第二十八 外國傳道のはじめ



外國傳道者の派遣

第 十 三 章

 これじつに大切な事であります。しゅイエスははじめより、世の終迄をはりまで光を放ち給ひたうございます。又世のすべての人々を救ひ給ひたうございます。この使徒行傳の一章より十二章終迄をはりまでは、たゞそのはたらきの準備だけを記したのです。その十二章終迄をはりまでうちに、づヱルサレムにおいて、次にユダヤにおいて、又サマリアにおいて、福音が宣傳のべつたへられました。どもそれは地の極迄はてまでのリバイバルのたゞ準備けでありました。戰爭の時には大將はよくその準備をしてから、戰爭にます。そのやうに今迄いまゝで神は弟子等でしたち使徒等しとたちの心を備へ、その信仰を育て給ひましたが、今まことの戰爭が始まります。パウロは十年前に救はれまして、今迄いまゝで十年のあひだ靜かにアンテオケの兄弟等きゃうだいたちと一緖にあつまり、靜かに傳道してりました。十年間靜かに神の前に修養致しました。又格別にその修養は、普通の信者の兄弟姉妹等きゃうだいしまいたちと交際する事によりて得ました。今つひに神はそのうつはを用ひ給ひます。神は唯今たゞいま地のはてに至るまでの傳道を始め給ひたうございます。何處どこから、の敎會からそれを始め給ひますか。あるひはヱルサレムのうちから、すなはちヱルサレムの使徒等しとたちから、それを始め給ふのが當然であるやうに考へられます。どもどういふわけですか、神はヱルサレムの敎會を使ひ給ふ事が出來ません。あるひはヱルサレムの信者等しんじゃたちは、昔の風俗に慣れて、偏見をってりましたから、自由に神のみちびきに從ふ事が出來ないためであったかも知れません。あるひはヱルサレムの信者等しんじゃたちは、眞正ほんたうに神の聖聲みこゑをきく事が出來ぬためであったかも知れません。かく神は自由なる敎會にき、その聖聲みこゑをきく事の出來る信者の所にきて、喜んで、十字架を負ふ信者を選び給ひます。其爲そのために神はアンテオケの敎會に、この尊いはたらきゆだね給ひました。どうぞ私共わたくしどももさういふ敎會となりまして、神が私共わたくしどもを用ひて、リバイバルの火を起し給ふやうに願ひたうございます。

惠まれし敎會のなゝつの特質

一〜三節

 この廣い傳道のみなもととなりました敎會の特質はなんでありますか。第一、眞正ほんたうに惠まれた敎會でありました。十一章廿三節それわかります。『彼すでに至り(アンテオケに)神のめぐみを見て喜び』。うですからだれでもその敎會に參りますれば、神のあふれる程の恩惠めぐみを見る事を得ました。

 第二にこの敎會はほかの人の肉體のためにも心配しました。十一章廿九節を御覽なさい。『こゝおいて弟子たち(これはアンテオケの弟子等でしたちです)各々おのおのその力量ちからに從ひてユダヤにすめる所の兄弟をすくはために彼等に物をおくらんことを定め』。うですから憐憫深あはれみふかい敎會でありました。だ見ない兄弟等きゃうだいたちをも愛する教會でありました。まことの信者と一致和合してる敎會でありました。

 第三にこの敎會は聖靈のたまものを得た敎會でありました。この十三章の一節にあるやうに、その敎會には『數人すにんの預言者と敎師あり』。その信者のうちに、聖靈の力をもって神の聖言みことば宣傳のべつたへる兄弟姉妹がありました。豫言者のはたらきは格別に廣い傳道であります。未信者に對して十字架を宣傳のべつたへる者であります。敎師のはたらきは格別に聖書を開いて、信者の信仰を助ける者であります。兩方共聖靈の力がなければ出來ません。又かういふはたらきは昇天し給ふたしゅイエスの賜物でありました。この敎會は豐かに其樣そのやうな賜物を得てりました。

 第四だいしこの敎會のうちには、うるはしい一致和合と愛とがありました。それこの一節を見ればわかります。『バルナバ』は財產家でありました。『ニゲルとよばるゝシメオン』は黑人くろんぼであります。『ニゲル』といふことばは「黑い」といふ意味です。すなはこの人は黑人くろんぼでありました。其時そのとき黑人くろんぼうちにも、聖靈に滿みたされし傳道者がありました。『クレネのルキヲ』は阿弗利加人アフリカじんでありました。クレネは阿弗利加アフリカの北のはうの地であります。『及び分封わけもちきみヘロデの乳兄弟ちきゃうだいマナエン』。これじつに高い地位の人でした。この乳兄弟ちきゃうだいといふのは、たゞ一緖にちゝを飮んだ人といふのではなく、ヘロデ王と一緖に敎育を受けて成長した人の意味であります。うですからこれは格別に位の高い人でありました。かういふ人等ひとたちが皆神の愛に感じ、神の愛にかされて、皆一つとなりました。これじつうるはしい事であります。

 第五に斷食して祈る事を得た敎會でありました。『彼らしゅつかへ斷食だんじきをせるとき』(二節)。眞正ほんたうに聖靈によりて、祈禱いのりの熱心、祈禱いのり能力ちからを得た敎會でありました。その敎會のうちに、其樣そのやうな力を得た信者があったばかりでなく、敎會全體がひとつとなって、祈禱いのり能力ちからってりました。

 第六に神の聖聲みこゑを聞く事を得ました。多分たぶん皆一同が神の聖聲みこゑを聞いて、それに賛成致しました。たゞ牧師ばかりでなく、又熱心な信者ばかりでなく、敎會一同が神の聖聲みこゑをきゝました。うですから喜んでそれに從ひました。

