第廿四 ペテロ羅馬人ローマびとすくひ宣傳のべつた



歷史の危機

第 十 章

 九章おいて、神は異邦人のために、使徒を選び給ひました。十章おいて、神は異邦人のために、傳道の門戸を開き給ひます。これじつに驚くべき恩惠めぐみでありました。今この十章おいて始めて、異邦人が其儘そのまゝすくひを受くる事を得ました。これは歷史中の危機でありました。今迄いまゝで悔改くいあらためて神を信じたい異邦人は、たゞ猶太人ユダヤびとの會堂において、祭司や神殿みやの儀式によりてばかり、神のめぐみを得られました。どもこれよりたれでも少しのへだてなくして、しゅイエス・キリストの名によりて、神のめぐみを受ける事を得ます。私共わたくしども其爲そのため恩惠めぐみを得ましたから、格別に大切に此處こゝを讀むはずであります。

三大洲さんだいしうの人の悔改くいあらため

 八章おい阿弗利加人アフリカじん悔改くいあらための話がありました。九章おい亜細亜人アジアじん悔改くいあらための話がありました。今この十章おい歐羅巴人ヨウロッパじん悔改くいあらための話があります。神はこのみっゝの話によりて、何處どこでもの人を惠み給ふといふ事をあらはし給ひます。

コルネリヲの人物

一、二節

 コルネリヲはどういふ人であるかと申しますと、羅馬ローマの華族でありました。羅馬ローマの歷史のうちに、度々たびたびこの華族の話が出ます。コルネリヲといふ家は、名高い家で、この人は眞心まごゝろもって神を求めてた人でありました。たゞ自分一人でなく、二節にあるやうにすべての家族と共に、神を敬ひました。神の恩惠めぐみあぢはひましたから、どうかしてそれを自分の愛する者にも分與わけあたへたうございました。又其許そればかりでなく、おほく施濟ほどこしをしました。すなはち心の廣い者であります。たれ施濟ほどこしをしましたかならば、大抵たいてい猶太人ユダヤびとに致しました。羅馬人ローマびとが輕蔑してった外國人にも、廣い心をもっ施濟ほどこしをしたのであります。又二節をはりに『つねに神に祈禱いのりせり』とあります。すなはこの人は祈禱いのりの人でありました。其樣そのやうこの人は心のうちおいても、外部うはべおこなひおいてもきよい人でありました。どもすくひを得てりません。十一章十三節十四節を見ますとそれわかります。其處そこのちにペテロが此時このときの事を述べてところでありますが、其中そのうちにかう申してります。『かれ我儕われらにつぐ 天の使者つかひ我家わがいへたちわれにむかひて 人をヨツパへつかはしペテロといふシモンをむかへその人なんぢ及びなんぢの家族の救はるべきことばつげんといへるを見たりと』。罪人つみびとうちしゅイエスに依賴よりたのまないで救はれる事が出來るとすれば、第一にコルネリヲは救はれてたに相違ありません。どもコルネリヲはすくひを得てりませなんだ。この十章卅七節を見れば、コルネリヲは最早もはやしゅイエスのうはさを聞きました。又四十三節にペテロは舊約全書を引きましたから、多分この人は舊約全書を讀んでたと思はれます。どもすくひを得てりません。ども既に得た光に從ってりましたから、神は恩惠めぐみを與へて、なほあきらかなる光を與へ給ひたうございます。うですから三節おいて祈りました時に、(此時このときたゞ祈ったけではありません、三十節を見れば斷食して祈ったのです)天使てんのつかひが近づきました。祈禱いのりの時はよく天使てんのつかひまじはる時であります。祈禱いのりを務めなければ、其樣そんな經驗を得ません。

神のみちびきと準備

三〜八節

 天使てんのつかひはコルネリヲにすくひみちを敎へません。この五節を見ますと、すくひみちを示す人を敎へます。その人のる所は『ヨツパ』である事、その人の名は『ペテロといふシモン』である事、そのやどってる家は『皮工かはなめしシモンの所』である事などについあきらかに敎へました。これ丁度ちゃうど九章の十一節のやうな詳しいみちびきであります。七節おいてコルネリヲは、そのみちびきに從って、三人の使つかひをヨツパに遣はしました。この三人はコルネリヲのやうに信仰の厚い者でありました。多分コルネリヲの信仰と祈禱いのりを見て、自分等じぶんたちそれに從った者でありましたでせう。

