第四 祈 禱 會
ヱルサレムに歸る
弟子等は舊約全書を敎へられましたから、必ず心の中に今迄申しましたやうな考を以て、ヱルサレムに歸ったと思ひます。
ヱルサレムに歸りました時に、心の中にどんな考、どんな强い感情がありましたでせうか。必ず其の心の眼で續いて主の昇天を眺め、又心の耳で續いて天使の聲を聞いて居たと思ひます。また心の中に、主が天の王となり給ふたと覺えましたに相違ありません。又其心の中に、近い中に聖靈が下り、自分の心の中に神の榮光を受入れるといふ大なる望がありました。そんな强い感を以てヱルサレムに歸りました。喜悅を以て歸ったに相違ありません。『彼等これを拜して甚く喜び』(路加廿四・五十二)。心の中に其樣な感がありましたから、是は當然の事でありました。其愛する主が天に昇り給ひましたから、再び此目で主を見る事が出來ませんでも、悲まず甚く喜悅を抱いてヱルサレムに歸る事が出來ました。多分路加傳の引照のやうに、第一にヱルサレムの神殿に入ったと思ひます。『甚く喜びヱルサレムに歸り 恒に殿に入て神を頌美また祝謝せり』(同五十二、五十三節)。度々主に伴って此殿に參りまして、此處で主の聖聲を聞き、又主と共に神に祈りました。又神を讚め、神を禮拜致しました。さうですから多分第一に此殿に入りまして、神に感謝致しました。
祈禱は最も肝要也
又それから自分の高樓に入って祈りました。
弟子等はさういふ感を以て祈り始めました。私共も祈らうと思ひますならば、幾分か心の中に同じ感を以て恩寵の座に近づかなければなりません。即ち主は昇天し給ふた主です。主は王の王です。主は又今祭司の長であります。而して再來り給ひます。又主は必ず聖座より聖靈を注ぎ給ひます。私共が此事を覺えて、こんな感を以て恩寵の座に參りますならば、必ずペンテコステを得ます。さうですから、どうぞ其樣な感を以て今祈禱を務めたう厶います。
併し何故祈らねばなりませんか。神は最早約束を與へ給ひました。主イエスは『久からずして聖靈によりバプテスマを受べければ也』と仰せられましたのに、何故祈らねばならぬでせうか。祈らずとも宜しくありますまいか。否、神が約束を與へ給ひましても、其約束の惠を得る爲に、私共は祈らねばなりません、祈らなければ得ません(雅各書四章二節)。ペンテコステを得たいと思ひましても、唯其約束を信用して何も爲ずに居りますならば、其を得ません。然れども其約束を信じて祈れば必ず其惠を得ます。
列王紀略上十八章一節に、神はエリヤに此大なる約束を與へ給ひました。『我雨を地の面に降さん』。是は大なる約束でした。エリヤは此約束を得て如何しましたか。唯自分の家に歸って、雨を待って居りましたか。否、エリヤは神を知る者でありましたから、第一に其爲に妨害を取除きました。其妨害は何であったかと申せば、イスラエル人が偶像を拜してゐた事でした。併し卅九節を見ると、其を悔改めました。最早妨害は取除かれましたから、其丈けでエリヤは唯神の約束を待望んで家に歸りましたか。否、妨害が取除かれましたから、四十二節を見れば、山に登って熱心に祈りました。神は約束を與へ給ひましたし、又妨害も取除かれましたけれども、エリヤは祈らねばなりませんでした。エリヤが此禱告の祈禱をせなければ神は雨を降らせ給ひませんでしたらう。けれども祈禱の爲に神は其約束を成就し給ひました。
此處は丁度同じことです。弟子等は其六かしい約束を頂戴しましたから、高樓に入って其惠を受くるまで熱心に祈りました。今迄度々祈りました。けれども今の祈禱は今迄の祈禱と全く違ひます。今迄の祈禱は丁度ヱルサレムの殿で、祈る人と神との間に隔の幕が懸ってゐたやうな祈禱でした。けれども今此時の祈禱は至聖所に入って、面と面とを合せて神を拜するやうな祈禱でした。今迄の祈禱は答へられるかどうか解りません。けれども今此時の祈禱は必ず答へられると確く信ずることが出來ます。何故ならば主イエスの名によりて祈ることが出來るからであります。