 第七、この敎會は喜んで、神に最もよき物を献げました。神はバルナバとサウロを望み給ひましたが、この二人は多分格別に敎會を助け、又この二人のために敎會は格別に惠まれた事でせうから、ほかの國のために、是非人を送らねばならぬならば、ほかの人を送りたく思ふのが、普通でありますが、この敎會は其爲そのために一番よい者を遣はしたうございました。

 以上なゝつ個條かでうによって、聖靈に滿みたされし敎會は如何どういふものであるか、その有樣ありさまを知る事を得ます。どうぞ私共わたくしどもそれわかって、今の敎會の不足と、冷淡なる有樣ありさまを感じたうございます。私共わたくしどもたゞ自分の不足を感ずるばかりではなりません。聖靈に滿みたされし者は、敎會のために、又國のために重荷を負ひます。どうぞ敎會のためにも重荷を負ふて、神がこの國にも、アンテオケのやうな敎會を起し給はん事を御祈りなさい。

神は犧牲ぎせいを求め給ふ

 『わがかれらに命ぜし所の事を行はしめよ』(二節)。うですから神は既にこの二人に命じ給ひました。最早もはや以前に靜かにこの二人に近づいて、その導きを與へ給ひました。ども神は恩惠めぐみを得た敎會を、御自分と一緖に働かしめ給ひます。これは面白うございます。神はたゞ御自分から働人はたらきびとを遣はし給ひません。御自分と一致してる敎會を呼んで、その敎會に働人はたらきびと甄別えらびわかつやうにいひ給ひます。うですからその働人はたらきびとは、その敎會が神に献げる献物さゝげものとなります。献物さゝげものを致しますれば、其爲そのためその敎會は新しき恩惠めぐみを得ます。

 『わが……命ぜし所の事を』。うですから神は最早、そのはたらきの計畫をって給ひます。私共わたくしどもが神戸の傳道、又日本の傳道を計畫せねばならぬ事はありません。大切なる事は、神の御計畫を悟る事であります。或時あるときには私共わたくしどもおほいなる間違まちがひをする事があります。此處このところあるひ彼處あのところに働かねばならぬと思ふて、大きな町や盛んな都に傳道しますが、少しも成功致しません。神がそれを命じ給ふたのではないからであります。あるひは日本のリバイバルは、東京や大阪のやうな、大きな都會みやこの、大きな敎會からは、起らぬかも知れません。山奥にある、ちひさい寂しい村の敎會から、起るかも知れません。私共わたくしどもたゞ神の計畫を悟って、それに從へばようございます。このバルナバとサウロの二人のめには、アンテオケは必ず大切な働場所はたらきばしょでありまして、其處そこに大切な傳道があったに相違ありません。ども其處そこを出て、尚々なほなほ大切な傳道を始めよと命じ給ひました。うですから

 『こゝおい斷食だんじき祈禱いのりをなし』(三節)。新しく斷食して祈ったと思ひます。これ二節にある斷食して祈った事とは違ひます。其時そのときに神の聖聲みこゑを聞きましたから、數日後にもう一度斷食して、祈禱會いのりくゎいを開きました。さうして『手を二人の上におきこれゆかしむ』。多分淚のうちに、この愛する兄弟を遣はしました。この二人は生命いのちを賭けて參りました。其時そのときの傳道は、今の傳道とは違ひまして、生命賭いのちがけてかねばなりませなんだから、アンテオケの信者等しんじゃたちは、最早ふ事が出來ないかも知れぬと思ひながら、淚をもって彼らを遣はしました。

働人はたらきびとを派遣する者

四節

 『如斯かくこの二人は聖靈につかはされて』。二節に『かれらに命ぜし』とありますから、既に申しましたやうに、神は最早この二人に命じ給ひました。どもこの四節に『聖靈につかはされて』とあります。これは同じ事ではないと思ひます。此處こゝの意味は、二人共新しく聖靈の感化を得、又聖靈の導きを新しくあきらかに得て、新しく革新を得たといふ意味であらうと思ひます。アンテオケの信者の祈禱いのりの答として、この二人が聖靈の感化によりて、新しき決心、新しき熱心、新しき勇氣を得ました。使徒行傳十六章六節より八節を見ますと、『彼等フルギヤとガラテヤの地をすぎし時アジアにみちつたふる事を聖靈にとゞめられ つひにムシアにちかづきビテニアにゆかんとせしがイエスのみたまこれを許さゞりければ 彼等ムシアをてトロアスにくだれり』。すなは其時そのときには彼等はある道を歩いてる時に、聖靈は格別にこの道をとゞめ給ひました。今此處こゝではその反對に、聖靈は正しい道を、彼等にあきらかに示し給ひました。二人は『聖靈につかはされて』參りました。

 働人はたらきびとは父なる神と子なる神、及び聖靈なる神より遣はされます。第一父なる神に遣はされます。馬太傳マタイでん九章三十八節を御覽なさい。『ゆゑその稼主もちぬし工人はたらくもの收稼塲かりいればおくらんことを願ふべし』。うですから父なる神は働人はたらきびとを遣はし給ひます。次に子なる神も働人はたらきびとを遣はし給ひます。約翰傳ヨハネでん二十章廿一節『イエスまた彼等にいひけるは 爾曹なんぢらやすかれ 父のわれつかはしゝ如くわれ爾曹なんぢらつかはさん』。うですから働人はたらきびとは、子なる神に遣はされて參ります。第三に今申しましたやうに、此處こゝの引照にある如く、聖靈なる神も働人はたらきびとを遣はし給ひます。又第四に矢張やはりこれ今のところにありましたやうに、敎會も働人はたらきびとを遣はすはずです。私共わたくしどもは父なる神、子なる神、及び聖靈なる神のめしかうむはずであります。新しく傳道に出て參ります時に、馬太傳マタイでんの引照のやうに、父なる神のめしを受けたかどうかを、みづから尋ねなければなりません。又約翰伝ヨハネでんの引照のやうに、子なる神のめしを得たかどうか、又此處こゝのやうに、聖靈なる神のめしかうむったかどうかを、尋ねなければなりません。このやうに眞正ほんたうめしかうむりましたならば、眞正ほんたう大膽だいたんもって、信じて出懸でかける事が出來ます。この二人はそのやうにめしを受けて、其樣そんな心をもっ出懸でかけました。