 九節より見ますと、神は同じ時に、傳道者の心をも備へ給ひました。神は度々たびたびそのやうに、御自分を求むる者に傳道者を遣はし給ひたうございます。又その人の家に傳道者を導き給ひたうございます。れども神の聖聲みこゑをきく傳道者はじつすくなございます。どうか私共わたくしども何時いつでも深く神とまじはり、それによりて靜かなる聖聲みこゑをきゝたうございます。

 神は今ペテロの手をもって、廣い傳道を始め給ひたうございました。神はそのやうにペテロを祝福し給ひたうございました。私共わたくしども度々たびたび神にリバイバルを願ひます。れどもその私共わたくしどもが親しく神とまじはる事がなければ、神はあるひそのリバイバルを始める事が出來ぬかも知れません。此時このときづ第一にペテロの信仰を備へなければなりません。ペテロは最早もはやしゅイエスの『あまねく世界をめぐりすべての人に福音を宣傳のべつたへよ』(馬可傳十六・十五)との命令を聞きました。ども眞正ほんたうそれを信ずる事が出來ませなんだ。罪人つみびとが救はれたいならば、今でも猶太人ユダヤびとにならねばならぬと思ってました。すなはちペテロはしゅイエスの命令を聞いてましたが、だコルネリヲを導くそなへがありません。彼は最早もはやペンテコステの恩惠めぐみを得、又ペンテコステの光をも得ました。どもだコルネリヲを導くに足りません。彼は最早もはや使徒行傳二章八章及び九章おいて、神のくすしき御業みわざを拜見しました。又廣く福音を傳へて段々だんだんサマリアにまで至り、神が罪人つみびとを救ひ給ふた事を見物しました。どもペテロには羅馬人ローマびとを導く程の信仰がありませなんだ。其程それほどに神の福音の力と、しゅイエスの御心みこゝろわきまへませんでした。かれの心にはいまだ偏見がありました。いまだ心が狭うございました。私共わたくしどももかういふ罪を恐れなければなりません。ペテロのやうな人でさへ斯樣かやうに心が狭く、其爲そのため眞正ほんたうに信ずる事が出來ず、又罪人つみびとを導く事が出來ませんならば、私共わたくしどもも神の前におのれを低くして、廣き心と、又まことの信仰を求めねばなりません。

祈禱いのりの力と新しき光

 神はペテロを備へんがめに、彼に天よりのまぼろしを見せしめ給ひました。

九節

 これはサウロがまぼろしを見たのと同じ時刻でありました。廿二章の六節を見ますと、サウロも丁度ちゃうど十二時頃、天よりの光を見ました。

十節

 『人の食物しょくもつとゝのふうちに』、さうですからゑて食事を待ってる時でした。其時そのときにペテロは何を致しましたかならば、祈禱いのりを務めました。ある人は空腹で食事を待ってるやうな時には、かへって氣が短くなりまして、祈る事が出來ません。どもペテロはそんな時に祈禱いのりを務めました。又其時そのときに天よりのまぼろしを見ました。

十一節

 『天ひらけ』、九章 十章おいて、祈禱いのりの力と祈禱いのりめぐみを見ます。九章四十節で、ペテロは祈って死人をよみがへらす事を得ました。今此處こゝで祈った時に天が開かれ、人が救はれるみち尚々なほなほ明らかにわかりました。十章三十節には、コルネリヲが祈って天使てんのつかひを見た事を申してります。この三つの例によりて、祈禱いのりの力を知る事が出來ます。

 神はペテロに聖國みくにが廣まる事について、新しき事を教へ給ひたうございます。これはペテロに取りて、食事よりも大切なる事であります。神は私共わたくしどもにも、祈禱いのりの時にそれついて教へ給ひたうございます。神は度々たびたび私共わたくしどもの眼の前にも、ペテロに見せ給ふたやうにおほいなる布をくだし給ひます。又其中そのうちにある者を見よと命じ給ひます。

