第廿六 福音の擴張くゎくちゃう



平信徒へいしんとの傳道

十九節

 八章一節四節おいて、私共わたくしどもこれと同じ事を見ました。其時そのときよりこのに至るまであひだは、たゞ格別の傳道の話、あるひは格別の悔改くいあらための話のみが記されてありまして、この節は八章四節に續きます。ピニケ、クプロ、アンテオケと、段々北のはうに廣がりました。しかたゞ猶太人ユダヤびとばかみちを語りました。又餘り成功がありませんでしたでせう。

廿節

 この人々は異邦人にも神の恩惠めぐみの福音を聞かせました。ペテロはたゞ天より幻を見た時だけ、異邦人に福音を聞かせましたが、この普通の平信徒へいしんとは、溢れる程の恩惠めぐみに感じて、又神の御慈愛に感じて、幻がなくともギリシヤびとに福音を語りました。うですからしゅの祝福がくだりました。すなは

廿一節

 しゅは早速これ聖旨みこゝろかなった事であると示し給ひました。うですから異邦人に福音を宣傳のべつたへる事は、第一にだれが致しましたかならば、普通の信者でした。格別に此事このことに任ぜられた敎會の役員ではありませなんだ。普通の信者が神の恩惠めぐみ滿みたされて、神の聖旨みこゝろを早くわきまへて、異邦人にも福音を宣傳のべつたへたのであります。

 『しゅの手これともにあり』。うですから馬可傳マコでん十六章二十節の通りでありました。『しゅまたかれらに力をあはせ』。今天に昇り給ひましたしゅは、その御能力おんちからと御臨在を信仰する事の出來る信者と、ともに働き給ひます。以賽亞書イザヤしょ五十九章一節『ヱホバのみて』、これは『しゅ』と同じことばであります。『ヱホバのみてはみぢかくして救ひえざるにあらず』。今でも神は此樣このやう御手みてのばして、私共わたくしどもともに働いて、おほくの人の心を砕き給ふ事が出來ます。

バルナバのよろこび

廿二節

 バルナバすなはなぐさめの子を遣はしました。これはヱルサレムの敎會が、このはたらきに同情をあらはしたからであったに違ひありません。バルナバはクプロの人でありましたから(四・卅六)、其處そこったクプロの信者に格別に同情をあらはす事が出來ました。亦その信者等しんじゃたちは多分バルナバを知ってりましたから、バルナバは其處そこくに適當の人でありました。

 バルナバは此時このときに、格別に其處そこ信者等しんじゃたちために、聖靈のバプテスマを祈るために參りませなんだ。このはたらきは始めから、神御自身が始め給ひましたから、人間のたすけを要しません。どもバルナバは信者を慰め、又彼等とまじはために、アンテオケに參りました。

廿三節

 このはたらきあきらかに神御自身の御働おんはたらきである事を見て喜びました。路加傳ルカでん十五章六節のやうな心をもって、しゅと共に喜びました。『われと共に喜べ わがうしなへる羊をたればなり』。この人はしゅみたまを得ましたから、善牧者よきひつじかひの心を心と致しましたから、失はれし羊の歸ったのを見て喜びました。さうして格別にこの救はれし人々に『心をかたうしゅつかんことをすゝめ』ました。何時いつでもしゅに近く生涯を暮すやうに勸めました。又最早もはや神のすくひ受納うけいれましたから、しゅに伴ってくやうに決心せよと勸めました。これじつに適當なすゝめでありました。このバルナバは何故なぜ其樣そんなに喜び、又其樣そんなに勸めましたかならば

二十四節

 『そはかれは善人よきひとにて』。すなはこの人の品性は善なる者でありました。又この人の經驗は『聖靈の滿みてる者』であり、働人はたらきびととして如何どういふ者であったかと申しますと、『信仰の滿みてる者』でありました。バルナバは其樣そのやうな人でしたから、このはたらきを見て喜び、又信者を慰める事が出來ました。傳道のために一番大切な事は聖靈のたまものってるといふ事や、又權威あるひ能力ちからってるといふ事よりも、その人は如何どういふ人であるかといふ事、すなはち品性であります。これが何よりも最も大切であります。

 又バルナバは其樣そのやうな人でありましたから、必ずそのはたらきためおほくの人々が信じたに相違ありません。『こゝおい數多あまたの人しゅくはゝりぬ』とあります。八章十九節にシモンといふ人は、聖靈を求めずして傳道の力を求めましたが、其爲そのために失敗しました。バルナバはその反對に、そのきよくしてしゅに從ひましたから、其爲そのためおほくの人々はしゅに加はりました。

バルナバ友を求む

 どもバルナバは一緖に働く者を求めました。これは神の聖旨みこゝろかなふ事であります。神は格別に二人の者が心をあはせて福音を宣傳のべつたへる事を願ひ給ひます。私共わたくしどもも神にさういふ友を求めるはずです。神があるひほかの傳道者を與へ、あるひは信者のうちからさういふ友を與へ給ひますならば、傳道の餘程よほどさいはひであります。昔から二人一緖に働く事は神の聖旨みこゝろでした。出埃及記しゅつエジプトき三十一章二節に神はベザレルを召し給ひましたが、その六節を見ますと、アホリアブを與へて彼と共ならしめ給ひました。これは神がベザレルに與へ給ふた善賜よきたまものでありました。一緖に働く友達、一つ心をもって働く事の出來る友達を與へらるゝ事は、おほいなるめぐみひとつであります。今バルナバはそのやうな友を求めました。

