第二十八 外國傳道の始
外國傳道者の派遣
是は實に大切な事であります。主イエスは初より、世の終迄光を放ち給ひたう厶います。又世の凡の人々を救ひ給ひたう厶います。此使徒行傳の一章より十二章の終迄は、唯其働の準備だけを記したのです。其十二章の終迄の中に、先づヱルサレムに於て、次にユダヤに於て、又サマリアに於て、福音が宣傳へられました。然れ共其は地の極迄のリバイバルの唯準備丈けでありました。戰爭の時には大將はよく其準備をしてから、戰爭に出ます。其やうに今迄神は弟子等と使徒等の心を備へ、其信仰を育て給ひましたが、今眞の戰爭が始まります。パウロは十年前に救はれまして、今迄十年の間靜かにアンテオケの兄弟等と一緖に集り、靜かに傳道して居りました。十年間靜かに神の前に修養致しました。又格別に其修養は、普通の信者の兄弟姉妹等と交際する事によりて得ました。今遂に神は其器を用ひ給ひます。神は唯今地の極に至る迄の傳道を始め給ひたう厶います。何處から、何の敎會から其を始め給ひますか。或はヱルサレムの中から、即ちヱルサレムの使徒等から、其を始め給ふのが當然であるやうに考へられます。然れ共どういふ譯ですか、神はヱルサレムの敎會を使ひ給ふ事が出來ません。或はヱルサレムの信者等は、昔の風俗に慣れて、偏見を有って居りましたから、自由に神の導に從ふ事が出來ない爲であったかも知れません。或はヱルサレムの信者等は、未だ眞正に神の聖聲をきく事が出來ぬ爲であったかも知れません。兎も角神は自由なる敎會に行き、其聖聲をきく事の出來る信者の所に行きて、喜んで、十字架を負ふ信者を選び給ひます。其爲に神はアンテオケの敎會に、此尊い働を委ね給ひました。どうぞ私共もさういふ敎會となりまして、神が私共を用ひて、リバイバルの火を起し給ふやうに願ひたう厶います。
惠まれし敎會の七の特質
此廣い傳道の源となりました敎會の特質は何でありますか。第一、眞正に惠まれた敎會でありました。十一章廿三節で其が解ります。『彼すでに至り(アンテオケに)神の恩を見て喜び』。然うですから誰でも其敎會に參りますれば、神の溢れる程の恩惠を見る事を得ました。
第二に此敎會は他の人の肉體の爲にも心配しました。十一章廿九節を御覽なさい。『是に於て弟子たち(是はアンテオケの弟子等です)各々その力量に從ひてユダヤに住る所の兄弟を濟ん爲に彼等に物を餽んことを定め』。然うですから憐憫深い敎會でありました。未だ見ない兄弟等をも愛する教會でありました。眞の信者と一致和合して居る敎會でありました。
第三に此敎會は聖靈の賜を得た敎會でありました。此十三章の一節にあるやうに、其敎會には『數人の預言者と敎師あり』。其信者の中に、聖靈の力を以て神の聖言を宣傳へる兄弟姉妹がありました。豫言者の働は格別に廣い傳道であります。未信者に對して十字架を宣傳へる者であります。敎師の働は格別に聖書を開いて、信者の信仰を助ける者であります。兩方共聖靈の力がなければ出來ません。又かういふ働は昇天し給ふた主イエスの賜物でありました。此敎會は豐かに其樣な賜物を得て居りました。
第四に此敎會の中には、美はしい一致和合と愛とがありました。其は此一節を見れば解ります。『バルナバ』は財產家でありました。『ニゲルと稱るゝシメオン』は黑人であります。『ニゲル』といふ語は「黑い」といふ意味です。即ち此人は黑人でありました。其時に黑人の中にも、聖靈に滿されし傳道者がありました。『クレネのルキヲ』は阿弗利加人でありました。クレネは阿弗利加の北の方の地であります。『及び分封の王ヘロデの乳兄弟マナエン』。是は實に高い地位の人でした。此乳兄弟といふのは、唯一緖に乳を飮んだ人といふのではなく、ヘロデ王と一緖に敎育を受けて成長した人の意味であります。然うですから是は格別に位の高い人でありました。かういふ人等が皆神の愛に感じ、神の愛に熔かされて、皆一つとなりました。是は實に美はしい事であります。
第五に斷食して祈る事を得た敎會でありました。『彼ら主に事て斷食をせるとき』(二節)。眞正に聖靈によりて、祈禱の熱心、祈禱の能力を得た敎會でありました。其敎會の中に、其樣な力を得た信者があった許りでなく、敎會全體が一となって、祈禱の能力を有って居りました。
第六に神の聖聲を聞く事を得ました。多分皆一同が神の聖聲を聞いて、其に賛成致しました。唯牧師許りでなく、又熱心な信者許りでなく、敎會一同が神の聖聲をきゝました。然うですから喜んで其に從ひました。