十二〜十六節

 ペテロは其時そのとき自分の知識に從って、神より新しき光を頂く事が出來ませんでした。私共わたくしども度々たびたび自分の知識に依賴よりたのんで、神の新しき光を斷ります。神は私共わたくしどもために新しく傳道の門戸を開き給ひたうございます。又私共わたくしどもに傳道の特權とくけんを與へ給ひたうございます。ども私共わたくしども度々たびたび心をかたくなにしますから、神の新しき光を受けません。どうか何時迄いつまでも、聖書によりて神の聲をきく事の出來る心をもっりたうございます。今迄いまゝでの經驗のために、又今迄いまゝで得た恩恵めぐみために、あるひは又神學の說などによりて、思想が固まって仕舞しまひますれば、其爲そのために神の聖聲みこゑをきく事が出來ません。又其爲そのために傳道を妨げます。神が使ひ給ふ傳道者は如何どういふ人であるかと申しますれば、自分の知識に依賴よりたのまず、何時いつでもしゅ御足下おんあしもととゞまりて、斷えず直接に神より光を受ける人であります。

神の攝理

十七、十八節

 十七節はじめ十九節はじめを見ますと、ペテロは深くその異象まぼろしの意味を考へ、これを神に求めました。神は必ずそれによりて何かを敎へ給ふに相違ちがひないと思ひました。出埃及記しゅつエジプトき三章三節四節を見ますと、モーセが燃ゆるしばを見て、熱心にその意味を求めてた時に、神は彼を呼び給ひました。今ペテロもそのまぼろしの意味を熱心に求めました時、神は彼に近づいてその深い意味を悟らせ給ひました。

 ペテロがその意味を考へてた時に、コルネリヲより遣はされた使者つかひが訪ねて參りました。今でも神はそのやうに働き給ひます。あなたが聖書によりてしづかに神の聲を聽いてなさる時に、あるひは神の恩惠めぐみを得なされた時に、其時そのときあなたを訪ねて來る人があります。多分御自分ごめいめいの經驗のうちにそんな事がありましたでせう。それによりて神はあなたを導き、あなたを使ひ給ふ事を知る事が出來ます。

十九〜廿一節

 ペテロはくだって門の前に三人の羅馬人ローマびとるのを見ました。これは驚くべき事であります。三人の羅馬人ローマびとこの田舎いなか漁夫れふしを尋ねて来た事、又羅馬人ローマびとが神のめぐみを求めて尋ねて来た事は、まことめづらしい事であります。

 廿節おい天使てんのつかひは『たちて……ゆけ』と命じました。其時そのときにはあきらかにみちびきを得ませなんだが、かくその命令に從ってく道で、あきらかなるみちびきを得ました。八章廿六節でも同じ事を見ます。『しゅ使者つかひピリポにかたりいひけるは たちて南のかたむかひヱルサレムよりガザにくだる所のみちゆけ』。ピリポはたゞそれけの命令を得ました。どもく途中であきらかなるみちびきを得ました。九章六節おいても、神はサウロに『おきまちいれ さらばなんぢなすべき事を示さるべし』と命じ給ひましたが、彼がこの命令に從ってまちに參りました時に、あきらかなる光を得ました。其樣そのやう私共わたくしどもも神がけよと命じ給ふ時に、なんためかねばならぬのかわからぬ時にも、かくその命令に從ってきますれば、く途中であきらかなみちびきを得ます。どうか神の聖聲みこゑに從順に從ふ者となりたうございます。希伯來書ヘブルしょ十一章八節を御覽なさい。『信仰によりてアブラハムは……ゆけとのめいかうむこれしたがひそのゆくところをしらずしていで』ました、ども神はねんごろに彼を導きたまひました。

 ペテロは羅馬人ローマびとと共にきますれば、ヱルサレムの信者や敎會の長等かしらたちが反對するであらうとわかりましたでせう。十一章はじめおいその反對を見ます。どもペテロは今天使てんのつかひによって神のめいを受けましたから、有司人等つかさびとたち如何どんなに反對しませうが參ります。

廿二、廿三節

 廿三節はじめを見ますれば、ペテロは三人の異邦人を宿らせました。これめづらしい事であります。かれの信仰が其程それほど進んで來たのであります。又ヨツパの兄弟等きゃうだいたちはペテロに同情をへうしましたから、彼等のうち六人もペテロに伴はれて參りました。(十一章十二節で六人であった事がわかります)。この六人がペテロに同情をへうし、ペテロを助けるめ、又ペテロの信仰を强めるめに、一緖に參りました。これじつうるはしい交際まじはりでありました。

