第十五 猶太人の宗敎會議
凡の場合に於ける平和
聖靈に滿されて居る人は、どういふ場合に遇ひましても其心を潔くしてキリストを顯はす事を得ます。例へば二章四十一節より四十七節迄のやうな、安らかな家族の中に生涯を暮しますならば、其處で潔き喜ばしき生涯を暮します。或は三章のやうに傳道に出ましても、働の中に罪人の眼の前に明かにキリストを顯はします。或は又此四章のやうに、迫害に遭ひましても、平安を有ち、喜ばしい顏をして勝利を得る事が出來ます。聖靈に滿される事は唯禮拜の時の爲め許りでありません、或は說敎する時の爲め許りではありません。平生の時の爲め、又どんな場合の時の爲めでもあります。
議會の答
三章に於てペテロは、熱心にイスラエル全國民に悔改めよと勸めました。イスラエル人は其に對して何と答へましたか。其答に從って大なる結果が表はれて參ります。彼等の國民的運命は其答の如何によりて決ります。處が此四章の一節からを見ますると、有司等は使徒を牢屋に入れて今から主イエスに就て默って居るやうに命じました。神はもう一度イスラエル人に惠の機會を與へ給ひましたけれども、イスラエル人は其を斷りました。
消されざる火
其晩は心配の晩でありましたでせう。ヱルサレムの信者等は多分心配して、一緖に集って終夜祈禱を務めましたでせう。廿四節を見ますと、多分敎會が其時祈禱會を開いて居たやうに思はれますが、是は多分使徒等が牢屋に入れられた時から、熱心に續いて祈ったらうと思ひます。
是は心配の時でありましたが、神の働は續いて進んで參りました。
即ち其說敎の爲に五千人が悔改めました。天路歷程の中にかういふ譬話があります。一方に惡人が火を消さうと思ふて、バケツから水を盛んに注いでゐますが、一方に隱れたる處に其面の輝ける御方が油を注いでゐますから、いくら水を注ぎましても益々盛んに火が燃上ってゐます。此四節は丁度其と同じであります。
大人物の前に於ける賤しき田舎者
然れども段々戰が劇しくなって參ります(五節以下)。其戰の一方は敎會の有司等、又國の大人物でありますが、他の一方は賤しい田舎者のみであります。然れども彼等と共に神の力がありました。又神の御臨在がありました。丁度歷代志略下卅二章七、八節の通りです。『汝ら心を强くし且勇め、アッスリヤの王のためにも彼とゝもなる群衆のためにも懼るゝ勿れ 慄のく勿れ 我らとゝもなる者は彼とゝもになる者よりも多きぞかし 彼とゝもなる者は肉の腕なり、然れども我らとゝもなる者は我らの神ヱホバにして我らを助け我らに代りて戰ひたまふべし』。是は實にハレルヤです。主が未だ此世に在し給ひました時、弟子等がかういふ迫害に遇はねばならぬ事を預言し給ひました。或は弟子等の心の中に最早聖靈を得たから、又最早神の榮光が我等の中に輝いて居るから、多分今から最早戰に出遇ふ事なく、何時までも靜かに勝利を得られるだらうといふ考があったかも知れませんが、主が約翰傳十六章二節、又馬可傳十三章九節より十一節迄に預言し給ふた通りであります。然れども其迫害の時にも『人なんぢらを曳解さば以前より何を言んと慮また思煩ふ勿れ 唯なんぢら其とき賜ふ所の言を曰べし 蓋ものいふ者は爾曹に非ず聖靈なり』といふ約束がありますが、今此四章に於て神は其樣な御約束を成就し給ひました事を見ます。
禍轉じて福となる
猶太の祭司等の方から見ますれば、之は異端者の審判でありました。然れども神は度々人間の企圖をひっくり返し給ひます。神は此折をよい傳道の集會となし給ひました。彼等が死ぬるか生るかといふ此裁判の時を變へて、福音宣傳の時となし給ひました。神は此有司等や祭司等を集め給ふて、其前にガリラヤの海の漁夫を立たせ、ペテロを以て福音を宣傳へさせ給ひました。今迄ペテロはヱルサレムで人民に說敎しましたが、かういふ集會の前に說敎した事はありませんでした。今神はペテロの說敎を聞かせる爲に、ヱルサレムに於ける一番貴い者を集め給ひました。
又其許りでなく、神は此裁判を美はしい聖別會とならしめ給ひました。ペテロは其處で新しく聖靈に滿される事を得ました。是は實に美しい事ではありませんか。又其爲に三十一節を見ますれば、弟子等は皆新しく聖靈に滿される事を得ました。然うですから神は人間の怒をひっくり返して御自分の榮光とならしめ給ひます。
不信仰の瞽