第七、此敎會は喜んで、神に最もよき物を献げました。神はバルナバとサウロを望み給ひましたが、此二人は多分格別に敎會を助け、又此二人の爲に敎會は格別に惠まれた事でせうから、他の國の爲に、是非人を送らねばならぬならば、他の人を送りたく思ふのが、普通でありますが、此敎會は其爲に一番よい者を遣はしたう厶いました。
以上七の個條によって、聖靈に滿されし敎會は如何いふものであるか、其有樣を知る事を得ます。どうぞ私共は其が解って、今の敎會の不足と、冷淡なる有樣を感じたう厶います。私共は唯自分の不足を感ずる許りではなりません。聖靈に滿されし者は、敎會の爲に、又國の爲に重荷を負ひます。どうぞ敎會の爲にも重荷を負ふて、神が此國にも、アンテオケのやうな敎會を起し給はん事を御祈りなさい。
神は犧牲を求め給ふ
『我かれらに命ぜし所の事を行はしめよ』(二節)。然うですから神は既に此二人に命じ給ひました。最早以前に靜かに此二人に近づいて、其導きを與へ給ひました。然れ共神は恩惠を得た敎會を、御自分と一緖に働かしめ給ひます。是は面白う厶います。神は唯御自分から働人を遣はし給ひません。御自分と一致して居る敎會を呼んで、其敎會に働人を甄別つやうに言給ひます。然うですから其働人は、其敎會が神に献げる献物となります。献物を致しますれば、其爲に其敎會は新しき恩惠を得ます。
『我……命ぜし所の事を』。然うですから神は最早、其働の計畫を有って居給ひます。私共が神戸の傳道、又日本の傳道を計畫せねばならぬ事はありません。大切なる事は、神の御計畫を悟る事であります。或時には私共は大なる間違をする事があります。此處或は彼處に働かねばならぬと思ふて、大きな町や盛んな都に傳道しますが、少しも成功致しません。神が其を命じ給ふたのではないからであります。或は日本のリバイバルは、東京や大阪のやうな、大きな都會の、大きな敎會からは、起らぬかも知れません。山奥にある、小い寂しい村の敎會から、起るかも知れません。私共は唯神の計畫を悟って、其に從へばよう厶います。此バルナバとサウロの二人の爲めには、アンテオケは必ず大切な働場所でありまして、其處に大切な傳道があったに相違ありません。然れ共其處を出て、尚々大切な傳道を始めよと命じ給ひました。然うですから
『是に於て斷食し祈禱をなし』(三節)。新しく斷食して祈ったと思ひます。是は二節にある斷食して祈った事とは違ひます。其時に神の聖聲を聞きましたから、數日後にもう一度斷食して、祈禱會を開きました。而して『手を二人の上に按て之を往しむ』。多分淚の中に、此愛する兄弟を遣はしました。此二人は生命を賭けて參りました。其時の傳道は、今の傳道とは違ひまして、生命賭けて行かねばなりませなんだから、アンテオケの信者等は、最早遇ふ事が出來ないかも知れぬと思ひながら、淚を以て彼らを遣はしました。
働人を派遣する者
『如斯この二人は聖靈に遣されて』。二節に『かれらに命ぜし』とありますから、既に申しましたやうに、神は最早此二人に命じ給ひました。然れ共今此四節に『聖靈に遣されて』とあります。是は同じ事ではないと思ひます。此處の意味は、二人共新しく聖靈の感化を得、又聖靈の導きを新しく明かに得て、新しく革新を得たといふ意味であらうと思ひます。アンテオケの信者の祈禱の答として、此二人が聖靈の感化によりて、新しき決心、新しき熱心、新しき勇氣を得ました。使徒行傳十六章六節より八節を見ますと、『彼等フルギヤとガラテヤの地を過し時アジアに道を傳る事を聖靈に禁られ 遂にムシアに近きビテニアに往んとせしがイエスの靈之を許さゞりければ 彼等ムシアを徑てトロアスに下れり』。即ち其時には彼等は或道を歩いて居る時に、聖靈は格別に此道を止め給ひました。今此處では其反對に、聖靈は正しい道を、彼等に明かに示し給ひました。二人は『聖靈に遣されて』參りました。
働人は父なる神と子なる神、及び聖靈なる神より遣はされます。第一父なる神に遣はされます。馬太傳九章三十八節を御覽なさい。『故に其稼主に工人を收稼塲に送んことを願ふべし』。然うですから父なる神は働人を遣はし給ひます。次に子なる神も働人を遣はし給ひます。約翰傳二十章廿一節『イエスまた彼等に曰けるは 爾曹安かれ 父の我を遣しゝ如く我も爾曹を遣さん』。然うですから働人は、子なる神に遣はされて參ります。第三に今申しましたやうに、此處の引照にある如く、聖靈なる神も働人を遣はし給ひます。又第四に矢張是も今の處にありましたやうに、敎會も働人を遣はす筈です。私共は父なる神、子なる神、及び聖靈なる神の召を蒙る筈であります。新しく傳道に出て參ります時に、馬太傳の引照のやうに、父なる神の召を受けたかどうかを、自ら尋ねなければなりません。又約翰伝の引照のやうに、子なる神の召を得たかどうか、又此處のやうに、聖靈なる神の召を蒙ったかどうかを、尋ねなければなりません。此やうに眞正の召を蒙りましたならば、眞正に大膽を以て、信じて出懸ける事が出來ます。此二人は其やうに召を受けて、其樣な心を以て出懸けました。