 ペテロは其時そのときたゞ一人を導くめに、カイザリヤにくと思ひました。又それちひさい事のやうであります。どもこれたゞ一人を導く事でなく、あるひたゞちひさ集會あつまりに說敎するけの事でなくして、其時そのときおほくの人々が聖靈を受け、羅馬人ローマびとめに傳道の門戸が開かれる事でありました。私共わたくしども或時あるときちひさい家族の集會あつまりに招かれます。し不信仰がありますなれば、それを輕蔑するかも知れません。ども神はこのちひさ集會あつまりによりて、おほいなる結果を起し給ふた事を覺えたうございます。其通そのとほりにちひさ集會あつまりおいても、おほいなるはたらきが出來ます。

神のことば受入うけいるゝ態度

廿四、廿五節

 コルネリヲはおほいなるのぞみもって、ペテロによりて神のことばを聽く事を待望まちのぞみました。又神より聖言みことばを聽く事はたふとい事でありますから、自分一人でそれを聽かずに、すべての愛する者にもそれを聽かせねばならぬと思ひました。コルネリヲは非常に地位の高い、たふとい人で、ペテロといふのはいやしめられた基督敎キリストけうの傳道者でありますから、普通から申しますれば、コルネリヲがペテロを迎へましても、表門おもてもんからでなく裏門からひそかに迎へて、自分の勉强室にでも案内して、ひそかにをしへを聽くのが本當でありませうが、彼は大勢の人々を集めて、おほやけに表門おもてもんから迎入むかへいれました。これは神のたふと聖言みことばを迎へるためでありました。コルネリヲは神を畏れましたが、人を恐れません。人がなんと申しませうが、神の聖言みことばを聽きたうございました。うですから親戚等しんせきたちが皆集まってる時に、ペテロがはいって來ますと、『彼を迎へその足下あしもとふしをがめり』。これは勿論間違った事ではありますが、それによりてコルネリヲが如何いかへりくだりて神の聖言みことばを待ってったかゞわかります。

傳道者の信者に對する態度

廿六節

 これは傳道者の心であります。私共わたくしどもは人間よりのほまれことはらなければなりません。又人間の禮拜を全く拒まなければなりません。默示錄廿二章八、九節を御覽なさい。『われヨハネ此等これらの事を見聞みきゝせり これ見聞みきゝせしときわれ此等これらの事を示せる天使てんのつかひ足下あしもと俯伏ひれふして拜せんとければ かれわれにいふ しかすべからず つゝしめよ われなんぢおなじしもべなり またなんぢの兄弟なる預言者及び此書このふみことばを守る者とおなじしもべなり なんぢたゞ神を拜せよ』。私共わたくしどもにもういふ心があるはずです。私共わたくしどもは神の使者つかひでありますから、神を代表して人間に慰藉なぐさめことば、光のことば宣傳のべつたへますから、むかふの人はへりくだりて私共わたくしどもを敬ふ事は、當然であるかも知れません。れども私共わたくしどもは斷然それことはらなければなりません。肉につけかんがへがありますならば、きよめられてらない傳道者でありますならば、幾分か心のうち其樣そんな禮拜を喜んで、それ受納うけいれます。うですから罪人つみびとたゞ神のみを拜ませず、幾分か自分に崇敬あがめを取ります。私共わたくしどもの心のうちに、ういふ罪がありますならば、神は私共わたくしどもを使ひ給ふ事が出來ません。神はきよ嫉妬ねたみって給ひますから、必ず御自分けを禮拜するやうに願ひ給ひます。私共わたくしどもは自分にさかえしてはなりません。

