第廿六 福音の擴張
平信徒の傳道
八章一節と四節に於て、私共は是と同じ事を見ました。其時より此節に至る迄の間は、唯格別の傳道の話、或は格別の悔改の話のみが記されてありまして、此節は八章四節に續きます。ピニケ、クプロ、アンテオケと、段々北の方に廣がりました。併し唯猶太人に許り道を語りました。又餘り成功がありませんでしたでせう。
此人々は異邦人にも神の恩惠の福音を聞かせました。ペテロは唯天より幻を見た時だけ、異邦人に福音を聞かせましたが、此普通の平信徒は、溢れる程の恩惠に感じて、又神の御慈愛に感じて、幻がなくともギリシヤ人に福音を語りました。然うですから主の祝福が降りました。即ち
主は早速是が聖旨に適った事であると示し給ひました。然うですから異邦人に福音を宣傳へる事は、第一に誰が致しましたかならば、普通の信者でした。格別に此事に任ぜられた敎會の役員ではありませなんだ。普通の信者が神の恩惠に滿されて、神の聖旨を早く辨へて、異邦人にも福音を宣傳へたのであります。
『主の手之と偕にあり』。然うですから馬可傳十六章二十節の通りでありました。『主も亦かれらに力を協せ』。今天に昇り給ひました主は、其御能力と御臨在を信仰する事の出來る信者と、偕に働き給ひます。以賽亞書五十九章一節『ヱホバの手』、之は『主の手』と同じ言であります。『ヱホバの手はみぢかくして救ひえざるにあらず』。今でも神は此樣に御手を伸して、私共と偕に働いて、多の人の心を砕き給ふ事が出來ます。
バルナバの喜
バルナバ即ち慰の子を遣はしました。是はヱルサレムの敎會が、此働に同情を表したからであったに違ひありません。バルナバはクプロの人でありましたから(四・卅六)、其處に行ったクプロの信者に格別に同情を表す事が出來ました。亦其信者等は多分バルナバを知って居りましたから、バルナバは其處に行くに適當の人でありました。
バルナバは此時に、格別に其處の信者等の爲に、聖靈のバプテスマを祈る爲に參りませなんだ。此働は始めから、神御自身が始め給ひましたから、人間の助を要しません。然れ共バルナバは信者を慰め、又彼等と交る爲に、アンテオケに參りました。
此働は明かに神御自身の御働である事を見て喜びました。路加傳十五章六節のやうな心を以て、主と共に喜びました。『我と共に喜べ 我うしなへる羊を獲たれば也』。此人は主の靈を得ましたから、善牧者の心を心と致しましたから、失はれし羊の歸ったのを見て喜びました。而して格別に此救はれし人々に『心を堅し主に属んことを勸』ました。何時でも主に近く生涯を暮すやうに勸めました。又最早神の救を受納れましたから、主に伴って行くやうに決心せよと勸めました。是は實に適當な勸でありました。此バルナバは何故其樣に喜び、又其樣に勸めましたかならば
『蓋かれは善人にて』。即ち此人の品性は善なる者でありました。又此人の經驗は『聖靈の滿る者』であり、働人として如何いふ者であったかと申しますと、『信仰の滿る者』でありました。バルナバは其樣な人でしたから、此働を見て喜び、又信者を慰める事が出來ました。傳道の爲に一番大切な事は聖靈の賜を有って居るといふ事や、又權威或は能力を有って居るといふ事よりも、其人は如何いふ人であるかといふ事、即ち品性であります。是が何よりも最も大切であります。
又バルナバは其樣な人でありましたから、必ず其働の爲に多の人々が信じたに相違ありません。『是に於て數多の人主に加りぬ』とあります。八章十九節にシモンといふ人は、聖靈を求めずして傳道の力を求めましたが、其爲に失敗しました。バルナバは其反對に、其心潔くして主に從ひましたから、其爲に多の人々は主に加はりました。
バルナバ友を求む
然れ共バルナバは一緖に働く者を求めました。是は神の聖旨に適ふ事であります。神は格別に二人の者が心を合せて福音を宣傳へる事を願ひ給ひます。私共も神にさういふ友を求める筈です。神が或は他の傳道者を與へ、或は信者の中からさういふ友を與へ給ひますならば、傳道の爲め餘程幸であります。昔から二人一緖に働く事は神の聖旨でした。出埃及記三十一章二節に神はベザレルを召し給ひましたが、其六節を見ますと、アホリアブを與へて彼と共ならしめ給ひました。是は神がベザレルに與へ給ふた善賜でありました。一緖に働く友達、一つ心を以て働く事の出來る友達を與へらるゝ事は、大なる惠の一であります。今バルナバは其やうな友を求めました。