以士帖書四章十一節又五章一節二節を御覽なさい。今迄の祈禱は丁度外に立って祈るやうな祈禱でした。面と面とを合せて王に祈る事を許されませんでした。然れども今此時の祈禱は、王の金圭が伸されて惠の座に近づく事を許され、其處で祈る祈禱でありました。必ず喜悅を以て祈ったに相違ありません。又必ず確信を以て祈ったに相違ありません。必ず神が其約束を成就し給ふと覺えました。どうぞ兄弟姉妹よ、私共も舊約時代の祈禱を祈りませずして、新約時代の祈禱を祈りたう厶います。私共は今迄度々不信仰によりて、舊約時代のやうな祈禱を献げましたかも知れませんが、どうぞ今から信仰を以て、私共の祭司の長が最早天の聖座に昇り給ひました事を、靈の眼で見て祈りたう厶います。然うしますれば、求むる所の惠を得たと信ずる事が出來ます。王は必ず卿に其金圭を伸して、卿の願に從って恩惠を與へ給ひます。
祈り、聖書を讀み、歌ひつゝ
『凡此人々は……心を合せて恒に祈禱を務たり』。然れ共唯祈禱許りを務めては居なかったと思ひます、祈禱と一緖に聖書をも讀み、又歌をも歌ひましたでせう。聖書を讀む事に由て信仰を强め、又其に由て神を握る事を得ました。歌を歌ふ事に由て神に感謝して其聖前に出る事を得ました。必ず舊約聖書の約束を基礎として固く其に立って神に祈りましたでせう。惡魔は活きて居ますから、其時必ず不信仰を起させやうとしたに相違ありませんが、此弟子等は繰返し繰返し舊約の約束と又主イエスの約束を思起しましたから、不信仰を捨て眞の信仰を以て神に近づく事を得ましたでせう。今の時代に於て、多分ジョージ・ムーラーは、他の人々よりも深い祈禱の經驗を有った信者であらうと思ひますが、此人は初めの間は唯何時間でも祈禱許りを續けて務めました。然れ共段々神に敎へられて、祈禱と共に聖書をも開き、聖言を讀み乍ら、又其約束を信じ乍ら祈りました。さうですから能力を以て祈る事が出來ました。
此弟子等は又必ず歌をも歌ひましたでせう。弟子等の讃美歌は詩篇でありました。必ず詩篇の二十九篇をも歌ひましたでせう。神が其聖聲を出し給ふ事を待望みましたから、此詩篇に於て神の聖聲の能力ある事、又其は高ぶれる者を打碎く事の出來る聲であると悟りましたでせう。又多分六十三篇をも歌ひましたでせう。(一節、五節)之を歌って、聖靈が來り給ふ事を待望み、飽く事を希望しました。又(八節)こんな言を握って、身も魂も獻げて主に從ふやうに、尚々堅い決心をしましたでせう。或は又九十五篇をも歌って、其六節の通りに拜みひれふして、造主なる神の聖前に跪く事を致しました。又メリバの時のやうに、其心を頑にする事なからんやうに務めました。多分又百十篇をも度々歌って、昇天し給ふた主イエスを仰ぎ見る事を得ました。又此歌に由って必ず心の中に新しい献身も出來、堅い信仰も出來ましたでせう。
又多分私共がコーラスを歌ひますやうに、度々コーラスを繰返して同じ言を歌ひましたでせう。聖書にその事を度々見ます。出埃及記十五章の一節と廿一節とを較べますれば、イスラエル人が勝利を得ました時に、繰返して此コーラスを歌ひました。又歷代志略下五章十三節を見ますと、コーラスを歌った時に神の榮光が下りました。『善かなヱホバ その矜憫は世々限なし』。此コーラスは度々イスラエル人に歌はれたコーラスでありました。此弟子等は又、惡魔に試みられました時、また心の中に恐が起りました時に、多分詩篇五十六篇のコーラスを繰返して歌ひましたでせう。『われ神によりてその聖言をほめまつらん われ神に依賴みたればおそるゝことあらじ 肉體われになにをなし得んや』(四節また十節を御覽なさい)。又神の榮光が此世に顯はれることを待望みて、多分五十七篇のコーラスをも歌ひましたでせう。『神よ ねがはくはみづからを天よりも高くし みさかえを全地のうへに擧たまへ』(五節又十一節)。また祈禱の精神を以て、六十二篇にあるコーラスをも歌ひましたでせう。『わがたましひは默してたゞ神をまつ わがすくひは神よりいづるなり 神こそはわが磐わがすくひなれ またわが高き櫓にしあれば我いたくは動かされじ』(一、二節)。五、六節も同じコーラスでありますが、段々信仰が堅くなりましたから、二節の言を少し變へて『我はうごかされじ』と歌ひました。又度々詩篇百七篇のコーラスをも歌ひました。格別に主が此世に御在世中行し給ひました聖業を覺えて、此コーラスを歌ひましたでせう(八、十五、廿一、卅一節)。多分其を歌って、凡ての人に福音が宣傳へられんことを熱心に願ったらうと思ひます。