島の傳道
『如斯この二人は聖靈に遣されてセルキアに下り』(四節)。此處はアンテオケより九里程離れた港であります。其處に參りまして『彼處より舟出してクプロに赴』きました。クプロはナルナバの鄕里であります(四・卅六)。然うですから格別に重荷を負ふて、此處に參りました。是は聖靈の導きであった事は、疑がありません。バルナバは自分の國に歸って、其地に福音を傳へました。十一章二十節を見ますと、クプロの人は以前にアンテオケに傳道して居りました。然うですから此人々も格別に、クプロに行って伝道するやうに、勸めたと思ひます。
サラミスはクプロの南の港です。『ユダヤ人の諸會堂』、即ち何處の敎會に於ても、福音を宣傳へました。
サタンに遇ふ
『斯て彼等島の中を經て』。多分何處でも福音を宣傳へて『パポスに至』ました。是は西の方の港であります。其處で『僞の預言者バリエスと名る卜筮をなすユダヤ人に遇』ました。神の爲に新しい働を始めますならば、必ず早速惡魔に遇ひます。私共は其を驚いてはなりません。アダムはエデンの園の中に於て、サタンに遇ひました。神の御子は傳道を始めなさいました時に、早速惡魔に出遇ひ給ひました。ピリポは使徒行傳八章に於て、サマリアにリバイバルが起りました時に、惡魔に出遇ひました。今パウロも矢張傳道の初に於て、惡魔に出遇ひました。若しパウロの心の中に、聖靈に遣はされて居るといふ確信がありませなんだならば、或は其時に臆病が起り、恐怖が起って、敗北したかも知れません。然れども神は最早彼に鎧を與へ給ひましたから、惡魔に出遇ひました時、却て大勝利を得て、確實に神の能力を見物する事を得ました。眞の傳道者は何時でも其やうに、困難に遇ふ時に神の能力を拜見致します。
セルギヲ・パウロは島の方伯です。此島の方伯までがパウロの傳道の事を聞きましたから、パウロの傳道は靜かな密室の傳道でなく、今迄に大なる結果があった事が解ります。此島の方伯も其噂を聞き、パウロより慰の言を聞きたう厶いました。然れども此方伯が悔改めますれば、大なる結果がありますから、惡魔は是非其を妨げんとしまして、其爲に大なる戰爭が起りました。然れども其戰はパウロがサタンと戰ふ事ではありません。聖靈の能力と惡魔の能力の戰です。其戰はパウロの戰でなく、神の戰でありましたから、パウロは安心して神の能力を俟望みました。
此時にパウロは新しく聖靈の感化を得ました。聖靈は新しくパウロに臨み、パウロを使ひ給ひました。然うですから聖靈御自身が戰ひ給ひました。
『聖靈に滿され目を注て彼を視』。聖靈は度々聖靈に滿されて居る人に、鋭い眼の力を與へ給ひます。
審判の言
然うですから聖靈は何時でも愛の言、慰の言許りを言ひ給ふのではありません。或時は鋭い審判の言、咀の言を言給ふ事があります。然れども此處に實に氣を附けねばならぬ事があります。肉に屬ける考を以て、又肉より起った怒の爲めに鋭い事を申しますれば、實に恐ろしい罪であります。然れども聖靈に滿されました者は、時としては救の言でなく、審判の言をいはねばなりません。
終の方の『己を相せん者を求さまよへり』という言は、原語では、然ういふ人を求めましたが、皆神の働を見て恐れ、そんな咀はれし者を助ける事をしないといふ意味が表はれて居ります。
神の審判は暗黑です。此人は今迄暗黑の中に居りました。彼得後書二章十七節『此輩は水なき井なり 狂風に逐るゝ雲なり 黑暗かれらの爲に窮なく存れり』。此黑暗が今迄其人の心の中にありましたから、今神は外部の暗黑をも彼に與へ給ひました。即ち『彼の目矇暗み』ました。耶利米亞記十三章十五、十六節を御覽なさい。『汝らきけ 耳を傾けよ 驕る勿れ ヱホバかたりたまふなり 汝らの神ヱホバに其いまだ暗を起したまはざる先 汝らの足のくらき山に躓かざる先に榮光を皈すべし 汝ら光明を望まんにヱホバ之を死の蔭に變へ 之を昏黑となしたまふにいたらん』。是は實に恐ろしい言であります。私共も、誰でも神の光を拒みますれば、神より暗黑を得なければなりません。神の導きを得ませんならば、暗き山に躓かねばなりません。此人は神の聖言を拒みました。聖靈の力を以て宣傳へられた言を拒みましたから、神は其やうに暗黑の中に、其足を躓かしめ給ひました。羅馬書一章廿一節『既に神を知て尚これを神として崇めず亦謝する事をせず反て其思念を亂し其愚なる心は蒙昧なれり』。此人は其時明かにかういふ詛を得ました。私共の周圍の人々が度々かういふ詛を得ても、私共は外部から其が解らないかも知れません。然れども神の審判は當然の理に合ひます。暗黑を撰びますれば、神は暗黑を與へ給ひます。
