第三十五 コリントに於ける反對と成功
勞働者としてのパウロ
『此後パウロはアテンスを離て』。十七章の終に或人々は『我儕この言を再び爾に聽ん』と申しましたが、パウロはアテンスを離れましたから、最早其機を失ひました。神が今と勸め給ふ時に其勸を拒み、心を留て福音を聞きませなんだから、遂に其機を失ひました。パウロはもう一度彼等に話を聞かせません。アテンスを離れてコリントに參りました。
コリントに參りました時に、如何いふ心を以て參りましたかならば、哥林多前書二章一節から御覽なさい。『兄弟よ 我曩に爾曹に到りし時も言と智慧の美たるを以なんぢらに神の證を傳へざりき 蓋われイエスキリストと彼の十字架に釘られし事の外は爾曹の中に在て何をも知まじと意を定めたれば也』。かういふ心を以て參りました。アテンスでは或は幾分か哲學者の心に合ふやうにと思って、說敎したかも知れません。然れ共今コリントに參りました時に、唯十字架のみを話すやうに決心しました。又如何いふ有樣でコリントに居りましたかならば、其續きを御覽なさい。『我なんぢらと偕に居し時は』、大膽を以て權威ある强い言を以て臨みましたらうか。否、此聖靈に滿されし使徒は『弱かつ懼また多く戰慄り』。私共も時として戰慄きますが、弱い私共許りでなく、此大使徒さへも戰慄いてコリントに參りました。『我言し所また我宣し所は人の智慧の婉言を用ゐず 唯靈と能の證を用ゐたり 蓋なんぢらの信仰をして人の智慧に由ず神の能に由しめんと欲ばなり』(以上一〜五節)。然うですから人間の智慧と世に屬ける力を用ふる事を恐れました。其樣なものを用ひますれば、新しき信者の信仰は弱い基礎の上に立てられます。唯キリストと其十字架を宣傳へて、信者の信仰を神の能力の上に立たせたう厶いました。
此アクラとプリスキラの二人は、近頃ロマより放逐せられた者であります。多分其財產を失って苦んでコリントに參りましたが、其が却て幸福となりました。神は愛を以て彼等を顧み給ひました。彼等は其處でパウロに遇ひ、パウロを自分の家に宿す事を得まして、其によりて恩惠を深く味ふと共に、樂しい愛の交際を結ぶ事を得ました。おお神の攝理は實に讃美すべきであります。私共も時として信仰の爲に損失を受けます。或は放逐せられるやうな事があるかも知れません。然れ共神は其に反して大なる報を與へ給ひます。多分パウロは此二人を聖靈の惠に導いたと思ひます。一緖に神を求めて新しい深い惠を受ける事を得ました。
是は面白う厶います。コリントは當時敎育の進んで居る所で、又大變に繁華で富んで居る、甚だ奢った風俗の都でありました。其樣な處に傳道に行きますれば、立派な生活をして、又高等の敎育を示して傳道すべきではないかと思はれますが、パウロは其樣な事に依賴まず、此樣な都に傳道者として參りました時に、賤しき一勞働者として行き、自分の生活の爲に手づから働をして儲けました。パウロは唯神の力に
コリントに於おける傳道
先刻讀みました哥林多前書コリントぜんしょ二章によりて、如何どういふ言ことばを用ひ、又どういふ心を以もって說敎したかを見ました。
『シラスとテモテ、マケドニヤより下くだりたる時』。十七章十五節に於おいて學びました如やうに、パウロはシラスとテモテをベレアに留とゞまらせ、後あとからアテンスに來るやうに願ひました。又多分後あとから彼等はアテンスに參りました。然けれ共どもアテンスに着きましたら、直すぐテモテをテサロニケに送りました(撤前テサロニケぜんしょ三・一〜三)。然さうですからテモテは一度アテンスに參りました。パウロは自分の慰藉なぐさめの爲ために彼が來る事を願ひましたが、テサロニケの信者の事が重荷になりましたから、直樣すぐさまテモテを其處そこに遣はしたのであります。パウロは其時そのときに自分の傳道、即すなはちコリントの傳道の爲ために大おほいなる心配がありましたが、また他處よそに居ゐる信者の爲ためにも重荷を負ひましたから、喜んで愛する弟子を他處よそに遣はしたのです。然けれ共ども今此時このときにテモテがもう一度パウロの所に参りました。
其時そのときパウロは傳道の爲ために心を凝こらして居をりました。罪人つみびとの爲ために大おほいなる重荷を負ひ、心の中うちに㷔ほのほが燃えて居をりました。十七章十六節に於おいて一人アテンスの都みやこに居ゐた時に、心が傷いためられて罪人つみびとの爲ために重荷を負ふて靈魂たましひに向むかふ愛に燃もやされ、兄弟等たちと共に尚なほ一層熱心に働きました。