島の傳道

 『如斯かくこの二人は聖靈につかはされてセルキアにくだり』(四節)。此處このところはアンテオケより九里ほど離れた港であります。其處そこに參りまして『彼處かしこより舟出ふなでしてクプロにおもむ』きました。クプロはナルナバの鄕里であります(四・卅六)。うですから格別に重荷を負ふて、此處こゝに參りました。これは聖靈の導きであった事は、うたがひがありません。バルナバは自分の國に歸って、その地に福音を傳へました。十一章二十節を見ますと、クプロの人は以前にアンテオケに傳道してりました。うですからこの人々も格別に、クプロにって伝道するやうに、勸めたと思ひます。

五節

 サラミスはクプロの南の港です。『ユダヤびとの諸會堂』、すなは何處どこの敎會においても、福音を宣傳のべつたへました。

サタンに

六節

 『かく彼等かれら島のうちて』。多分何處どこでも福音を宣傳のべつたへて『パポスにいたり』ました。これは西のはうの港であります。其處そこで『いつはりの預言者バリエスとなづく卜筮うらなひをなすユダヤびとあひ』ました。神のために新しいはたらきを始めますならば、必ず早速惡魔にひます。私共わたくしどもそれを驚いてはなりません。アダムはエデンのそのうちおいて、サタンにひました。神の御子みこは傳道を始めなさいました時に、早速惡魔に出遇であひ給ひました。ピリポは使徒行傳八章おいて、サマリアにリバイバルが起りました時に、惡魔に出遇であひました。今パウロも矢張やはり傳道のはじめおいて、惡魔に出遇であひました。しパウロの心のうちに、聖靈に遣はされてるといふ確信がありませなんだならば、あるひ其時そのときに臆病が起り、恐怖おそれが起って、敗北したかも知れません。れども神は最早もはや彼によろひを與へ給ひましたから、惡魔に出遇であひました時、かへって大勝利を得て、確實に神の能力ちからを見物する事を得ました。まことの傳道者は何時いつでもそのやうに、困難にふ時に神の能力ちからを拜見致します。

七、八節

 セルギヲ・パウロは島の方伯つかさです。この島の方伯つかさまでがパウロの傳道の事を聞きましたから、パウロの傳道は靜かな密室の傳道でなく、今迄いまゝでおほいなる結果があった事がわかります。この島の方伯つかさそのうはさを聞き、パウロよりなぐさめことばを聞きたうございました。れどもこの方伯つかさ悔改くいあらためますれば、おほいなる結果がありますから、惡魔は是非それを妨げんとしまして、其爲そのためおほいなる戰爭が起りました。れどもそのたゝかひはパウロがサタンと戰ふ事ではありません。聖靈の能力ちからと惡魔の能力ちからたゝかひです。そのたゝかひはパウロのたゝかひでなく、神のたゝかひでありましたから、パウロは安心して神の能力ちから俟望まちのぞみました。

九節

 此時このときにパウロは新しく聖靈の感化を得ました。聖靈は新しくパウロに臨み、パウロを使ひ給ひました。うですから聖靈御自身が戰ひ給ひました。

 『聖靈に滿みたされ目をとめて彼を』。聖靈は度々たびたび聖靈に滿みたされてる人に、鋭いの力を與へ給ひます。

審判さばきことば

十節

 うですから聖靈は何時いつでも愛のことばなぐさめことばばかりを言ひ給ふのではありません。或時あるときは鋭い審判さばきことばのろひことばいひ給ふ事があります。れども此處こゝじつに氣を附けねばならぬ事があります。肉にけるかんがへもって、又肉より起ったいかりめに鋭い事を申しますれば、じつに恐ろしい罪であります。れども聖靈に滿みたされました者は、時としてはすくひことばでなく、審判さばきことばをいはねばなりません。

十一節

 をはりはうの『おのれてびきせん者をもとめさまよへり』ということばは、原語では、ういふ人を求めましたが、皆神のはたらきを見て恐れ、そんなのろはれし者を助ける事をしないといふ意味があらはれてります。

 神の審判さばき暗黑くらきです。この人は今迄いまゝで暗黑くらやみうちりました。彼得後書ペテロこうしょ二章十七節このともがらは水なきなり 狂風あらしおはるゝ雲なり 黑暗くろきやみかれらのためかぎりなくのこれり』。この黑暗くろきやみ今迄いまゝでその人の心のうちにありましたから、今神は外部うはべ暗黑くろきやみをも彼に與へ給ひました。すなはち『かれの目かすみくらみ』ました。耶利米亞記エレミヤき十三章十五、十六節を御覽なさい。『なんぢらきけ 耳をかたむけよ たかぶなかれ ヱホバかたりたまふなり なんぢらの神ヱホバにそのいまだやみを起したまはざる先 なんぢらの足のくらき山につまづかざる先に榮光さかえすべし なんぢ光明ひかりを望まんにヱホバこれを死のかげに變へ これ昏黑くらやみとなしたまふにいたらん』。これじつに恐ろしいことばであります。私共わたくしどもも、だれでも神の光を拒みますれば、神より暗黑くらやみを得なければなりません。神の導きを得ませんならば、暗き山につまづかねばなりません。この人は神の聖言みことばを拒みました。聖靈の力をもっ宣傳のべつたへられたことばを拒みましたから、神はそのやうに暗黑くらやみうちに、その足をつまづかしめ給ひました。羅馬書ロマしょ一章廿一節『既に神をしりなほこれを神として崇めずまたしゃする事をせずかへっその思念おもひを亂しそのおろかなる心は蒙昧くらくなれり』。この人は其時そのときあきらかにかういふのろひを得ました。私共わたくしども周圍まはりの人々が度々たびたびかういふのろひを得ても、私共わたくしども外部うはべからそれわからないかも知れません。れども神の審判さばきは當然の理にかなひます。暗黑くらやみを撰びますれば、神は暗黑くらやみを與へ給ひます。