會衆の精神

廿七〜三十三節

 廿九節を見ますと、ペテロは何故なぜ參りましたか、だ自分にあきらかにわかりません。『われなんぢらにとふ われをむかへしはなにためなる』。コルネリヲはこれに答へて、今迄いまゝでの神の導きを話しました。さうして三十三節をはりに、『われら神のなんぢめいじ給へる一切すべてこときかんとて今神の前にあるなり』と申しました。これは神の聖言みことばをきくための正しい心であります。ういふ心がありますれば、必ず神はその使者つかひもっその聖言みことばを聽かしめ給ひます。ういふ集會あつまりには必ず聖靈は豐かにくだり給ひます。これは必ずの事であります。何時いつでもの事であります。斯樣かやうに神の一切すべてことばを聽かんとて、神の聖前みまへとゞまりますれば、聖靈は必ずくだはずであります。以西結書エゼキエルしょ十四章三、四節を一寸ちょっと此處こゝと比べて御覽なさい。その一節から讀みますと『こゝにイスラエルの長老としよりうちの人々われにきたりてわがしけるに』、うですから彼等は神のことばを聽くために參りました。『ヱホバのことばわれに臨みて言ふ 人の子よ この人々はその偶像を心のうちたゝしめ罪におとしいるゝところの障礙つまづきをそのかほの前におくなり われあに是等これらの者のもとめいるべけんや』。神は其樣そのやう集會あつまりには必ず聖聲みこゑをきかせ給ひません。聞く人の心のうちに偶像がありますなれば、その偶像を悔改くいあらためるまでは、必ず神は其處そこ聖聲みこゑを聽かしめ、又聖靈をくだし給ふ事が出來ません。コルネリヲの家の座敷に集まった人々は、ういふ人々ではありませなんだ。彼等はなんために參りましたか。ペテロのさいはひな說敎をきくためではありません。ペテロの說をきくためでなく、ペテロの哲学をきくためでなく、ペテロの口より神のことばを聽くためでありました。私共わたくしども周圍まはりにある人々は、私共わたくしどもの說を聞きたくはありません。又私共わたくしどもの哲学を聞きたくもありません。ども嚴肅に神のことばを、私共わたくしどもより聽きたうございます。私共わたくしどもその人々に神のことば宣傳のべつたへますならば、必ず彼等は嚴肅に聽きます。その人は今迄いまゝで少しも神のことばを聞いた事がありませんでも、あるひ今迄いまゝで偶像を拜んで參りました者でも、いける神より與へられた聖言みことば宣傳のべつたへますれば、必ず嚴肅に聽くに相違さうゐありません。うですからどうぞペテロの如く、祈禱いのりもって、又ある時には斷食と祈禱いのりもって、神の聖聲みこゑを聽いて集會あつまり御出おいでなさい。

神よりのことば

 今迄いまゝでペテロはコルネリヲを導くために、如何どういふ心をってたか、又如何どうして神に導かれたかについて硏究しました。これほかの人を導くために最も大切であります。これよりはペテロが何を言ったかを硏究します。これも大切であります。ある人は何を話すべきかを思煩おもひわづらって、そのめ熱心に祈りますが、これは大切な事ではありますが、說敎する時の心の有樣、又神のみちびきに從ふ事は、なほ大切なる事であります。これに比べると、そのことばは格別に大切な事ではありません。づ神のみちびきに從ひ、聖靈に使はれる事の出來るやうな、正しい心をってらねばなりません。

 使徒行傳のうちに、聖靈は度々たびたび私共わたくしどもに、人を導くための說敎の大意を示し給ひます。私共わたくしどもある人が力ある說敎をして、それによりておほくの人が悔改くいあらためたと聞きますれば、その說敎のことばを讀みたく思ひ、又その說敎の力はなんであるかと尋ねたうございます。この使徒行傳十章おいて、神はこのペテロの說敎によりて、おほいなる恩惠めぐみそゝぎ給ひましたから、私共わたくしどもその說敎について熱心に硏究し、又その順序とうを知りたうございます。さうして私共わたくしどもこの說敎の手本に從って、求道する人々に話したうございます。

三十四、三十五節

 神はいづれの國民こくみんにても、御自分を求むる者に恩惠めぐみを與へ給ひますから、今この說敎をきく人々が、眞心まごころから神を信じますれば、必ず恩惠めぐみを與へ給ひます。この時代の猶太人ユダヤびと心中しんちうには、必ずその事についうたがひがありました。私共わたくしどもの心のうちにも、それついうたがひがあるかも知れません。例へばすこしも福音を聞いた事のない人は、今早速さっそくすくひを受ける事が出來ないと思ふかも知れません。又神はこんな罪人つみびとを惠み給ふ事が出來ないかも知れないと、思ふ事もありませう。又それに反して度々たびたび福音を聞いても、だ降參しないやうな人は、早速さっそく憐憫あはれみを受くる事が出來ないと思ふかも知れませんが、どうぞ私共わたくしどもは說敎するはじめから、神が今この聽衆の人々を祝福し給ふと信じて、說敎致したうございます。