必ずかういふ大人物等が一緖に集まって心を合せますなれば、自分の思ふ所をなす事が出來ると思ったでせう。使徒等即ち賤しい田舎者を其中に立たせて、『問けるは 爾曹何の權また何の名に由て之を行ひしや』。是は馬鹿らしい問です。跛へたる者が癒され、善行が行はれましたのに、此馬鹿らしい人々許りが此事に反對して此事を尋ねました。然れども神に反對する人は瞽であります。其時神の働が明かでありましたのに、世に屬ける人々は其を見る事が出來ませなんだ。其中に神の美はしい救の力が働いて居りまして、神の聖國が近づいて居る事が明らかでありますが、瞽たる者は其を見る事が出來ません。耶利米亞記十七章五、六節『ヱホバかくいひたまふ おほよそ人を恃み肉をその臂とし心にヱホバを離る人は詛るべし 彼は荒野に棄られたる者のごとくならん 彼は善事のきたるをみず』。今此四章に於て猶太の有司等は、善事の來るを見ません。私共も是によりて敎へらるゝ筈です。私共も度々瞽になって善事の來るを見ない樣な事はありませんでせうか。
說敎の題目と證人
ペテロは唯其處に立って居る者許りでなく、イスラエルの民皆に是を宣傳へました。『爾曹とイスラエルの民もみな知べし』。又何を宣傳へましたかならば、主イエス・キリスト即ち十字架に釘られし主イエス・キリスト、また甦り給ひました主イエス・キリスト、又今生きて働いて在す主イエスを宣傳へました。有司等は全く神の御子を捨てたう厶いました。然れどもペテロは主が今も猶ほ其國の中に生て在し、又働きてお出でなさる事を宣傳へます。
又其證據は何ですかならば、第一に『此人』(十節)即ち癒されし跛は第一の證據であります。
第二の證據は聖書です(十一節)。此處に聖書を引て其を證據立てました。三章廿二節には申命記から聖言を引て主イエスを證據立てましたが、今詩篇から聖書を引て主イエスを宣傳へます。又其說敎の終に格別に此事を以て彼等の心を刺します(十二節)。此處に彼等の爲にも唯一の救の望があります。
頑固なるサンヒドリム
此サンヒドリム即ち猶太人の宗敎會議の人々は三度格別に神の聲を聞きました。第一は馬太傳廿六章五十七節及び六十四節に、神の御子主イエスの證を聞きました。此長老等の集會は、唯二ヶ月以前でありますから、使徒行傳四章の人々と同じ人であります。此人々が主イエスの證を聞きました。さうですから神は此時第一の聖聲を聞かしめ給ひました。
第二は馬太傳廿八章十一、十二節に兵卒の證を聞きました。此長老等が兵卒の證、即ち信じない人々の明らかなる證を聞きました。
今三度目に此使徒行傳四章に、癒されし跛によりて主の甦の力の明らかなる證を聞きました。然れども悔改めません。神は色々の事を以て此人々に勸め給ひましたけれ共、悔改めません。阿麽士書四章にある言は丁度此人々の事です。六節の終に『然るに汝らは我に歸らずとヱホバ言給ふ』。また其八節の終に『然るに汝らは我に歸らずとヱホバ言たまふ』。九節の終に『然るに汝らは我に歸らずとヱホバ言たまふ』。十節の終『然るも汝らは我に歸らずとヱホバいひたまふ』。十一節の終『然るも汝らは我に歸らずとヱホバ言たまふ』。十二節『イスラエルよ 然ば我かく汝に行はん 我是を汝に行ふべければイスラエルよ 汝の神に會ふ準備をせよ』。
此人々は今此證據に反対する事が出來ません。十四節の終に『駁すべき言なかりき』。又十六節の終に『われら之を言滅こと能ず』。何も答へる事が出來ません。然れども悔改めませなんだ。是によりて私共は、人間の心の頑固な事を見ます。神は明らかな光を與へ給ひました。明らかな力ある證據を與へ給ひました。此人等は自分は其を言消す事が出來ぬと申しました。然れ共其を受入れて悔改むる事を致しませなんだ。却て十八節に『遂に彼等を召て更にイエスの名に就て語ること敎ることを爲なかれと戒む』。是は何時でも世が私共に戒むる處であります。罪人は何時でも此樣に命じます。然れども十九節を御覽なさい。聖靈に滿された人は其に讓る事が出來ません。『ペテロ、ヨハネ彼等に答て曰けるは 神に聽よりも愈て爾曹に聽ば神の前に在て義たらんか 爾曹みづから之を判よ』。此二人は人間に限られる事を許しません。加拉太書一章十節『若われ人の心を得んことを求はゞキリストの僕に非ざるべし』。此二人はキリストの僕の心を以て居りましたから、人間に限られませなんだ。十三節のやうに『忌憚る所なく』(英譯は『大膽に』(boldness))福音を宣傳へます。私共もかういふ大膽を得なければなりません。ペンテコステの聖靈を得ますれば、かういふ自由を得ます。戰の力を得ます。勝利を頂戴致します。耶利米亞記一章十八節十九節『視よ われ今日この全國とユダの王とその牧伯とその祭司とその地の民の前に汝を堅き城、鉄の柱、銅の牆となせり 彼等なんぢと戰はんとするも汝に勝ざるべし そはわれ汝とゝもにありて汝をすくふべければなりとヱホバいひたまへり』。是は幸ではありませんか。是は聖靈のバプテスマの能力であります。
| 総目次 | 序文と目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 |