二十五、二十六節

 アンテオケとタルソは六十里くらゐところでありましたが、バルナバは其處そこってサウロを尋ねました。サウロは今迄いまゝで其處そこに八年間りました。此間このあひだ格別成功がありませなんだが、其間そのあひだに神は彼を備へ給ひました。神は以賽亞書イザヤしょ四十九章二節のやうに『とぎすましたる矢』を求め給ひまして、八年間しづかにサウロを備へ給ひましたが、今この二人は一緖に働くやうになりました。

キリステアン

二十六節

 『敎會にあつまり』。うですから信者を慰めましたでせう。『おほくたみを敎ふ』。うですから罪人つみびとをも導きましたでせう。ういふふうでアンテオケの傳道は段々さかんになりました。このおほくたみ大槪たいがい異邦人でありましたから、多分アンテオケに始めて異邦人の敎會が出來ました。其樣そんな新しい事が出來ましたから、弟子等でしたちは新しい名を貰ひました。『弟子たちのキリステアンととなへられしはアンテオケよりはじまれり』。聖靈は大切にそれいひ給ひます。このとなへられし』といふ原語は格別のことばであります。神が批准して公然天下に宣言し給ふといふ意味のあることばでありまして、普通のことばではありません。このよっゝの引照に同じ字が用ひてあります。馬太傳マタイでん二章十二節の『默示つげかうむりて』。路加傳ルカでん二章二十六節の『示さる』。希伯來書ヘブルしょ八章五節の『示されたり』。又同じしょ十一章七節に『しめしを蒙り』。是等これらは皆同じことばであります。うですから此處こゝ弟子等でしたちが、キリステアンととなへられましたのは、神よりとなへられた者と思はれます。これは聖なる名前であります。雅各書ヤコブしょ二章七節を御覽なさい。『爾曹なんぢらとなへらるゝ所の美名よきな』、この美名よきなとはキリステアンといふ名の事です。しゅイエス・キリストの名をもって來て、キリステアンととなへられたのであります。しかし反對者はその美名よきなけがします。

 又この名はことばとしてもめづらしい名であります。その思想は希伯來ヘブルの思想で、矢張やはりあぶらそゝがれる事、すなはちキリストと同じ事であります。しかそのことば希臘ギリシヤことばであります。又その語尾は拉典語ラテンごの語尾であります。すなは希伯來ヘブライの思想と希臘ギリシヤことばそれに又拉典ラテンの語尾であります。うですからこの一語ひとことばうちに、あまねく世界の人のことばを含んでります。神は私共わたくしどもこのたふとい名を與へ給ひました。

神の恩惠めぐみの證據

二十七節

 これ基督キリスト信者の預言者であります。預言者とは如何どういふ者でありますかならば、神の力をもって神のことば宣傳のべつたへる者であります。預言とは格別に未來の事を宣傳のべつたへる事ではありません。時としては未來の事をも示しますが、神のみたまに感じて神のことば宣傳のべつたへる事であります。此時このとき數人の預言者が、ヱルサレムよりアンテオケに參りました。其頃そのころは信者が敎會をはげまし助けるために、よく巡廻じゅんくゎい致しました。

二十八、二十九節

 うですからアガボのことばを信用しました。この信者等しんじゃたちこの人は聖靈の力をもっきたるべき事を示したと信じました、さうして其爲そのためかねを出しました。アガボは必ず聖靈の力をもって預言したに相違ちがひありません。だれそれを疑ふ事は出來ません。うですから猶太ユダヤに住んでいる兄弟たちを救はんがために、施濟ほどこしを送りました。これによりて其時そのときの信者に、愛と一致和合の精神のあった事がわかります。この人々は性來うまれつきから申しますれば、ヱルサレムに猶太人ユダヤびとを、輕蔑したかも知れませんが、今喜んでかねを出して彼等を助けました。アンテオケにも必ず貧乏人があったに相違ちがひありません。又其處そこの敎會のためにも、その地の傳道のためにもかねりました。ども福音のみなもととなったヱルサレムのめに、喜んでかねを出しました。これ二章四十五節の心であります。『產業とその所有もちものうり各人おのおのの用に從ひこれ分與わけあたへぬ』。

 アンテオケの兄弟たちは、だ見ない兄弟たちに對しても、熱い愛をってりました。これ眞正ほんたうに神の愛であります。基督キリスト信者のつべき愛であります。

三十節

 バルナバはアンテオケのはたらきを見るために、ヱルサレムより遣はされましたが、今アンテオケの敎會の愛のもって、ヱルサレムに歸ります。バルナバが持って歸った寄附金は、ヱルサレムの信者のの前に、神のはたらきのよい證據でありました。バルナバがアンテオケの傳道についなにも言ひませんでも、その寄附金さへ見ますれば、神が其處そこに働き給ふた事がわかります。

 神は其樣そのやうに段々聖國みくにを廣め給ひました。又格別に普通の信者をもって、廣く福音を宣傳のべつたへさせ給ひました。神は今の時代の信者にも、こんな熱心と愛とを與へる事を願ひ給ひます。普通の信者がこんな熱心をってりますれば、必ず日本にもすみやかにリバイバルが起り、日本から段々亞細亞アジアほかの國々にも、阿弗利加アフリカにも福音が傳はるやうになり、神の國が廣められるやうになります。



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