『心を凝こらし居をれり』。是これは私共わたくしどもの祈禱いのりの問題となりますまいか。私共わたくしどもも其それを願はなければなりません。哥林多後書コリントこうしょ五章十四節にも同じ原語が記してあります。『キリストの愛われらを勉はげませり』。此この『勉はげませり』といふ言ことばは原語で同じ字であります。又路加傳ルカでん十二章五十節にも同じ語ことばがあります。『われ受うくべきのバプテスマあり 其その成遂なしとげらるゝ迄までは我わが痛いたみいかばかりぞ乎や』。キリストの心の中うちにも同じ經驗がありました。パウロの此この二ふたつの引照の如くに、其その心はキリストの愛に勵まされて、罪人つみびとを救はんが爲ために大おほいなる心の痛いたみを有もって居をりました。
遂つひに此處こゝを去りました。然さうですから福音を斷る人、神に逆そむく人は最早もはや福音を聽く事を得ません。神は喜よろこびの音信おとづれをかういふ人より取去とりさり給ひます。豚の前に眞珠を投與なげあたへぬ方はうがよう厶ございます。
パウロは以西結書エゼキエルしょ三十三章の言ことばを思出おもひだして、『爾曹なんぢらなんぢらの血は爾曹なんぢらの首かうべに歸きすべし』と申しました。『爰こゝにヱホバの言ことばわれに臨みて言ふ 人の子よ 汝なんぢの民たみの人々に告つげて之これに言へ 我われ劍つるぎを一ひとつの國に臨ましめん時 その國の民たみおのれの國人くにびとの中うちより一人を選えらみて之これを守望人まもりびととなさんに 彼かれ國に劍つるぎの臨むを見ラッパを吹ふきてその民たみを警いましむることあらん 然しかるに人ラッパの音おとを聞きゝて自みづから警いましめず劍つるぎつひに臨みて其その人を失ふにいたらばその血はその人の首かうべに皈きすべし 彼かれラッパの音おとを聞きゝて自みづから警いましむることを爲なさざればその血は己おのれに歸きすべし』(一〜五節)。パウロは忠實にラッパを吹きました。然けれ共ども此この人は聞きませなんだ。忠實に力を盡つくして戒いましめました。忠實に聖言みことばを宣傳のべつたへました。又聖靈の力に依賴よりたのんで宣傳のべつたへましたが、彼等は是これに聞きませなんだから、『爾曹なんぢらの血は爾曹なんぢらの首かうべに歸きすべし』といふ恐ろしい宣告を下くだしました。
『我われは咎とがなし』。パウロは我われは潔きよし、爾曹なんぢらの血に關係がないと言ふ事を得ました。二十章廿六節に於おいて、もう一度同じ事を言って居をります。『是故このゆゑに我われ今日けふなんぢらに證あかしす 凡すべての人の血に於おいて我われは潔いさぎよくして與あづかることなし』。かういふ事を言ふ事が出來れば幸福さいはひであります。然けれ共ども或ある人は未まだ充分に力を盡つくさず、又未まだ聖靈の力を得ずして、唯たゞ幾分か傳道した丈だけで此このやうに申しますが、是これは大おほいなる間違まちがひであります。パウロは聖靈の力を蒙かうむり、其その力に依賴よりたのんで全力を盡つくして福音を宣傳のべつたへた後のちに是これを申しました。
遂つひに此處こゝを離れ去りました。時には頑固かたくななる罪人つみびとを離れ去るのは聖旨みむねに適かなふ事であります。神は續いて彼等に惠めぐみの福音を宣傳のべつたへさせ給ひません。
此この會堂の宰つかさと其その家族は、此この地に於おける初はじめの果みであります。此このクリスポに就ついて哥林多前書コリントぜんしょ一章十四節を御覽なさい。パウロは此この人に自分でバプテスマを施しました。『われ神に謝しゃす 我われはクリスポとガヨスの外ほかなんぢらの中うち一人にもバプテスマを施しゝことなし』。此このクリスポが救はれましたから、直すぐ他ほかの會堂の宰つかさが立てられました。十七節にソステネといふ人があります。即すなはち基督キリスト信者となりしクリスポを放逐して他ほかの人を宰つかさと致しました。
主しゅの奬勵しゃうれい