三十六〜四十三節

 そのみちは神が與へ給ふたものであります。神は默して給ふ神ではありません。人々にことばべ、みちを與へ給ひました。これ餘程よほど大切な事であります。私共わたくしどもは人間が考出かんがへだした事に從はねばならぬわけがありません。神はあきらかにそのみちを與へ給ひました。それ平和やはらぎの道であります。神はとほざかった人々に、やはらぎを與へ給ひたうございます。今迄いまゝで何樣どんなに罪を犯しましても、神は唯今たゞいま やはらぎを與へ給ひたうございます。これ眞正ほんたうよろこび音信おとづれであります。よろこび音信おとづれ悔改くいあらためよといふ命令ではありません。又は是々これこれの事をおこなへといふ事でもありません。よろこび音信おとづれは神があなたを惠み給ふといふ音信おとづれであります。神のはうからやはらぎの道を開いて、あなたを惠まんとして給ふといふ事は、これまことよろこび音信おとづれであります。

 又このやはらぎはしゅイエス・キリストにりて頂戴する事を得ます。しゅイエス・キリストによりて、罪人つみびと唯今たゞいま神とやはらぐ事を得ます。罪人つみびとは自分の力によりて、又は自分の熱心にりてやはらぎを得ません。ほかの人によりてやはらぎを得ます。すなはたゞイエス・キリストの功績いさほしによりて、罪人つみびと唯今たゞいまきよき神とやはらぐ事を得ます。

 このイエス・キリストはたれでありますか。猶太人ユダヤびと救主すくひぬしでありますか。猶太人ユダヤびとの神の子でありますか。いゝえさうではありません。『このイエスは萬物よろづのものしゅたるなり』。うですから猶太人ユダヤびとばかりでなく、萬物ばんぶつを祝福し給ひます。萬物を神とやはらがしめ給ひたうございます。萬物は直接にしゅイエスの足下あしもとに參る事を得ます。しゅイエスがたゞ猶太人ユダヤびと救主すくひぬしでありますれば、異邦人は猶太人ユダヤびとになって、それからすくひはずであります。その時代の猶太人ユダヤびとうであると、深く信じてました。どもペテロは唯今たゞいま神のめぐみ宣傳のべつたへて、異邦人でも其儘そのまゝ神とやはらぐ事が出來ると申します。

キリストの死とよみがへり

 『このイエスは萬物よろづのものしゅたるなり』。さうですからすべて能力ちからち給ひます。うですからペテロは三十八節から、しゅイエスは如何どういふ御方おかたであるかを語ります。三十八節此世このよいまし給ふた時に、聖靈によりて人々にめぐみを示し給ひまして、色々のわざはひより人々を救出すくひだし給ふた事を申しました。何故なぜなれば三十八節をはりに、『そは神彼とともなりしによる』とあるためであります。しゅイエスはまことのインマヌエルの救主すくひぬしでありました。神が共にいまし給ふ救主すくひぬしでありました。どもたゞそのをしへによりて、又そのいやしによりて人を救ひ給ふのではありません。三十九節を見ますと、十字架に昇り給ひました。又それのみならず四十節おいて、神はこのしゅよみがへらせ給ひました。其樣そのやうにペテロは、しゅイエスのきよき生涯と、その死と、そのよみがへりとを宣傳のべつたへました。哥林多前書コリントぜんしょ十五章の一節から御覽なさい。『兄弟よ さきわがなんぢらにつたへし福音を今また爾曹なんぢらつぐ こは爾曹なんぢらうけしところ これよりたちし所なり』。あなたなんために救はれましたか。なんため恩惠めぐみを受けましたか。如何どういふ福音によって更生うまれかはりましたかといふに、その次にあります。『爾曹なんぢらもしが傳へしことを固く守りいたづらに信ずることなくばこれよりすくはれん わが爾曹なんぢらに傳へしはうけし所の事にてその第一はすなはち聖書にかなひてキリスト我儕われらの罪のためにしに また聖書にかなひはうむられ第三日みっかめよみがへり』(二〜四節)。これはパウロの福音であります。しゅイエスの死とよみがへりそれによりてコリントの信者はすくひを得ました。又神を知る事を得ました。此處こゝにもペテロは同じ福音を宣傳のべつたへました。

 よみがへり給ふたしゅイエスは、私共わたくしどもその福音を宣傳のべつたふるやうに命じ給ひます。四十二節ことばに『のべよと命じたり』。私共わたくしどもは神の召し給へる使者つかひであり、又證人あかしびとであります。