使徒行傳に於ける祈禱
そんな風で此弟子等は、此高樓に於て十日の間祈禱會を務めました。使徒行傳を見ますれば祈禱の大切なる事が解ります。此書を見ますと、信者が種々の苦を忍んで、主に從って傳道する事も大切でありますが、其と同時に靜に祈る事の大切なる事を教へられます。
此問題に就て今槪略使徒行傳を御覽なさい。三章一節ペテロとヨハネが祈禱の時神殿に參りました。四章廿四節に『心を合せ神に對ひ聲を揚て曰けるは』。即ち迫害せられました時、種々工夫をせずに、神に向って祈りました。六章四節『而して我儕は常に祈る事と道を傳ることを務むべし』。憐むべき者を助ける事は必ず大切なる事で、是は信者のなすべき務でありました。然れ共其よりも大切な務は祈禱と道を傳ふる事であります。八章十五節『この二人の者くだりて彼等が聖靈を受ん爲に祈れり』。是は一番大切でありました。此新しく救はれた信者の爲に祈る事、また彼等と共に祈る事は、一番大切な事でありました。十二章五節又十二節に、徹夜の祈禱會を開きました。『敎會は之が爲に懇切神に祈る』、『多の人こゝに集りて祈ゐたり』。此信者等は祈禱の力を知って居りました。又力を以て祈りましたから、ペテロはヘロデの手より逃るゝ事を得ました。十四章二十三節『斯て二人のもの敎會ごとに長老をえらび斷食と祈禱をなし前より信じをる所の主に之を託たり』。此新しい牧師の爲に祈りました。又祈禱の中に彼等をヱホバに託ねました。十六章廿五節に此二人が牢屋の中に置かれましても、其祈禱に少しの差支がなかった事を見ます。身體に苦を覺えましても、其が祈禱に差支ありませんでした。『斯て夜半ごろパウロとシラス祈禱をなし且神を讃美す』。斷えず、何處でも祈りました。廿章卅六節、『パウロかく語て跪づき衆人と共に祈れり』。又廿一章五節、『我儕出立て途につく 彼等その妻孥と共に我儕を送て邑の外にまで至しが共に岸に跪きて祈り』。神の聖前に祈禱の中に相別れました。さうですから使徒行傳を見ますれば、祈禱の眞に大切なる事を知ります。
神を待望める十日間
此百廿人は高樓に於て祈禱を務めました。祈禱を務めることは六かしい働です。六かしい戰であります。凡ての信者が其を願ひません。又其が出來ません。此時に信者五百人が主の昇天を見ました。(其は哥前十五・六で解ります。)然れ共祈禱を務めました者は、唯其四分の一丈けでありました。其殘りの三百八十人は、多分自分の家に歸って、自分の職務を忠實に盡しましたでせう。多分罪のない生涯を暮して、忠實に主イエスに従ったと思ひます。然れ共主の御指圖に從って祈禱を務めませんでした。今信者の中に同じことを見ます。或信者は忠實に主に事へて居ます。然れ共熱心に聖靈のバプテスマを待望みません。どうぞ私共は此三百八十人の中に入りませずに、此百廿人と共に祈禱を務めたいものであります。
此時に十四節のやうに、男も女も祈禱を務めました。神の聖前には男と女の區別がありません。皆心を合せて祈禱を務めました。婦人等が、是は自分等に關係のない務だとは思ひませんでした。又男子も、是は婦人の爲には餘り貴い勝れたる務であるなどゝは思ひませんでした。皆謙り、互に相愛し、心を合せて神の聖前に跪きました。
其百廿人の中にマリヤも居りました。マリヤも其息子の手より火のバプテスマを受け度く願ひました。又主の此世に在し給ふた間は信じなかったキリストの兄弟等も參りました。或は十字架の爲に、或は甦の爲に悔改めましたから、今一番熱心な信者と一緖に祈禱を務めました。主イエスは必ず凡ての信者の爲に祈り給ひました。然れ共必ず格別に其兄弟の爲に祈り給ふたと思ひます。又必ず彼等が悔改むるやうに、熱心に重荷を負ふて父に願ひ給ひました。