然れども此時パウロの心の中に、幾分か惠の考があったと思ひます。自分が悔改めました時に、ひどい暗黑に彷徨ひましたが、遂に救はれて聖靈に滿されましたから、今此罪人を見て、自分の罪を深く思起したかも知れません。自分も先には惡魔に滿されて、神の働を妨げ、外の人々をして信ずること勿らしめんとして居た事を思起し、自分の心の中に深く其を感じましたでせう。
如何して其樣な罪深き人々を、悔改めさせる事が出來ますか。パウロは暗黑を得ましたが、其を通りて、又其爲に救を得ました。パウロも此卜者もどちらも神の惠の言を聞きました。パウロは聖靈に滿されて天使のやうになったステパノの口から福音を聞きましたが、全く其を捨て、其を拒みました。今此卜者も其と同じ罪を犯しました。然れどもパウロは自分が神の惠を得ましたから、此人も救はれるといふ信仰があったかも知れません。パウロは惠の言を拒んで、審判の暗黑を得て、却て其爲に救はれました。其やうに此人も惠の言を聞かず、却て審判の言を聞きて救はれるかも知れぬと思ふたかも知れません。私共は聖靈に滿されますれば、平生惠の言を話し、又其によりて人々を引付けますが、聖靈に滿されました傳道者は、時としては人を救ふ爲に審判の言をいふ力を有って居ります。然ういふ傳道者は幾分か主イエスと同じ力を得て居ります。即ち主イエスの力によりて生命を與へます(約五・廿一)。又審判く事のやうな力を有って居ます(同五・廿二)。神の人は此二の力を有って居る筈です。
方伯救はる
『主の敎を駭き』。格別に此奇跡を驚いたのではなく、主の敎を驚きました。其奇跡は實に驚くべき事でありましたが、併し主の敎は尚々驚くべき事であります。此やうに罪人が審判を得る事は珍らしい事です。然れども神の惠と主イエスの贖は、尚々驚くべき事であります。然うですから『主の敎を駭き之を信ぜり』。正しい信仰の中には、何時でも驚愕も含んで居ます。
私共は此時の傳道の結果を、餘り詳しく此處で見ません。然れども必ず大なる結果があったに相違ありません。其時に起ったリバイバルが、多分其時から燃え上って、廣くなったと思ひます。セルギヲ・パウロといふ方伯が救はれましたから、必ず多の人々は福音を聞いて受入れましたと思ひます。
サウロの改名
九節を見ますと、其時からパウロは新しい名を得ました。舊約全書に於ても新約全書に於ても度々新しき惠を得ました時に、神は新しき名を命け給ひました。ヤコブはイスラエルといふ名を得、シモンはペテロといふ名を命けられました。其やうに此時にも、サウロは新しい名を得ました。其新しい名は此處の方伯の名でありましたが、其に關係はありません。サウロは其樣な低い考を以て名を代へたのではありません。必ず深い理由があったと思ひます。又多分神がサウロに新しい名を與へ給ふたのであります。此サウロは格別にベニヤミンの裔でありましたから、サウロといふ名は昔のベニヤミンの支派から出た王のサウルを記念します。パウロといふのは羅馬の高い位の華族の名で、名高い名であります。(此方伯も其華族の一人であったでせう)。然れどもパウロといふ名の意味は、低い小い者といふ意味であります。サウルは今から己を出さずして、人間の眼の前に小い者になって、生涯を暮したう厶いました。以前に悔改めなかった時には、出來る丈け己を高くしました。然れども是から出來る丈け己を低くしたう厶います。
又パウロといふ名は羅馬の名でありました。パウロは確實に異邦人に福音を宣傳へたう厶いましたから、猶太の名を捨てゝ、羅馬の名を命けました。然うですからよく羅馬人と交際する事が出來ました。
ヨハネの分離
十三節から本土に歸ります。多分格別に此邊に傳道する積りでありました。クプロに行ったのは、途中立寄ったので、是は至當の事でしたが、今段々目的の傳道地に向ひます。