 しゅイエスは今迄いまゝで其樣そのやうに人のすくひために働き給ひました。これ今迄いまゝでの事でありますが、未來においては人の審判人さばきびとであります(四十二節)。ども唯今たゞいまは人の救主すくひぬしであります(四十三節)。ペテロは異邦人に對して、あきらかに神の審判さばき宣傳のべつたへました。使徒行傳十七章三十一節を見ますれば、のちにパウロはアテンスにる異邦人に同じ事を宣傳のべつたへました。すなはしゅイエスは審判主さばきぬしであると傳へました。『そは神すでにそのたてし所の人により義をもて世をさばくべき日を定め この事については彼を死よりよみがへらせてそのあかしもろもろの人にあたへたまへばなり』。ども唯今たゞいま四十三節のやうに、しゅイエスは救主すくひぬしであります。たれでもを救ひ給ふ御方おかたであります。何人だれでもしゅを信ずればすくひる事が出來ます。ペテロのみでなく、聖書の『すべての預言者も』その事をあかししてます。聖書のうちそれを見る事が出來ます。

純粹な福音の要點

 又格別に大切な事が、この四十三節あらはれてますから、注意して御覽なさい。第一、すくひる人は如何どういふ人であるかならば、『おほよそ彼を信ずる者』、”whoever” すなはだれでも、どんな罪人つみびとでも、しゅを信じさへすればすくひる事が出來ます。第二、すくひを受くる方法はなんでありますかならば、『その名(すなはちイエスの名)によりて』。第三、そのすくひ如何どういふ恩惠めぐみでありますかならば、『罪のゆるし』であります。すなはこの四十三節は純粹の福音であります。ペテロははじめしゅイエスの十字架とよみがへりついて話し、又聖書にもとづいてそれを述べ、をはりに今の罪人つみびとも信ずる事によりて、だれでも唯今たゞいますくひる事が出來るとあきらかに宣傳のべつたへました。どうぞ私共わたくしども度々たびたびこの順序に從って說敎致したうございます。

聖靈ペテロを押除おしのけ給ふ

四十四〜四十六節

 『ペテロこのことを語れるあひだに』。うですからペテロはその說敎ををはりません。十一章十五節を見れば、のちにペテロが此時このときの事を言ってうちに、『かくわがかたりはじめしとき』と申してます。すなは此時このときたゞ說敎をはじめたけでありました。ども聖靈がすべての者の上にくだりましたから、その說敎を終迄をはりまで續ける事が出來ません。中止致しました。私共わたくしどもも說敎する時に、どうぞ其樣そのやうな事を待望まちのぞみたうございます。大切な事は、あなた如何どういふことばをいふかでなく、天より聖靈がくだる事であります。うですから說敎の時に、斷えず心の眼を擧げて、聖靈のくだる事を待望まちのぞみなさい。聖靈があなたと共に働き給ひませんならば、あなたの說敎は駄目であります。ども祈禱いのりもって說敎しますれば、聖靈は天よりくだり、その會衆の心を感動させ給ひます。

 『わがかたりはじめしとき聖靈……くだれり』。これ幸福さいはひであります。この人々はをしへを全く聞かなければならぬわけはありません。又ペテロは上手な說敎をして、その人々を動かさねばならぬわけはありません。聖靈はペテロの說敎のはじめの頃にくだり給ひました。すなはち神は急いでこの人々を救ひ給ひました。神は折角せっかくヨッパからその使者つかひを送り給ひましたが、しかし神はその使者つかひ押除おしのけて置いて、御自分で働き給ひました。神は此時このときペテロに格別な說敎を與へ給ひましたでせうが、ペテロの說敎をわきに置いて、御自分で直接に働き給ひました。これ幸福さいはひであります。私共わたくしどもが聖靈のみちびきを得て働きますなれば、神は時としては其樣そのやうに働き給ひます。ペテロは必ず神が一緖に働き給ふ事を信じて參ったに相違ありません。其樣そのやうな信仰がありましたから、神は天をいてくだり給ふ事を得ました。

 コルネリヲは更生うまれかはってすくひを得た其時そのときに、聖靈のバプテスマをも得ました。神は罪人つみびとすくひを得た其時そのときに、聖靈を與へ給ふ事が出來ます。ども平生にそれを見ません。あるひ働人はたらきびとの不信仰のために、あるひその救はれし人の信仰の足りないために、通例人々は第一にすくひを得、其後そのゝちに聖靈のバプテスマを經驗致します。