アンテオケとタルソは六十里位の處でありましたが、バルナバは其處に行ってサウロを尋ねました。サウロは今迄其處に八年間居りました。此間格別成功がありませなんだが、其間に神は彼を備へ給ひました。神は以賽亞書四十九章二節のやうに『とぎすましたる矢』を求め給ひまして、八年間靜にサウロを備へ給ひましたが、今此二人は一緖に働くやうになりました。
キリステアン
『敎會に集り』。然うですから信者を慰めましたでせう。『衆の民を敎ふ』。然うですから罪人をも導きましたでせう。然ういふ風でアンテオケの傳道は段々盛になりました。此衆の民は大槪異邦人でありましたから、多分アンテオケに始めて異邦人の敎會が出來ました。其樣な新しい事が出來ましたから、弟子等は新しい名を貰ひました。『弟子たちのキリステアンと稱られしはアンテオケより始れり』。聖靈は大切に其を言給ひます。此『稱られし』といふ原語は格別の言であります。神が批准して公然天下に宣言し給ふといふ意味のある言でありまして、普通の言ではありません。此四の引照に同じ字が用ひてあります。馬太傳二章十二節の『默示を蒙りて』。路加傳二章二十六節の『示さる』。希伯來書八章五節の『示されたり』。又同じ書十一章七節に『示を蒙り』。是等は皆同じ言であります。然うですから此處で弟子等が、キリステアンと稱へられましたのは、神より稱へられた者と思はれます。是は聖なる名前であります。雅各書二章七節を御覽なさい。『爾曹が稱らるゝ所の美名』、此美名とはキリステアンといふ名の事です。主イエス・キリストの名をもって來て、キリステアンと稱へられたのであります。併し反對者は其美名を汚します。
又此名は言としても珍らしい名であります。其思想は希伯來の思想で、矢張膏を注がれる事、即ちキリストと同じ事であります。然し其語は希臘の語であります。又其語尾は拉典語の語尾であります。即ち希伯來の思想と希臘の語、其に又拉典の語尾であります。然うですから此一語の中に、普ねく世界の人の語を含んで居ります。神は私共に此貴い名を與へ給ひました。
神の恩惠の證據
是は基督信者の預言者であります。預言者とは如何いふ者でありますかならば、神の力を以て神の言を宣傳へる者であります。預言とは格別に未來の事を宣傳へる事ではありません。時としては未來の事をも示しますが、神の靈に感じて神の言を宣傳へる事であります。此時數人の預言者が、ヱルサレムよりアンテオケに參りました。其頃は信者が敎會を勵し助ける爲に、よく巡廻致しました。
然うですからアガボの言を信用しました。此信者等は此人は聖靈の力を以て來るべき事を示したと信じました、而して其爲に金を出しました。アガボは必ず聖靈の力を以て預言したに相違ありません。誰も其を疑ふ事は出來ません。然うですから猶太に住んでいる兄弟等を救はんが爲に、施濟を送りました。是によりて其時の信者に、愛と一致和合の精神のあった事が解ります。此人々は性來から申しますれば、ヱルサレムに居る猶太人を、輕蔑したかも知れませんが、今喜んで金を出して彼等を助けました。アンテオケにも必ず貧乏人があったに相違ありません。又其處の敎會の爲にも、其地の傳道の爲にも金が要りました。然れ共福音の源となったヱルサレムの爲めに、喜んで金を出しました。是は二章四十五節の心であります。『產業と其所有を鬻て各人の用に從ひ之を分與へぬ』。
アンテオケの兄弟等は、未だ見ない兄弟等に對しても、熱い愛を有って居りました。是は眞正に神の愛であります。基督信者の有つべき愛であります。
バルナバはアンテオケの働を見る爲に、ヱルサレムより遣はされましたが、今アンテオケの敎會の愛の果を以て、ヱルサレムに歸ります。バルナバが持って歸った寄附金は、ヱルサレムの信者の眼の前に、神の働のよい證據でありました。バルナバがアンテオケの傳道に就て何も言ひませんでも、其寄附金さへ見ますれば、神が其處に働き給ふた事が解ります。
神は其樣に段々聖國を廣め給ひました。又格別に普通の信者を以て、廣く福音を宣傳へさせ給ひました。神は今の時代の信者にも、こんな熱心と愛とを與へる事を願ひ給ひます。普通の信者がこんな熱心を有って居りますれば、必ず日本にも速かにリバイバルが起り、日本から段々亞細亞の他の國々にも、阿弗利加にも福音が傳はるやうになり、神の國が廣められるやうになります。
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