此時ヨハネはヱルサレムに歸りました。何の爲であったかについては、此處に記してありません。併しパウロが是は必ず咎むべき事であるとしたのは、後に解ります。多分ヨハネが旅行の危い事、又は旅行の苦痛を思ふて、其に堪へる丈けの大膽がなくて歸ったと思はれます。パムフリヤとペルゲの邊は、山賊の居る處でありました。又度々其邊に大水が出て危險な處でありました。哥林多後書十一章廿六節を御覽なさい。かういふ危險に遇はねばなりませなんだ。『又しばしば旅路を經かつ河の難(是は大水の事です) 盜賊の難 同族の難 異邦人の難 城裹の難 野の中の難 海中の難 僞の兄弟の中の難に遭り』。此若者が或はかういふ事を恐れたかも知れません。其頃の傳道者は實に大膽を以て出なければなりませなんだ。今の傳道は易い事です。然れども其時には生命を賭けて、傳道に參らなければなりませなんだ、又格別に外國傳道には其覺悟が要りました。私共もさういふ心を以て傳道に出なければなりません。私共は度々僅かの迫害や、少し許りの困難の爲に其處の傳道を止めて仕舞ふ事がありますが、何卒パウロの心を以て、大膽に傳道する心を以て、戰に出たう厶います。
ヨハネはヱルサレムの祈禱の家の息子でありました(十二章十二節)。又バルナバの甥でありました。然うですから福音について充分の知識がなかった譯ではありませんが、其惠の經驗は直接に主より受けた惠でなく、受賣の惠であったでせう。かういふ困難に遇ふ事に堪へる者は、主より直接に惠を得た者でなければなりません。
此時にヨハネは堕落したのではありません。自分の信仰の淺い事、又惠に淺い事を認めました。ヱルサレムの聖徒と交って居た時には、其心が燃えましたが、其は眞正の自分の經驗でなく、今外より受けた惠が消えました時に、自分の眞の有樣と眞の立場とを知ったのであります。是は却て幸福でありました。私共はよく己を欺く事が出來ます。盛な集會に出ました時に、又は惠まれた兄弟と交って居る時には、自分も大層惠を受け又信仰に進んだと思ひます。然れども神に逐出されて寂しい處に行き、其處で自分の魂の有樣や信仰の狀態を示されますならば、其は苦しい事ですが却て幸であります。又其を知って神に眞の恩惠を求むる事を得ます。
猶太人に對する神の恩惠
『安息日に會堂に入て坐しぬ』。然うですから先づ第一に、猶太人に福音を宣傳へる積りでありました。是は必ず神の導でありました。其に由りて神の恩惠を知ります。猶太人は如何いふ者でありますかならば、神が遣はし給ふ御子を殺した者でありました。又ペンテコステの日に、ヱルサレムに於て聖靈の能力を以て宣傳へられた福音を聞きましたが、其を拒んだ者でありました。又其のみならず基督信者を迫害し、出來る丈け神の子供等を殺した人々であります。然れ共神は尚も彼等を尋ね給ひます。散されし猶太人にも福音を宣傳へさせ給ひます。其樣な罪深い者をも捨てずして、どうかして救ひ給ひたう厶いました。パウロは格別に異邦人の爲に選ばれた傳道者でありましたが、何時でも最初に猶太人を尋ねました。此時にもパウロは其樣な心を以て會堂に入りました。而して其處に居る猶太人を見て、心の中に彼等が救を得るやうに熱心に願ひ、又其爲に熱心に祈りましたでせう。然うですから十五節に於て、會堂の宰が勸告をする事を願ひましたから、パウロは燃立つ心を以て、起って其猶太人に救の道を宣傳へました。
パウロの說敎
此說敎も私共の爲の手本であります。パウロは誰に對して說敎しましたかならば、『イスラエルの人々』、又其のみならず『および神を敬ふ者』、即ち神を求むる異邦人にも說敎しました。然うですから唯イスラエル人のみならず、異邦人でも神の救を受ける事が出來ます。パウロは初より廣く神の福音を宣傳へました。
又此說敎の題は何でありますかならば、三十八節三十九節を見ますれば解りますやうに、信仰によりて義とせられる事であります。
パウロは始から神は如何して猶太人を導き、又猶太人に導者と預言者を與へ給ひましたかを示しました。神は彼等を『選び』、『導き出し』、『撫養ひ』給ひました。母が其子を撫養ふ如く懇ろに撫養ひ給ひました(十七節)。又敵を滅して、其地を嗣がしめ(十九節)、審士を彼等に與へ給ひました(廿節終)。士師記を見ますれば、審士は度々救主であることが解ります。即ち種々の救主を與へ給ひました。然うですから此十七節から廿節迄を見れば、神はイスラエル人を惠み、其人々を出來るだけ祝福し、其恩惠と其救を表はし給ひました。又遂に廿三節に於て、眞の『救主イエスをイスラエルに興し』給ひました。是は實に喜の音信でありました。又誰が其救主の證人でありますかならば、ヨハネが其を證しました(廿四節)。猶太人は皆其ヨハネを敬ひ、猶太に居る多の人々は彼の足下に近づき、彼より悔改の言を受け、又悔改のバプテスマを受けました。當時の人々はヨハネが預言せられたメシヤであるかも知れぬと思ふ程、ヨハネを重んじました。其ヨハネが主イエスを指して、主イエスが救主であると證致しました。