主しゅは懇ねんごろにパウロに近づき、彼かれの心を勵まし給ひました。其時そのとき彼は幾分か大膽だいたんを失って居ゐたかも知れません。今迄いまゝでの事を考へますと、其それは無理もない事であります。十六章二十三節でピリピにて鞭打たれて獄ひとやに入れられ、十七章五節以下に於おいてテサロニケで迫害せられて逃げなければならぬやうになり、又其その章の十三節に於おいてもベレアに於おいて迫害せられ、もう一度生命いのちを救ふ爲ために他處よそに逃げなければならぬやうになり、又卅二節を見ればアテンスでは嘲あざけられました。幾分か失望するのは無理もありません。然さうですから主しゅは近づいて、懇ろに勵まし給ひました。
此この九節に三みっゝの勸すゝめがあります。第一に『懼おそるゝ勿なかれ』。パウロの心の中うちに幾分か恐おそれが起ったかも知れませんから、神は此この勸すゝめを與へ給ひました。恐怖おそれは傳道の妨害さまたげになります。第二は『默もくする勿なかれ』です。後のちにパウロは其それに就ついて祈禱いのりを願ひました。可羅西書コロサイしょ四章三、四節『また神われらに道みちを傳ふるの門もんを開き 我儕われらをしてキリストの奥義おくぎを語らしめ わが言いふべき所の如く此この奥義おくぎを顯あらはさしめ給はんことを我儕われらの爲ために祈るべし』。パウロは此このやうに大膽だいたんに神の奥義おくぎを言表いひあらはす力を求めました。第三に『語かたるべし』。時を得うるも得えざるも道みちを宣傳のべつたへなければなりません。
此この節に主しゅが勵まし給ふ三みっゝの理由があります。第一に『われ爾なんぢと偕ともにあれば』。主しゅが共に在いまし給ひますれば、是これは豐ゆたかなる財源であります。第二に『爾なんぢを害せんとて責せむる者なし』。即すなはち斷えず神が護まもり給ふ事です。神は其その周圍まはりに火の垣かきとなって護まもり給ひます。第三に『且かつこの邑まちには我わがおほくの民たみあり』。然さうですから必ず成功します。今は反對する者は多くあっても、其中そのうちより主しゅの捕虜とりことなる者が多いと主しゅは言いひ給ひます。列王紀略上十九章十八節を見ますと、神はエリヤに同じ事を言ふて、彼かれの信仰を起し給ひました。『又我われイスラエルの中うちに七千人しちせんにんを遺のこさん 皆其その膝をバアルに跼かゞめず其その口を之これに接つけざる者なり』。どうぞ私共わたくしどもも此この九節と十節(使徒行傳)を深く味あぢはって、其それによりして自分の傳道心を勵まされたう厶ございます。
多分此この間あひだに帖撤羅尼迦前後書テサロニケぜんごしょ(1, 2)を書送かきおくったと思はれます。
一年六ヶ月の間あひだ迫害の中うちに傳道して居をりました。是これは眞まことの忍耐であります。又眞まことの信仰であります。十節の約束に依賴よりたのむ信仰があったから、其それが出來たのです。又是これは眞まことの勞働でありました。忍耐と信仰と勞働。聖靈に滿みたされた傳道者は、何時いつでも其そのやうに働きます。又其それによりて必ず成功致します。後のちパウロは此この地に哥林多前後書コリントぜんごしょ(1, 2)を送った位ですから、此時このときの働はたらきは大おほいなる結果がありました。哥林多後書コリントこうしょ一章一節を見ますと『コリントにある神の敎會と徧あまねくアカヤにある凡すべての聖徒』とありますから、其その周圍まはりにある國々にも多くの信者が起りました。又コリントの港はコリントより二三里離れたケンクレアといふ處ところにありましたが、羅馬書ロマしょ十六章一節に『ケンクレアにある敎會』といふ言ことばがありますから、パウロは此時このとき唯たゞコリントの町のみならず、其その周圍まはりの田舎にも、ケンクレアの港にも福音を宣傳のべつたへた事が解わかります。又何處どこに於おいても救はるゝ者がありました。
主しゅの保護
パウロは十節に神の約束を受けて、害せんとて責むる者のない事を確信しましたが、神は其その約束の如く彼を護まもり給ひました。十二節より十六節迄までに其その一ひとつの例があります。此處こゝで主しゅが如何どうして其その使者つかひを護まもり給ふたかを知る事が出來ます。
今迄いまゝでも度々たびたび靜しづかな、秘ひそかないろいろな訴うったへがあったに相違さうゐありませんが、今公おほやけに裁判所に訴へられました。
彼等は自分の惡い心を隱し、自分等じぶんたちは神の爲ために熱心なる者の如くに裝ひ、善人の風ふうをしてパウロを訴へて參りました。