 れども此時このときパウロの心のうちに、幾分かめぐみかんがへがあったと思ひます。自分が悔改くいあらためました時に、ひどい暗黑くらやみ彷徨さまよひましたが、つひに救はれて聖靈に滿みたされましたから、今この罪人つみびとを見て、自分の罪を深く思起おもひおこしたかも知れません。自分も先には惡魔に滿みたされて、神のはたらきを妨げ、ほかの人々をして信ずることなからしめんとしてた事を思起おもひおこし、自分の心のうちに深くそれを感じましたでせう。

 如何どうして其樣そんな罪ふかき人々を、悔改くいあらためさせる事が出來ますか。パウロは暗黑くらやみを得ましたが、それを通りて、又其爲そのためすくひを得ました。パウロもこの卜者うらなひしゃもどちらも神のめぐみことばを聞きました。パウロは聖靈に滿みたされて天使てんのつかひのやうになったステパノの口から福音を聞きましたが、全くそれを捨て、それを拒みました。今この卜者うらなひしゃそれと同じ罪を犯しました。れどもパウロは自分が神のめぐみを得ましたから、この人も救はれるといふ信仰があったかも知れません。パウロはめぐみことばを拒んで、審判さばき暗黑くらやみを得て、かへっ其爲そのために救はれました。そのやうにこの人もめぐみことばを聞かず、かへっ審判さばきことばを聞きて救はれるかも知れぬと思ふたかも知れません。私共わたくしどもは聖靈に滿みたされますれば、平生めぐみことばを話し、又それによりて人々を引付ひきつけますが、聖靈に滿みたされました傳道者は、時としては人を救ふため審判さばきことばをいふ力をってります。ういふ傳道者は幾分かしゅイエスと同じ力を得てります。すなはしゅイエスの力によりて生命いのちを與へます(ヨハネでん五・廿一)。又審判さばく事のやうな力をってます(おなじく五・廿二)。神の人はこのふたつの力をってはずです。

方伯つかさ救はる

十二節

 『しゅをしへおどろき』。格別にこの奇跡を驚いたのではなく、しゅをしへを驚きました。その奇跡はじつに驚くべき事でありましたが、しかしゅをしへ尚々なほなほ驚くべき事であります。このやうに罪人つみびと審判さばきる事はめづらしい事です。れども神のめぐみしゅイエスのあがなひは、尚々なほなほ驚くべき事であります。うですから『しゅをしへおどろこれを信ぜり』。正しい信仰のうちには、何時いつでも驚愕おどろきも含んでます。

 私共わたくしども此時このときの傳道の結果を、餘り詳しく此處こゝで見ません。れども必ずおほいなる結果があったに相違ありません。其時そのときに起ったリバイバルが、多分其時そのときから燃えあがって、廣くなったと思ひます。セルギヲ・パウロといふ方伯つかさが救はれましたから、必ずおほくの人々は福音を聞いて受入うけいれましたと思ひます。

サウロの改名

 九節を見ますと、其時そのときからパウロは新しい名を得ました。舊約全書においても新約全書においても度々たびたび新しきめぐみを得ました時に、神は新しき名をけ給ひました。ヤコブはイスラエルといふ名を得、シモンはペテロといふ名をけられました。そのやうに此時このときにも、サウロは新しい名を得ました。その新しい名は此處こゝ方伯つかさの名でありましたが、それに關係はありません。サウロは其樣そんな低いかんがへもって名をへたのではありません。必ず深い理由わけがあったと思ひます。又多分神がサウロに新しい名を與へ給ふたのであります。このサウロは格別にベニヤミンのすゑでありましたから、サウロといふ名は昔のベニヤミンの支派わかれから出た王のサウルを記念します。パウロといふのは羅馬ロマの高い位の華族の名で、名高い名であります。(この方伯つかさその華族の一人であったでせう)。れどもパウロといふ名の意味は、低いちひさい者といふ意味であります。サウルは今からおのれいださずして、人間の眼の前にちひさい者になって、生涯を暮したうございました。以前に悔改くいあらためなかった時には、出來るおのれを高くしました。れどもこれから出來るおのれを低くしたうございます。

 又パウロといふ名は羅馬ロマの名でありました。パウロは確實たしかに異邦人に福音を宣傳のべつたへたうございましたから、猶太ユダヤの名を捨てゝ、羅馬ロマの名をけました。うですからよく羅馬人ロマじんと交際する事が出來ました。

ヨハネの分離

十三節

 十三節から本土に歸ります。多分格別に此邊このへんに傳道するつもりでありました。クプロに行ったのは、途中立寄たちよったので、これは至當の事でしたが、今段々だんだん目的の傳道地にむかひます。

 此時このときヨハネはヱルサレムに歸りました。なんためであったかについては、此處こゝに記してありません。しかしパウロがこれは必ずとがむべき事であるとしたのは、のちわかります。多分ヨハネが旅行たびあぶない事、又は旅行たび苦痛くるしみを思ふて、それに堪へるけの大膽だいたんがなくて歸ったと思はれます。パムフリヤとペルゲのあたりは、山賊のところでありました。又度々たびたび其邊そのへんに大水が出て危險なところでありました。哥林多後書コリントこうしょ十一章廿六節を御覽なさい。かういふ危險にはねばなりませなんだ。『又しばしば旅路たびぢかつかはの難(これは大水の事です) 盜賊の難 同族の難 異邦人の難 城裹まちのうちの難 うちの難 海中の難 いつはりの兄弟のうちの難にあへり』。この若者があるひはかういふ事を恐れたかも知れません。其頃そのころの傳道者はまこと大膽だいたんもって出なければなりませなんだ。今の傳道はやすい事です。れども其時そのときには生命いのちを賭けて、傳道に參らなければなりませなんだ、又格別に外國傳道にはその覺悟がりました。私共わたくしどももさういふ心をもって傳道に出なければなりません。私共わたくしども度々たびたびわづかの迫害や、少しばかりの困難のため其處そのところの傳道をめて仕舞ふ事がありますが、何卒どうかパウロの心をもって、大膽だいたんに傳道する心をもって、たゝかひに出たうございます。

