第七 聖靈臨り給ふ
一致和合より起る祝福
此處に二の考ふべき事があります。一は神の日
第二は其その時に聖靈を受くる事が出來た事です。最早弟子等でしたちは仕度したくをしました。又神の時が參りました。然さうですからペンテコステが參りました。何處いつでもさうです。神の方はうに仕度したくが出來て居ゐると共に、人間の側にも仕度したくが出來れば、其爲そのためにペンテコステが與へられます。『弟子等でしたちみな心を合あはせて一處ひとゝころに在ありしに』。二ヶ月前に同じ室へやに集あつまりました時、爭あらそひが起りました、『また彼等の中うちにて長をさたる者は誰たれなるかと互たがひの爭あらそひありき』(路ルカ廿二・廿四)。然けれども今そんな爭あらそひは最早ありません。そんな爭あらそひの種たねが全くなくなりました。誰たれも皆己おのれを卑ひくくし、人を己おのれに愈まされりと思ひ、心を合あはせて神の聖前みまへに跪ひざまづきました。かういふ一致和合があれば、神は必ず祝福を與へ給ひます。唯たゞ二三人許ばかりでも其樣そのやうに心を一ひとつにする事が出來ますれば、馬太傳マタイでん十八章十八節のやうに、能力ちからある祈禱いのりを献げる事が出來ます。
又詩篇百三十三篇を見ますれば、そんな親睦したしみのある時に、神は必ず祝福を與へ給ひます。其その二節のやうに、最早天に昇り給ふた私共わたくしどもの祭司の長をさに注がれたると同じ靈みたまを、其その衣ころもの裾に跪ひざまづいて居ゐる人々にも注そゝぎ給ひます。或あるひはヘルモンのやうな一番高い山に下くだし給ふた露を、同じやうに其その周圍まはりにある小山こやまにも下くだし給ひます。唯たゞはらから相あひ睦みて居をりますならば、此樣このやうに御子おんこに與へ給ひました恩惠めぐみを私共わたくしどもに迄まで注そゝぎ給ひます。又歷代史略下五章十三、十四節のやうに、私共わたくしどもが心を合あはせますれば必ず其處そこに神の榮光が顯あらはれます。
此この心を合あはせる事は、約翰傳ヨハネでん十七章廿一、廿二節の祈禱いのりの答こたへでありました。『此こは我儕われらの一ひとつなるが如く彼等も互たがひに一ひとつにならん爲ためなり』(廿二節終をはり)。ペンテコステの日に、此この祈禱いのりのやうに皆一つになりましたから、神の榮光を頂戴する事を得ました。私共わたくしどもは聖靈を求めたう厶ございますれば、第一に此この一致和合を求めねばなりません。八年前ぜんウェールスにリバイバルのあった時、格別に此この事に氣を付けました。或ある時集あつまった者が、一つになりませんでしたから、先まづ祈って祈って一致和合を願ひました。又先まづ其その一致和合を妨げる者の悔改くいあらためを願ひました。例へば相互あひたがひの間あひだに爭あらそひがありますならば、又は相あひ赦す精神がありませんならば、先まづ其その兄弟等きゃうだいたちの悔改くいあらためを願ひました。是これは正しき順序です。私共わたくしども一致和合が出來ますれば、必ず能力ちからを以もって神に祈る事が出來ます。又必ず聖霊の火が下くだります。
俄にはか に
『俄にはかに』。是これはペンテコステの言ことばであります。聖書から聖靈の傾注そゝぎの例を引いて見ますと、何時いつでも俄にはかに與へられて居をります。馬拉基書マラキしょ三章一節に『忽然たちまち』といふ同じ意味の言ことばを見ます。主しゅイエスは此世このよに居ゐ給ふた時に、矢張やはり何時いつも俄にはかに祈禱いのりに答へ給ひました。盲めしひの目を開き、聾つんぼの耳を開き、病人を癒いやし、死人を甦よみがへらせ給ふ事は、何時いつでも俄にはかでありました。今は最早天に昇り給ひましたけれども、何時いつでも其その通りに働き給ひます、さうですから今日けふも同じ事を見ます。神は俄にはかに聖靈を與へたまひます。段々だんだん其その經驗に達するのではなくして、俄にはかに其その圓滿ゑんまんなる恩惠めぐみを頂戴致します。或ある兄弟は俄にはかに新しい經驗を得たと證あかしする事が出來ませんでも、矢張やはり聖靈に滿みたされて居ゐるものもありますが、大槪たいがい俄にはかに聖靈を受け、又其それを證あかしする事が出來ます。