此百二十人が主イエスの仰に從って、待望む事を始めました。待望むといふ事は、爲易い吞氣な事ではありません。母が愛する自分の息子の遠國から歸るのを待望む樣に、今心を盡して聖靈の來り給ふ事を待望みました。妻が戰から歸る夫を待望む通りに、今恐れたり信じたりして、聖靈の來り給ふ事を待望みました。多分此祈禱を始めました時には、其日の中に受けると思ひましたでせう。然れ共木曜日の夜になりましたが、未だ受けません。其翌日の朝は金曜日でありました。金曜日は主イエスが十字架の上に全き贖を成遂げ給ふた日でありますから、此弟子等は多分此金曜日には受けると思ひましたらう。然れ共晩になりましても、何にも受けませんでした。日曜日になりました時に、是は甦の日であると覺えまして、多分此日こそは受けることゝ待望みました。然れ共未だ何にも得ません。
神は其間に段々此弟子等の心の中に働き給ふたと思ひます。始めに其心の中に未だ幾分か己を信ずる心、己の力に依賴む精神が殘って居たかも知れません。其が全く取除かれねば聖靈を受ける事が出來ません。或は又心の中に未だ人を恐れる恐、自分の名譽を大切に思ふ考が殘って居たかも知れません。神は此永い祈禱會の時に近づき給ひまして、其やうなものを潔め給いましたでせう。また其信仰を試して、純金のやうなものにならしめ給ひましたでせう。段々日が經ちますれば經ちます程、サタンが攻擊したに相違ありません。サタンは種々な疑を起させましたらう。主イエスは『久からずして』と言給ひましたのに、最早七日も八日も過ぎ去りましたから、主の聖言は眞實ではないではなからうか、と云ふ疑が起りましたでせう。然れ共其樣なサタンの火箭を防いで、續いて信仰を握って祈りました。
缺陷を補ふ
其時に十五節からのやうにユダの代りに或弟子を選びました。聖靈が下り給ふ時に、十二人が揃って居る筈であると思ひまして、缺員を滿しました。聖靈が來り給ひますならば、戰に出なければなりませんから、格別に危い役目の爲に一人の勇士を選ばねばなりません。其爲にどんな人がなければならぬかといふに、廿一節『主イエスが我儕の中に往來し給たる間 即ちヨハネのバプテスマより始われらを離て擧られし日に至るまで恒に我儕と偕に在し者』。是が第一に大切でありました。永い間忠實に主に從った者、永い間主の足下に坐って敎へられた者、また永い間十字架を負ふて主に從った者である筈であります。又他の弟子等と交際をした者を選ばねばなりませんでした。又主イエスの働の始から、即ち其光を見ました時、直に悔改めた者でなければなりません。或人は其光を見ましても、時を延して其時に悔改めませんでした。そんな人は主イエスの爲に善き勇士となる事が出來ません。主の聖聲を聞きました時に早速悔改めた者が、主の爲に一番よき武者となります。又其次に、其人は甦の證人でなければなりません。自分が主イエスの活ける者なる事を經驗した者である筈です。主イエスが眞正に勝を得給ひました事、又主イエスが眞正に神の子である事を悟った者でなければなりません。此弟子等は其危い職務の爲に、此二人を選びました。
さうですから段々此弟子等は、聖靈を受ける爲に仕度をしました。自分の心の中に最早全き献身が出來ました。最早己を依賴む心が無くなりました。自分の力のない事がよく解りました。眞正に神の聖前に空虛となりましたから、聖靈を受けるのに其仕度が出來ました。どうか兄弟姉妹よ、卿等の心の中にも、其仕度が出來るやうに求めなさい。祈禱の中に聖靈の火を求むる事よりも、却て先づ聖靈を受ける仕度ができたかどうかを省みなさい。或兄弟は永い間熱心に聖靈を求めましたが、未だ其を得ません。何故なれば未だ神の靈に從って、心の中に其仕度が出來て居らぬからであります。卿が上等の物を器に入れて置きたう厶いますならば、先ず第一に其器をよく潔め、其を奇麗にしなければなりません。此一章の終迄に、神は此弟子等にそんな風に奇麗に仕度をなさせ給ひました。終に其仕度が出來ましたから、聖靈が來り給ひました。
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