見て』、其人は深く其を考へて、其によりて主の御慈愛を知って、『返來り大聲で神を榮め イエスの足下に俯伏て』感謝しました。
『ペテロ悟て曰けるは 我いま誠に知る』。最早幻ならんと思ひません。今知りました。神が使者を遣して、ヘロデと猶太人の手より救出し給ふた事を知りました。
祈禱會の勝利
マコはペテロに愛されて居た靑年でありました。彼得前書五章十三節の終に『吾子マコ』とありますから、多分マコはペテロに導かれた人で、其爲に愛の繫に繫がれて居りました。マコの母マリアはバルナバの妹でありました。可羅西書四章十節に『バルナバの甥マコ』と書いてありますから、其母は多分バルナバの妹であったと思はれます。其マリアの家に多の人々が集まって、祈って居りました。
牢屋の門は自から開けました。鐵の門でも自から開けました。然れ共此門は其樣に開けません。私共は鐵の門が開かれる事を經驗しますならば、他の凡の門も必ず私共の爲に開かれるでせうと、自然に思ひますが、其は間違ひであります。
此多の人々は祈って居りました。又其祈禱が最早答へられて、「祈禱の答」が門の前に來て、立って叩いて居りました。然うですから其時には祈禱を止めて、門を開くべきでありました。然れども信じない爲に、尚祈禱を續けました。私共も其やうに、度々祈禱を續けて居て、其戶を開きません。起きて戶を開きますれば、其祈禱の答を受納れる事が出來るのであります。
此人々はローダの言ふ事を信ぜず、『爾狂り』と申しました。是は人情であります。祈禱の時に、或人が最早此祈禱は答へられたと申しますれば、其人は度々氣狂であると思はれます。神が働き給ふ時にも、度々こんな不信仰が起ります。其信者等は神は王の王で、ヘロデの位よりも高い位に坐して居たまふ事、牢屋に入れられし者をも救出し給ふ者である事を學ばなければなりませんでした。
十六節の終に彼等はペテロを見て驚き、死より甦りし者を見るやうでありました。
『ヤコブ及び兄弟たちに示せ』。然うですから此マリアの家の祈禱會は、或は姉妹方ばかりの祈禱會であったかも知れません。然れ共其祈禱會の爲めに、ヘロデ王は負けました。(此ヤコブは二節のヤコブとは違ひまして、主イエスの兄弟のヤコブであります)。
守卒等は其に就て何も說明する事が出來ません。是は奇跡でありました。然れ共マリアや他の信者等は、其を說明する事が出來ます。奇跡は信じない人々には、少しも解りません。
此話の靈的意味
私共は此歷史より神の靈の働を知る事が出來ます。是には面白い靈の意味があります。罪人はペテロのやうに、第一に死罪を言付けられました者です。第二に牢屋の中に居ります。第三に眠って居って、自分の恐ろしい運命を平氣で居ります。第四に鏈に繫がれて居ります。第五に惡魔に守られて居ります。其樣な罪人を救ふ事は、唯奇跡でなければなりません。奇跡が行はれなければ、人を救ふ事は出來ません。私共救はれました者は、各自神の奇跡を經驗した者です。併し如何して救を得ますかならば、『起よ』といふ神の聲を聞き、其聖聲に從ふ事です。然うしますと繫が斷れます。守る者が力を失ひます。又妨碍が皆取除かれます。さういふ事を即座に經驗致します。おお罪人の爲に、罪の暗い牢屋より出る道が開かれました。誰でも神の聖聲に從って、悔改めますならば、罪を捨てゝ自由を受くる事が出來ます。
ヘロデの死
二十節より迫害者の恐ろしい死を讀みます。此十二章の始を見ますれば、ヘロデは實に力ある者、榮ある者であると思はれます。又此二十節を見ますれば、其時にヘロデの威勢が大に輝いて居る事を見ます。然うですから外部を見れば、ヘロデは王の王のやうでありました。ヘロデは萬事を支配する者であると見えます。神は王でないやうに思はれます。然れ共此話の終迄讀みますならば、ヘロデの榮光は蟲に食はれた榮光でした。ヘロデ王は神の御手より、大なる罰を受けなければなりませなんだ。私共は時々惡を行ふ者の力を見て、神が王でないかのやうに思ふ事があるかも知れません。然れ共其事柄の終迄見ますならば、神は義しき王である事が必ず解ります。神は必ず罪人を罰し給ひます。遂には必ず御自分の榮光を表し給ひます。詩篇七十三篇の十七節を御覽なさい。此詩篇の始の方を見れば、此人は惡を行ふ者の成功に目をつけ、又其爲に幾分か心の中に不信仰が起りました。然れ共其節に『われ神の聖所にゆきてかれらの結局をふかく思へるまでは然りき』とあります。即ち惡を行ふ者の結局を見ました。其終局は何でありましたかならば、十八節から御覽なさい。『誠になんぢはかれらを滑かなるところにおき、かれらを滅亡におとしいれ給ふ かれらは瞬間にやぶれたるかな、彼等は恐怖をもてことごとく滅びたり 主よなんぢ目をさましてかれらが像をかろしめたまはんとき夢みし人の目さめたるがごとし』(十八〜廿)。其やうに歷史の終まで讀みますれば、必ず神は義を行ふ王であるといふことが解ります。
此十二章の始の方で、天使はペテロの側に行きて、救を與へました。今此終の方では、天使はヘロデの側に行きて、審判を與へました。何の爲に審判を行ひましたかならば、廿三節『ヘロデ榮を神に歸せざるにより』。此爲でした。ヘロデは今迄ひどい罪を犯しました。ヤコブを殺しました。又ペテロをも殺さうとしました。然れ共神は格別に其罪を指し給ひません。其源である彼の心の有樣を示し、心の高慢、即ち己を高くする事を指して、其罪の爲に審判を行ひ給はねばなりませなんだ。神に榮を歸せず、己を高くする事。此高慢はヘロデの一番深い罪でした。又誰でも此罪の爲に審判かれねばなりません。
ペテロは此章の始に於て、牢屋に入れられて、死に向って走って行きました。然れ共救はれました。今此章の終には、ヘロデは尚恐ろしい繫に繫がれて、恐ろしい病氣に罹って、死に向って走って行く事を見ます。然れ共此ヘロデは救を得ませなんだ。ペテロは牢屋に入れられても、憐むべき者でありませなんだ。却て高い位に坐したる此王は、目に見えぬ牢屋に入れられたる憐むべき者でありました。然うですから廿四節を御覽なさい。
神の勝利
おお、ハレルヤ。ヘロデは王の力を伸して、其を止めやうと思煩ひましたが、何にも出來ませなんだ。神は其聖言を助け給ひますから、ヘロデが如何なに王の力を伸べましても、其を妨げる事は出來ません。今でも如何かして福音を妨げやうとする者がありますが、私共は其を恐れてはなりません。此敎會の通りに、跪いて祈って居りますれば、必ず權威を以て居る者に勝利を得て、神の國が益々盛んに廣まって參ります。此節は其時の合戰の終でありましたが、今の戰の終も矢張此通りであります。
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