祈禱いのり答へられ、約束成遂なしとげらる
『彼等が坐ざする所の室いへに』。さうですから此この弟子等でしたちは皆坐ざして、靜肅しづかに其それを待望まちのぞんで居をりました。聲を揚げて祈禱いのりを献げて居をった時ではなかったでせう。最早一生懸命に熱心に祈りました。然けれども此この時は、最早聲を揚げて祈る事を終をはり、靜肅しづかに神の大おほいなる恩惠めぐみを待望まちのぞんで居をりました。十五節を見ますれば、是これは朝の九時頃でした。
聖靈の下くだり給ひました事は、祈禱いのりに對する神の大おほいなる答でありました。神が祈禱いのりに答へ給ふ事の明白あきらかなる證據しょうこでありました。神は此樣このやうに祈禱いのりに答へて、此この一番幸福さいはひな賜物を與へ給ひますならば、況まして祈禱いのりの答として他ほかの物を與へ給はぬ筈はずは在りません。
又是これは神の聖言みことばの眞實まことである事の大おほいなる證據でありました。舊約全書で聖靈の下くだる事は一番大おほいなる神の約束でありました。主しゅイエスも亦また繰返して其それを誓ひ給ひましたが、今其その約束が成就せられました。是これによって神の聖言みことばの正しい事を知る事が出來ます。私共わたくしどもは人間の智慧ちゑを以もって、種々いろいろの論を以もって聖書の眞實まことを確たしかめることが出來ます。然けれども一番明白あきらかな證據は何なんであるかと申しますれば、其その聖書の約束を經驗する事です。例へば主しゅイエスが『我われに來きたれ 我われ爾曹なんぢらを息やすません』と仰おほせ給ひましたならば、重荷を負へる私共わたくしどもは、祈禱いのりを以もって彼に近づき、其その安息やすみを得ますれば、其それによって其その聖言みことばの眞實まことなる事を確たしかめます。今此この弟子等でしたちは聖靈を受ける事によって、舊約全書の眞實まことなる事を確たしかめる事が出來ました。
此この二つの事は大切です。即すなはち是これは祈禱いのりの答で、又聖書の約束の成就せられた事でした。さうですから、どうぞ聖書の言ことばを握って祈りなさい。或ある兄弟は他ほかの兄弟の證詞あかしを聞いて祈ります。或あるひは書物ほんを見て其それによりて其その眞理しんりを知って祈ります。然けれども眞正ほんたうに聖靈の下くだる事を求めたう厶ございますなら、聖書の活いける言ことばを握り、聖書によって神の聖聲みこゑを聞いて、其それを求めなければなりません。未まだ是これに就ついて神の聖聲みこゑを聞かない兄弟姉妹がありますならば、どうか靜しづかに聖書を御調べなさい。私わたくしの口より又他ほかの兄弟の口より此この證あかしを得ずして、どうぞ聖書を調べ、聖書によって神の聖聲みこゑを聞いて御祈りなさい。其その道みちを步みますならば、必ず主しゅの御手おんてから其その賜物を頂戴致します。
神の氣息いき
聖靈の在いまし給ふ事の表面うはべの兆しるしは何なんであるかと申せば、此こゝに三みつの事があります。第一は神の氣息いきです。
『俄にはかに天より迅風はげしきかぜ』。原語では風よりも人間の氣息いきの方が正しう厶ございます。神が氣息いきを吹き給ひました。創世記一章二節に、『神の靈れい水の面おもてを覆おほひたりき』とあります其その靈れいは、原語にてはヱホバの氣息いきであります。其その時は神が創造し給ふ時でありましたが、第一に氣息いきを吹いて其その働はたらきを始め給ひました。創世記二章七節に、又大切なる創造があります、『ヱホバ神かみ 土の塵ちりを以もて人を造り生氣いのちのいきを其その鼻に噓入ふきいれたまへり』。神が賤いやしい土を取って、御自分に似せて貴たふとい人間を造り給ふた時にも、御自分の氣息いきを吹入ふきいれ給ひました。今ペンテコステの日に、神は土の如き賤いやしい人間を取って、氣息いきを噓入ふきいれて御自分に象かたどらしめ給ひます。