 ヨハネはヱルサレムの祈禱いのりの家の息子でありました(十二章十二節)。又バルナバの甥でありました。うですから福音について充分の知識がなかったわけではありませんが、そのめぐみの經驗は直接にしゅより受けためぐみでなく、受賣セコンド・ハンドめぐみであったでせう。かういふ困難にふ事にへる者は、しゅより直接にめぐみを得た者でなければなりません。

 此時このときにヨハネは堕落したのではありません。自分の信仰の淺い事、又めぐみに淺い事を認めました。ヱルサレムの聖徒とまじはってた時には、その心が燃えましたが、それ眞正ほんたうの自分の經驗でなく、今ほかより受けためぐみが消えました時に、自分のまこと有樣ありさままことの立場とを知ったのであります。これかへっ幸福さいはひでありました。私共わたくしどもはよくおのれを欺く事が出來ます。さかん集會あつまりに出ました時に、又は惠まれた兄弟とまじはってる時には、自分も大層たいそうめぐみを受け又信仰に進んだと思ひます。れども神に逐出おひだされて寂しいところき、其處そこで自分の魂の有樣ありさまや信仰の狀態を示されますならば、それは苦しい事ですがかへっさいはひであります。又それを知って神にまこと恩惠めぐみを求むる事を得ます。

猶太人ユダヤびとに對する神の恩惠めぐみ

十四、十五節

 『安息日あんそくにちに會堂にいりしぬ』。うですからづ第一に、猶太人ユダヤびとに福音を宣傳のべつたへるつもりでありました。これは必ず神のみちびきでありました。それりて神の恩惠めぐみを知ります。猶太人ユダヤびと如何どういふ者でありますかならば、神が遣はし給ふ御子おんこを殺した者でありました。又ペンテコステの日に、ヱルサレムにおいて聖靈の能力ちからもっ宣傳のべつたへられた福音を聞きましたが、それを拒んだ者でありました。又それのみならず基督キリスト信者を迫害し、出來るけ神の子供等こどもたちを殺した人々であります。ども神はなほも彼等を尋ね給ひます。ちらされし猶太人ユダヤびとにも福音を宣傳のべつたへさせ給ひます。其樣そん罪深つみふかい者をも捨てずして、どうかして救ひ給ひたうございました。パウロは格別に異邦人のために選ばれた傳道者でありましたが、何時いつでも最初に猶太人ユダヤびとを尋ねました。此時このときにもパウロは其樣そんな心をもって會堂にりました。さうして其處そこ猶太人ユダヤびとを見て、心のうちに彼等がすくひを得るやうに熱心に願ひ、又其爲そのために熱心に祈りましたでせう。うですから十五節おいて、會堂のつかさ勸告すゝめをする事を願ひましたから、パウロは燃立もえたつ心をもって、ってその猶太人ユダヤびとすくひみち宣傳のべつたへました。

パウロの說敎

十六節

 この說敎も私共わたくしどもための手本であります。パウロはだれに對して說敎しましたかならば、『イスラエルの人々』、又それのみならず『および神をうやまふ者』、すなはち神を求むる異邦人にも說敎しました。うですからたゞイスラエルびとのみならず、異邦人でも神のすくひを受ける事が出來ます。パウロははじめより廣く神の福音を宣傳のべつたへました。

 又この說敎の題はなんでありますかならば、三十八節三十九節を見ますればわかりますやうに、信仰によりて義とせられる事であります。

十七〜二十六節

 パウロははじめから神は如何どうして猶太人ユダヤびとを導き、又猶太人ユダヤびと導者みちびきてと預言者を與へ給ひましたかを示しました。神は彼等を『選び』、『導きいだし』、『撫養いだきやしなひ』給ひました。母がその子を撫養いだきやしなふ如くねんごろに撫養いだきやしなひ給ひました(十七節)。又敵をほろぼして、その地をがしめ(十九節)、審士さばきびとを彼等に與へ給ひました(廿節をはり)。士師記を見ますれば、審士さばきびと度々たびたび救主すくひぬしであることがわかります。すなは種々いろいろ救主すくひぬしを與へ給ひました。うですからこの十七節から廿節までを見れば、神はイスラエルびとを惠み、その人々を出來るだけ祝福し、その恩惠めぐみそのすくひあらはし給ひました。又つひ廿三節おいて、まことの『救主すくひぬしイエスをイスラエルにおこし』給ひました。これじつよろこび音信おとづれでありました。又だれその救主すくひぬし證人あかしびとでありますかならば、ヨハネがそれあかししました(廿四節)。猶太人ユダヤびとは皆そのヨハネを敬ひ、猶太ユダヤおほくの人々はかれ足下あしもとに近づき、彼より悔改くいあらためことばを受け、又悔改くいあらためのバプテスマを受けました。當時そのときの人々はヨハネが預言せられたメシヤであるかも知れぬと思ふ程、ヨハネを重んじました。そのヨハネがしゅイエスを指して、しゅイエスが救主すくひぬしであるとあかし致しました。

 廿六節おいてパウロは、神がアンテオケに汝等なんぢらこの使命を與へ給ふたと申しました。『人々兄弟アブラハムの子孫および爾曹なんぢらのうち神を敬ふ者よ このすくひことば爾曹なんぢらおくりたまへり』。ヱルサレムにる人々は必ずそれを拒みました。ども神はこの遠いところる『爾曹なんぢらに』も、そのすくひめぐみを傳へしめ給ひます。