今神の力は不思議なる攝理の中うちに表あらはれました。ガリヨは正しき裁判人さいばんにんでありました。パウロに不義奸惡等とうの事は決してなく、彼について惡い事を言ふ事は決して出來ません。然さうですから彼等を裁判所より逐出おひだしました。
希臘人ギリシャびとは猶太人ユダヤびとを平生から憎んで居をりました。今猶太人ユダヤびとはパウロを迫害して、裁判所に訴へましたが、ガリヨが彼等を逐出おひだしましたので、希臘人ギリシャびとは此この猶太人等ユダヤびとたちを迫害し、その中うちの重おもなるソステネを執とらへて杖打むちうちました。ガリヨが是これを放任して置いた事はよくありませんが、彼がパウロに對する處分は、正しい裁判さいばんでありました。
ソステネは、此時このときにパウロを訴へて、却かへって希臘人等ギリシャびとたちから擊たれましたが、後のちにパウロの親しい友となりました。哥林多前書コリントぜんしょ一章一節を見ますと、パウロが其その書ふみを送った時にソステネが共に居ゐたことが解わかります。ソステネはパウロの親しき友となり、一緖に旅行し、格別に此この哥林多前書コリントぜんしょを書送かきおくった時には、パウロはソステネと一緖に此この書ふみを書送かきおくりました。多分ソステネが希臘人ギリシャびとから迫害せられて擊たれた今此時このときに、パウロは走り行ゆいて彼を助けたかも知れません。其それに就ついては何も書いてある譯わけではありませんが、パウロの精神から考へて見れば、然さうしたかも知れません。パウロはソステネから迫害せられましたが、今ソステネが迫害せられるのを見て、喜んで彼を助け、希臘人ギリシャびとの手より彼を救出すくひだしたと思ひます。多分其それによりて其時そのときよりソステネは彼かれの親しき友となりましたでせう。
歸り途みち
此この髮かみを剃そる事は誓願の時の終をはりを表あらはすものであります。パウロはコリントに於おいて非常なる迫害と困難に出遇であひましたから、多分其その地の傳道の爲ために、特別に誓願を懸けて神に願った事と思ひます。民數紀略六章を御覽なさい。一節より八節迄までにナザレ人びとの誓願の事が記してあります。イスラエル人びとは格別に己おのれを神に獻げる時に、かういふ事を致しました。『ヱホバ、モーセに告つげて言いひたまはく、イスラエルの子孫ひとびとに告つげて之これに言へ 男または女俗ぞくを離れてナザレ人びとの誓願を立て俗ぞくを離れてその身をヱホバに歸きせしむる時は』。即すなはち格別に身も魂たましひも獻げる時であります。かういふ時には格別に世につける事を離れました。例へば三節を見れば葡萄酒ぶだうしゅを少すこしも飮まず、又五節にある如やうに決して剃刀かみそりを頭かうべにあてず、又六節にある如やうに決して死體しかばねに近ちかづかず、葬式のやうな處ところに參りません。パウロは多分コリントの戰たゝかひの爲ために、此樣このやうなナザレ人びとの誓願を立てました。パウロは勿論何時いつでも身も魂たましひも獻げて居ゐた人でしたが、コリントの傳道は特別に甚はなはだしき戰たゝかひの時でありましたから、此世このよの事を離れて唯たゞ神の爲ために專もっぱら力を盡つくしました。此この誓願はかういふ特別の獻身の外部うはべの兆しるしでありました。然けれ共ども今コリントの傳道が終りましたから、髮かみを剃そって其その誓願の時の終った事を表あらはしました。
多分是これは唯たゞ一晩だけの集會あつまりでありましたらうが、其その話は眞まことに力がありましたから、廿節にあるやうに衆人ひとびとは彼が久しく偕ともに居をらん事を願ひました。
此この二十二節の終をはりに於おいて、パウロの第二傳道旅行が終ります。多分此この旅行は二三年間の旅行でありましたでせう。パウロは今此時このときに五十三四歲になりました。旅行を終って、元の敎會のアンテオケに歸って、暫く其處そこに止とゞまりました。アンテオケの信者は必ず喜んで彼を迎へたに相違さうゐありません。而さうして彼かれの傳道の報告や心靈上の話を聞いて、大おほいに勵まされ、其爲そのためにアンテオケに大おほいなる恩惠めぐみが降くだった事と思ひます。
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