又約翰傳ヨハネでん廿章廿二節に、甦よみがへり給ふた主しゅイエスが、弟子等でしたちの眞中まんなかに立ち給ふた時に、氣いきを噓ふきて聖霊を受けよと言ひ給ひました。其その意味は何なんであるかと申せば、聖靈は御自分からの賜物であり、御自分の生命いのちであり、御自分の性質からの賜物である事を示します。今ペンテコステの日に、第一に聖靈が氣息いきのやうに下くだり給ふて、神の御性質からの賜物を與へ、又神の生命いのちを幾分か配與わけあたへ給ひました。
以西結書エゼキエルしょ一章四節を見ると、エゼキエルが神の異象いしゃうを見ました時に、第一に其その通り烈はげしき風を見ました。『我われ見しに視みよ烈はげしき風……』。又以西結書エゼキエルしょ卅七章九節を見ますれば、此この風によって甦よみがへりの生命いのちと甦よみがへりの能力ちからとを得られます。『氣息いきよ汝なんぢ四方よもの風より來きたり此この殺されし者等ものどもの上に呼吸いきふきて是これを生いかしめよ』、此この氣息いきといふ字と風といふ字は原語では同じ字です。
又雅歌四章十六節を見ますと、譬たとへを以もって神の風の事が書いてあります。『北風よ起おこれ、南風よ來きたれ、我わが園そのを吹ふきてその香氣かをりを揚あげよ、ねがはくはわが愛する者のおのが園そのにいりきたりてその佳よき果みを食くらはんことを』。聖靈の風が吹き給ひますならば、私共わたくしどもの心から香かほりが出でます。又主しゅイエスが其その心に入いり給ふて其その心の果みを喜び給ひます。
音おと
第二の兆しるしは音おとでした。烈はげしき響ひゞきの音おとを聞きました。『響ひゞきありて』。聖書を調べますれば、神の異象いしゃうを見ました人が、度々たびたび其樣そのやうに響ひゞきを聞きました。以西結書エゼキエルしょ三章一節と四節を見ますと、神はエゼキエルに聖言みことばを宣傳のべつたふる事を命じ給ひました。エゼキエルは其その命令に從って出でました。『時に靈みたまわれを上に擧あげしが』(同三章十二、十三節)。エゼキエルは喜んで神の命令に從ひましたから、靈みたまは直接にエゼキエルを感動し給ひました。其その時に『我われわが後うしろに大おほいなる響ひゞきの音おとありてヱホバの榮光さかえのその處ところより出いづる者は讚ほむべきかなと云いふを聞きけり また生物いきものの互たがひにあひ連つらなる翼つばさの聲おととその傍かたはらにある輪の聲おとおよび大おほいなる響ひゞきの音おとを聞く』。エゼキエルは其それを聞きました。其それに由よって自分一人行ゆくのでなく、天使てんのつかひの自分と共に行ゆく事が解わかりました。其その響ひゞきは天使てんのつかひが共に行ゆく音おとでした。
又以西結書エゼキエルしょ四十三章二節を見ますれば、同じ事があります。五節に『ヱホバの榮光えいくゎう室いへに充みちをる』とありますが、其その前に二節で音おとを聞きました。『その聲おと大水おほみづの音おとのごとくにして地その榮光に照てらさる』。神がシナイ山ざんで、御自分を顯あらはし給ひました時に、同じ事がありました。出埃及記しゅつエジプトき十九章十九節『喇叭らっぱの聲こゑ彌いよいよ高くなりゆきてはげしくなりける時モーセ言ことばを出いだすに神聲こゑをもて應こたへたまふ』。此このラッパは天よりのラッパでありました。希伯來書ヘブライしょ十二章十九節を見れば、其それは人間の吹きしラッパではありませんでした。
又ダビデが神の命令に從って、軍いくさに出でました時に、其樣そのやうな聲を聞きました。撒母耳後書サムエルこうしょ五章廿四節『汝なんぢベカの樹きの上に進行あゆみの音おとを聞きかばすなはち突出つきいづべし 其その時にはヱホバ汝なんぢのまへにいでゝペリシテ人びとの軍ぐんを擊うちたまふべければなり』。此音このおとは丁度ちゃうどエゼキエルが聞きました音おとと同じものであります。又神は此處こゝに其音そのおとを解說ときあかし給ひます。其音そのおとは何なんであるかと申せば、ヱホバ御自身がダビデと共に行ゆき給ふといふ事でした。さうですからダビデは、心の中うちに必ず勝利かちを得うる望のぞみが起りましたでせう。神は私共わたくしどもが傳道に行ゆく前にも、こんな音おとを聞かせ給ひたう厶ございます。