二十七節

 『ヱルサレムにすめる者およびその有司つかさたち』は、舊約聖書を讀みましたが、其中そのうちに預言してある救主すくひぬしの事を知りませなんだ。うですから神がかういふ救主すくひぬしを與へ給ひました時に、かへっそれことはりました。

廿八、廿九節

 しゅイエスが十字架につけられ給ふた事は、舊約聖書に預言せられてる所でした。メシヤたる者は、必ず其樣そんくるしみを得なければなりません。猶太人ユダヤびとは十字架につけられた者を救主すくひぬしと信ずる事が出來ませなんだ。れども十字架につけられなければ、それは必ず舊約聖書に預言せられた救主すくひぬしではありません。しゅイエスが十字架に昇り給ふた事は、神より遣はされた救主すくひぬしであるといふ、あきらかな證據であります。

三十、三十一節

 神は猶太ユダヤ有司等つかさたちに反對して、彼等が拒んで殺した救主すくひぬしよみがへらせ給ひました。さうしてしゅおほくの人々にあらはれ給ひましたから、その人々はそれあかし致します。

三十二節

 今迄いまゝで讀みました所を槪略あらまし申しますれば、第一に今迄いまゝで恩惠めぐみと神の御慈愛とを說敎しました。又神はすくひを與へるという約束を與へ、しゅイエスによりてそれ成遂なしとげ給ふた事を說きました。この救主すくひぬしは十字架につけられ、又よみがへった救主すくひぬしです。神はその人によりて、約束のすくひ私共わたくしどもに與へ給ふたと申しました。それすなはこのです。三十三節より舊約聖書を引いてそれたしかめます。

三十三節

 うですから神は一人の人を御自分の息子といひ給ひます。猶太人ユダヤびと今迄いまゝでしゅイエスを神の子と信ずる事が出來ませなんだ。れども詩篇二篇によれば、神が一人の人を御自分の息子と呼び給ふのは明らかな事です。

三十四節

 この『ダビデに約束せし所の賴むべきめぐみ』とはなんですかならば、ダビデの子孫のうちよりダビデのくらゐする者が起るという事です。神はそれを成就するためには、一人の人に永生かぎりなきいのちを與へてその人を王とせなければなりません。うですから其爲そのために、神はしゅよみがへらせるかんがへもっ給ふた事がわかります。

三十五〜三十七節

 ダビデはねむりてつひ朽果くちはてましたから、詩篇のことばは必ずダビデの事ではありません。

恩惠めぐみ審判さばき

三十八節

 『されば人々兄弟よ』。今この說敎のをはりに會衆の心に訴へて、そのすくひを勸めます。今迄いまゝで述べた事がこの會衆にどういふ關係があるかを述べます。今迄いまゝでの說敎はたゞ歷史上の面白い話けですか。これたゞ聖書的の話だけですか。いゝえ卿等あなたがたに深い關係のある事ですと申しました。私共わたくしども何時いつ其樣そのやうに、說敎のをはりその說敎を會衆に當箝あてはめなければなりません。

 『この人によりて』。すなはたゞしゅイエスによりて罪人つみびとすくひを得ます。如何どういふ恩惠めぐみであるかならば『罪のゆるし』。又だれそれを得られるかならば『爾曹なんぢら』。又如何どうしてそれを得ますかならば神のことばすなは唯今たゞいま爾曹なんぢら』に傳へてその聖言みことばを信ずる事によってゞあると申します。

三十九節

 此處こゝなほ詳しく、又なほ明らかにそのすくひめぐみを示し、今迄いまゝでの宗敎によりてはまことの安心が出來ず、又神の聖前みまへに義とせられる事が出來ないけれども唯今たゞいま『かれによりて』。すなはしゅイエスによりてすべての罪より赦され、全き聖潔きよきを得て神の聖前みまへに義人となる事が出來ます。又だれがかういふ恩惠めぐみを得ますかならば、難行なんぎゃうする人でもなく、犧牲いけにへを献げる人でもなく、又猶太人ユダヤびと又は猶太人ユダヤびとに改宗した者ばかりでなく、すべて『信ずる者』はその恩惠めぐみを得られます。この卅八節卅九節まことに意味が深うございます。何卒どうぞ祈禱いのりもってよくそれ御味おあじはひなさい。どもパウロはたゞ恩惠めぐみ宣傳のべつたへるばかりでなく、四十節おいて嚴かにその人々に忠告して戒めます。神のことば聽從きゝしたがはなければ、必ず審判さばきを得なければなりません。

四十節

 此處こゝる『なんぢらにおよばん』。この會衆がこんな審判さばきふかも知れんと心配します。

四十一節

 うですから神はすくひを與へ給ひたうございますが、罪人つみびとそれを拒みますならば、當然に自分の罪の結果を得なければなりません。今は罪より救はれる事が出來ます。れどもそれを斷りますれば、今迄いまゝでいた罪の收穫かりいれをして、神より滅亡ほろびを受けなければなりません。

 其樣そのやうにパウロは恩惠めぐみもって、又恐怖おそれもって人々を引きたうございました。私共わたくしどもも兩方を用ひなければなりません。ある傳道者はたゞ愛と恩惠めぐみばかりを傳へますが、それは神のことばの半分けです。私共わたくしども恩惠めぐみと共に恐るべき審判さばきをも傳へねばなりません。神の愛をも、罪の恐ろしい結果をも宣傳のべつたへなければなりません。

 今朝けさこのパウロの外國傳道の說敎を硏究しました。神はこれによりて私共わたくしどもにも、福音を宣傳のべつたへることを教へ給ひたうございます。何卒どうぞ深くそれを感じて、このやうに人々に神のすくひ宣傳のべつたへたうございます。