廿六節に於てパウロは、神がアンテオケに居る汝等に此使命を與へ給ふたと申しました。『人々兄弟アブラハムの子孫および爾曹のうち神を敬ふ者よ 此救の道を爾曹に遺たまへり』。ヱルサレムに居る人々は必ず其を拒みました。然れ共神は此遠い處に居る『爾曹に』も、其救の惠を傳へしめ給ひます。
『ヱルサレムに住る者および其有司たち』は、舊約聖書を讀みましたが、其中に預言してある救主の事を知りませなんだ。然うですから神がかういふ救主を與へ給ひました時に、却て其を斷りました。
主イエスが十字架に釘られ給ふた事は、舊約聖書に預言せられて居る所でした。メシヤたる者は、必ず其樣な苦を得なければなりません。猶太人は十字架に釘られた者を救主と信ずる事が出來ませなんだ。然れども十字架に釘られなければ、其は必ず舊約聖書に預言せられた救主ではありません。主イエスが十字架に昇り給ふた事は、神より遣はされた救主であるといふ、明かな證據であります。
神は猶太の有司等に反對して、彼等が拒んで殺した救主を甦らせ給ひました。而して主は多の人々に顯はれ給ひましたから、其人々は其を證致します。
今迄讀みました所を槪略申しますれば、第一に今迄の恩惠と神の御慈愛とを說敎しました。又神は救を與へるという約束を與へ、主イエスによりて其を成遂げ給ふた事を說きました。此救主は十字架に釘られ、又甦った救主です。神は其人によりて、約束の救を私共に與へ給ふたと申しました。其は即ち此節です。三十三節より舊約聖書を引いて其を確めます。
然うですから神は一人の人を御自分の息子と言給ひます。猶太人は今迄主イエスを神の子と信ずる事が出來ませなんだ。然れども詩篇二篇によれば、神が一人の人を御自分の息子と呼び給ふのは明らかな事です。
此『ダビデに約束せし所の賴むべき惠』とは何ですかならば、ダビデの子孫の中よりダビデの位に坐する者が起るという事です。神は其を成就する爲には、一人の人に永生を與へて其人を王とせなければなりません。然うですから其爲に、神は主を甦らせる考を有て居給ふた事が解ります。
ダビデは寢りて遂に朽果てましたから、詩篇の言は必ずダビデの事ではありません。
恩惠と審判
『然ば人々兄弟よ』。今此說敎の終に會衆の心に訴へて、其救を勸めます。今迄述べた事が此會衆にどういふ關係があるかを述べます。今迄の說敎は唯歷史上の面白い話丈けですか。是は唯聖書的の話だけですか。否、卿等に深い關係のある事ですと申しました。私共も何時も其樣に、說敎の終に其說敎を會衆に當箝めなければなりません。
『此人に由て』。即ち唯主イエスによりて罪人は救を得ます。如何いふ恩惠であるかならば『罪の赦』。又誰が其を得られるかならば『爾曹』。又如何して其を得ますかならば神の言、即ち唯今『爾曹』に傳へて居る其聖言を信ずる事によってゞあると申します。
此處に尚詳しく、又尚明らかに其救の惠を示し、今迄の宗敎によりては眞の安心が出來ず、又神の聖前に義とせられる事が出來ないけれ共、唯今『かれに由て』。即ち主イエスによりて凡の罪より赦され、全き聖潔を得て神の聖前に義人となる事が出來ます。又誰がかういふ恩惠を得ますかならば、難行する人でもなく、犧牲を献げる人でもなく、又猶太人又は猶太人に改宗した者許りでなく、凡て『信ずる者』は其恩惠を得られます。此卅八節卅九節は實に意味が深う厶います。何卒祈禱を以てよく其を御味ひなさい。然れ共パウロは唯恩惠を宣傳へる許りでなく、四十節に於て嚴かに其人々に忠告して戒めます。神の言に聽從はなければ、必ず審判を得なければなりません。
此處に居る『なんぢらに臨ん』。此會衆がこんな審判に遇ふかも知れんと心配します。
然うですから神は救を與へ給ひたう厶いますが、罪人が其を拒みますならば、當然に自分の罪の結果を得なければなりません。今は罪より救はれる事が出來ます。然れども其を斷りますれば、今迄に播いた罪の收穫をして、神より滅亡を受けなければなりません。
其樣にパウロは恩惠を以て、又恐怖を以て人々を引きたう厶いました。私共も兩方を用ひなければなりません。或傳道者は唯愛と恩惠許りを傳へますが、其は神の言の半分丈けです。私共は恩惠と共に恐るべき審判をも傳へねばなりません。神の愛をも、罪の恐ろしい結果をも宣傳へなければなりません。
今朝此パウロの外國傳道の說敎を硏究しました。神は是によりて私共にも、福音を宣傳へることを教へ給ひたう厶います。何卒深く其を感じて、此やうに人々に神の救を宣傳へたう厶います。
說敎後の個人傳道