又列王紀略上十八章四十一節に、エリヤが『大雨の聲おとあれば』と申しました。他人ほかのひとは此音このおとを聞きませんでしたが、エリヤ許ばかり是これを聞きました。是これは雨が降ふらんとして居ゐる兆しるしでした。神と交まじはり、神に祈りし人が、第一に此音このおとを聞く事を得ました。唯今たゞいまペンテコステの日に、こんな種々いろいろの意味を以もって神は其音そのおとを響かしめ給ひます。
火
靈みたまの在いまし給ふ第三の兆しるしは火でありました。『燄ほのほの如ごときもの現れ』とあります。希伯來書ヘブライしょ十二章廿九節に『夫それわれらの神は燬盡やきつくす火なり』とあります。聖靈が下くだり給ひますならば、必ず其その如く、燬盡やきつくす火として下くだり給ひます。必ず凡すべての罪、凡すべての肉に屬つける考かんがへを燬盡やきつくし給ひます。
燬盡やきつくす火! 其その意味は妨げる事の出來ぬ能力ちからを以もって居ゐるもの、何時いつでも勝利しょうりを得うる所の能力ちからを以もって居ゐるものです。小ちひさい火を燃やしますれば、段々だんだん大火事おほくゎじとなります。凡すべてのものを燬盡やきつくし、防ぐこと能あたはざる大火事となります。此處こゝで聖靈が御自分の前進する能力ちからを示す爲ために、火を表あらはし給ひました。
又火許ばかりでなく、火の舌が顯あらはれました。火の舌は勝かちを得うる處ところの基督キリスト敎の表號しるしです。又是これが各自めいめいに與へられた表面うはべの兆しるしとして、各自めいめいの上に止とゞまりました。『燄ほのほの舌(英譯)の如ごときもの現れ 岐わかれて彼等各人おのおのの上に止とゞまる』(三節)。是これは唯たゞ敎會に與へられました勢力許ばかりでなく、各自めいめいに與へられた勢力でありました。
又約翰傳ヨハネでん一章三十三節にあるやうに、聖靈が主しゅイエス・キリストの上に『止とゞまり』給ひました如く、今弟子等でしたち各自めいめいの上に止とゞまり給ひます。是これはペンテコステの時代の特質たる恩惠めぐみであります。舊約全書時代に於おいては、聖靈は或ある時に或ある聖徒の上に臨み給ひました。今の時代の特質は何なんであるかと申せば、聖靈が主しゅイエスの上に止とゞまりたまひました通りに、私共わたくしどもの上にも止とゞまり給ふ事です。ノアの洪水の終をはりに、ノアは鴿はとを方舟はこぶねより出だしました。然けれども鴿はとは其その足の爲ために立場を見出みいだしませんでしたから、方舟はこぶねに歸りました。今迄いまゝで聖靈は此世このよの有樣を見給ひますのに、丁度ちゃうど其その通りでした。然けれども主しゅイエスが此世このよに顯あらはれ給ひました時に、始めて聖靈の鴿はとは此世このよに立場を見出し給ひました。唯今たゞいま貴たふとき血潮に由よって潔きよめられました此この弟子等でしたちが、新しく鴿はとの止とゞまる處ところとなりました。私共わたくしどもも今御血潮おんちしほの効能を頂戴しますならば、其樣そのやうに靈みたまの止とゞまり給ふ處ところとなります。其樣そのやうに眞正ほんたうに靈みたまの殿みやとなる事を得ます。
神は私共わたくしどもにも此この聖靈の三みつの兆しるしを與へ給ひたう厶ございます。即すなはち神の氣息いき、其その響ひびき、又活いける火。どうか神の聖前みまへに出でて、主しゅイエス・キリストの御手おんてから此樣このやうな聖靈の御臨在を御受けなさい。
聖靈の盈滿みたし
『彼等はみな……滿みたされ』。主しゅイエスは此世このよに居ゐ給ひました時、何時いつでも其樣そんなに働き給ひました。五千人にパンを配與わけあたへ給ひました時にも、皆飽く事を得ました。其その衣ころもの裾に觸さわる事を得ました病人は、皆癒いやされました。復活よみがへりの晩集あつまって居ゐた弟子等でしたちに主しゅが顯あらはれ給ひました時にも、皆に聖靈の氣息いきを吹き給ひました。主しゅは平生其樣そんなに働き給ひたう厶ございます。私共わたくしどもの集會あつまりでもこんな事を見る筈はずです。然けれ共ども頑固な心や、不信仰がありますれば、私共わたくしどもは平生其それを見ません。