ひとつの經驗を言表いひあらはみっゝ用語ことば

 この四十四節より四十七節までを見ますれば、同じ經驗を話すためみっゝことばを用ひてます。第一、聖靈くだれり(四十四)。第二、聖靈のたまものそゝげり(四十五)。第三、聖霊を受けたり(四十七)。其樣そのやうみっゝことばを使って言表いひあらはしてありますが、その經驗は同じ事であります。用語ことば左程さほど大切な事ではありません。又これひとつことばで、この圓滿なる恩惠めぐみを、充分に言表いひあらはす事が出來ない事を示します。用語ことばことなっても、恩惠めぐみは一つ物であります。今度々たびたび熱心な信者が言語ことばついて論じます。勿論言語ことばも大切ではありますが、しかし最も大切なる事は、その恩惠めぐみたゞしく受ける事であります。どんな名をつけましても、百合ゆりの花は奇麗きれいで、又よいにほひがあります。どんな名をつけましても、聖靈のバプテスマは幸福さいはひなる經驗であります。名について論ずる事は無益であります。此處こゝみっゝことばが用ひてあります。

すべての者に』

 四十四節に『みちきくところのすべての者に聖靈くだれり』とあります。しゅイエスが自由に働き給ふ時には、何時いつでもその通りでありました。例へば約翰傳ヨハネでん六章おいて、いつゝのパンをもって五千人を養ひ給ひました時に、すべての人々はく程頂戴致しました。又しゅの衣の裾にさはる程の病人は皆いやされました。ペンテコステの日にも、神に求めました者は皆聖靈に滿みたされました。しゅは喜んで何時いつでもすべての者を惠み給ひます。此處こゝでも同じ事であります。『みちきくところのすべての者に聖靈くだれり』。おおどうぞ不信仰を全く捨てゝ、すべての者が神の恩惠めぐみを受くるやうに信じたいものであります。

水のバプテスマ

四十七、四十八節

 この人々は四十八節おいて、水のバプテスマを受けました。最早もはや聖靈のバプテスマを受けましたが、次に水のバプテスマを受けました。おほくの人は始めに水のバプテスマを受けて、それから聖靈のバプテスマを受けます。十九章五節六節この順序です。又ある人々は水のバプテスマを受けた時に、同時に聖靈のバプテスマを受けた者もありませう。二章をはりおいてバプテスマを受けた者は、其樣そのやうな者であったかも知れません。しかし又此處こゝには始めに聖靈のバプテスマを受けて、のちに水のバプテスマを受けた人々があります。順序は大切ではありません。かく水のバプテスマを受ける事は、神の聖旨みこゝろであります。又聖靈のバプテスマを受ける事は、これは最も大切な事であります。

 ペテロはバプテスマを施しませなんだ。ヨッパより共に來ました信者に命じて、バプテスマを施させました。哥林多前書コリントぜんしょ一章十七節を見ますと、パウロも平生へいぜい自分ではバプテスマを施しませんでした。

 四十八節をはりを見ますと、彼等はペテロに數日とゞまらん事を願ひました。これは多分神の聖旨みこゝろでありました。ペテロは數日この異邦人の家にとゞまりて、この異邦人たち尚々なほなほ深く神のめぐみを敎へる事を得ました。又それによりて神はペテロをも敎へ給ひましたでせう。猶太人ユダヤびとなる彼は今始めて異邦人の家にとゞまる事を得ました。ども神はペテロに、異邦人もきよめられし者であるといふ事を深く敎へ給ひたうございましたから、暫く其處そことゞまる事を許し給ひました。八章三十九節おいて、阿弗利加人アフリカじんが救はれました時には、神はピリポを早速ほかところに導き給ひました。うですからその黒人くろんぼは直接に神に依賴よりたのまなければなりませなんだ。其爲そのために信仰が强くなりましたでせう。しかし今此處こゝではその反對に、神はペテロにとゞまる事を許し給ひました。うしますと私共わたくしどもその折々に從って、神のみちびきを得なければなりません。私共わたくしどもは神とまじはって、そのみちびきを得ますれば、或時あるときには人を導いたら、早速その人を離れなければならん時もあります。又或時あるときは詳しくその人を敎へなければならん時もあります。どうか私共わたくしども事毎ことごとみたまみちびきを求めたうございます。



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