彼等はパウロの語った福音を喜んで、どうぞ再其惠の話を聞かしてくれと賴みました。唯猶太人のみならず異邦人も其を願ひました。英語の譯を見れば、是は格別に異邦人の願でした (And when the Jews were gone out of the synagogue, the Gentiles besought that these words might be preached to them the next sabbath)。パウロは說敎の中に、此恩惠は格別に異邦人の爲であると、明かに申しましたから、異邦人は其福音を喜びました。
是は第二の集會のやうでありました。パウロは最早公けの說敎を終り、今一人一人に勸めて個人傳道を致します。此時には格別に何を勸めましたかならば、『神の恩に居ん事』を勸めました。最早神の恩によりて救を得ましたならば、同じ恩を始終受けて、其中に生涯を暮す事を勸めました。
然うですから其町は大に動かされました。聖靈は其町中の人々の心を動かし給ひました。私共もどうか其樣な働を見物したう厶います。是は眞正にリバイバルの始であります。然れども早速迫害と妨害が起ります。
アンテオケに於ける迫害
使徒行傳に記さるゝ迫害は、大槪猶太人が其を起します。此五十節を見ますと『然るにユダヤ人……人々の心を動させて』、即ち猶太人が煽動して其迫害を起しました。十四章二節にも『然るに信ぜざるユダヤ人異邦人を唆て』。十四章五節にも『斯て異邦人ユダヤ人』が迫害しました。十四章十九節にも『時にユダヤ人等』が多の人を唆め、石を以てパウロを擊しめました。其樣に何時でも猶太人が迫害を起しました。眞正に神を敬ふ筈の者が、神の約束を信じて恩惠に進みたく厶いませんならば、却て傳道の妨害になります。又終に傳道を迫害するやうに迄なります。どうぞ斯ういふ心の有樣を恐れて、斷えず心の中に新しき惠を慕うて、新しく神の約束を受ける事を俟望みなさい。
此猶太人は丁度詩篇五十八篇三節以下のやうな者でありました。『あしきものは胎をはなるゝより背きとほざかり生れいづるより迷ひていつはりをいふ かれらの毒は蛇のどくのごとし、かれらは蠱術をおこなふものゝ甚くたくみにまじなふその聲をだにきかざる耳ふさぐ聾ひの蝮のごとし』(三〜五節)。此猶太人は其樣に福音の聲を聞かずして、耳を塞ぎました。又路加傳十二章十節の通りに、ひどい罪を犯しました。『凡そ人の子を謗る者は赦さる可れど聖靈を褻す者は赦さる可らず』。今此猶太人は聖靈の働を見ました。町中の人々が心を動かされて居るのを見ました。然れども聖靈を褻して、さういふ働に逆ひました。然うですから四十六節に於て、パウロは新しい決心をしました。是を見て新しい方法を以て傳道致します。今迄第一に猶太人、次に異邦人に福音を說きました。然れども是より異邦人に向って永生を宣傳へます。
永生を得ないのは自分の不信仰の爲め、又自分から其を斷るから得ないのです。神は凡の人に其を宣傳へるやうに命じ給ひました。然れども或人は此猶太人のやうに、福音を聞いても其を斷りますから、自ら永生を受くる者でないと定めます。是は神の審判ではありません。自分の判定です。
パウロは何の爲に其樣に決心しましたか。四十七節に舊約聖書の言を引いて其を申します。
パウロは舊約聖書の言に由りて、神の命令を受け入れました。主イエスは昇天し給ふ前に、弟子等に『萬國に行きて福音を宣傳へよ』と命じ給ひました。又其のみならず、此章の始に聖靈はパウロとバルナバを甄別ちて、同じ事を命じ給ひました。然れども今パウロは其命令を引かず、聖書に書いてある言を引いて、其を以て尚確かなる信仰の土臺と致します。此言は以賽亞書四十九章から引いた言です。『されど我いへり、われは徒然にはたらき益なくむなしく力をつひやしぬと』(四節)。主イエスは斯く言給ひました。猶太人が信じませんから、殆んど空しく力を費した樣なものでした。然れども其六節には神は何と言給ひましたかならば、『その聖言にいはく、なんぢわが僕となりてヤコブのもろもろの支派をおこしイスラエルのうちののこりて全うせしものを歸らしむることはいと輕し 我また汝をたてゝ異邦人の光となし我がすくひを地のはてにまで到らしむ』。今迄猶太人の傳道は餘り盛でありません。猶太人は多く神の恩を斷りました。然れども神は主イエスに異邦人の救を託ねて、其を約束し給ひました。パウロは其引照を引いて、其爲に今より異邦人に向って傳道を初めると申しました。
『蓋主かく我儕に命じ給へり』。此命令は預言でありました。然れどもパウロは信じて其を讀みました時に、其を自分の爲の命令として讀みました。其によりて自分の責任を感じ、其預言によりて自分の働を悟る事を得ました。神は度々かういふ聖書の預言を以て、私共の心の中に命令を耳語き給ひます。