『聖靈に滿みたされ』。主しゅイエスは最早昇天し給ひまして、其その御榮光を受け給ひました。然けれども戰たゝかひの中うち、又困難の中うちにある其その弟子等でしたちを忘れ給ひません。其その弟子等でしたちに幾分か同じ榮光を與へ給ひます。さうですから戰たゝかひの中うちにも、心の中うちに幾分か天國を經驗する事を得ます。
『みな滿みたされ』。鐵の片きれを火の傍そばに置きますれば、その爲ために幾分か暖かくなり、觸さわる事が出來ぬ程熱くなるかも知れません。然けれども其その鐵片てっぺんを爐ろの中なかに入れて置きますれば、段々だんだん火に滿みたされ、火と同じ色となり、火のやうに他ほかの物に火をつける事が出來るやうになります。聖靈に滿みたさるゝ事も其その通りです。又氷の片きれを火の近傍ちかくに置けば、段々だんだん溶けて水となります。幾分か温味ぬくみを得ますでせう。然けれども其それを器うつはの中なかに入れて、火の上に煑にえ立たせますならば、段々だんだん其その熱さに滿みたされて蒸氣となって天に騰のぼります。聖靈に滿みたさるゝ事も其その通りです。
フレッチャーの經驗
百五十年前に英國にフレッチャーといふ人がありました。其その人は實じつに深い聖靈のバプテスマの經驗を有もった人でありましたが、其その人の言ふのに、神を離れず又罪に陷おちいらずして神と共に步く事は、是これは淺い事です。私わたくしは其それで滿足しない。どうかして眞正ほんたうに滿みたさるゝ事を慕ふと申しました。其後そののち神は其その人に近づき給ふて、格別に其その愛の事を顯あらはし給ひまして、其それと同時に『汝なんぢは白き衣ころもを着て我われと共に步まん』といふ約束を與へ給ひました。其その時フレッチャーの言ひますのに、今私わたくしは滿足を得ました。私わたくしは滿みたさるゝ事、美うるはしく滿みたさるゝ事を經驗してゐます。今神は愛也なりといふ事を悟る事を得ましたと申しました。其後そののち或ある人が聖靈に滿みたさるゝ事の全き經驗は何なんでありますかと尋ねましたら、フレッチャーは是これに答へて、どうして其それを認いひあらはす事を得ませうか、滿みたさるゝ事とは何なんであるかと申すならば、神の御慈愛に引かれる事を經驗し、御子おんこの愛に勵まされる事を經驗し、聖靈の豐かなる喜悅よろこびと平安の傾注そゝぎを經驗する事ですと申しました。是これは此この四節のよい註釋であります。
オルガンは何時いつでも其その鞴ふいごの中なかに空氣があります。然けれども足を以もって其その鞴ふいごに風を滿みたしますれば、其そのオルガンからよい音樂が出でます。聖靈の盈滿みたしを頂戴しますれば、此世このよに居ゐる間あひだにも、自分の心の中うちにも又他人ひとに聞かせる事の出來る爲ためにも、天の音樂を奏します。又其それによって眞正ほんたうに神に感謝する事が出來ます。此樣こんなオルガンは默だまって居ゐる事に堪へません。耶利米亞記エレミヤき廿章九節『然されどヱホバのことば我わが心にありて火のわが骨の中うちに閉とぢこもりて燃もゆるがごとくなれば忍耐しのぶにつかれて堪難たへがたし』。此この弟子等でしたちは丁度ちゃうど其その通りに、今神の惠めぐみを認いひあらはします。『其その聖靈の言いはしむるに從ひて……言いひはじめたり』。默って居ゐる事に堪へきれません、多分先まづ近くに靜肅しづかに立って居ゐる人々に惠めぐみの證詞あかしをしましたでせう。然けれども段々だんだん大勢の人々が其それを聞いて集まって來まゐりました。多分其その時に珍めづらしい事が起り、ヱルサレムの町で婦人等をんなたちが路傍說敎をしましたでせう。神が働き給ひますならば、こんな事を見ます。出埃及記しゅつエジプトき十五章廿節に同じ事がありました。イスラエル人じんは皆救すくひの喜悅よろこびを感謝し、歌を歌って神に感謝しました。廿節を見れば婦人等をんなたちまでも出でて、路傍で神に感謝しました。
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