說敎後の個人傳道

四十二節

 彼等はパウロの語った福音を喜んで、どうぞまたそのめぐみの話を聞かしてくれと賴みました。たゞ猶太人ユダヤびとのみならず異邦人もそれを願ひました。英語のやくを見れば、これは格別に異邦人のねがひでした (And when the Jews were gone out of the synagogue, the Gentiles besought that these words might be preached to them the next sabbath)。パウロは說敎のうちに、この恩惠めぐみは格別に異邦人のためであると、あきらかに申しましたから、異邦人はその福音を喜びました。

四十三節

 これは第二の集會あつまりのやうでありました。パウロは最早おほやけの說敎を終り、今一人一人に勸めて個人傳道を致します。此時このときには格別に何を勸めましたかならば、『神のめぐみをらん事』を勸めました。最早神のめぐみによりてすくひを得ましたならば、同じめぐみを始終受けて、其中そのうちに生涯をくらす事を勸めました。

四十四節

 うですからその町はおほいに動かされました。聖靈はその町中まちぢうの人々の心を動かし給ひました。私共わたくしどももどうか其樣そんはたらきを見物したうございます。これ眞正ほんたうにリバイバルのはじめであります。れども早速迫害と妨害が起ります。

アンテオケにける迫害

四十五節

 使徒行傳に記さるゝ迫害は、大槪たいがい猶太人ユダヤびとそれを起します。この五十節を見ますと『しかるにユダヤびと……人々の心をうごかさせて』、すなは猶太人ユダヤびと煽動せんどうしてその迫害を起しました。十四章二節にも『しかるに信ぜざるユダヤびと異邦人をすゝめて』。十四章五節にも『かくて異邦人ユダヤびと』が迫害しました。十四章十九節にも『時にユダヤ人等びとら』がおほくの人をすゝめ、石をもってパウロをうたしめました。其樣そのやう何時いつでも猶太人ユダヤびとが迫害を起しました。眞正ほんたうに神を敬ふはずの者が、神の約束を信じて恩惠めぐみに進みたくございませんならば、かへって傳道の妨害になります。又つひに傳道を迫害するやうにまでなります。どうぞういふ心の有樣ありさまを恐れて、斷えず心のうちに新しきめぐみを慕うて、新しく神の約束を受ける事を俟望まちのぞみなさい。

 この猶太人ユダヤびと丁度ちゃうど詩篇五十八篇三節以下のやうな者でありました。『あしきものはたいをはなるゝよりそむきとほざかりうまれいづるより迷ひていつはりをいふ かれらの毒は蛇のどくのごとし、かれらは蠱術まじわざをおこなふものゝいたくたくみにまじなふその聲をだにきかざる耳ふさぐみゝしひのまむしのごとし』(三〜五節)。この猶太人ユダヤびと其樣そのやうに福音の聲を聞かずして、耳を塞ぎました。又路加傳ルカでん十二章十節の通りに、ひどい罪を犯しました。『おほよそ人の子をそしる者はゆるさるべけれど聖靈をけがす者はゆるさるべからず』。今この猶太人ユダヤびとは聖靈のはたらきを見ました。町中まちぢうの人々が心を動かされてるのを見ました。れども聖靈をけがして、さういふはたらきさからひました。うですから四十六節おいて、パウロは新しい決心をしました。これを見て新しい方法をもって傳道致します。今迄いまゝで第一に猶太人ユダヤびと、次に異邦人に福音を說きました。れどもこれより異邦人にむかって永生かぎりなきいのち宣傳のべつたへます。

四十六節

 永生かぎりなきいのちを得ないのは自分の不信仰のめ、又自分からそれことはるから得ないのです。神はすべての人にそれ宣傳のべつたへるやうに命じ給ひました。れどもある人はこの猶太人ユダヤびとのやうに、福音を聞いてもそれことはりますから、みづか永生かぎりなきいのちを受くる者でないと定めます。これは神の審判さばきではありません。自分の判定さだめです。

 パウロはなんため其樣そのやうに決心しましたか。四十七節に舊約聖書のことばを引いてそれを申します。

四十七節

 パウロは舊約聖書のことばりて、神の命令を受け入れました。しゅイエスは昇天し給ふ前に、弟子等でしたちに『萬國ばんこくきて福音を宣傳のべつたへよ』と命じ給ひました。又それのみならず、このはじめに聖靈はパウロとバルナバを甄別えらびわかちて、同じ事を命じ給ひました。れども今パウロはその命令を引かず、聖書に書いてあることばを引いて、それもっなほ確かなる信仰の土臺と致します。このことば以賽亞書イザヤしょ四十九章から引いたことばです。『されどわれいへり、われは徒然いたづらにはたらきえきなくむなしく力をつひやしぬと』(四節)。しゅイエスはいひ給ひました。猶太人ユダヤびとが信じませんから、ほとんどむなしく力をつひやしたやうなものでした。れどもその六節には神はなんいひ給ひましたかならば、『その聖言みことばにいはく、なんぢわがしもべとなりてヤコブのもろもろの支派わかれをおこしイスラエルのうちののこりてまったうせしものを歸らしむることはいとかろわれまたなんぢをたてゝ異邦人ことくにびとの光となしがすくひを地のはてにまで到らしむ』。今迄いまゝで猶太人ユダヤびとの傳道は餘りさかんでありません。猶太人ユダヤびとは多く神のめぐみことはりました。れども神はしゅイエスに異邦人いはうじんすくひゆだねて、それを約束し給ひました。パウロはその引照を引いて、其爲そのために今より異邦人にむかって傳道をはじめると申しました。

 『そはしゅかく我儕われらに命じ給へり』。この命令は預言でありました。れどもパウロは信じてそれを讀みました時に、それを自分のための命令として讀みました。それによりて自分の責任を感じ、その預言によりて自分のはたらきを悟る事を得ました。神は度々たびたびかういふ聖書の預言をもって、私共わたくしどもの心のうちに命令を耳語さゝやき給ひます。