パウロは然うですから其時から、主イエスの聖旨に適ふて、萬國の民に對して福音を宣傳へました。
然うですから異邦人の中にも、福音を聞いた者が皆救を得たのではありません。『永生に定られたる者』。是は眞正の原語の意味ではありません。原語の意味は、永生に自らを委ねし丈けの者は信じたといふ事です。即ち『定られたる者(tetagmenoi)』とは自らを定めたる者といふ意味です。然ういふ人が救を得ました。然うですから廣い一般のリバイバルが起りました。
町々村々家々に福音が說かれ、多の人々が其を聞いて喜んで光を受入れました。其リバイバルを見た猶太人が、其を喜びましたでせうか。今異邦人迄が猶太人の神を敬ふやうになりましたのを、猶太人は喜んだでせうか。今異邦人も罪を捨てゝ義を行ふやうになった事を、彼等は喜びましたか。否、却て彼等は惡魔に導かれて神の働に反對しました。
此章の六節に於て、パウロはサタンよりの妨害を受けました。四十五節に於て猶太人より妨害を受けました。此五十節に於て貴き婦等及び尊長たる人々より妨害を受けました。
又此迫害は餘程ひどい迫害でありました。是より廿年の後、パウロが其生涯の終に格別に此迫害を覺えて、其事に就いてテモテに書送りました。提摩太後書三章十節『爾は我が敎誨、品行、志意、信仰、寛容、愛、耐忍 及び我アンテオケ(即ち此處です)、イコニオム、ルステラにて遇し窘と困苦また我が受し窘の如何なるかを知 主悉く其中より我を救給へり 凡てキリストイエスに在て神を敬ひつゝ世を渡らんと志す者は窘を受べし』(十〜十二)。テモテは多分此時に其迫害を見ました。或は其時に新しい信者として、其を見たかも知れません。
即ち此二人は主の命に從って、多の人々の目の前に於て、其町を捨てゝ其處を出ました。他の人々の前に福音を拒みし罪を示し、又神の恩惠を拒みましたから、其人々には殆んど望がない事を示したう厶いました。此二人はもう一度唯恩惠のみならず、審判をも宣傳へます。
此時にキリストが仰せ給ひましたやうに、刃を此邑に送り給ひました。(馬太傳十章三十四節)。此町は其時まで平穩でありましたが、福音が入りました爲に、大なる騷が起りました。その爲に一家族の者は分れて、互に反對致しました。それでは却て福音を宣傳へない方がよくはありませんかと申しますに、決して然うではありません。此町の今迄の平穩は惡魔の平穩であり、又死に至る平穩でありましたから、是非其を打破らなければなりません。其爲に是非主イエスの刃を以て參らなければなりません。眞の傳道者はこんな心を以て參ります。第一に世に屬ける平穩を亂して、大膽に主イエスの刃を使ひます。傳道は容易の事ではなく、戰であります。然うですから大膽に、他の人に対して主イエスの恐るべき大なる言を宣傳へなければなりません。向ふの人々は必ず反對しませう。怒って傳道者を迫害致しませう。然れども傳道者は戰をする兵卒でありますから、一方面から云へば向ふの人の感情に頓着せず、是非彼等を救はなければなりません。
此迫害によりて弟子等は、大なる新しき恩惠を得ました。
迫害の時受くる恩惠
或時には弟子等は祈禱會の時に聖靈に滿されました。又或時には說敎の時に聖靈に滿されました。然れども此處では迫害の時、迫害の爲に新しく聖靈に滿されて喜びました。多分其によりて主イエスが神の御子である事を新しく確めましたでせう。四十五節を見ますと、『ユダヤ人嫉妬を心に滿せて』、即ち猶太人も滿されましたが、其は惡魔に滿されたのです。
此使徒行傳の中にて度々、迫害を受くる時は新しき恩惠を受くる時である事を見ます。四章卅一節に、ひどい迫害の時に『かれら祈禱を畢し時その集れるところ震動きみな聖靈に滿されて臆する所なく神の道を宣』。五章四十一節に『イエスの名の爲に辱を受るに足者とせられし事を喜びて』。七章五十五節『然るにステパノは聖靈に滿され天を仰て神の榮光と其右にイエスの立るを見て』、即ち迫害の時に恩惠を得ました。十六章廿五節に苦んで居る『パウロとシラス祈禱をなし且神を讚美す』。然うですから迫害の時は何時でも恩惠の時でありました。私共は迫害を恐るゝ譯はありません。迫害が參りますならば、神は必ず其に應じて溢れる程の恩惠を與へ給ひます。私共が神を知る事を慕ひ、又其を求めますならば、却て迫害を願ひませう。兵卒が喜んで戰に出ますやうに、傳道者は喜んで反對者に出會ひます。どうぞ私共に其樣な心があるかどうか、自分の心を判斷したう厶います。どうぞ聖靈によりて眞正に兵卒らしい心を貰ひたう厶います。
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