 パウロはうですから其時そのときから、しゅイエスの聖旨みこゝろかはふて、萬國ばんこくたみに對して福音を宣傳のべつたへました。

四十八節

 うですから異邦人のうちにも、福音を聞いた者が皆すくひを得たのではありません。『永生かぎりなきいのちさだめられたる者』。これ眞正ほんたうの原語の意味ではありません。原語の意味は、永生かぎりなきいのちみづからをゆだねしけの者は信じたといふ事です。すなはち『さだめられたる者(tetagmenoi)』とはみづからを定めたる者といふ意味です。ういふ人がすくひを得ました。うですから廣い一般のリバイバルが起りました。

四十九節

 町々村々家々に福音が說かれ、おほくの人々がそれを聞いて喜んで光を受入うけいれました。そのリバイバルを見た猶太人ユダヤびとが、それを喜びましたでせうか。今異邦人まで猶太人ユダヤびとの神を敬ふやうになりましたのを、猶太人ユダヤびとは喜んだでせうか。今異邦人も罪を捨てゝ義を行ふやうになった事を、彼等は喜びましたか。いゝえかへって彼等は惡魔に導かれて神のはたらきに反對しました。

五十節

 この章の六節おいて、パウロはサタンよりの妨害を受けました。四十五節おい猶太人ユダヤびとより妨害を受けました。この五十節おいたふと婦等をんなたち及び尊長おもだちたる人々より妨害を受けました。

 又この迫害は餘程よほどひどい迫害でありました。これより廿年ののち、パウロがその生涯のをはりに格別にこの迫害を覺えて、其事そのこといてテモテに書送かきおくりました。提摩太後書テモテこうしょ三章十節なんぢ敎誨をしへ品行おこなひ志意こゝろざし、信仰、寛容、愛、耐忍しのび 及びわがアンテオケ(すなは此處このところです)、イコニオム、ルステラにてあひせめ困苦くるしみまたうけせめ如何いかなるかをしる しゅことごと其中そのうちよりわれすくひ給へり すべてキリストイエスにありて神を敬ひつゝ世を渡らんとこゝろざす者はせめうくべし』(十〜十二)。テモテは多分此時このときその迫害を見ました。あるひ其時そのときに新しい信者として、それを見たかも知れません。

五十一節

 すなはこの二人はしゅめいに從って、おほくの人々の目の前において、その町を捨てゝ其處そこを出ました。ほかの人々の前に福音を拒みし罪を示し、又神の恩惠めぐみを拒みましたから、その人々にはほとんどのぞみがない事を示したうございました。この二人はもう一度たゞ恩惠めぐみのみならず、審判さばきをも宣傳のべつたへます。

 此時このときにキリストがおほせ給ひましたやうに、やいばこのまちに送り給ひました。(馬太傳マタイでん十章三十四節)。この町は其時そのときまで平穩おだやかでありましたが、福音がはいりましたために、おほいなるさわぎが起りました。そのため一家族いっかぞくの者はわかれて、たがひに反對致しました。それではかへって福音を宣傳のべつたへない方がよくはありませんかと申しますに、決してうではありません。この町の今迄いまゝで平穩おだやかは惡魔の平穩おだやかであり、又死に至る平穩おだやかでありましたから、是非それ打破うちやぶらなければなりません。其爲そのために是非しゅイエスのやいばもって參らなければなりません。まことの傳道者はこんな心をもって參ります。第一に世にける平穩おだやかを亂して、大膽だいたんしゅイエスのやいばを使ひます。傳道は容易の事ではなく、たゝかひであります。うですから大膽だいたんに、ほかの人に対してしゅイエスの恐るべきおほいなることば宣傳のべつたへなければなりません。むかふの人々は必ず反對しませう。いかって傳道者を迫害致しませう。れども傳道者はたゝかひをする兵卒でありますから、一方面いっぽうめんからへばむかふの人の感情に頓着せず、是非彼等を救はなければなりません。

 この迫害によりて弟子等でしたちは、おほいなる新しき恩惠めぐみを得ました。

迫害の時受くる恩惠めぐみ

五十二節

 或時あるときには弟子等でしたち祈禱會いのりかいの時に聖靈に滿みたされました。又或時あるときには說敎の時に聖靈に滿みたされました。れども此處こゝでは迫害の時、迫害のために新しく聖靈に滿みたされて喜びました。多分それによりてしゅイエスが神の御子おんこである事を新しくたしかめましたでせう。四十五節を見ますと、『ユダヤびと嫉妬ねたみを心に滿みたせて』、すなは猶太人ユダヤびと滿みたされましたが、それは惡魔に滿みたされたのです。

 この使徒行傳のうちにて度々たびたび、迫害を受くる時は新しき恩惠めぐみを受くる時である事を見ます。四章卅一節に、ひどい迫害の時に『かれら祈禱いのりをへし時そのあつまれるところ震動ふるひうごきみな聖靈に滿みたされておくする所なく神のことばのぶ』。五章四十一節に『イエスの名のためはづかしめうくるにたる者とせられし事を喜びて』。七章五十五節しかるにステパノは聖靈に滿みたされ天をあふぎて神の榮光とその右にイエスのたてるを見て』、すなはち迫害の時に恩惠めぐみを得ました。十六章廿五節くるしんでる『パウロとシラス祈禱いのりをなしかつ神を讚美す』。うですから迫害の時は何時いつでも恩惠めぐみの時でありました。私共わたくしどもは迫害を恐るゝわけはありません。迫害が參りますならば、神は必ずそれに應じて溢れる程の恩惠めぐみを與へ給ひます。私共わたくしどもが神を知る事を慕ひ、又それを求めますならば、かへって迫害を願ひませう。兵卒が喜んでたゝかひますやうに、傳道者は喜んで反對者に出會ひます。どうぞ私共わたくしども其樣そんな心があるかどうか、自分の心を判斷したうございます。どうぞ聖靈によりて眞正ほんたうに兵卒らしい心を貰ひたうございます。



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